アマヤドリ -353ページ目

オトとフウケイ

のすけさんの学級日誌。
 ホント、高速道路で聴いた曲はどういうわけだか心に染み込んでいて
 ふとしたたわいもない頭をよぎった気持ちとかがセットになっている。
 私の場合高速道路では何故かちょっと緊張していて
 体にも力が入っているからそれをほぐそうとまた神経を使っている。
 隣にいるひとはちょっとそっけない。
 だから愚かだけれどその間は置いてゆかれるんじゃないかと
 横顔を盗み見てしまう。
 集中させろ、って。
 そんなちょっと特殊な空間の中で、聴くからなのだろう。
 
 それで思い出したのだけれど、私にとってI Wishの『明日への扉』も
 けだるくて、今が終わって欲しくなくて、醒めたくなくて、
 だけど始まりみたいなどきどきと、どうせ偽りだという嘘だらけとの空気と
 諦めて堪らず仰いだ空と喧騒をたっぷり引きずっている曲。

夜明け前

今のこの穏やかな気持ちが、単なる現状の棚上げじゃなければいい。
「なければいい」じゃなくて、そうするのは自分なんだろう。
はっきりとした意志をもって、楽しんでいかなきゃ。

ここしばらくは受け取ることに積極的にいた。
そろそろ本当にそれを練って、何か自分から放出しないと。しゅうっとただパンクしてしぼんじゃわないように。
じゃないとただただ気持ちがはやるばかりで落ち着かない。

まだどきどきが続いてる。
ちゃんと欲求はあるんだ。
考えて苦しんで、
繰り返して悩んで、
分かったような気がしてまた迷って、
捕まえたのにまた逃がして
微かな痕跡をなぞり返す。
まだできる、
信じて厳しく諫めて
追い掛けて疑って。

信じるしかない。
忘れたくないなら。
そしたらちゃんとわかることがある。
絶対。

『赤鬼』野田map

'96年にこの初演を見に行った。
出演者は野田秀樹と、段田安則、富田靖子、アンガス・バーネットの4人。

入場してすぐにそのほんの小さい島のような舞台が目に飛び込んでくる。ひょうたん島のような微笑ましいやわらかいかたち。
何か始まるんだ、というわくわく感が最高潮に達した頃に出演者が出てくる。
その小さな舞台に収まったり飛び出したり。
野田秀樹は空間を面白く使う。
私はわりと前のほうで観ていたので、出演者が動くと空気が肌をなでる。意外と富田靖子は小さいのだなあと思った。

この話は「海亀のスープ」という話からインスピレーションを得て作ったと書いてあって、わくわくした。
「海亀のスープ」の話を知っていたから。


高校の時、お姉さんが劇団東京乾電池に入っているという友達から聞いた「海亀のスープ」。


とある海に張り出した岬の小さなレストランに
休暇中の船乗りがやってきた。
船乗りは以前一度だけたべて好きになったという
海亀のスープを注文する。
幸せそうにそのスープを飲んだ船乗りは、
何故かひとくちだけそのスープを飲んだ後
店を出て次の朝自殺した。

何故か?



これはお話というよりはどうしてこの船乗りが自殺をしたか、という謎をといてゆくその過程を楽しむゲームに近い。
出題者がいかに回答者たちをうまく答えへ誘導してゆくかがこのゲームを面白さを決める。
とっぴょうしもない意見を出してみて答えに近づいたり、出題者の意図を読み取って物語を組み立ててゆくのが楽しい。
夢中になって話を展開させてゆき、そして至る驚きの結末。
不思議な味を残す物語。

これはお芝居の訓練のひとつとして知られているものらしい。


『赤鬼』という作品全体から受ける印象は、まさに「海亀のスープ」そのものだった。
哀しくて、優しくて、滑稽で、残酷。

“知らない”ということは、時にはとても滑稽だ、と思う。
思い込みとか頑迷さが加わると、それは物悲しい滑稽さに変わる。


赤鬼を、見ている私たちはただの外国人だと知っている。
しかし村人たちは外国人の存在を知らない。大きくて赤くて訳のわからない言葉を話すから“赤鬼”だという。
“あの女(富田靖子)”だけが、その赤鬼の本質に近づこうとする。
“あの女”も村からちょっと疎外された存在だった。ウチとソトとの中間。
こういうところは人類学っぽい。
“あの女”は村人が持つフィルターを通さないでものを見、近づこうとする。
そのコミュニケーションはうまくいくかに見えたが…、

それは結局邪魔をされて叶わない。
もう抗えない波みたいにどんどん流されていって、“女”はついに外国人に本当に近づくことができなかった。
そして村にとっても、赤鬼は赤鬼のまま。
そして、今度は“あの女”が赤鬼になる。

その断絶が、「海亀のスープ」のどうしようもなく空虚な終焉に似ていた。

野田秀樹にしてはシンプルなストーリーであったのは、この結末を引き立たせる為の計算なのかもしれない。
これはやっぱり神話なのだ。


野田作品の女性が往々にしてそうであるように、“あの女”も向こう見ずなまでに純粋な強さをもつ。大きく包み込むような理性があるのにどこか生々しくて、徹底的に傷ついたり、傷つけたりする激しさがある。
坂口安吾の『夜長姫と耳男』の夜長姫みたいに。
富田靖子はそんな女の人をとてもうまく演じていた。
富田靖子をとても好きな人と一緒にこのお芝居をみにいったのだが、私もとても好きになった。
小粒なのに、無垢で強い風が吹いているような瞳。
はだしの似合う人だ。
このお芝居ではだしだったかどうかはよく覚えていないのだけれど。


▼27日NHkで野田秀樹の舞台『赤鬼』が放送される。
『赤鬼』日本バージョン/ロンドンバージョンTV放送NHKBS224:55~
▼10月の再演の情報はこちら

…あ、富田靖子さんははだしではないですね。

クモリゾラ

もう自分の気持ちがぐらぐらしたりことのほかへこんでいたりしても、
「どうしてかなあ」と考え込むのはやめよう。
きっと考えてもわからないから「どうしてかなあ」と思うしかないのだもの。

考えるのは「どうしてかなあ」と考える旅が楽しいときだけ、にしよう。

言葉で具体的に考えをまとめるのは、私にとっては本当に難しいことなのだ。
色や光の強さばかり、風の強さばかりでものごとを感じ取っている気がする。

どうしてこんなに動物的なのだ?

だからといってその混沌にぬるく包まれていることをよしとできない。

面倒くさいな。

どちらかにどっぷりつかって、自信満々でいられたらいいのに。
小物だなあと可笑しくなる。

はじめての日本海

小さい頃1年半だけ福岡に住んでいたことがあった。
福岡の万博、よかとぴあが始まるちょっと前だ。
いつも海の音が聞こえていて、うみねこが飛んでいる。川岸でよくパンのみみを放り投げて餌付けをしていた。
夜には汽笛が聞こえるのにちっとも海の風景とは無縁にすごしていた。
砂浜の海じゃなくて堤防だったからだろう。
でも今となるとどうしてもっと海を見に行かなかったのか不思議だ。
遠く玄海灘には志賀島が見える。
振り向けば小さいけれど山が見える。
季節によって赤い肌を見せたり、青々とみずみずしかったり。
それぞれは本当にみすぼらしいくらいの自然だったけれど、思い返すと懐かしい。
子供だったからか、のんびり散歩をしたり遠くまで海を眺めに行く事もなかった。
本当に今考えると不思議なのだけれど。
きっと、いつか行こうと思っていたのだろう。
そんな風に私は色んなものごとを見過ごしてきたのかもしれないな。
福岡から東京に戻ってきたとき、そういえば福岡には地震がなかったなと気づいた。
1年半いて、記憶に残るような地震は一度もなかった。
こんなの東京では考えられない事だ。
だからきっと今回の地震はとても怖かったのではないかと思う。

どうしてこんなにあちこちで地震が起きているのだろう。
もぞもぞ地球が何らかの活動をしようとしているのだろうか。
地球だって生ものだから、何が起きても不思議じゃないのだ。
明日も明後日も、3年後も、ずうっと色んな夢を見ながらすごしているのだけれど、それでも。