☆空飛ぶ もとちくれった 出張所☆ -26ページ目

スポイルするひと

読んだ本で強烈な衝撃を受けた本ってありませんか?
私にはそういう本が2冊あります。
本を数で言えばかなりの数を読んでいますが
ほとんどはミステリーや小説フィクションです。
参考文献に専門書や学術書も読みますが
知識欲は満足しても娯楽欲(そんなのあるのか)は
チョット…。です。

衝撃を受けた本、この2冊はそのどちらでもなく
いわゆる「ノンフィクション」ものとして扱われる本です。

1冊はツール・ド・フランス7連覇という偉業を成し遂げた
ランス・アームストロングの書いた本
It'sNotAbouttheBike(邦題:ただマイヨ・ジョーヌのためでなく)です。
彼は癌を克服し、恐ろしいほどの情熱を持ってツール・ド・フランス7連覇を達成しました。
(本の中ではまだ7連覇はしていません)
この本、アメリカン・ドリームの中でもかなり劇的なのですが、私が受けた衝撃は
癌を克服したことでもなく、マイヨ・ジョーヌを何度も着たことではないのです。
私がこの本、というかランスから受けた衝撃は、人がこれほどの執着を持って
何かにのめりこむことが出来るということへのものなのです。
ロードレースを自転車を愛する姿は、なんというか狂気を含んでもいるように見えたし
そこまで自分の人生の中に強烈に求めるものを追っている人が存在することに衝撃を受けたのです。
世の中には、そういう人が他にもいるかもしれないけれど
初めての出会いでしたから、強烈な印象が残っています。今もたまに読み返します。

で、もう1冊。今、実物が手元にないのでちょっとうろ覚えなところもあります。
「平気でウソをつく人々」
この本は、なんというか、強烈でした。上手く書ける自信がないのですが、ちょっとだけ…。
難しいな。多分、自分の心と向き合ったことのない、というか、向き合うことを拒否したまま
大人になってしまい、
ウソをウソとも思えなくなってしまった人たちのことを書いてあるのだと思います。
ウソ、というキーワードはちょっとクセが強いので、読みながら別のぴったりくる言葉に
替えて読んだ記憶がありますが、それが何だったのか忘れてしまいました。
この本、読んだらもやもやして「イヤな本、何これつまんなーい」と感じた人は普通だと思いますが
まあ、可哀相な人たち、とまったく別の世界の住人のように感じた人とは
出来たら触れ合うのは避けたいような…。

内容のほとんどは親子関係の問題をとりあげているので、はじめはちょっとわかりづらく
受け入れにくい感じがしました。
何度も読み返していっぱい考えることがあった衝撃の本でした。
で、なんでこの記事を書いたかって言うとこの本のことを思い出したことがあったのです。

あるところであるコメントを読んでいて感じたこと。

なんて言えばいいかな、ある種の人々は理解することを目的としているんじゃなくて
理解してもらうことが目的なのだ、と思ったのです。
記事を読んだり、コメントをしたりすることでそれを理解しようとしているんじゃなく
自分を理解してくれそうなことを書いている人、コメントしているひとを探している。
そういう感じがするのです。
だからそこから連想した自分の考えに固執する。
一見共感しているように見えるけど、実は自分を肯定して欲しい
知って欲しい、受け入れて欲しいがための一方的なコメントをする。
そんな風に見える。
そういう人がたくさんコメントをすると、段々自分が言いたいことが言えなくなって
その人が欲しい言葉を、欲しいタイミングで返すことを考えてしまう。
いつのまにがじわじわと蝕んでいく。
それがスポイルされる、ということ。難しいのはそれを本人が知らないことだと思うのです。
自分と向き合っていないから。

まあ2冊目の本はそういうことが書いてある本です。
そういう人になることは、私は人に拒絶されるよりずっとずっと怖い。


って、こうやって一日に何度も何度も記事を上げるとき
私は何か深く考えていることがあります。
思考にまとまりがないから、いくつか外に出しておくようなかんじ。
迷惑な!
すみません…。





2005年7月30日(土)PM:11:23に上げた記事です。

説教族のことを言いたかった記事です。
説教族は人をスポイルすることが大好きな気がします。

黒い予定と白い予定

週末は色々予定がつまってしまい忙しいことが多いけど
今週は!

じゃじゃ~ん!何もない!

はー嬉しい。
私、実はスケジュール帳に予定がびっしりつまってるとものすごく
プレッシャーでなんだか辛くなってしまいます。
仕事をしていたころはそりゃあもうビッシリ書きこんであって
毎日眺めてはウンザリしていました。

何故か遊びの予定もそうなんですよね。
遊びたくていろいろしたくて予定をたてちゃうんだけど、実際に予定が迫ってくると
なんだかブルーになってしまうのです。あれ、何でなのでしょう?
海外旅行は特に顕著に出ます。どこか行くことにして、いろいろと予定をたてて準備して
いざ1週間前くらいになると気分がふさいでしまいます。
行けば楽しいのだけれど、行きの飛行機の中で空路中盤くらいを過ぎないと
うつうつとして、帰りたい…などと思っています。
でも旅行先についた途端楽しくなってくるんだけど…。

これ何人かに話したら、まったく正反対の答えが返ってきてびっくりしたことがあります。
なんでも予定がないと寂しくてブルーになる。旅行は準備や予定をたてるのが面倒だけど
指折り出発する日を楽しみにする。
行きの飛行機では喜び爆裂。だそうで。

おおー、違えば違うものだなあ。と感心した覚えがあります。

なんて思ってるけど、当日いきなり予定が入るのは大嫌いです。
急遽しなきゃいけないことがあると、ふさぎこみたくなります。
雨が降ってきたから洗濯物を取り込む、くらいならいいんですけど。





2005年7月30日(土)PM:3:03に上げた記事です。

はー、一年経ったら週末は毎週忙しくなってしまいました。
雨が降らない限り、娘を遊びに連れて出かけます。
と言っても近くの大きな公園がほとんどなのですが。
なんだかんだやることがあって、結構忙しい週末を過ごしています。
あー、家で惰眠を貪りながら本を読んだり、おいしいものを食べたいなー。
だらだらしたいです。

おでんじでんじ

すみません。オレンジレンジとは全然関係ありません。
もしファンの方が思わず来てくださったら、ごめんなさい。
このブログの常でタイトルと記事が連動してませんです。

ブログを始めてからずっと書きたい、書きたい、と思ってたこと
「ヘンな言葉」が大好きなことについて

祖父の使っていた言葉からそれは始まった気がします。

シャッポ
チャリふる
げそろっぷ

この言葉、何語なのでしょう…とても気になります。
職人さんとかが使う言葉なのかな?
祖父は普通ではない本屋さんで、本を修正する職人で書道の先生なんですが、

まさか書道用語じゃあるまいな…。
なんとなく語感がアカデミックなものとは無縁さをかもし出しているような…。

母は私がこの言葉を使うのをすんごーくイヤがってましたが
私は年月を重ねるごとにこれらの言葉を愛するようになっちゃいました。
ごめんよママン。
そういうちょっと由来のわからない言葉、音がおもしろい言葉が大好きなのです。
だから幼児語も大好き。子供の言葉には悶絶することがあります。

スポーツマンシップにもっこり!もそうだけど

スカートがツカートに
スマップがスナップに
テレビがてべりに
バナナはバナバに
メガネはゲガネに
ヘリコブターはセリコブタに
スパゲッティはスカゲッチに
オレンジがおでんじに

たまりません。

TOPにも書いてある「何でもへったくれもない」のへったくれ
「何でもあさってもない」のあさって、何故あさってなのか?
あと普段その地方の人は使わないだろうけど、ありうるかもしれない使い方で

すうすうすう(鹿児島)
ちゃうちゃうちゃうんちゃう(大阪)
ばぁばばぁじゃ(広島)
とっとっと?(福岡?)
うぐいすだには違うんだにー(長野)

もうこういうの大好き!楽しくてたまりません。
あ!あとねあとね、この間近所にある高級スーパーに行ったんです。
そしたらね、一番上の棚で、あんまり人目につかないようなところにある商品のラベルが

「マーボーアスのもと」

って…
マーボーアスですよ!ヤバいです!
キックアス!です!
ぷぷぷぷぷ!

たまに思うんです。

私ってホントにバカだなぁ…って…

あくまでもたまにですけどね。





2005年7月30日(土)PM:0:20に上げた記事です。

幼児語はかわいいです。変な言葉もかわいいです。
音の響きが良いとそれだけでも好きになります。もとちくれったとか。
本当はびちくれったも結構好きです。ふふふ。
すうすうすう、を鹿児島と書きましたが、そらさんのブログで見かけました。
鹿児島じゃなかったのか!失礼しました。

言ってもいいですか?

フライデーナイトだからって主婦ですから関係ありません!
ブログでフィーバー。

…。

あ、すみません。タイトルにたいした意味はありません。
趣味について考えてみましょう。
アナタの趣味は何ですか?と聞かれるとへどもどしてしまうちょっちぷんですが
結構色んなことに首を突っ込んでいます。

小学生から始めたミニバスケは結構長くやっていて社会人になってからも3on3でやってました。
水泳も結構長くやりました。最終的にはインストの免許も取れました。
スポーツは全般的に何でも好きです。
球技はちょっとアレなのですが。観るのもやるのもどちらでもいいですが、出来ればやりたい。
好みは個人競技でゲームスピード、プレイスピードが早いものです。
ゴルフとかサッカーとか野球とか、せっかちなので向いてません。
観てるだけでも、途中でなかだるみしちゃうんですよね、観戦態度が(笑)

あとはー書道。好きです。書道はある一定のところまで行くと絵に近いかんじがします。
長くやってたけれどペン字は苦手です。筆と墨と紙が好きなのです。

それと、今はもちろん格闘技。
人と触れ合うのは好きではないのですが今までやったスポーツの中で最も無心の時間が長いです。
短時間で汗も大量で、その時は最高に不愉快だけど、後ですかっとします。

読書も大好き。本を読むのが一番好きでどこにも負担がないような気がします。
強いていえば読む体勢によって、身体の一部分だけ疲れるので後でストレッチが必要なのが
面倒なくらいでしょうか。それくらいやれ。

なんでも読むけどファンタジーが一番好きです。
特に建造物の描写が多いものが好きみたいで、本から得られる情報で出てくる建物の絵を描いたり。
絵本も大好き。夢があって、忘れたものがあって、ドキドキわくわくで、美味しいものがあって
動物と話しが出来て。楽しいです。小さいころは絵本屋さんになりたいと思っていました。

洋服や靴を作るのも好きです。いや、作る予定を立てるの好きといいますか、何と言いますか。
こんなのを着たい!履きたい!と思い、材料や製作するための手順やデザインを考えて
そのまま放置。作れ。

音楽も好きです。70年代の洋楽と童謡とアニメ主題歌と学校唱歌とカントリーが好きです。
でも最近ライブはダメです。NHKのファミリーコンサートが限界です。
外に出るのがおっくうで、ついつい軽くひきこもってしまいます。
だっておうち大好きなんだもの。

絵を描くのは全然好きじゃないのですが、色を塗りたくるのは大好きです。
今年の夏たくらんでいるのは、お風呂場ジャングル計画。
ウチのお風呂は壁がコンクリうちっぱなしなので、壁にいろんな緑と茶色と黄色あたりで
色をわーーーっと塗ってしまおう!という計画。
ペンキのニオイで断念必至。

なんの話しだ。あ、趣味か。これ趣味って言ってもいいのでしょうか?





2005年7月29日(金)PM:11:33に上げた記事です。

何が言いたいのかまったくわからない。そんな記事。
もちろんお風呂場ジャングル計画は断念しました。

大好き!5

スニーカーイメルダ。それは私のことです。
かつてこれを言われたとき、私は服飾品にとりつかれていたようです。

服飾品、なんて素敵なんでしょう。色とりどりです。
ヒラヒラしていて、キラキラでピッタリしていてカッチリでフィットしています。
背が低い私はいわゆるブランドのコレクションものが着られません。
寂しい。ブランドにこだわりはないのですが、サイズにはこだわります。
服飾品は大好きだけど、詳しくはありません。
いい加減なことを言っても目をつぶってください。いや、正してください。

私には好きな系統はありません。コンサバも好きです。
アメカジもスポカジもピンクハウスも大好きです。
ギャル系はもうさすがに着られないけどフレンチも神戸カジュアルもわりと好きです。
古着系も好きです。

何故なのかたまに考えるのですが、イメージが固まるのはいやだなぁ、と思っているみたいです。
いつもアメカジしか着ていないと、全てのことにアメカジな人、みたいな判断をされるのが怖い、
そんな感じがします。
いつもコンサバなら考え方もコンサバ。みたいなかんじ。
でも、ただただ服が好きなだけかなぁ、とも思います。
でも全部黒しかなかったら、きっと全然好きじゃありません。
色んな色が氾濫しているから好きなのでしょうね。
色もかなり重要です。最近では韓国のファッションが気になります。ヨン様スタイルじゃなくて。
韓国のチョゴリ、あれはなんと美しい色使いなんでしょう。うっとりしてしまいます。
民族衣装ってどこの国も、ものすごく美しい色使いですよね。何故でしょう。
民族衣装大好きです。外国へ行くたびにそこの伝統衣装を着て写真を撮っています。

悲しいかな、ちっちゃい、ということは服のラインの美しさを損なうことが多いです。
ロングのワンピースは丈なんぞ詰めようものならシルエットは崩れ去り
なんとなーく野暮ったい、というただ野暮ったい以上にイケてません。
袖口に可愛いフリルやドレープがついていたら袖も詰められません。
丈も袖も大きかったらどうしたらいいのでしょう。
無理やり着たら可愛さが大暴落です。

いろいろな生地の服をだーーーーーーっと並べて埋もれると幸せです。
ちょっぴり埃と防虫剤のニオイもしますが。
靴がだーーーーーーーーっと並べてある様もひどく幸せさを呼びます。
服は各ブランドごとにしか並ばないけれど、靴はいろいろまぜこぜに並ぶ普通の靴屋さんが好きです。
自社製しか置いていない靴屋さんには、そこ独自のカラーがトータルで見られるので
それはそれで好きなのですが、ごたまぜになっている
あの靴のカオスみたいな靴屋さん…素敵です。
古着屋さんは見た目はごたまぜで好きですが
ニオイというのかたまに怨念めいたものの気配を感じ
少し気が滅入ることがあります。

革靴はオーダー以外のもので足にフィットするものに出会ったことがないので
実はちょっと苦手です。
足が窮屈なのは何故か不安です。
レッシュはオーダーで作ってもらったとき履いたら鳥肌が立ちました。
ゾクゾクするほどの一体感は何故か安心します。
最高でヒールの高さが15cmのものがあるのですが、それはそれは美しいです。
ところが履くと美しくありません…。

ピンヒールはそれなりの足と筋力がないと歩いていて無様このうえないです。
ひざがカックンカックンなっているのは涙を誘います。
高ーいヒールを履いてすかっと歩いている女性を見ると挙動不審なまでに
じっと見てしまいます。
ハイヒール、優雅で美しく大好きですが、いかんせん顔があくびちゃんでは
地味に目立たぬようにコンサバティブなパンツスーツに合わせるので精一杯です。

ふと気づいたのですが、色は思っている以上に重要そうです。
そう言えばパッチワークも大好きで、マルチカラーのボーダーやドット柄も大好きです。
虹には目を奪われすぎてナイアガラに落ちそうになったことすらあります。
街を歩いていて虹を見つけたときは思い切りすっ転びました。
特に靴の色には強く惹かれるようで、黒や白、紺や茶など無難で合わせやすい靴よりも
オレンジやピンク、グリーンやゴールドに惹かれて思わず買ってしまい
ただ眺めるだけ、という悲しい結末を迎えることもしばしばあります。

でも、靴にしても服にしても必ず一度は身につけています。
そうでなきゃ浮かばれないです。服も、靴も、お金も。

最近はスポーツウェアばっかり着てますけどね。
あ、これオチです(笑)





2005年7月29日(金)PM:0:17に上げた記事です。

子供を抱いて15cmヒールは、とても履けません。
今はぺったんこ靴とスニーカーばっかりです。
またいつか、たっか~いヒールの靴でしゃきしゃき歩きたいです。
ちゃんと歩けるんですよ。筋力あるし。
しかし童顔なので、うっふ~ん、な服が似合わないんです。かなすぃ。

挑むメカニズム

何故私は出来ないことに挑んでしまうのか。
キャパシティを超えたことに挑むアホだから。という答えは却下します。議長。

…何この前フリ(笑)やだな。

今日は挑むメカニズムについて考えてみます。
何かを理解することが十段階だとします。これから1へ進みます。
下手をするとマヌケな私は2か3の段階で
「それは結局こういうことなのよ」という断定を呼んでしまいます。が。
アホでマヌケな私は4も5も6も7も8も9も知りたいのです。
1から10までの、どの段階も飛ばさず進んでいかないと10の答えは
身につきません。納得できないのです。子供ですか!私!
そうです。私はアホでマヌケで子供なのであります。
どんどん増える欠点…。イヤだな…。←こればっかり
ま、いいや。仕方なし。

1へ進むのにトライアスロンを題材にしようと思っているのですが失敗するかもしれません。失敗してたらパソコンの前で「ぷぷ」と笑ってください。ふん。


 小さい頃私は運動が苦手でした。徒競走みたいな走る競技はことごとくびりっけつでした。水に顔をつけることも出来なかったし、反復横飛びに至っては未だに上手くできません。転機は小学5年生の時に訪れました。運動会前日、母が
「どうして私の子なのに運痴なのかしら?」
とそれは切ない顔で言いました。ひどい。当たり前です、DNAが全て受け継がれたら同じ人になってしまうではないですか。でも幼い私はちーとも傷つきませんでした。えへへ。と笑っただけだったかと思います。センシティブな子ではなかったと思います。そんな私が何故奮起したか。それは「あられちゃんのほよよボンバー」です。はっきり言って今も持ってます。冬眠前のりすのごとく何でもとっとくヤツ。

 当時ゲームウォッチなるものが流行り、その一つ、ほよよボンバーが私はどうしても欲しかったのです。かなりインドアな子供だった私を母は心配し、家の中で遊ぶおもちゃはこのころほとんど買ってもらえませんでした。特に一人で遊べるゲームウォッチは特に母的にダメなおもちゃだったようです。一人遊びが好きな子供でしたから、心配になったのかもしれません。でも多分今もその資質は発揮されているけど、メロスも出来たよ、ママン。母もほんの冗談だったと思いますが、言いました。
「ほよよボンバー買ってあげるって言ったら頑張ると思う?」

とてもやる気になりました。そして翌日私は見事1位となったのです。なんということでしょう。欲深いです。思い切りものにつられてます。にんじんぶらさげた馬並みです。努力すらしていません。やる気になっただけです。闘争心に火がついただけです。しかしここで火のついてしまった「闘争心」に私は後々とても苦しめられます。

 それはおいておいて、この後私は母に運動もやってみるとまあ楽しいかな?と言ってしまい、喜び勇んだ母がスイミングクラブ、ミニバスケと私に畳み掛けるように見学へといざない、恐ろしいほどにのんきな私はそのどちらも入ってしまいました。今思えば、多分ミニバスケのコーチが身体の動かし方を、私に合う形で教えてくれる人だったのが功を成したのだと思いますが、ここから私は運動神経万能とかいう子供ならではの称号をもらうようになります。あっと言う間に泳げるようになり区大会へ。バスケもあっという間にレギュラーになりました。反復横飛びは出来ませんが。

 でも努力するのが大嫌いな私は出来ることしかやりません。多分出来ることのコツを知っただけなんだと思います。器用貧乏です。ある程度はちょっとしたヒントで出来てしまうので、努力、ということは覚えないのです。その後もそういうことは勉強や人間関係を含め、いくつかあり、私は私が器用貧乏なことを知らず大人になりました。今思えば人間関係だけは器用にこなしていたとは言いがたいし、本来そこで器用貧乏に気づけ、という感じですが、そこはまた他の機会に。

 さて、やっとトライアスロンです。何故トライアスロンに挑む気になったのか、きっかけすら覚えていません。なんとなく運動したかったのかもしれません。ジムで出来ることは私には普段の状態でもそれほどキツくないので、つまらなくなったのかもしれません。だって汗かくまで、何も考えなくなれるまでやろうと思うとえらい時間がかかるのです。それなら何故ジムに行くか、ヒマだからです。運動不足解消は普段から無駄な動きの多い私にはあんまり縁のないことなのです。ヒマつぶしは楽しければ続くけれど、楽しくなくなったらヒマつぶしが苦痛のたねになっちまいます。次のヒマつぶしだったのでしょう。

 で、トライアスロン。これは体力や気力云々は別にして本当に準備の必要な競技でした。ラン、スイム、バイクの組み合わせが普段使う体力や筋肉とは別の何かを必要とします。バスケをするのとバスケとサッカーとラクロスをいっぺんにやるのとの違いと似てるかもしれません。身体の動きとチェンジングすること、身体で覚えたことは人は忘れない、と言いますが、ここではそれが如何なく発揮されて良くありません。泳ぐ筋肉とバイクを漕ぐ筋肉は全然別で、それまで泳いでいた身体が漕ぐ方へいきなりシフトチェンジするにはそのシフトチェンジのコツを覚えなければ無駄に疲れます。それを覚えるトレーニングはしました。一応基礎体力も少し上げるようなトレーニングもしました。それくらいです。

本番はドキドキわくわくで、スイムの時には自分の上で人が泳ぐことも体験。これが一番恐怖をあおりました。氷の下を泳ぐような、出たいときに出られない怖さで私はペースを崩してしまいました。が、まあ完走したし楽しかったけど、40代になるまではもういい、という感じです。これ以上トライアスロンをするにはそれこそ努力が必要です。努力してまでやったら娯楽じゃなくなってしまいます。40代になったときには娯楽だけではなく、体力維持と努力の中に楽しみを見つけたいと思っています。

はい、ここまでで私的な気づきがいくつかあったのでまとめます。

1:どんなことをやるにもまず努力、というものではない
  ・端から見たら努力に見えても、もともと持っている資質の使い方を覚えるだけなことも多い

2:努力を養うのは何事もただチャレンジすることではなく好きで楽しめることを続けることである
  ・好きで楽しめなかったらやってるうちに努力が必要になったときに努力する気にはなれない

3:人が持つ資質は千差万別、ということは努力、というものは人によって必要とする場所は当然違う

ここで新しい疑問です。

 何故好きでもないこと、やりたくないことにも、努力が必要なのでしょうか。だってそれに向いている資質もない、好きでもない、それに向ける努力って本当に必要なんでしょうか。その努力が実を結び、幸せだと思えるのでしょうか。世の中で大きな成功を収めたひとたちを見ていると、欲しいと思うものを得るため、またはもともと自分の持っていた資質をやりたいことや好きで楽しめることに見出し、そこを伸ばす努力をしたように見えます。たいして欲しくもないもののために努力したり、もともと持ってもいないものをむやみやたらと努力で伸ばしてきたようには見えません。成功することが目的で努力するものでもないのならば、何故努力はこんなにも尊ばれているのか。何故だろう?不思議です。

楽しいことや好きなことだけやって生きていけるわけじゃない、という言葉も良く聞きます。でもそれならイヤなことや楽しくないことはまったく出来ないか、というとそうでもないです。それなりにやってます。死ぬほどの努力ではないけれど、そこに死ぬほどの努力を投入して幸せになれるとも思えません。だってそういう形で努力してきた人は幸せそうに見えません。いつも誰かに何かを押し付けたり、自分の努力を認めてもらうことにばかり目がむいているように見えます。何事にも無気力でただ人に依存するのは困るけれど、それが努力をすれば解消するとも思えません。私だったら楽しい、と思えることを探す努力くらいしかしません。楽しいと思えることを探す、そこにチャレンジ精神が発揮されるくらいです。

わざわざ自分自身の資質と向き合う前に好きでもないことばかりを努力するのは大変です。何かを得られるから人は努力するのでしょう。何を得たいか。まずそれを探してもいいような気がします。何か得るためなら努力できる気もします。でもその何かを得るための努力は一通りしかないわけではありません。努力のなかで最も自分が好きだと思う形を選べばいいじゃないですか。努力が向く場所は人によって全然違います。得ようと思うものが同じでも、形も違えば、道も違う。それを全てやって、到達し、達観した、という人なんて見たことありません。

あんなにも資質に恵まれ、持っている全てのものを、ナイスタイミングで取り出したり引っ込めたり出来ているかのように見えるバスケの神様、ジョーダンだってそんなこと出来てません。





2005年7月29日(金)AM:11:34に上げた記事です。

このテーマもいまだにひっぱっています。
追記していたらめちゃくちゃ長くなって、記事になったので消して書き直しました。
今のところこのテーマ、「やる気があれば出来る」的思想を生み出したのは
自分の望むことを見ないふりをし、自己愛を正当化する人と、
望む、ということのメカニズムを理解しない指導者の自己愛の正当化だということです。
生み出したのは、平気で嘘をつくひとたち、なんだなということです。
今のところはそういう感じで考えています。
深く掘り下げていくと、この「平気で嘘をつくひとたち」が平気で嘘をつくようになったのは何故か、と
いうところへも繋がり、思考は複雑になっていきます。

理解は人のためならず

 理解は「してあげる」ものではないと私は思っています。自分が理解したいから理解しているのであって、してあげる、という形をとってしまったら、それがどこを起因としたかは遥かかなたへ消えてしまう。してあげる、から私が感じるのは見下したものと、理解できる自分の気持ち、の押し付けです。

 まだ私は理解について、私の中にある疑問に答えが出せないでいます。だから断定もできないけれど、仮に答えが出ていたとしても断定することはできないです。非常に抽象的な言い方になるけれど、断定できるほど、私にとって世界は確かなものではないからです。私にとって確かなもの、それは自分の感じる感情でしかありません。

その時感じたことは誰にも変えられません。その確かなものを軸として生きてしまっている私は、理解をしたいと思っても、なかなか難しいです。それは前にも書いたけれど、感情の伴わない理解と、ただ、理解との違いがわからないからです。好意を持たなければ理解することは出来ないのだろうか?そんなはずはないではないか、と思います。だって好意を全ての、会った事もない人にむけることなど出来ません。出来るものなのでしょうか。私には想像もつきません。

 だから考えます。考えて考えて、迷ったり悩んだりします。そうして問い掛けようと思うのです。問うことをせずして理解できるとは到底思えません。問う、ことがあって初めて人は答えられるのではないでしょうか。でも、問われたことを私が理解出来る範囲で答えてもらえるとも限りません。こんなにも不確定な要素を含む、理解する、に簡単にたどり着くとも思えないし、「してあげる」と言えません。

 頑張って欲しい。頑張る、という言葉も同じように、人にして欲しいと言うものではないと私は思っています。そもそも頑張る、は自分に帰属することで他人に要請することでもないと思うのです。頑張ってね、と頑張って欲しい、は違う。言葉遊びをしているように見えるかもしれないけれど、この二つには大きな隔たりがあるように思えるのです。頑張ってね、は応援する側一方の気持ちを表している。けれど頑張って欲しいは、願いを含みます。人に願いをたくすのはとても危険だと思うのです。たとえ親子だろうとも、諸刃の剣だろうと思います。

頑張る気持ちや立ち向かう気持ちは、自分自身に帰属して初めて効果を成すものだと思うのです。内なる場所から生まれるからこそ努力もするのだと思うのです。馬に鞭うつように使ってしまっては重圧にしかならないこともあると思います。

 甘える、という言葉もそう。甘えてるよね、などと誰が言えるだろう、と思います。甘えている状態を理解しなければいけないのは、自分だけです。言葉をつむぐのに人は勇気を必要とします。まして文字のみが交差するこの世界ではそれだけが全てだからなおさらです。そこからどんなニュアンスや意味を見出しても、それは読みてにのみ帰属するから、出来るだけ誤解のないように、出来るだけ思うままに、みなつづっています。それは怖いことだと思います。それでもつづる、その言葉や文字を私は出来るだけ真意に近く読み取りたいと、思っています。ずれていたら、ずれていますよ、と聞きたいから、断定はしたくない。そして質問する。それをせずに理解が得られると、私は思うことは出来ません。

努力も甘えも理解もしたい、と思うならすればいい。でもしたいのは自分であって誰かじゃない。誰に強要することも出来ぬ、内なるものが突き動かすものだと思う。出来ないからと言って何故非難されるのか、納得できる答えがみつかりません。



2005年7月28日(木)PM:1:42に上げた記事です。

思いやりと同じ部分にあると考えているところです。
思いやりについて書いた際多くの「思ってしてくれた気持ちに感謝する」というコメントをいただきました。
理解について私も同じように考えていたけれど、理解も思いやりも主軸は「自分」でしかないのだ、
というのが最近の結論です。相手を慮ることから生まれる気持ち、という字面は
意味合いと少しズレがあるようにも思えます。相手を慮る、この慮るというのは自分が慮りたいから
そいうするのであって、相手のためではないからです。けれど、この字面は「相手のため」という
大義名分を引き出します。相手のためではなく、自らの望みによって生まれる行為ならば
たとえ好意であろうとも受け入れられないこともあるのが当然だと思うのです。
良かれと思いしたことが受け入れられないのは哀しいと感じるものでしょう。
でも受け入れられなかった理由を「理解」することもまた「思いやり」だと思うのです。
まだまだ最後の結論には行き着きません。b

アイ・ラブ・スニーカー

気分転換にカッタウェイ様のスニーカー記事にトラックバックさせていただきました。
カッタウェイ様のように詳しくもなく、マニアでもないのですが
懐かしさと、履いているスニーカーを愛する気持ちで書きます。
主旨とズレているのは今に始まったことじゃないですが、くだらないTBですみません。

私がスニーカーを愛するようになったのは、バスケを始めてからです。
ちっちゃいくせにバスケが大好きで楽しくて、それにまつわる全てがキラキラして見えました。
その一つがスニーカーです。ということは。
私のスニーカー愛はバッシュから始まったのか。知りませんでした。

コメントでも話題のAJ1は私はジャストリアルタイマーではなく少し後で出会っています。
発売された当時は、まだ私の足が小さすぎてサイズがなかったと思います。
少し育ってから、当時のナイキ本社で働いていた父の友人がプレゼントしてくれたのですが
サイズはこのときも少し大きかったです。

かなりうろ覚えですが、この手のスニーカーはたいていメンズしかなくて
仮にキッズやレディースサイズはあっても別物として扱われ
ちょっと低い評価だったような…?
履き心地やデザインがほんの少し違うのが気にいらず
いつも少し大きいのを履いていた記憶があります。

本当はジャストサイズでこそ良さが発揮されるのに
履きたくて履きたくて中敷してました。ごめんなさい、スニーカー。
だから足に負担もかかりました。
しかし!コンバースほどではありませんでした。

コンバースって本当にバッシュなのぉ~?事件がありました。
コートがラバーなのも災いしてか、コンバースで一日練習したら
足の裏の皮が3分の1もむけて、血だらけになったことがあります。
プロになって身体の使い方がわかったらコンバースでもプレイ出来るんでしょうか?
確かジョーダンは履いていたと思うのですが。
まだ小学生のころの記憶なのでかなり曖昧です。
ローテクなのもダメだったのかな?

バッシュは私も、当時屋外で履くものとして考えたこともなかったので
初めて実際に履いているひとを見たときは衝撃でした。暑くないのかな?なんて。
少し大きめばかり履いていた私はファッションに取り入れるのはかなり危険でしたし。
だってミッキーマウスみたいなシルエットになるんです。足だけ異様にでかい。
今はサイズも豊富でなんとかファッションにも取り入れられています。

詳しくもなく、ただデザインや機能性だけで買ったスニーカーが山とあります。
後に一世を風靡したエアマックスもかなりの数持っていました。
黄色好きとしてはずせないイエローは当然、オールブラックとか
オールホワイトとかあったけど、今どこでどうしているやら…。
きっとどこかに埋もれています。ごめんなさい、スニーカー。
ろくに名前も覚えていないのもあります。
捨てる気はないので、いつか発掘されると思うのですが…。

コンタクトスポーツを始めてからは、ナイキはとんとご無沙汰です。
オーダーでもない限り、もたないので、ついアシックスへ行ってしまいます。
ファッションは私の人生で重要なファクトですがスポーツもかなり重要です。
ナイキやアディダスも好きだけど、コンタクトスポーツに耐えるタイプは
一般的にあまりないように感じます。
アシックスは今も質実剛健、ハードワークにもコンタクトスポーツにも耐える
ガッツでナイスな体育野郎です。ビバアシックス。
レッシュ(レスリングシューズ)はアシックスが最高です。
やっぱり街では履かないけど…。
少し前にレッシュタイプも流行って
街でギャルがプロレスラーみたいになってて心底驚きました。
長州力がいっぱい。
ファッションは重要なファクトですが、レッシュだけはファッショナブルに見えません…。

非常にあちこちへ話題が飛び不可解な文章になってしまいました…。
カッタウェイ様、ホントにごめんなさい。
でもスニーカーの記事とっても楽しませてもらっています。
今日、画像で載せたのと同じタイプのAJ1履いていました。
ぼろぼろすぎて目もあてられませんが。
誰にも見せずに大事にしまってあります。見せたら減りそうなほどボロいから。



2005年7月28日(木)PM:0:48に上げた記事です。

今思えば、よくもまあこんなヘボ記事をトラックバックしたものです。
といいつつ、こちらでもTB。あちらを削除することになったらリンクが切れてしまうかなぁと思いまして。
自分の履いて履いて履き倒した靴の画像はやっぱり人に見せられません。くさそうだし(笑)
実物は臭くはないんですよ、いや本当に。時が経ってるし(笑)当時は…臭かったかも…。
部活中は運動量が激しかったので、立ち止まると汗だまりが出来ているほどでした。
毎日かなりの汗を出していると、ターンサイクルが良くなり
老廃物が少ないので臭い汗が出なくなるんですけどね。言い訳です、言い訳。

どうせ休めない

休もう、そう思ったのは感情が暴走しそうで怖かったのです。
でもパソコンを立ち上げなくても、考えることは3つのことばかりです。
現実世界とブログの世界で感じたこと。
そのことを細かく説明はしません。
個人的な気持ちの揺れでしかないかもしれず上手くまとまってもいません。
でもずっとそのことばかりを考えてしまいます。
現実世界で起きた私にとって厳しいことと
ブログの世界で感じた思いが微妙にリンクして自分を投影しているのかもしれません。
どうせ考えるなら、お知恵を拝借したいです。
暴走しそうになったらスペイン語で10を逆から数えてみますが
暴走してしまったら、止めてください。反省します。

たいした容量のない私はすぐに「仮想メモリの…」となり
休ませないと頭から煙がでます。本当です。
怒ったときも煙が出ます。手が震えて、心の臓がドキドキバクバク、ドキがムネムネ。
興奮しやすいたちなのでしょうか。
どこへ行っても、感情を抑えるのが上手な人、もしくは起伏の穏やかな人、と
見られがちですが、起伏が激しいです。出さないのですが、最近出すようにしています。
妙に聞き分け良く、冷静な判断をいつでも下し、
大人な結論を出すことに魅力を感じなくなってしまったから。
でもそれが自然なことなら、本当に素敵です。自然にそういう風に出来る人に憧れます。

私は出来ない。出来るけどどこか曲げなければ出来ない。
まずはそれを認めたい。
でも認めるためには実際にやってみないとわからない。
転んだら痛いよ、と言われても痛みは感じてないから実感が湧かないのです。
頭悪いです。とりあえず頭が悪い、感情の起伏の激しい自分を好きになりたい。
けっこう感情の起伏が激しい人って周りに迷惑をかけることが多いように感じて
ウザいなーと思っていたふしがあります。
いや、待てよ、と思います。松本くん(仮名)は感情の起伏が激しいけどウザくないな。
あの人もそうだけど、むしろ清々しい。でもあの人やあの人はちょっと…。
同じ感情の起伏が激しい人でも印象が違う人がいるのは何故か。
自分なりに考えてみました。

きっと、押し付けや決め付け、依存がそこに見え隠れしてしまうと、いわゆるウザい。
に繋がるのではないか。勝手に怒って泣いて喜んで楽しんでいる分には、青いわぁ、と
思われてもウザくはないんじゃないか。
ウザい、とは思いませんが、イヤだなぁと思うのは上記の理由だったので、
それは気をつけましょう。そうしましょう。
いくつかまとめて記事を上げるかもしれません。
激しく暗い記事もあるし、かなり書くことで頭がまとまってきたこともあります。
それが何かどこかで役に立ちますように、と願っています。

くだらぬ理由で休むなどと書いたのに心配してくださったかた、ごめんなさい。
でもでもでも
とてもとても嬉しかったです。本当にありがとう。





2005年7月27日(水)PM:10:33に上げた記事です。

お休み第1回目の後に上げた記事のようです。最近のアクセス状態を鑑みれば休みでもない程度ですが。
この時、ものすごーく憤慨して、さらにPCのこちら側でも問題が勃発して頭がこんがらがっていました。
憤慨した事件と別に、本部にいらしてくれている方を混乱させたりもしていて
混乱の元となった誤解を解こうとしたり、事件を色んな側面から考えたり、実際問題となったことで
悩んだり、そのためにしなければならない直接的なことを処理したりでした。

本部では非公開

煩悩と私と意地悪ばあさん

こんにちは。また長くなりそうです。そして軽く暗いです。そしていつも通りとても理屈っぽいです。楽しい気分でおられる方は、こんなの読まずにこの下の「小学生男子」を読んでください。もう少し楽しくなるかもしれません。でもこれを読むと暗い気持ちになるかもしれません。ちょっと書いてみただけなのでお気になさらず、すっ飛ばしてください。

 自分のことを考えてみると、どうやら異質なものに惹かれる傾向が強いようだ。自分と違う考え方、自分とは違う生きかた、自分とは違う価値観、そういうものを持った人に強く惹かれる。その反面、よく似た人にも心惹かれる。さらにその反面、似ているものに嫌悪感を抱くことも多い。いつも関心や好奇心が向く先は自分にないもの「異質」なものへと向く。知らないことや見たことのないものを知りたい、と感じるより先に、違っている、と感じるものにとても強く惹かれる。どちらにしても知らねば気はすまないけれど。
違ったものごとを知れば、それを深く知りたいと思うし、できれば理解したい。だけど最近ちょっと思うのは相手の気持ちに沿いすぎるのはもしかしたら、相手にとても窮屈な思いをさせることもあるのかな、ということ。そうだね、そうだね、と肯定されつづけることによって、違う自分を出せなくなることもあるのかな、と思った。でも「そうだね」と言ってもらうのは大好きなんだけど。肯定されると本当に嬉しいものだ。否定するとうるさいから肯定しとけ、と思われたらやだけどさ。そういうときは知らんふりしてくれたらとっても嬉しい。

 一人ぼっちで自分らしく生きていくのと、自分らしさを殺しても誰かと共に生きるのを選ぶとしたら、私はどちらを選ぶだろう。自分らしさを殺したくはない。感じたことを感じたままに表現したい。あるがままでありたい。多少の妥協や譲歩はすれど、心を偽ることはできない。出来なかったら一人で生きなくてはいけないのだろうか。
世の中には、強がりや考え無しにではなく一人ぼっちでいい自分らしく生きたい、と願う人もいるかもしれない。そういう人には会ったことはないけど。私の知っている人間とは、いつも誰かを、愛を、理解を求めている。生きることと愛と理解と共にあること、これらは切り離せないものなのか知りたい。
マイノリティーとマジョリティーなら選ぶことも出来る。だってどちらも誰かがいる。私は考え方、というより思考の経路がマイノリティーと感じる。結果的に感じたことはマジョリティーに含まれたとしても、行き着く道中はズレているように思うことが多い。

 また夫の話しでアレだけど、夫は色々なことに対し、こだわりのない人だ。嗜好や食のなりたち、職、趣味、思考、本当に様々なことに対し、こだわりというものを持たない。本当に「人は人 自分は自分」なのだ。相手が自分をコントロールしようとさえしなければ彼は、あるがままを受け入れる。
私は違う。家事のやり方、旅行の手順、一月の献立、全てにおいてルールがある。そしてなかなか妥協できない。そんな自分に嫌気がさし、自分の存在について自問自答する日々だ。
そんな自分を曲げることも出来ずに、変わりたいと思ってもいなかったから結婚するのは難しそうだ、と思っていた。お付き合いした人たちはみんな私を冷たい、と言った。本当におれのこと好きなの?何が一番大事なの?この二つはよく聞かれた。

 多分私はその人たちのことを本当には好きじゃなかったんだと思う。本当に好きっていう言い方は語弊があるけど、多分どこか自分を曲げなければ相手が満足しないことを解っていたのじゃないか、と思う。そして相手もどこか曲げているように感じていたのだと思う。相手に合わせることと自分を曲げることは本当は違うことなのに、同じことのように思っていたのかな。それでも違和感があったから、そういうことを聞かれるような態度だったんだろう。
大好きな人が自分に望むなら、それをかなえたいと思う。だけどそれはもともと自分は持っていないことなのだ、と知っていなければ後々自分を苦しめることもある。相手が悲しむなら、それをなくしたいと思う。だけどそれはもともと自分の中にあったものなのだ、と知っていなければ後々お互いを苦しめることもある。そういうことをちゃんと知っておきたかった。

 でもそれは難しく、上手く説明する自信も持てなかったから、私は一人で生きる計画を立てていた。暗いな。自分の人生が90年と想定し、いくら貯金して、何歳までどれくらいの給料をもらえればいいか、仲良しの友達が結婚して子供を産んで孫も出来て、「今日は孫が来るから遊べないわ、ごめんね」と言ったとき、寂しくない何かを探そう、そして健康でいなければならぬ、と思い3食きちんと食べて運動し、不摂生をやめた。無茶な運動も止めた。想像が想像をよび私はストイックな人間になっていっているように感じていたが、今思うとかなり変態的だ。しかも楽しくないのはイヤだから、どうしようと思ったあげく「意地悪ばあさん」になろうと決めた。ヨボヨボの見かけとは裏腹に、子供をわなに陥れ、ローラースケートをはいて街を横断。そんなおばあさんになりたい、と真剣に思っていた。

 夫と付き合い始めたとき、それらのことを考えたか、考えなかった。だって、今までに感じた違和感も感じなかったから。なーんにも考えなかったな。「あんまり服に無頓着すぎる人とは一緒に買い物に行くのやだな」とか「テーブルマナーを知らない人だとマキシムでご飯食べられないからやだな」とかそういうつまらないことは全然浮かばなかった。夫は服に無頓着すぎるくらい無頓着で、たまにチェックのハーパンにボーダーのTシャツを着ようとしたりする。テーブルマナーなんて堅苦しい、どんな食べ方しても残さない、感謝する、美味しさを味わう、これが出来たらいいじゃん、と本気で言う。マキシムに行っても物怖じしない。堂々としてる。あんなに慇懃無礼に見えたウエイターさんが嬉々として夫に給仕してくれる。とにかく何も不満に感じなかった。同じことを他の人がしたとき何故あんなに不満に感じたのか。きっとその人がムリをするのを見るがいやだったんだと思う。

 昔は一生のうちに一度、3億円当たったらその他の幸せなんか全部いらん!とか言ってたことを反省したい。しないけど。もし3億当たってたら夫には会えなかったかもしれない。そうか?いや、2つとも手にしてたかも…ぶつぶつ。…ああ~、ダメだ~!相変わらず煩悩が私を支配している~!

私は 何かを押し付けられるのが大嫌い
私は 決め付けられるのが大嫌い
私は 出来ないことに挑みかかる
私は 弱い自分も大嫌い

私は 短気だと思われる
私は あまり怒らない
私は 何かがあったときはまず自分を省みる
私は 努力なんて大嫌い

私は まあ私だ





2005年7月25日(月)AM:11:46に上げた記事です。

そんなに暗くはないな。この記事はなかなか気に入っています。
勝手に好きでいること。それは何故かがここに書かれています。
自分らしさとは何か、具体的にこれ、と明示することは出来ないかもしれないけれど
多分、どこかに強い抑圧がかかった状態じゃないことなのではないかと思っています。
わがままはわがままなりに、勝手は勝手なりに、無理やり矯正されるようなことではないと思っています。
結局、迷惑をかけようとかけまいと他者の何かを侵さない限り、結果の責めは自分で負うのだから。
どこかを無理やり曲げた関係は、無理やりに見えなくてもひずみが生じるし
自分が誰かを変えようとしていることから目を背ければ、いつかは関係が破綻すると思っています。