アマヤドリ -355ページ目

ウカ

今日はとてもある人を見直した。
がぜん、興味が出た。
同時に自分を顧みて恥ずかしくなった。
私はからっぽか、と。

私はすぐ人をみくびる。
馬鹿にするとか下に見るとかいうことでは勿論ない。
ただこんなところかな、という位置のようなものを設定するのだろうと思う。
上下じゃなくて、種類分け。
そう書くと途端に失礼な感じがするが、そういう意識はなくてただうまく付き合えるようにとの自己防衛でもあるのかもしれない。

みくびる、というより想像力が正しく働かないといった方が正しいかもしれない。表面しかみていないのだからそれも当然のことだろう。

ちょっとした反応や、しぐさ、例えばだけど仕事のスピード、気配りやなんとなく受ける印象。
それを総合して私の中では「その人像」ができあがる。
だから私はそのレベルに合わせて話をする。合わせた「私」で付き合う。
表面で付き合ってる限りその想像から出ることはない。多分、向こうもそれ以上私に近づく事はない。
そういう場所にとりあえず置いておく。

そしてたいていの人はその場所に置かれっぱなしだ。
忘れられたチェスの駒みたいに。
…置かれっぱなしなのは私なのか。


興味を持っちゃうときっとそこにたくさんエネルギーを使うからなんだろう。
好きになっちゃうのも嫌いになっちゃうのも怖いのかもしれない。

多分、私は踊りをずっとやっていて、飲み会や友達と会うことよりも稽古を優先してきた。
残りのわずかな時間でこいびとにも会いたい。本も読みたい。
だから自然と付き合いも限られてくる。
それは自分が選んだ事。でも失ったものも、得たものも、ある。
寂しい思いも味わった。でもその逆もある。
何を選んだってきっと似たようなことはある。これは考えても意味のないこと。悲しむのはただの私の弱虫な心。

中途半端に他のものに情熱を注ぐのは失礼な気がする。

私の中には大事なものはとても少なくて、大きい。
多分浮気心に友達と遊んでも、他の勉強をしても、私はこの大事なものに帰ってしまう。
とても辛そうにしている友達の「今」を聞いてあげることができても、私はまた踊りに没頭してしまう。
そんな風に、自分を必要以上に冷たい人間だと思うことが多かった。
大事な友達を真剣に大事に思っているのも私なんだけれど。
もうひとつの大事に、その瞬間は含まれているはずなんだけど。

中途半端に大切なんだ、っていう振りをできない。
ならば関わらないほうがいい。


でも、そこにたどり着くために私は色んなことをうすっぺらに見てきてしまったのかもしれない。
それに気づいていたから、余計に深入りするのを避けていたのかもしれない。
うすっぺらな私に、私は気づいているから。
色んな理由をつけて私は逃げてきたのだろう。


そんなことに気づかされて今日は打ちのめされた。

こんな打ちのめしが最近良くあるから、参っちゃうけど、いいことだと思う。
変わりたくてもがいている私にちゃんとヒントをくれている。
塗り固めることなくいられるほど私は自分の厚みを信じていない。
土台を作らなきゃ。
いまさらだなあ。
だから、「参っちゃう」なんだけど。

参っちゃうけど、新しい自分に会いたい。
多分私にとってだけの、だけれど。

飯田橋ギンレイホール

今日はバイトが3時で終わり、7時から踊りの舞台を観に行く。
この空き時間をどうしよう…
そこで以前から気になっていた飯田橋ギンレイホールへ行く決心を固める。

『ホワイト・ライズ』が15:50からだ。
虎ノ門から飯田橋って近いよね?と頭のなかでぐるぐる計算しながら間に合わなかった時のためにぴあを買い、すたすた歩く。

しかしホールは地下鉄をでてすぐだった。
芝居小屋みたいな小さなところ。
受け付けでさっき買ったぴあを見せたら300円割り引いてくれた。無駄にならずにすんだなぁ。

それらしき人ばかりのこぢんまりしたいい空間。

ここで書いて映画が始まってしまった。


終わって、本当は2本みられるんだろうけど出てきた。これから踊りの舞台をみるから。その前に腹拵えしなきゃ。映画の感想はまたゆっくり。

ちょっと映画の雰囲気に酔いながら歩いた。

新芽はびしびし鍛えたい

新芽はびしびし鍛えたい

今日は一日お休みだったので朝からぼんやりしようと決めてかかっていた。
そうしたらもうその意識がからだのすみずみに行き渡ってしまったかのように、一日中眠くて眠くて寝てばっかりいた。
休みの日をふいにすると悲しくなるのだけれど、ここまでだらけているとまあいいか、という風に思うしかない。
それに今日は『有限と微小のパン』を読み終えた。多分、その満足感があったから心は安定しているのだ。
単純だなあ。

自分の中に目覚めた気持ちを今はうきうきと見守っている。
ぷるぷるの若葉だ。
そう、これだったんだ。
カチコチの地面から、よくこんなに柔らかい芽が出てくれたな、と嬉しく思う。こんなのまるで奇跡みたい。
でもこの感覚は映像みたいなもので、ちょっとずつあいまいになってゆきそのうち紛れてしまうんだろう。もったいないな。
だから今この新しい生まれたてちゃんを通して、たくさん深呼吸をしておこう。たくさんものを見ておこう。

たぶん無理やりでなく自分を認めてあげることがどうしてもできなかったのだ。
とんでもなく強く、私にはこれしかない、という頑固さを曲げずにいたのだ。忘れているように思うときにでも全部に浸透するほど。

ちょっと前よりも、新しい自分に触れたくなった。
遠くへ行ったり新しい色を好きになったり、面倒くさいと思うこともやりたい。
新しい言葉を得て、ふるいお友達と違う広がりでお話がしたい。

さざ波は砂を震わせ

薄闇につつまれ
でも
体の輪郭は
ほんのり光を放っている

目を凝らすと

消える

閉じたまぶたに
温かみのように残る

ちりちり

くすぶるのは何

もやもや

巣食うのは何故

大丈夫

大丈夫
まだ

何も消えてはいないから


『数奇にして模型』森博嗣


著者: 森 博嗣
タイトル: 数奇にして模型

犀川先生と萌絵シリーズ。
2つの密室での殺人事件で疑われたのは、そのうちの一つの部屋で頭を殴られて気絶していた模型愛好家。
事件の真相を解くべくまた西之園萌絵が立ち上がる。



誰かの行動を予測する時、誰かの心理が知りたいと思った時、私たちはまず自分の心の奥深くに降りてゆく。そこで自分に光を当て、相手に投影して何かを理解した、近づいたと思う。
でも実はそれは自分の心の旅に他ならないのかもしれない。
似たような気持ちや想像した痛みや動機は自分をシュミレートしたもので、その糸は自分が握っているのだから。本当に誰か自分以外の個体のことを理解なんてできないのかもしれない。そこには悲観的な色はなくて整然とした事実。だから摩擦が起きて、そのおかげでつるつる滑っちゃわないで済むんじゃない、と犀川先生は言う。

理解しようとして人間は単純になってゆく、というくだりにははっとさせられた。
喜びや悲しみや怒り、そんな感情たちは名付けられる前からそこにあったし、分類されて名札をつけられたからって感情のほうまできちんきちんと整理されるわけじゃない。
嬉しいのに切なかったり、たくさんの星を見て涙が出たりするのは名前のない感情。言葉がそれを補えないだけ。
感情に名前を付けたから、それに捕われるようになってしまったのだろう。だから自分の気持ちがうまく理解できなくて不安になったりする。
あるがままに、そこに存在する感情を受け入れる。ぼんやりとだけど私はそういう行為を怠惰なことだと思っていた。
でも分類して、その枠にあわせるために歪めてしまわなくてもいいんだ、と、なんだか発見だった。

だからかな。
この日は新しい自分を見つけたのだ。