螺旋と深海
まだまだ全然、
私は私を見つけてあげられてないんだ。
ねぇ、聞こえないの?って呼んでいることは知ってる。振っている手が揺らす、水のそよぎを感じてもいる。
だけど私はその声をうまく掬いとってあげることができなくて、
深いふかい深海の奥底からのその声はいつもくぐもったまま。
じんわり闇に溶け込んだほのかな色しか見て取ることができない。
水面の波紋の激しさに私はただ悲しくなったりどきどきの意味がわからなくなったり。
突然あたたかい海流にまきこまれたり。
ひやりと冷たい場所に足をとられたり。
その度に、あがってくる泡に触れて考える。
このびりびりする感じはなんなの?
ねぇ、そこにいるって分かってるよ。そのことを知ってる?
お願いだからすぐに消えてしまわないで、答えを残して。
せめて形を残して。
願いはいつも虚しく、
私は私がまるで深海ですべてを諦めながらこっちを仰いでいるんじゃないかと、
すうっと足元が遠のくような気持ちになる。
でも、
少し何かわかったかも。
ことばにするととても陳腐だけど、
だから私は踊るんだなぁということ、
だから私は誰かと話がしたいんだなぁということ。
自分がその深みをただ覗こうと目を凝らしてみるんじゃなくてただその海全部を抱えて、揺らして、発してみること。
それが一番今私に必要なことで、一番の方法なのだ。
私はちゃんと深海のことも感じていてそれは絶えず共にあるんだから。
見えないときには見えないまま、動いてみればいい。
ちょっとくらいじゃぶじゃぶ零れても、消えやしないんだから。なにひとつ乾きはしないんだ。
そしてまた見つめて。
溺れていないことを確認して。
だけど哀しく見つめるだけになって、
その繰り返しでもいいんじゃないかな。
堂々巡りじゃないから。
この螺旋は絶対に、どこかしらにむかってる。
ジーゲスゾイレ
ベルリン、といえば私の中では『ベルリン・天使の詩』だったのでこのジーゲスゾイレ像を見に行くことは憧れだった。
人間にはその存在を知られることなく、でもまるで子供を見る親みたいに、人間をずっと見守っている天使たち。
その天使が、ほんのすこし、お休みするように世界を見下ろしたのがこのジーゲスゾイレ像。
とっても寒くて、この日マフラーを購入。
(自分のマフラーは日本から来るときに忘れてきた。マイナス20℃の国に来るのに、なんてことだろう)
帽子とマフラーが一体になってるやつ。
ちょっと子供ちっくなんだけど、可愛らしくみえたから。外国人にはアジア人の年はわかるまい。と思って。
ジーゲスゾイレはSバーン(アレキサンダー駅とかZoo駅とか大きな駅を通る、東京の山手線のようなもの)の北のほうの駅からはずうっと見ることができる。金色だし、夕日に映えてたりするととっても綺麗。
迷子になることはないな、ということでどきどきしながら出かけた。
ティアガルテンの駅を降りて、バーガーキングでコーヒーを買って、ずっと歩く。
本当に寒くて帽子で耳を包んだ。
誰もいないぬかるんだ公園をずっと、自分の呼吸と心臓の音を聴きながら歩いた。
時々ベンチに座りながら。
迷ってないか時々大通りに戻りながら歩くと木の隙間から金色の像が見えた。
近づく前にたくさん写真を撮っちゃった。
ジーゲスゾイレは公園を貫く大きな通りの真中にたっている。
周りをぐるりと道路で囲まれていて車もわりとひっきりなしに通っているから、どうやって中心に行けばいいのかちょっと逡巡。
だからベンチに座ってしばらく女神像をスケッチした。
肩から足首に流れるドレスのラインがとっても綺麗。
頬のふくらみや、くるぶしのまるみ。
ふと気づくと私の後ろのほうのベンチに赤い帽子を被った金髪の女の子がいて、両手で温かい飲み物をはさんで懸命にのんでいた。
やっぱり頬がまるい。
あそこに天使達はいたんだ。
なんだかとてもほそっこいところだけれど。
あそこだったんだな。
塔をのぼる階段の内側にはびっしり落書きがあった。
ドイツは本当に落書きの多い国。こういう塔にたくさん落書きがあるっていうのはどうなんだろう。残念に思う人もいるんだろうけれど、落書きはもう風景の一部みたい。この塔の一部みたい。
ぐるぐる階段を上がって、女神の足下に。
あんなにほそっこく見えたのに、大きい。
黒い服を着て、色のない世界で人間を見守ってる天使。
冷たい風に吹かれて街を見下ろしていると言いようのない気持ちになった。
よかった。のぼれて。
もう一回映画を見たいな。
あの映画にはベルリンの壁も出てきた。
もう一回みよ。
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no title
あたしは何かのせいにできるほど、何かに動かされるほど、平らな澄んだ水面じゃない。
だけど自分を透明だと感じられるときがあって、そうあれる場所や、ひとや、瞬間を見つけるとそこにずっといたいと願う。
優しいきもちや、温かいひとみでいたいとおもう。
でもそれもおそらく全ては自分のため。
あんまり綺麗な心じゃあないなぁ。
自分のためにしかそれを大事にできないのかもしれないと思うと、
そうだな、
たぶんそれが私のこの永いこと感じていた喪失感なんだ。
自分がそうありたいと思っていた、思い込ませたいとつくろっていた、自分への幻想への喪失。
だから私はちゃんと求め続けないといけない。自分がまっすぐいられるところを。この芯から、笑ったり優しくありたいと思ったり、前に進もうともがけるところを。
入り交じりすぎてコントロールができない、と言い訳していてもひとりになるだけだ。あたしがあたしを手放すから。
手を繋いで一緒に、全部見よう、と決意したから。
なのに置いてゆこうとしすぎたねきっと。あたしはあたしのそんなところを許したり叱ったりできなくてはいけなかったのに。よそ行きのあたしは、それを天井のかたすみみたいに照らさないことばかり考えていた。どこかで、恐れてばかりいた。すごく大きい存在なこと分かっていながらだからこそ。
複雑な生きものなんだ。
いつのまにか、私はお隣に足を踏み入れている。ちゃんとケースごとに別れていて取り出したりしまったりできるものじゃない。クリスマスの飾りみたいに全てが繋がっていて裏と表がくっついてる。だから絶望もするし、絶望なんかしなくっていいっていうことにもなるんじゃない?
風が強い。
しょうもない細かなことは吹き飛んじゃえ。
知らない景色をたくさん見て歩きたいなぁ。
歩くたびに色んなことがあたまに浮かんで繰り返し想ってそのうち全てがシンプルになるんだ。
塵みたいに同じ想いの舞うここでは、
今はだめだ。
ゆびきりげんまん。
彼女の目に映るものはいつも透明で、彼女の愛情に満足しているみたいに見えた。
まるで大切にすみずみまで手を入れられた箱庭みたいに。
だけどそこには余計な技工がない。愛ばかりをぞうさんじょうろで注がれて瑞々しく育った小さな箱庭。
彼女の愛情はそれを見る私を包んでしまう。
そして私も彼女を愛情で包みたい気持ちでいっぱいになる。
いつも。
なんでそんなにたくさんのものを枯らすことなく持っていられたの?今まで?
なにもかもをひきつける、その溢れるひかりをどうにもできなくてもがいていたこともきっとあっただろうな。
でも私に見せてくれる彼女の目に映るものはいつも、ちょっと微笑んだ彼女の口元の影が見えるみたいな、きらきらした彼女の好奇心が透けてくるような、奥行のある景色。
なんか説得力があるの。
背中をぐいぐい押してくれるの。
やさしいのに、前に足を運ばせる力に満ちてる。
私の頭のなかまでクリアになる。
一緒にお散歩してる。
いつか、本当に一緒に隣にならんで、
同じ景色をみようね。
ゆっくり、焦らずまたとりもどして。
やくそく。
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熊と猫
YahooNews
にのってた、熊を追い詰める猫。
猫がちっちゃく、でもでえんと座っていて、
熊がもうこれ以上登れません!
っていうくらい高くまでよじ登っているのが可笑しい。
熊と猫のおしりがかわいくて、
ついのっけました。







