姐の部屋 -65ページ目

Andre Navarraの無伴奏チェロ組曲のCDが復刻されます!やった!

2年前CDで復刻したけど売り切れ、廃盤で入手出来なかった。

予約受付中だから、絶対これは予約しよう。


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右矢印アンドレ・ナヴァラ バッハ無伴奏チェロ組曲【2CD】



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雪、雪、雪

$姐の部屋-2012.1.24


$姐の部屋-2012.1.24

きのうは ずっと雨で寒いなと思ってたら 夜になって 雪
寝る前に外を見たら 積もってる
 

暦ってすごいよなと毎年感心する。

寒の入り、大寒…  という今の時期は
律儀にちゃんと冷え込んで、雪が降ったりするのだもの。

冬のハイライトみたいな寒さの、すぐあとに「立春」


このコントラストが、ね。


いちばん寒い気がしても、冬至からは既に1ケ月過ぎていて、
日が長くなってゆく、季節の上り坂の途中なんだよね

 
冬の太平洋側気候が好き。

へそ曲がりだった若いころの私は、
一番好きな季節が冬だったし
海は夏には行かず、冬に見に行っていたっけ。


いまぐらいから2月にかけての南伊豆の海が大好きだ。
27歳のとき、取り立ての免許が嬉しくて、
旦那(当時の)の出張留守の週末の朝、
起き抜けの青空に、すべてを放り投げて、ひとりで車を走らせた。

20歳のころ、恋人(当時の)と眺めた2月の石廊崎の海が忘れられなくて
石廊崎まで行こうと思ったのだ。
 
東伊豆から海沿いに延々無計画に走り続けて
石廊崎で夕陽を見たけれど
ガス欠寸前。
たった一軒のGSでガスを入れたけど
体力を使い果たして帰れる自信がなくて
車に積んでたペンションガイドで南伊豆のペンションを探し
公衆電話(当時は携帯なんてないからね)から宿泊予約をし
飛び込みで泊まったんだ。


海の見える小さなそのペンション「ビートルズ」には
若い女の子2人連れが泊まっていて
夕食が相席になった。
 
話が盛り上がって
翌日 修善寺まで彼女たちを送りがてら、
西伊豆の景勝スポットを案内したっけ。
修善寺の町で「お礼に」といって蕎麦をごちそうになって、駅で見送った。
 

晴れ晴れした気分で家に戻ったら
出張から旦那が帰ってきていて
からっぽの家に憤怒してたっけね。
 


20歳のとき 恋人と行ったと書いたけど
それは風の強い冬の晴れた日だったのだ。
  
「こんな日はね ”うさぎのしっぽ”が見えるんだよ」

と彼は言った。

うさぎのしっぽ、っていうのは
強い風が海面にたてる、ちいさな波頭が一面広がる光景 


あれ以来  今の時期に
厳しく寒く 強い風の吹き荒れる ピーンと張り詰めた晴れた空をみるたび
南伊豆の海にひろがる「うさぎのしっぽ」 が 脳裏に浮かぶのです。 


「ああ いま あそこでは うさぎのしっぽが… 」








49日。

2月3日はチョビの49日だ。
 
別に仏教徒じゃないけど。
 
でも 12月21日の夜に旅立って
もう1ケ月以上たったんだ。
 
早い。 


死んでしばらく
毎晩骨壷抱いて 泣きながら寝た
いまは 骨壷は 2つ仲良く 静かに眼の前に並んでる
 
ダイニングテーブルのど真ん中。
庭のお花をかざって
首輪もそれぞれ飾って。
 

ほぼ顔のサイズが実物大に近い チョビの9歳ごろの写真がこっちを見てる。
何もかもわかってるような目をした猫だった
 
ピアノの上にも たくさんチョビが並んでる
 
写真があると思いだして泣くからいや、という人もいるけど・・
わたしは 写真に囲まれていたい
こちらをじっと見ている、懐かしいあのチョビの目。
家のどこにいっても チョビの目が私を見ているように。
 
骨は静かだ。
骨はもう変らない。
 

むしろ 残った猫を抱きしめているときに泣く。
目の前でみるみる蝋燭の残りが減ってゆくように感じて。
 
愛しい愛しい私のこどもたち、私の唯一の友達、
心を開けるたったひとつの存在
 



この、足元がひゅーひゅーするような心許なさは
いつ私の心に巣食ったのかな
ずいぶん前な気がするな
とつぜんそれは襲いかかるんだよね
 
詩を書くのも  音楽の再開も
それと無関係ではなかろう
 

手塚治虫の「火の鳥」の、原始時代の舞台で
火口の中みたいなところで暮らしている一族のひとりが
必死で 外に出ようと よじのぼってる
苦しくて 手を離したくなる
(それは死ぬことだけど。)

火の鳥があらわれ 耳元でささやく。
「あなたは今生きているのだから 生き続けなければいけない」
と。

 
生きてゆくのって、結局 そういうことだと 高校生の私は 漠然とインプットされた。
 
もっともらしい意味や理由を探してもしかたないのだ
「なぜ生き続けなければならないの?」
「今、生きてるからよ」
 
禅問答みたいだけど、それ以上でもそれ以下でもない
 
「意味」を求めるのは人間という動物の「病気」みたいなものだ。
猫は「意味」を考えないもの。 




岸壁に素手でしがみついているような気分になるときがある。
手を離してしまいたくなる
苦しくて、苦しくて。
 
でも やっぱりしがみついてるわけだ。
 
音楽やりながら そういう「もう手を離してしまいたい」という苦しさに追われる日々。
 

でも明日もやっぱり弾くだろうな。
弾かなかったら  無 になってしまいそうで怖いしな。
 
なんで、も くそもなくって、 それしかないから弾くんだよな 多分
 

死んだ猫に見守られながら。