夏の鎌倉
この夏にどうしても海に行きたくて仕方がなかった。
海で消えてしまった女の人の役をやるからかもしれなかったし、ただこころの中のざわめきをきちんと聞きたかったのかもしれない。
それともただ歩きたかっただけなのかも。
おととし、ディズニーランドに行ったあとにやっぱり急に海に行きたくなったことがあった。
明日お休み?とお互い確認しあって、じゃあ、と電車に乗った。
海の最寄と思われる駅に着いたのが夜の11時。
それから海の方向へ歩いて歩いて…実際に海についたのが夜中の2時だった。
寒いし、ブーツで足が痛いし、もうディズニーランドで疲れているし、なんなんだ!とか文句を言いながらも楽しくて散々迷いながら歩いた。
途中海までの道を聞いたお兄さんはこんな時間に女の子がふらふらしていることにびっくりしているようだった。
ここから海まで歩くの?ほんとに?
すっごく怖いトンネルに差し掛かってどうしてもそこを通り抜けたくなくて回り道をした。
こっちなら大丈夫、というトンネルを抜けたから全然違う場所に出てしまった。
あとで調べたら逗子駅から鎌倉海岸まで歩いていた。
懐かしい。
リベンジみたいに今度は昼間に。
海を散々見たあとちょっと鎌倉の町を歩くことにした。
線路とセイタカアワダチソウ。
以前、蓮の池のあるお寺で写真を撮ったんだ!
ということを思い出してそっちの方に歩いて行くも、どうしてもそのお寺がある道に出ない。
もしかして私たち迷子になる運命なのかな…と話していたらちいさなわらびもち屋さんを見つけた。
歩いてあるいておなかが空いていたからお邪魔することにした。
まあるくてちょうど良い重さの急須と、手の中にころんと収まる湯のみ。
あったかいね、と包みながら飲んだ。
隣に座っている女の子が私と同じ服を着ていた。
女の子ふたりで前の彼氏の話とか今好きなひとの話とかにずっと花が咲いていた。
わらび餅屋さんに入ったのはちょうどその頃よくわらび餅の話をしていたからだった。
お母さんともしていたし他の友達ともしていた。
何故かそうしてひとつのことがあちこちで口にされ始めて、そのあと現実にぽんとそれがやってくるパターンが今年は多い。
こんなに美味しいわらび餅は食べたことがないくらい、おいしかった。
おいしいわらび餅が食べたいなとお母さんが言っていたからお土産にひとつ持ち帰ることにした。
わらび餅をぶら下げながら歩いていたら目の前をつばめが横切った。
何か咥えていたね、と目で追いかけるとこんな隙間に巣があった。
のどがしわしわの雛が裂けるくらい口を開けて元気に鳴いていた。
もう一回お母さんがご飯を運んでくるのを見ようよ、とはまり込んで見ていたらこの隙間は誰かさんのうちの玄関だったみたいでご家族がぞろぞろと出てきた。
お互いびっくりしたけれどすぐつばめを見ていたと分かってもらえた。
私たちがいつまでも見ていたら緊張してご飯を運べないかもしれないね、と、監視するのをやめることにした。
歩いているとそうやってたくさん生きているものを見る。
めだかも、水草も、
たんぽぽやびっしり生えているたくさんの草や、
地面にお腹をつけて涼んでいる猫や。
散歩しているおじさんも。
HUB、嗅覚
5日の夜のこと。
軽くビールが飲みたい友達と軽く何か食べたい私は池袋にて下車、HUBへ。
日曜の夜なのににぎわっている。
まだ子供っぽくてぺーぺーの若造だったころから知っている。
直接の働きっぷりは見ていないけれど、どうしたって想像がついてしまう。
不思議に縁が切れないのは私の努力ではなくて相手がとても優しく、同時にとてもわがままだからだろう。
そして私が男の子みたいで彼が女の子みたいだから。
ひととの関係において自分が一度楽な場所に落ち着こうとしてそこに身をおくともう二度ともとの立場には戻れないよね、という話をずっとしていた。
私がそういうことを身に感じたのは中学校の頃だったけれど、しっかり頭で考えられるようになるまでには大分長い時間を要した。
ひとは、ひとの上下関係に対して残酷なほど鋭い嗅覚を持っている。
一度位置づけられたらそれを覆すことは難しい。
仕事においてもそうだよね、という話をしていたら、女の人からそういうことを聞くととても不思議な気持ちになる、と彼は言う。
男からもしそういうことばを聞いたら反発心が芽生えそうなんだけど。と。
わかる気がする。
まだつっぱってみて失敗することが可能な年齢。
無理も利くし。
と考えて、じゃあ自分はどうなの?
って思う。
お姉さんぶってる場合じゃないなあ。
雨が優しく降っていて、
決めているのは私か、
という風にもためいきが出た。
アネット・メサジェ―聖と俗の使者
すごく見たかった絵の展示が前日で終わっていた。
なんとなくものごとの終わりは日曜日だと考えていたらしい。
彼の作品はすぐに誰かのものになってしまうからもう二度と見ることができないかもしれないのに。
その代わりに森美術館でアネット・メサジェを見ることにした。
最初から、どぎついんだけどそれをまるく包んだ、そのきれいなままの閉塞みたいなものに押された。
濁りを小さな手で押さえ付けて、けれど一瞬にして動のエネルギーが消えて永い微睡みの幻想の中に入り込んでしまったような。
これは子供そのものだ、と思う。
子供は残酷なことをしながらそのものを可愛がることができる。
生まれてきて間もなくて大人たちよりずっと死に縛られていないはずなのに、色濃い死の匂いのなかにいる。
生まれるとともに押されたいつか死ぬ運命の音をまだ忘れずにいるからなのかな。
入り口の作品は剥製にぬいぐるみの顔をかぶせて天井から下げられている。
からだは死んでいるのに顔には笑いが張りついていたり可愛らしく恥じらったりしている。それを見上げる私の顔が、底に貼られた鏡に映る。
ぬいぐるみ自体、その無言というか時間を凍らせられ打ち棄てられているようなところが少し私たちとは違う存在だと思わせられるのに、完全な姿でないと余計にこころをざわざわとさせる。
剥製もぬいぐるみも同じ時間を止めたもの同士なのにその時間の止まり方には違いがある。
なにも流動しなくなった冷えた停止と、ぽっかり開いた淵のような空隙。
それが縫い合わされて無理矢理に同時進行させられようとしている。
もしかして顔が剥製でからだがぬいぐるみだったらもっと直截的な嫌悪が沸くのだろうかと考えたりもした。
それともやはりその直截的な嫌悪がために安心できたのだろうか。
ぬいぐるみも人間も皮があってその中に何かがつまっている。
コンピュータもそうだ。外わくがあって中に脳みそがあってシナプスがつないでいる。
大雑把にいえばそんなもの。
どういうわけかその袋詰めが動いている、生きている私たち。時間を与えられなかったぬいぐるみたち。
でもぬいぐるみのあちこちを糸で吊って動かされている部屋に入った時、また生きていることが少し分からなくなった。
キキー、キキーという音は不気味なようでもあり私の知らない森のさえずりのようでもあった。
ベネチアビエンナーレで金獅子賞を獲ったとcasinoという作品がこころに残っている。
知らない世界が小さな扉の向こうに広がっていてときどきそちらから波が押し寄せてくる。
怖いくらいに大きな赤いつるつるの布が確実にその押し寄せるものの感触をかたどって膨らみ、しぼむ。
途中その布の艶があまりにも高まって、見たことのない質感で輝くのを見た。
夢で見たUFOの外壁のようだった。
光ってひかって、ついには透けてしまうのだ。
…と思ったら本当に下にあるものが輝いて透けていただけだった。
錯覚だったけど一瞬の驚きは強烈だった。
それからこれがピノキオを扱った作品であるということ。
まただ、と思う。
またピノキオに出会った。
オースターの『孤独の発明』と…それからもうひとつなにかあったのに忘れちゃった。
母の胎内だと言っていたけど私にとってはそのまま、クジラの舌だ。
出産とクジラの口から脱出することがあのお話では同じことだったのかな。














