☆空飛ぶ もとちくれった 出張所☆ -24ページ目

めまいと立ちくらみ

最近暗いちょっちぷんをご存知のみなさまは
「とうとう病んでしまった」と思われると推測しました。
いや、地震のことを書こうかと思っただけなのです。

すみませんです、ごちゃごちゃ暗いことばっかり書いて。
でもちょっちぷんが病んだときのメカニズムは自分なりにブログで書いたり
いただいたコメントを読んだりしてほぼ解明できたと思います。
もう過去の状態を繰り返すことはないと思います。
疲れていることを認識できるようになりましたし、闇雲に頑張ることも出来ないと知りました。
だから悩んでも、苦しくなっても、大丈夫だと感じています。

暗い思考って伝染力が強いと思っているので
明るく愚痴って、悲壮感を感じていないことを表現できたら、と思っています。
ブログは今現在、私にとって、癒しであり、学びであります。
それを楽しみのひとつとして捉えています。

それはどうでもいいのですが。
地震。怖かった…。
娘とぷんさん(14歳オス)と私しかいなかったので、どうやって一人と一匹を連れて逃げようか
いろいろなことが一瞬のうちに頭を駆け巡りました。
家事をしていて、立っていた私ははじめ、めまいがしているのかと思いちょっと慌てました。
そこまで具合も悪くないし、思い当たる節もないのにめまいがするなんて
またヤバイ状態だったらどうしよう!
と思ったのも束の間、目の前の調理器具が、ぐらんぐらんぶらんぶらん
まったく同じように揺れているのに気付いて
更にパニック!落ち着け(笑)

地震だ~!!

しかし、ちょっちぷん、実は「一人突然避難訓練」をよくしています。
ちょっと変でしょうか(笑)
でもでもでもね、前は子供はおらず、わが身のみでしたが、
ぷんさん(14歳オス)と、今は亡きちいさんがいたので
天災で逃げるときは、絶対に絶対に2匹を守る!と固く誓ってたのです。
だから非難訓練をしていたのです。

娘が生まれてから最近までは慌しさに追われそれを忘れていたので
ちょっぴり焦りましたが、今は一人と一匹を絶対に守りたい。
とにかく30秒以内に娘を抱き、ぷんさん(14歳オス)をキャリーに入れて
非難リュックを持つことは出来ました。

地震がやむと、その格好がほのかに恥ずかしい…(笑)
大事なことだけど、もんのすっごい必死!な感じが
思いっきり私一人だけで、我に返ると一抹の羞恥を感じてしまいます。
ま、でも娘が小さいうちは恥ずかしくても、いちいちやろうと思っていますが
娘が物心ついて、やたら警戒心の強い子になってしまわないか、よく考えます。
あんまり警戒心が強すぎると、人が怖がって避けられちゃいそうな気がします。

とにかく地震は怖い。

毎回、新たに心に刻むちょっちぷんです。
ほんと、怖かった…。





2005年8月16日(火)PM:3:13に上げた記事です。

地震怖いです。突然避難訓練娘付きバージョン、たまにやっています。
この間地震対策の点検をして、避難用荷物の点検をしたら新生児用オムツが出てきて処理に困りました。
捨てるのもったいないしなー。とりあえず廃油を捨てるのに使おうかなと思っています。

この文章の中には3つ(多分)の「ひなんくんれん」という単語が出てきますが
何故か2つ目から漢字を間違って変換したままです。
ある意味「非難訓練」も重要です。


キュリー夫人のように

出来たらよいのですが。またまた深夜のちょっちぷんです。
たまたま、この時間しかゆっくりできないので、こんな時間なのです。

大好きな、小学生男子シリーズ夏休みスペシャル編、とか書きたいのですが
パソコンのこちら側では、今大変な緊張状態が続いていて、全然楽しいことが浮かびません。
そして公園のだんすぃたちの声が聞こえません。

娘は元気になり、私も睡眠もとれていますし、風邪も治ってきています。
身体は元気になり、少し時間に余裕も出来ました。

だけど心がへとへとです。

そういう時は休むに限る、とわかっているのですが
なかなか…。
いったん手を離すと、どこか遠くへ行ってしまうようで手が離せません。
そして休みたい、休もう!と決意したところで
パソコンのこちら側の、緊張を生み出している原因は休息を与えてくれません。

時間もあるし、身体も元気になってきた、ブログだってやりたい。
しかしどうにも楽しいことが浮かんできません。

ならば真剣に取り組むところへ目を向けよう、と今は思っています。
とりあえず、寝ろ!
はい、寝ます(笑)おやすみなさい。




2005年8月16日(火)AM:3:14に上げた記事です。

眠れなかったようです。明らかに睡眠の取れているかんじではありません。
かなりの緊張状態で過ごしていたようですが、
それを見られたいような見られたくないような葛藤が感じられます。

相手が望んでいようがいまいが、自分がそうしたかったというだけのことなのですが。
時々ひどく寂しくなるのもまた事実。
このとき受けた悲しみは後に報われ、癒されました。

理解されたい?理解したいの?

 この記事は断定と決め付けに取れる箇所が数多くありますが、自分自身が「そう思う」というだけのことであり、世とはおしなべてそういうもの、○○かくあるべき、という意味ではありません。
そして他ブログへトラックバックしたいのですが、できるかどうかわからないので、念のため書いておきます。chargeupさんのブログの「世間の目」という記事です。というかこの記事は私の中で、chargeupさんのブログ全体へのトラックバックかもしれません。上手く伝わるかどうか大変な賭けですが、先へ進みたいので、書きました。実際に書いたのはかなり前なのですが、何度か推敲し、何度か迷い、何度か検証しながら考えましたが、今はこれ以上の表現が出来ないようです。このまま上げます。

障害のある状態というのを理解したい、と思うのならば
まず「理解したいのは自分である」ことを認識すべき
理解する必要がある、理解してあげるべき
という大義名分になりうる思考では、どうあっても上からみた状態での思考にしかならない

ある障害について私は深く理解したい、と思う「自分の気持ち」について知る必要があると思っている
まずはそこから始まった
それを知るためには質問が生まれる

これが反対なことが世間には多いように感じている

「知るためには自分の側から質問」することが大切だが、「知ってあげるには相手からの要求」が必要

この差は果てしなく大きい

「状態」を理解するのはかなりの年月や専門的知識
そして実際にその「状態である人」の言葉を知る必要がある
自分の思考を果てしなくニュートラルにする必要がある
しかしそれは、そんなに簡単にできるものではない
一朝一夕にできるものではないからこそ、世間に通じていないのだと思う
相手が「何に対して理解を求めて」いるのかすら、通じるまでには
こちら側(理解したいと思っている人)の質問が多くなければ進みはしないと思う

してあげる、という形での理解はいつしか「自分を理解させる」ことに終始し
最後には意味をなさなくなると思う
相手は理解を求めている、それを理解したいと思う
どちらも「自分の感情」であり人に強要されるものではない
理解したつもりのまま先へ行けばいつしか理解の場所は摩り替わり
自分の理解を求めることになる

相手が理解を求めても、選択する権利が自分にも与えられている
理解したい、と思ったのなら、自分が望んでいるのだ
お願いします、理解してくださいと言われ
理解ぃ?してやってもいいよ
という状態で理解できるほど障害は簡単なものではない
簡単なものならばとっくにみんな悩まなくなっているだろう

理解したい、と望んだ人がいる

そこから理解は進んでいくしかない
そうでなければさっき言ったように「理解させること」に繋がるから
そこへ繋がることが差別やみな同じ、という乱暴なくくりへと誘う

相手が何を望んでいるのか、それを知るために、会話をし手探りで進んでいるのだ
その様子は理解したつもりの人にとっては「お追従」に見えるかもしれない
しかしながら、その行為が最も大事なのだと私は確信している
それがしっかりと把握されていないまま時を過ごせば
必ず相手に何かを押し付けてしまうと思う

過去を苦しみ、挫折に苦しみ、違いに苦しむ人には様々な形がある
共感のみを求めるひと、慰めを求めるひと、それらはほぼ同じ形をしているだろう
しかし
自分と向き合うのをサポートして欲しいと思うひともいる
向き合うためには試行錯誤がある、あれもためしこれもためしする
それを見ていると「これはこう」「それはそこ」と教え諭したくなることは多いと思う
それを必要としていないひとへもそうするひとはわりと多い

そういうひともまた、「自分が他者の理解を必要」としているのだということを
知っているのかじっくり掘り返してみたい気もする

でも私はそういう人を理解したいとは思わない、何故かって好きじゃないから
自己像を守るために自分の邪悪性と向き合えないひとと関わるのはごめんだ

私は、私がそうと感じる、自分と向き合おうとしている人を理解したい
知りたい、共に何かを見つけたい

それを望んでいる
自分が

理解に努力が必要なのは「理解したいと望んだ自分が努力する」必要があるのだと思っている
それは他人に強要される必要もなければ努力を促される必要もないこと
自分が望んだから努力するまでのこと

これが邪悪性と呼ばれている私の芋でもあるのだと確信している
どんな人間の内にもこの芋はあり、そしてそれと闘わざるをえない場面は
日々あちこちにちりばめられている
それを知り闘うためには、自分の中に邪悪な芋があると認識している必要があると私は思っている

自己像を守るため他者を犠牲にしてはならない

そう認識することが本当に必要だと思っている
今回の記事もかなり表現が難しく、これをあげることにより、いらぬ誤解を招く可能性が高い
上手く表現できているか自信もない
だけど大切なことだと思うから書いた
再三書いているけれど、「私に」必要だから書いた
理解も記事も私が必要だから書く

どこで誰を思い浮かべ、どこで誰にエールを送り、どこで誰を否定しているかは言わない
言葉に含みは持たせず、出来うる限りストレートに書いた

私は彼女に言いたい
あなたはとても伝えるのが上手です
あなたの言っていることは物事の本質を突いていると思っています
あなたが求めているのが何か私は知ろうとしています
そして私はそんなあなたが好きです と



2005年8月15日(月)AM:3:07に上げた記事です。

書き方が悪く、タイトルがまるでTB先のchargeupさんへの問いかけみたいになってしまいました。
改めて、タイトル及び記事はほぼ全て自分への問いかけ、自分自身への確認であります。
「ちょっちぷん、お前は理解されたいだけなのか?それとも理解したいのか?」ということです。
この頃、PCのこちら側の私は様々な問題を抱え、かなりまいっていました。
疲れていて、ひどく落胆し、傷ついて、血が吹き出ているかのように痛むものを抱えていました。
そんな私を救ってもくれた部分のある、大事な交流の記憶です。

ちょっちぷん限定を思考す

さて、この一連の記事を限定であげているのは何故か考えてみます。
ブログというものに何かを書いているのに、どちらかと言えば親しみを持ち
共感を覚えてくれる方にしか読めない場所を作るという行為はいったい何なのでしょう。

メールの先輩は「ファン獲得テクニック」と言います。
それはこのブログの性質上、と言うか、私の性格上、必要ないと言いますか、考えたこともありません。
私のキャパシティは異常に狭いので、あんまりにもたくさんの人と交流するのは難しく
混乱がよけいひどくなるだけのような気もしますし
以前書いたように、かなり自己完結していることも多く、その上私個人に帰属することについて
書いているので、人と関わる部分がとても狭い気もします。

じゃあ何故なのか。
ひとつにはまだ混乱がある。ということ。
そして、傷ついたことを人に話そうとすればするほど主旨とズレる
しかも最も言いたいことが伝わらず、言葉を重ねれば重ねるほど
自分で自分が何を言いたいのかわからなくなってしまう。
そういう経験が恐怖となって記憶に残っているような気もします。

上手く伝えることが出来ず、言いたいことが伝わらなかったという恐怖感
そして上手く出来ないから、事実を述べようとすることによって
個人的なことに触れてしまうのではないか、と危惧する気持ちもあります。
もちろん反論を聞くのも怖いですし、その反論がいまいちかみ合っていないと感じたら
その噛み合う部分に到達する文章を書かなくてはならない、という怠惰な理由もあります。
ひょっとしたら誰かと共有して話しを聞いてもらう準備はできていないのかな、とも思います。
そのため変な防衛本能が働きこうして限定として、目に触れる機会を極力減らそうとしている。
けれど全くないと、怠けそうで怖い。そんな感じかもしれません。

ここまで、書いてきたことは別段、限定にしなくとも…と思うのですが
いつどこで核心に近づくか自分でもよくわからないのです。
この先も限定にする意味があるかないかはわかりませんが、当分の間
まずは限定であげて、核心に触れていないものに関してはのちのち書庫でも
移そうかな、と思っています。

娘が、構って構ってと来るのと、家事をしていたら
何がなんだかわからなくなってきました(笑)
すみません、ここ何日か思考が孤独で何か書きたかっただけなんです。




2005年8月12日(金)PM:7:58に上げた記事です。

ん~?芋シリーズとして限定で上げた記事って、これが最後みたいです。
めちゃくちゃ中途半端に終わっていますが、微妙にリンクした記事はこの先また書いています。
途中から多分、私によくある、思考しているなかで生まれた新たな疑問に流されてしまったくさいです。
写している中でいくつか気になったことなんかをネタ帳に書き留めているのですが
まとまったら、また一つの文章にしてみようと思っています。
しかし中途半端に放ったらかしにしてるものがいっぱい…(汗)

目覚めたちょっちぷん

お心遣いありがとうございました。
娘の具合、かなり回復してきました。
残すところ青っ洟と食欲不振のみとなり、食欲も少しづつ出てきています。
昨晩は親子ともに、ぐっすり眠り、私の眠りたい気持ちも満たされました。
娘の具合を気にかけると共に、私のことまでも気にかけてくださって本当にありがとう。
疲れてへとへとになっているとき、ふいにいただく優しい気持ちに
とてもとても癒されました。心に染み入りました。

一日中、子供の高い周波数の声で「ひぃ~ ひぃ~」と言っているのを聞きながら
食事も満足に摂れず、睡眠も摂れず、精神的には心配でくたくたになっているとき
「育児とはそんなものよ」とかいう言葉は正直言って聞きたくありません。
そんなことは百も承知なのです。楽なものと捉えているのではありません。
しかし疲れることもまた事実です。
疲れているときに、そんな言葉が心の栄養になるとは思えません。
そういうことを心の栄養に出来るような強さは別に欲しくはないのです。
私は自分がそういうことをしているときに、自分が「甘えている」とは思っていません。
「人間とはそういうもの」と思っています。

時にはわが身を振り返り、間違えたのか、と自問自答します。
でも、時々、毎日の頑張るのをやめたいときもあるのです。
不平不満を言って、自己憐憫に浸り、身体を丸めてぐずぐずぐちぐちとしたい。
そういうときはそうすれば短時間で気が済みます。(また、せん、と打ちそうに)
短時間、そういう形で休むことによって、頑張るのをやめてることに嫌気がさし
「おっし!いっちょやってやろうじゃん!」と思うときも来ます。
それが短時間で済まないようには、もうなりたくない。

だからぐちぐちうじうじすることにしています。
そういう感情のバイオリズムというかシステムというか、流れは
個人個人で違いますから、「ここは頑張り時だからぐちぐちするな」と言われても
どうせ「はい、わかりました」とは思えないです。
そんな流れ的なものまで「常識」と呼ばれるものにくくられるのには我慢なりません。
自分なりに自分の心の感じることと向き合えばそれでいい。そう思っています。
それを何かに合わせようとすると、心はすさみます。疲れます。

誉められるようなことではないけれど、悪ではない。
そう思います。

社会で働くのと同様、育児にもこういうことよくあるのだなぁ、と思います。
どうして育児に関して、あんなに言い切れることが多いのか本当に疑問です。
人一人育てることだって千差万別でしょうに。

「育児ってそういうこと、親になるってそういうことなの」

この言葉、激しくイライラさせられます。
知るか!

そのかわり、ねぎらいの言葉や優しい言葉に励まされ
普段出来ないことが頑張れたりします。
そっちのほうがよっぽどいいと思うんですが、そうじゃない人も
結構多いのだなぁ、と最近思います。

賛同ではないくていい、尊重が欲しい。
それが甘えてるなどと言えるひとの顔をまじまじと見つめてみたいです。
戸塚ヨットスクールみたいです。

ねぎらいの言葉本当にありがとうございました。
大人げなくブチっと切れそうな気持ちがとっても楽になりました。
感謝いたします。



2005年8月12日(金)PM:3:39に上げた記事です。

いやー、いっそ清々しいほどのぐちぐちぶりです。
劇団ひとりみたいな卑屈という仮面に隠された自己愛的に清々しいです。
あれを見せて芸とするのは、お笑いというより俳優的です。ってなんの話だよ。
戸塚ヨットスクールの校長、おつとめが終わったそうですが
「これからもびしびしやる」とかなんとか言っていたそうで。
この人からは歪んだ精神論と根性論を掲げた軍隊的説教族のニオイがぷんぷんします。
体罰が加わって最強でしょうね。

洗濯機と私の休息はいかに

ふ~。今朝くらいから娘の具合が良くなり始めてきました。
先週の土曜日から発熱し、ぐんぐん高熱になり、熱性けいれん、食欲不振と続き
やっと熱が下がり始めたと同時に、夜泣き、咳き込み、鼻水が出始めました。

もっと小さいときに、初めて鼻水がひどくなって、水っ洟が青っ洟になり
鼻詰まりで夜眠れなくなり、その後はじめての高熱でけいれんを経験したりするたびに
「これを経験することによって、娘の具合で右往左往しなくなるんだ」と
妙な安堵の仕方をしていましたが、なんのなんの。
更に次々と心配のタネは生まれてきます。当たり前か。

今回は喉の痛みがひどいらしく、冷たくて甘いもの以外は頑として受け付けなく
しかも咳き込みが激しすぎて、長時間眠ることが出来ず、眠るとすぐに咳き込み
その咳のひどさで吐いてしまうことが続き、洗濯機も私も休むひまがありませんでした。
まあ、娘の具合はここではどうでもいいことなのですが…。つい愚痴が。
あ~!!疲れたよ~!とにかく寝たい。ここ何日かまともに寝ていないもので。はふー。





2005年8月11日(木)AM:10:37に上げた記事です。

お見舞いのコメントをいただき、とても嬉しかったです。
改めてありがとうございました。

☆全然関係ないこと☆
この時はまだ高熱の際のふるふるした震えを痙攣だと思っていたんだな…。
この間、妹の息子もとうとう熱性痙攣を経験。
話を聞いていた妹は落ち着いて冷静な対応…できるわけねー!!というかんじでパニくっていました。
出来ないのは当然です。泣きながらかかってきた電話に私も手が震えました。
2、3日後甥っ子は熱が下がってきたと同時に発疹だらけに、「突発性発疹」でした。
中耳炎のオマケつき。かあちゃん、ご苦労様。甥っ子もお疲れ様。

休憩中に考えるちょっちぷん

娘の世話に明け暮れています。
ほわぁ~、疲れた…。
いつもの百倍くらい疲れます。

今日はちょっと書きたいことがあったのに、まだあんまりまとまっていません。
でも練らずに書いてみようかな。危険だけど。
危険だけど、危険の答えは今のところわかっているつもりなので
おそらく大丈夫じゃないかとふんでいます。そして転ぶちょっちぷん。がくー。

今日、書きたかったこと。
それは何故私は今記事を限定であげているのか。
という理由ではなくて、自分への問いかけです。
お気に入りとして登録くださっている奇特な(嘘です)心優しい(本当です)みなさまとは
少しずつですが、交流し、そして思いやりをいただいています。

私がいかに偏狭で、頭でっかちで、そのうえせっかちで
理屈っぽく、心の弱い人間か、少しは知っていてもらえています。
そこに寄りかからせてもらうかのように、今は限定で記事をあげています。

先日書いた記事、これから書きたいことの中にひとつ迷いもあり、メモしていないことがあります。
それが今日の記事で書こうとした「自分への問い」が必要であり
記事を限定にしたくなった原因のことなのです。

その「芋」はちょっちぷんが闘った芋であり、多分最大の書きたいことでもあるのでしょう。
「芋」自体は先日書いたとおり、今のところ正体もわかっていますし
自分のやりたいこともわかっています。

しかし前回それと闘ったときのことを検証しなければ
きっと前へ進めず、更にもう一度同じことを繰り返しそうです。
その検証が私は怖い。

内容を誤解されるのも怖いし、自分がそのとき感じた気持ちを再現するのも怖い。
そしてそれについて何かの感想をいただくのも怖い。
こんなに怖いものだらけで、記事として機能し、しかも立ち向かえるのか。
いまひとつ自信が持てません。

闘う前に検証に失敗したら、ブログなんて続けることも出来ませんし
いける屍となり、夫や娘に迷惑をかけるかもしれない。
そのうえ今、私の助けを必要としている妹への小さな小さな助けにも
手も出せず、色々なものを失いそうです。

そこへ到達するために、この一連のちょっちぷんシリーズの記事を
ごちゃごちゃごちゃごちゃと書いています。
心の準備運動といいますか、なんといいますか、ごにょごにょ。
しかも、この記事の行く末を見届けていただくため、
この人!と思った方にお願いして、無理やりお気に入り登録までしていただきました。サイテー。

ちっとも目標に近づけず、もしや新手の獲得方法と思われてしまったらどうしましょう。
誤解です。そんなじゃないのです。でもでも…。ごめんなさい。
なるべく頑張って早く到達できるよう、頑張ります!びしっ(敬礼)
明日は今日書こうと思っていたことにチャレンジしてみようと思います。
それとメロスのことを書こうと思います。

娘が少し元気になって、吐かずにいてくれたら…(笑)
おやすみなさい。





2005年8月9日(火)AM:11:13に上げた記事です。

一連の記事を読み返すと、本当にまいっていたことがわかります。自分では。
この一連の記事に、名ストッパーで、名トレーナー、決してジャッジメントせず、
その時必要な休息やインターバルのタイミングを計ってくれる覆面様が
細やかな優しい視線を注いでくれました。
そのコメントに私はとてもとても慰められ勇気づけてもらいました。

ちょっちぷんの言葉と誰かの言葉

言葉。言霊とかいう言葉もある。
言葉には魂が宿るという意味なのかな。
ま、それはどうでもいいのですが。

言葉は本当に難しい。
言葉が難しいというよりは、自分が感じたものを感じたまま、言葉にするのが難しいです。
わたりとりさまにいただいたコメントにある「言葉に想いをこめる」
これは、文学的には美しく、広がりを持っていて素敵です。
自分が感じたことを感じたままに伝えたい、と思う人。
自分が感じたことから何かを感じて欲しい人。
表現は変わるのでしょうね。

今の私は、「そのまま」というものに注目しています。
「世界は○○です!絶対そうです!そういうものです!」と言われたら
ああ、この人にとって世界とはそういうものなのだなぁ、と思います。
人が黒と言っても、私の目には白く見えるものもあるでしょう。
本当はそれが何色でもいいのです。
今自分に何色に見えているのか。
そして何故その色に見えているのか。

私はそれが知りたい。

だから、今は言葉に含みは持たせたくはないと思っています。
持たせているつもりはないのですが、結果的にそうとしか読めないこともあるかもしれません。
含みのある世界も好きで、そういう中で培ったものも根強いです。
しかも比喩をまったく使わずに文章を書くのがこれまた難しい。
比喩を使うと、受け取り方が多岐にわたります。
そうすることで「そのまま」は伝わりにくくなる。
それでも「好き」は「好き」で「ありがとう」が「好き」ではないのです。

しかし、難しいです。

前にも記事に書いたけれど、私の目に映る色が何色で、それが何故その色に見えるのか。
それを自分以外の誰かと共有することは出来ないように思います。
私の感情ですから、誰かの感情ではないですし。
となると推測や質問という形しか関わるのは難しいです。
またはその色は私にはこう見えます。
という「違い」の確認作業的な会話でおわってしまいそうです。
ならば何故私はブログ、というものに何かを書いているのでしょうか。

そのへんを今よく考えています。
それはこういう理由ですよ、と教えてくださる方もたまにいますが
前に書いたように、「転んだら痛いよ」と教えてもらっても
転んでみないとわからない大馬鹿者ですから、多分転んでみるでしょう。

でもそんな自分は結構気に入っています。
可愛いわ、私。と思います。
人が言ってくれないので自分で言います。

ちょっちぷん、か~わい~い!

※暑くて壊れているわけではありません。正気ですよ(笑)





2005年8月8日(月)PM:3:07に上げた記事です。

とても正気には見えないところがグーです。
「ありがとう」が「好き」ではないけれど、「ありがとう」に「好き」が含まれていることはあります。
心情的に、しかし「ありがとう」と書いた文字を届けたい相手が読んで
「ありがとう」しか届かなくてもそれはもちろんいいのです。
「ありがとう」が「ありがとう」ではなく、別の意味を持っていなければ。
「ありがとう」が「余計なことしやがってバーカ」でなければ。

ちょっちぷん、か~わい~い!

娘が生まれてからますます言ってもらえなくなったので改めて。ちなみに正気です。

まいったな

娘がまた発熱しています。
いろいろなことが解ってきてグズりもマックスです。
泣き声を一日中聞いているのは苦しいです。
人が人にできることは本当に少ないと改めて思います。

妹が精神的にまいっています。
妹の旦那さまも追い詰められています。
母のいない私達姉妹は子供を連れて逃げるところが一時的にせよありません。
お互いがお互いを頼っていられるのもほんの少しです。

自分の頭の中がますますカオスです。
いっぱい知りたいこと、認めたいことがあります。
似たような気持ちを持った人の言葉を聞いてみたいです。
そして何か発見したいです。
発見して笑いたい。大声で。

こんなに無力なまま、どうやって生きてこられたのか不思議です。
誰かが泣き、苦しみ、思考の無限ループにまきこまれています。
それをただバカみたいに見ているだけの自分に嫌気がさします。
何も出来ることはないと思いたくありません。

そんなものを見ているくらいなら自分が悩んでいる方が楽です。
自分の心は自分で覗くことが出来ます。
どす黒いものを見つめれば、苦しいながらも、認める、という作業に没頭できます。

楽しい気持ちで嬉しい気持ちで歌い出したい気持ちで踊り出したい気持ちで
いることは、どうしてこんなに難しいのでしょうね。
どうしてこんなに少ない日々なのでしょうね。
幸せなのに。

お腹の中に大きな漬物石が鎮座ましましています。
どけたい。
汗も涙も出したくはないのです。
しまいこんで、なくしてしまいたいのです。





2005年8月7日(日)PM:4:22に上げた記事です。

この時は相当精神的にまいっていたのでしょう。
結構めちゃくちゃなことをやっています。
この記事も芋シリーズに入れられていますが、ただ単に限定であげているだけで関連はありません。
なので、写すにあたりテーマを別にしました。

鎮座ましましている大きな漬物石は、当時TBをくれたとくさんが仰った通りのものであり
私の中にある、邪悪な芋でもあります。
そして純粋なる悲しみや同情、虚無感、無力感も交じり合った複雑な模様の漬物石です。
なくしたい、けれどこれをなくしたら私は私の忌み嫌うものになってしまうとも思うのです。

ちょっちぷんがこれから書こうと思うこと

書いておこうと思っているものをメモしておきます。

☆社交辞令を使うときの自分の頭の中の動き
☆「うつ」であるとき、ないとき、そして両方を兼ねているとき
☆妊婦と母のイヤなことについて(済)
☆拒否されること


2005年8月6日(土)PM:10:40に上げた記事です。

この覚書をヤフーでの休み前の最後の記事にしようと思っています。
ここで書かれた一つは記事にしましたが、残りと、この後も書こうと思った、
と記事中で触れたものがあるので、それらをまとめて最後に書き記します。