小さな小さな支配のなかで | ☆空飛ぶ もとちくれった 出張所☆

小さな小さな支配のなかで

いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、閉じた口は動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。

それが母の姿と世間は言う。

子を産むという喜びは、すぐさま後悔や、苦行にとって変り。
笑顔は作られたものになり、心を殺す。
自由な愛の形はゆがめられ、画一的な形に変化を求められる。
感情は小さな小さな四角い箱に鍵をかけてしまわれ、あけてはならぬと言い渡される。

そしてその愛を注ぐものを公共へと差し出せと迫られる。
一人ではいけない、一人では出来ぬ、一人では歪むと言われながらゆがめられてゆく。
一人ではいけない、一人では出来ぬ、一人では歪む。

なのに

いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。

それは母その人のみに課せられる。

愛を注がれるものは、その母を見て育つ。
苦しみ、悲しんで、責められている母を見て、同じ戒律を育てていく。
母たるもの、

いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。

そんな矛盾は母以外にとっては矛盾ですらない。

当たり前で、一般的で、普通、という答え。
そうして押し付けられた画一的な母親像は悲しみを生み出す。
生み出し、行われた悲しみは、全てが母の責なのだ。

いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。

そう生きられない母は、責められて然るべきなのだ。
時に闘う母がいる、そうではないと声をあげ、そうではないと訴える。
そして愛を注ぐべきものが成長し、自己の声をあげるとき、それが否定される。
どこからも否定され、どこからも愛は注がれず、どこにも救いはない。
母は崩壊してゆく。

いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。

それが出来ねば母として認められず、

いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。

それが出来れば、否定できない親を持つ、愛を注ぐべきものは歪んでしまう。

母とはかくあるべし、とそれでも言うのだろうか。




2006年3月30日(木)AM:10:08に上げた記事です。


私が世間から感じる「母親像」の押し付けのイメージです。

母親ってこういうものよね、と言っているのでもなければ

母親ってこう思われてだけいて本当につらい、と言っているわけでもありません。

ほんの一端に感じた、ほんの一面のイメージです。


私は母親という存在は特別なものを持っているわけでも、無償の愛を持っているわけでも

ましてや明確なビジョンがあってそういった存在になるわけではないということもまた知っています。

(そうではない人もいることは私でも想像できます一応)