アネット・メサジェ―聖と俗の使者
すごく見たかった絵の展示が前日で終わっていた。
なんとなくものごとの終わりは日曜日だと考えていたらしい。
彼の作品はすぐに誰かのものになってしまうからもう二度と見ることができないかもしれないのに。
その代わりに森美術館でアネット・メサジェを見ることにした。
最初から、どぎついんだけどそれをまるく包んだ、そのきれいなままの閉塞みたいなものに押された。
濁りを小さな手で押さえ付けて、けれど一瞬にして動のエネルギーが消えて永い微睡みの幻想の中に入り込んでしまったような。
これは子供そのものだ、と思う。
子供は残酷なことをしながらそのものを可愛がることができる。
生まれてきて間もなくて大人たちよりずっと死に縛られていないはずなのに、色濃い死の匂いのなかにいる。
生まれるとともに押されたいつか死ぬ運命の音をまだ忘れずにいるからなのかな。
入り口の作品は剥製にぬいぐるみの顔をかぶせて天井から下げられている。
からだは死んでいるのに顔には笑いが張りついていたり可愛らしく恥じらったりしている。それを見上げる私の顔が、底に貼られた鏡に映る。
ぬいぐるみ自体、その無言というか時間を凍らせられ打ち棄てられているようなところが少し私たちとは違う存在だと思わせられるのに、完全な姿でないと余計にこころをざわざわとさせる。
剥製もぬいぐるみも同じ時間を止めたもの同士なのにその時間の止まり方には違いがある。
なにも流動しなくなった冷えた停止と、ぽっかり開いた淵のような空隙。
それが縫い合わされて無理矢理に同時進行させられようとしている。
もしかして顔が剥製でからだがぬいぐるみだったらもっと直截的な嫌悪が沸くのだろうかと考えたりもした。
それともやはりその直截的な嫌悪がために安心できたのだろうか。
ぬいぐるみも人間も皮があってその中に何かがつまっている。
コンピュータもそうだ。外わくがあって中に脳みそがあってシナプスがつないでいる。
大雑把にいえばそんなもの。
どういうわけかその袋詰めが動いている、生きている私たち。時間を与えられなかったぬいぐるみたち。
でもぬいぐるみのあちこちを糸で吊って動かされている部屋に入った時、また生きていることが少し分からなくなった。
キキー、キキーという音は不気味なようでもあり私の知らない森のさえずりのようでもあった。
ベネチアビエンナーレで金獅子賞を獲ったとcasinoという作品がこころに残っている。
知らない世界が小さな扉の向こうに広がっていてときどきそちらから波が押し寄せてくる。
怖いくらいに大きな赤いつるつるの布が確実にその押し寄せるものの感触をかたどって膨らみ、しぼむ。
途中その布の艶があまりにも高まって、見たことのない質感で輝くのを見た。
夢で見たUFOの外壁のようだった。
光ってひかって、ついには透けてしまうのだ。
…と思ったら本当に下にあるものが輝いて透けていただけだった。
錯覚だったけど一瞬の驚きは強烈だった。
それからこれがピノキオを扱った作品であるということ。
まただ、と思う。
またピノキオに出会った。
オースターの『孤独の発明』と…それからもうひとつなにかあったのに忘れちゃった。
母の胎内だと言っていたけど私にとってはそのまま、クジラの舌だ。
出産とクジラの口から脱出することがあのお話では同じことだったのかな。
