アマヤドリ -241ページ目

ほんとうのあつみ

昨日はたくさんの元気を頂いた。贈り物と、お花も。嬉しくて胸がいっぱいになって、「すごい!」とか「嬉しい!」とか、そんな言葉を繰り返すことしか出来なかった。もう少し気の利いたことが言えたら良かったんだけれど。まあ、いいよね。

若いのに仕事もできて素敵だなあ、ってかねてから思っていた人と席が隣どうしになり色々話すことができた。想像していたよりも全然熱いひとだった。私も、この仕事が好きなんです、って話した。何を知っているわけでもないけれど、うまくいえないけれど、楽しいし単純にこの作り上げてゆく作業に感動するんです、と。

私は何て言葉が幼稚なんだろう。どうしてただまっすぐな表現しか出来ないんだろう。まっすぐ、じゃないな。まっすぐだったらいいのだ。そうじゃなくて…なんだか自分のことが薄く見えた。何て言葉にして人に伝えることがへたくそなんだろう。
でも下手なのは言葉じゃないかもしれないな。うまく掬いだせないだけじゃない。多分。もしかしたら眠っているのかもしれない色んな気持ちを、ちゃんと形にしきれていないのかもしれないけれど…きっともっと前の問題。状況判断も出来ないし。

なんだかもどかしかったな。もっと色々伝えたかったし、いろいろ話したかった。相手がどんなひとだか、ちゃんとわかるまで。



今日お昼を一緒に食べた職場の子と話して、私と同じような悩みを持っていることを知った。
人との接し方や、うまく自分を伝えることについて、立場とか距離とか、そういうもので悩まない人はあんまりいないだろうからそんなに驚くことじゃないんだけれど、少し意外だった。その女の子はとても柔らかい瞳を持った美人だし、自分のよいと思うものをまっすぐ、自然体で貫いているひとのように見えていたから。

話をしていて、まあ、ここでも自分の話の拙さにもどかしくもあったのだけれど、でもこういうことに気付いて、改善とまではいかなくても多少意識して、それを繰り返しているうちにちょっとずつ前に進めるんじゃないかという気がした。…うん、進むしかないもんな。

言葉のこととか伝えることとか、どうしてこんなに気になるのかな。どうして相手の求めるものを探っていつも受身になってしまうのかな。

本当は私は、人がどう思おうと自分はこうなんだよ、って強くきっぱりいられるひとでありたい。多少ひととぶつかったっていいじゃない、万人受けしなくったっていい。もちろん傲慢でいいわけじゃなくて。頑固すぎていいわけでもなくて。
よく、そういう性質のひとに見られがちだ。人見知りもしないし、いつも天真爛漫だし、気にしないよね、って。でも本当はそうでもない。こんなにくよくよ、というか、妙な迷いを持ちながら毎日ひとと接している。豪快そうに見えて実は繊細、というのとは違う。実はまだまだ青いだけなんだ。それを自覚しているんじゃなくて、ただ怖がっている。なにが怖いんだろ?迷っていることがばれてしまうこと、だろうか?そこのところがよくわからない。変なプライド?
でもそういうことをその女の子に少し話したら、「でも見かけが自分の見てもらいたいものに少しでも近いのならそれで一歩目は成功しているんじゃないかな?あとは内面を近づけてゆけば良いんだもん。私は、その外見からしてまだだめなの」という風に言っていた。
そうか。そういう考え方もある。

でも何で不安かというと、…やっぱり自分がどうありたいのか、わからないんだ。別に一貫した人間でありたいわけでもないのに、何なんだろう。
もしかして私は色んな風なひとでいたいのかな。豪快だし、繊細だし、柔らかだし、強いし、きついところもあって、でも真綿みたいなところもあって。
そうだ、きっと全部でいたいんだな。全部勿論自分の中にあるものだから、どれで受け止めていいのか分からないのかもしれない。それが、状況判断ができないということ。

矛盾は矛盾のままで良いじゃない。別に色んな人格が競争しているわけじゃない。何かに嵌め込んじゃおうと思ってしまっているのかもしれないな、自分のことを。

単純にしようとして悪い意味で複雑化している。複雑な部分に分け入ろうとしているくせに、悪い意味で単純な方向に向かおうとしている。



お昼終わって午後、事務所から現場を見た。

私は、なんにも分かってない。本当の苦労とか、寒くて辛いこととか、そういうのを何にも。
あんな大きなものを、小さな人がいっぽいっぽ歩きながら、作ってる。そのことの本当の重みを、私は知らないかもしれない。

蟻が大きな巣を作ることを全然わからないみたいに。

でも、どうしてだかただ、感動するんだ。すごいなあって。
言葉にするとなんだか薄っぺら。私って。

でも、この胸の中にあるわあ!って膨らんでいるものはとりとめがなくて、でも本物の、かけがえのないものだ。

壮行会

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今日は会社のみなさんがお別れ会を開いてくれる。
突発的なことで特に忙しくなってしまったのにたくさんのひとが集まってくれるみたい。なんてうれしいんだろう。

バイトのあとに少し他の仕事があったのでそちらをこなし、今cafeでひとりひとりにメッセージカードを書いている。…といっても今回はメールアドレスを小さなカードに書いて、ほんの気持ちの品を渡すだけだけど。だって長いメッセージを書いたら今から泣いちゃいそうになるから。感激やさんなのだ。

しかしここは寒いな。手がかじかんで字がまがっちゃう。


たくさんのひとの励ましとか、笑顔とかをもらって旅にゆけることが本当にhappy★
こんな気持ちを忘れずに、よぉし、大きくなるぞ!って。


久しぶりの原宿でもといた現場を覗いてきた。たくさんの思い出があるその建物を、今はこんなにあたたかい気持ちで眺めることができる。
大好きだった時間はいつも生きていて、私の中から消えたりしないだろう。ずっとずっと。ずうっと。

さる脱皮

すごい髪の毛が伸びちゃった。もう、3ヶ月もの間伸びている。
お仕事で後ろの襟足を超ぎりぎりに切っていたから1月のバレエの舞台に備えて我慢して伸ばしていた。結構伸びたから(といっても全体的に8センチくらいしかないけど)もうこのまま伸ばしてしまおうかなあとも思ったけれど、でももう限界。

いつも襟足は、一番短くても横から見てあごのラインにそろえてもらう。私の襟足は高いので、あんまり短くすると変かなあって思っていたから。でもこの間のお仕事で久しぶりにぎりぎりに切ってみたらそんなにおかしくないかなあ?と思えたので、もしかしたら襟足は高くしてみるかも。前と横は長めに、ちょっと前下がりの短いボブっぽく。

後ろから見ると短いショートで少しくしゃくしゃにして、前と横は少し重たく。かな。
色もお仕事で大分傷めたから今度は落ち着き目に。今は新しい十円玉みたいな色だから。

でもどうなることやら。いつも美容院に行く前と後では違うものになってしまうんだ。

さるからは脱却しなくては。

E-mail

フリーメールアドレスを取得してそれを昨日友達にお知らせした。
たいした期間携帯を止めるわけでもないのにしばらく会っていなくてちょっと元気かな、って気になっている友達にまでメール。年賀状みたいだなあ。


メールって便利だけれど怖いと思う。去年はそれを実感し、とても反省した年だった。


会ってお話をしてもなかなか自分の言葉はうまく伝わらない。まず、自分の脳みそから取り出すときにズレが生じ、言葉に変換したときにまたズレて、それを相手が受取るときにズレるし、それを理解しようとしたときにまたズレる。
伝えるって、なんて難しいんだろう。でも、そうやって何かに包まったものが相手に手渡されることがきっと色んなものを産むんだろう。想像力とか、敬意とか。だから、いいのかも。
直接話していれば表情や声の色というほかの情報もあるわけだからそのズレを修正する作業はやりやすい。
右脳と左脳ってすごいなあ。よくわからないけれど、左脳がばしっと受け取ったその言葉という情報を、右脳が少しずつぶれた映像を重ね合わせて、微調整して、ぎちぎちしないところに持ってゆく感じ…かなあ。すり合わせて、色んな自分の中のデータとか感情のサンプルとかを持ち出して、きっと自分なりの「受取ったもの」を構築してゆくんだろうな。

人間のそういう適応能力ってすごいなあと思う。

でも多分その表情とかトーンを感じることの出来ないメールだと、その修正をかける能力が変な一人歩きをすることがある気がする。一度その横道に入ると何かの拍子に気付かない限り永遠に本筋から離れつづけることになりかねない。
テリトリーを追われて家に帰れなくなっちゃう猫みたいに。
角度を間違えて飛びだしたロケットが永遠に冥王星に辿り着けないように。

立体交差点みたいに永遠に交わることがないその道を邁進する姿を、伝えようとした側は冷ややかに眺める、ということが結構あるような気がする。
怖い。



私は自分がよく悪気なく失敗をする粗忽者なので、割と相手のそういう失敗には寛容なんじゃないかと思う。

でも他のあらゆる経験と同じで、実際失敗したり迷惑をかけられたりしないと、なかなか深いところでは理解が出来ない…気がする。それは私が痛い目を見ないと分からない、想像力の欠けた人間なのかもしれないけど。

まあだから失敗は大きな収穫。
でも収穫はあっても、取り戻せないものもある。

あーあ。そのことを考えると外を歩きながらでも、ぎゅっと目をつぶりたくなっちゃう。

床と舞踏家、床と武道家

以前ポアントの記事を書いたときに鈴夢さん から頂いた、「地面を噛む」という感覚。


「噛む」という感覚はなんて武道らしいんだろう、ってその新しいイメージに嬉しくなった。

地面をぐっとつかむことで地面から力をもらう感じは踊りにも通じている。私は小さいときにちょっとだけ空手を習っていたことがあるのだけれどその時にはそこまでつきつめて考えたことがなかったから武道からの床の感じ方のことはわからない。でも、きっと通じる部分はある気がする。

「噛む」っていうその、反作用的な感じ方。それはとても武術っぽい気がした。


踊りはなんとなく「地面に助けてもらいましょう」というようなところがある。

床を感じて、それをちゃんとつむじまで伝える。

床の水平に助けられて、軸の垂直がある。

床の固さがあるから、芯がしっかりしたり、逆に柔らかな動きができたりする。

だから足の裏で「床を押す」とか、「床をみぞおちのところまで感じる」とか、色々あるけれど、そんな意識を持ちながらバーレッスンをすることはよくある。


舞台に出る直前、私は足と床を手で触る。

おまじないみたいに。

助けてね、って床に思う。たくさん飛ぼうね、って足に言う。

サッカー選手じゃないけれど、床はお友達。

生徒にもよく言う。4歳の子供にも言う。

「床はお友達だよ!ダンサーの足の指はピアニストの指みたいにちゃんと使いなさい」って。



「噛む」っていいなあ。なんか、ただ助けられてるだけじゃないそのイメージ。お互いさまなんだなあ、っていう感じがする。



でも、それをイメージしたとき、やっぱり踊りにも、もらうだけじゃない床への感覚があるなあとも思った。

床のもっと下にも根っこみたいに自分のテリトリーがあって、そこまで伝える。もっと手を長く見せたり、自分の出来る範囲よりもっと遠くに飛びたいと思うように、大きな大きな球が周りにはあって、それは地面の下にももぐってる。地震の震源地みたいに。(地震って、横だけじゃなくて地下や、上空にもその波が伝わるから。変な喩えだけど)

地面を頼りにして、受け止めつつ、でも一方通行にならず、地面と一緒に呼吸する。

一方通行になったらきっと床に似て、かちかちになっちゃう。

私のやわらかさや不確実さを、床に、分けてあげる。

のかな?


でもそんな感覚滅多にやってこない。私はまだまだ、意識しなきゃいけないことだらけで染み付かない。染み付けばもっと新しいことに目を向けられるのだ。

うん。稽古、稽古。