「ロスチャイルド - 富と権力の物語」のススメ
英国の歴史家、Derek Wilsonによる、ロスチャイルド家の伝記、「ロスチャイルド 富と権力の物語」(1994)を読み終わりました。寝付けない夜のお楽しみとして読んでいたので3ヶ月もかかりましたが、集中して読む人なら3~4日かからないと思います。世界史を学ぶなら、なぜこの一家を軸にした視点を与えてくれなかったのか、不思議になってくるほど、あらゆる分野の歴史的著名人らと直接交流がある人達でした。たとえばナポレオンを描くなら、ロスチャイルドを出さないと当時の経済は見えてこないことがあるのです。時代が下っては、ヨーロッパの鉄道網の拡張然り。新世界秩序(NWO)とかイルミナティとかユダヤとか偽ユダヤとかフリーメイソンとかいう人たちが必ず出す名前の一つ、ロスチャイルド。 スライヴやシリウスなども陰謀論とみなされますが、根拠となる情報や陰謀を指摘する専門家らが実名と顔写真や動画、そして固有名詞やデータ提示つき論証で出てきます。一方、ロスチャやロックフェラーで騒ぐ人たちの大元の情報源となっているのはM.S. KingのPlanet Rothschildなどの人気書籍ではないかと思いますが、実際のロスチャイルド家などの歴史を読んでみた人はどの程度いるのでしょうか。(ちなみに、M.S. Kingは歴史家ではなく、マーケティング・広告畑で経験を積んだ人。)国境を跨ぐ国際的な利権が政治やマスコミを動かしているのは事実ですが、強力なコントローラーが一箇所に集まって、自分たちだけの利益のために一致結束しているかのような話がまことしやかに語られるとき、そんな一枚岩の組織が実在するのか甚だ疑問です。ロックフェラーは今はExxonやEssoで知られるスタンダード石油で財を成した富豪で、投資家でなくてもよく知られている名前ですが、金融界の最高峰のように言われるロスチャイルドは、不思議と20世紀の銀行史では目にしない名前です。(その一つの理由は、アメリカがまだ新興国だった頃、ロスチャイルドはアメリカ市場の将来を過小評価していて進出を控えていたことがあります。戦後はナチスから逃れてアメリカに渡ったロスチャイルドの末裔がそれまでの家業とは少し異なる商売で財を築きましたが。)私が英国に住んでいたとき、大家さんのひとり、保守派の典型ともいえるAlfredおじさんは、こんなことを言ってたことがあります。「この国の階級制度というのは、そう悪いもんじゃないと思う。ロスチャイルド家のような貴族がいたことは、私は誇りに思っている」と。で、ロスチャイルドというのは英語名としては珍しい名前だけど英国貴族だったのか…という程度が私の認識だったので、NWOを叫ぶ人たちが、国境を超えた強欲な一家のように言っているの理由が知りたくなり、実際の歴史を探ることにしました。アマゾンで何冊か読んだ人が、ロスチャイルド家に関しては、これが一番バランスが取れているとレビューしていたので、とりあえず入手。読み進めるうちに、少なくとも英国でロスチャイルド家を尊敬したり信頼したりする人が大勢いても当然だと思えるようになりました。ロンドンの外ではロスチャイルド家が土地を所有し繁栄したのは主に近郊のバッキンガムシャーですが、環境整備や地域の人々の雇用などに大きく貢献してきているのです。 さらに言えば、フランス・ロスチャイルド家は労働者階級のための公共住宅を建てるときには、イギリス・ロスチャイルド以上に当時の最先端の快適さや衛生面を考慮した設備を施してており、欧州労働者、特にフランス労働者の権利意識が高いのは、ロスチャイルドのような富豪が自分たちの標準に合わせて生活水準を引き上げていったことに起因しているかもしれません。私自身は、これまでユダヤ人とは縁が多く、同居もしていたのに、自分の知識が新約聖書時代と第2次世界大戦の間の十数世紀分、抜け落ちていたことを痛感しました。ゲットーというのはナチスが現れるずっと以前からあり、中世で初めて隔離するためのユダヤ人居住区域が定められたのは13世紀のヴェネツィア共和国のヴェネツィア・ゲットー。この頃のユダヤ人はまだ豊かでしたが、16世紀半ばからは宗教的差別に加えて、高い「石壁に囲まれ、夜になると外部との門が閉じられ、昼でもユダヤ人がゲットーの外に出る際にはユダヤ人であることを示す印を身につけることが強制された」のです。そんなキリスト教徒によるユダヤ人隔離政策としてのヨーロッパに点在する絶望的な「ゲットー」のうち、神聖ローマ帝国帝国自由都市フランクフルトのゲットーから、ロスチャイルド家の祖とされるマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1744-1812)が、封建領主(ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世)の御用商人として徐々に力を着けて商売の手を広げ、やがて5人の息子たちがゲットーの外の世界で銀行家として成功していく様子が、本書の前半では描かれています。ロスチャイルドというと息子たちとその父が計画的にヨーロッパ数ヶ国にまたがる帝国を築いていったように思われがちですが、才気溢れる三男のネイサン・マイヤー・ロスチャイルド(1777-1836 NMとも呼ばれる)が21歳のときに大陸から英国に飛び出して成功し、大陸に残る兄弟たちに司令を飛ばして今につながる富を築いていったというほうが真実に近いのです。ネイサンの成功がなければ、ヨーロッパ大陸各地でそこそこ成功した商人がバラバラに存在したに過ぎません。文庫本のカバーに使われている貫禄のある紳士の影絵は、壮年期のネイサン・マイヤー・ロスチャイルド。王立証券取引所のいつもの柱に陣取る姿の当時の風刺画から、ネイサンの死後にデフォルメされたもので、「ネイサンの死によって、(ロンドンの)シティにぽっかり穴があいたことを暗示」しています。長男のアムシェル・マイヤーは敬虔なユダヤ教徒で、子どももなく、一生フランクフルトから出ることはありませんでした。次男ソロモン・マイヤーはオーストリアで、四男カール・マイヤーはイタリアで、そして末っ子のジェームズはフランスでそれぞれ銀行業を営みますが、ネイサン・マイヤーの英国ロスチャイルドと後に大男爵と呼ばれるジェームズのフランス・ロスチャイルドによって、所謂ロスチャイルド帝国は繁栄していきます。オーストリアのソロモン・マイヤーの系譜も今日に続くのですが、ロスチャイルド家は国境を越えて近親結婚を繰り返しているので、時代を下るごとに家系図がものすごく複雑化し、フォーカスする人を絞り込んでいかなければ、20世紀に入った頃には何がなんだかわからくなります。際限なく引用できるなら、紹介したい人物やエピソードがてんこ盛りの一族の伝記ですが、すでに初代の子孫は軽く100人を超えている上に、同じ名前が何度も出てくるし、本書がとりあげた人たちだけでもエピソードは多岐にわたります。200年の歴史ともなると当然ですが、ロスチャイルド家の人たち自身も知らないことが多いほどなのです。 作者のウィルソンが取材のためにロスチャイルドの人々を訪れると、誰もが心を開いて色んな話を熱心に率直に語る一方、自分の知らないロスチャイルド家の歴史についても非常に楽しみにして聞きたがったといいます。ちなみに、ロスチャイルド銀行は代々世襲制でしたが、第2次世界大戦後は事業形態に様々な変化が起こり、1980年代には経営陣には能力重視で外部の人間を入れるようになります(ロスチャイルド以外のCEOが誕生したのは2014年)。人権という概念すらなかった時代の隔離居住区ゲットーという環境を思えば、外の世界で成功したら誰でも二度とそこへ戻らないように富を維持しようとするのは当然ですが、それだけの才覚と運に恵まれた一族は多くはありません。ネイサンの時代によほど賢い家訓が築かれたのだと思われます。一家の秘密主義もその一つで、わずかな日記が残されているだけで、非常に多くの情報が公表されないまま処分されたりしています。 ロスチャイルド家の人たちはユダヤ人だけでなく一般民衆のための病院や学校、その他の公共施設を建てたり生活費支援をするような慈善事業も数多く手がけており、今の環境保護活動にあたることも行っているのですが、それがほとんど知られないのは、この秘密主義が裏目に出たことや、全くの個人の意志で行ったことを美談として書き立てられるのを極端なほど嫌う彼らの性向などに起因しています。ロスチャイルドといえば、イコール、シオニストと思い込んでいる人も多いのですが、一族の多くは本来、現実主義で同化主義、つまり祖国建設などは考えず、それぞれが生まれ育った国に貢献しながらユダヤのアイデンティティと伝統を守っていけばいいと考える人たちで、戦争になったときには若きロスチャイルドたちは率先して兵役に志願し、たとえば英国やオーストリアという"祖国"のために闘って負傷したりしているのです。(ただし、ロスチャイルドは戦争ではなく平和時こそ有利に働く事業で繁栄を持続させていたのもあり、戦争勃発を避けるための働きかけも懸命に行ってきています。)こういう経緯もあり、一族でも少し変わり者と思われていたアルフレッド・ド・ロスチャイルドがパレスチナの地へのイスラエル建国について英国議会などで声高に叫び始めたとき、一族ではかなり顰蹙を買ったといいます。 その後、断固とした同化主義者であったロスチャイルド卿(ナッティ, 1840-1915)が1914年にトルコが英仏との戦争で一夜にして負け始めたころから徐々にシオニズム賛成論者になるのですが、近代イスラエイルの父と呼ばれるようになったのはフランス・ロスチャイルドの分家のエドモン(1926-1997)。エドモンの父、モリス(1881-1957)も一族では風変わりで非常識な人間と思われており、事業においては主流のロスチャイルドからは絶縁状態で、受け継いだ財産を散財したあとに独自の富を築いた人でした。成功して財を成した一族というのは、生まれたときからお金に困らなかった3代目ぐらいから、芸術家など事業とは他の分野に向かう人が多いと言われますが、ロスチャイルド家でも「専門家」が多く、芸術や科学の分野でも抜きん出た才能を発揮しています。一生働き詰めで59歳で亡くなったネイサン・マイヤーの時代から生き方そのものも変化していきます。とはいえ、誰かが一族の富を守っていかなければいけないので、銀行業を渋々次がされる人には同情せざるを得ない場面があります。やむなく家業や男爵の位を継いだ第3代ロスチャイルド男爵のヴィクター・ロスチャイルド(1910-1990)もそんな一人で、ケンブリッジの第一級の生物学者でもあった彼は、若い頃の短期的な経験を通し、A点からB点へお金を動すことを促進する銀行業そのものが本質的に好きになれなかったといいます。最近のロスチャイルド陰謀説は、どうもこのヴィクター・ロスチャイルドにまつわることが発端ではないかと思われますが、どう考えても彼は被害者です。 ケンブリッジの学生時代の友人たちがいつの間にかソ連のスパイとなっていたことが判明したのですが、その関連でヴィクターもマスコミに疑われることになりました。しかし、英国軍のために積極的に奉仕し諜報部に所属していたヴィクターは、政府のシンクタンクの委員長に指名される前に、戦争中の記録をすべて掴んでいるMI5により身辺調査され、それをクリアしているのです。1980年に「ケンブリッジ4人組に連なる第5の男がいる」としてマスコミが大騒ぎしたときには、ヴィクターも疑惑の的になりました。政府機密期間に勤めている身の上で、おおやけに自分の潔白を公表することもできないまま、彼は沈黙を守りました。1986年12月に遂に、ヴィクター・ロスチャイルドはデイリー・テレグラフ紙で「MI5の指揮将校が、自分の潔白について述べるべきである」と宣言し、当時の首相であったマーガレット・サッチャーが「ロスチャイルド卿に関してソ連の手先ではないという調査報告がある」の声明を出しましたが、とにかくこの数年間はヴィクター・ロスチャイルドにとって非常につらい時期だったようです。本書の終盤では執筆当時現存するロスチャイルドで、非常に魅力的な人物が他にも何人か登場するのですが、ヴィクター・ロスチャイルドの姉、「蚤の女王」と呼ばれる生物学者、ミリアム・ロスチャイルド(1908-2005)の生涯も、そのまま一冊の本で読みたいぐらい興味深い人です。彼女は同じく生物学に熱中していた父親のチャールズから蚤の研究を引き継いだのですが、チャールズは「おおやけの試験からは何も得るものがない、時間の無駄だ」と娘たちに言い聞かせていたので、それに従ったミリアムは英文学と動物学の2つの学位コースに入学していながら学位試験を全く受けませんでした。数年後、オックスフォード大学が彼女に名誉博士号を授与しようとしたとき、彼女がそれ以下の学位を全く持っていないために資格がなく、当局は早急に規定変更しなければならなかったといいます。逆に言えば、彼女の研究分野での貢献がそれほど優れたものだったのです。この話は如何にも、世間がどう見ようと我が道を行く、という感じのロスチャイルド家らしいエピソードの一つといえます。ミリアムは戦争中は夫が敵軍に捉えられ、子どもたちを抱えて非常に苦しい体験をしています。陰謀論の中では決して語られない話はたくさんあるのですが、ここで下巻のはじめ、第十七章冒頭から少し引用してみます。ロスチャイルド家は、余暇のすべてを大物や富豪たちとの社交に使ったわけではない。自分たちは貧しい者たちに対して責任があるのだという意識は、彼らの中に深く根付いていた。この誠実な人道主義は、まぎれもなく彼らの信仰に根ざしていたが、また、ユダヤ人一般が、ことにロスチャイルド家が、貧者に冷淡であると常に批判されることに対する自然な反応でもあった。慈善事業に参加していることをわざとらしく示して見せたり、あるいは自分たちの生活様式をいくぶんでも改めたりすることで自分たちの富を正当化しようとすることを、ロスチャイルド家では決してしない。その一方で、公衆の目の届かぬところとなると、いろんなやり方で事前に関心を示し、必要ならば経済的援助もしているのである。たとえば、アンセルムはオーストリアやドイツの領地において模範的な領主だった。彼はシラースドルフ近辺の村々に子どもたちの学校を20以上も建てたし、地元の教会を10以上、援助していた。彼の息子たち、ナタニエル、ファーディナンド、アルバートは、母親を記念して孤児院を設立している。アンセルムはまた、民間や国家の年金制度が導入されるずっと以前に、ロスチャイルドで20年以上働いたすべての人が、退職した後も給料の101パーセントを永久に得られる制度(それが後にオーストリアの法律になった)を作った。そしてアルフォンスが死んだとき、その遺言は彼が慈善活動にどれほど広く興味を持っていたか如実に示していた。男爵は以下のように寄贈している。25万フラン:ピクピュス通りのロスチャイルド基金へ10万フラン:北部鉄道職員の娘たちの嫁入り支度金として積み立て20万フラン:ユダヤ事前委員会へ6万フラン:フェリエール、ポンカレ、ラニーの貧民へ毎年千フラン:フェリエール、ポンカレ、ラニーの公共事業のためこれはほんの一例に過ぎません。またロスチャイルドたちが行ったのは決して金銭的援助だけではなく、現場に身を置く人たちも数多くいました。本書はロスチャイルド家の銀行業の中身については詳述していないため、このブログ記事で「ロスチャが世界の富を操る」という主旨の世界支配陰謀論の可否を論証しようという意図はありません。が、実際に生きた人間について知ろうとすることなく、陰謀論者が作り上げた、まるでアニメか勧善懲悪三流ドラマに登場するキャラクターを頭に描いて、陰謀を語ることは思考停止と同じことだと思います。ロスチャイルド家の面々もそうでしたが、始祖のマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが生まれるそのずっと以前から、なにかあれば「ユダヤ人の陰謀」としてまことしやかに捏造秘話が作られ、異教徒から社会的制裁を受けてきたのがゲットーに住むユダヤ人の宿命でした。これは関東大震災のときに「朝鮮人の仕業だ」と在日韓国・朝鮮人たちが虐殺されたのと根は同じことだといえます。所謂陰謀論のなかには、根拠のしっかりしたものもあり、将来は陰謀論とは呼ばれなくなるであろうものもありますが、仮にベストセラーであっても、反証を考慮して書かれているかを見極め、批判的レビューの内容を吟味したりして、受け身の姿勢だけで読まないように心がけたいと思います。良書であっても批判的レビューはしばしば参考になりますが、書いた人の判断材料が明確な質のいい批判レビューは駄作を見破ることにも役立ちます。ちなみに、本書の著者のウィルソンはロスチャイルド家の人たちには好意的な姿勢なので、中立とは言えないという人もいるかもしれませんが、出典が付いているので、根拠となっている文書やデータを確認することができます。また、ウィルソン自身の登場人物の考え方への批判的なコメントも文中には出てきます。この本は、文庫に限らず、書籍の文字が小さかった頃の出版なので、夜読むにはちょっと辛いものがあり、アマゾンではKindle化を要望しました。ご興味のある方は、下の方の商品説明欄の右端にあるKindle化リクエストをClickしてみて下さい。ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語 (新潮文庫) 文庫ロスチャイルド〈下〉―富と権力の物語 (新潮文庫) 文庫– 1995/4デリク ウィルソン (著), Derek Wilson (原著), 本橋 たまき (翻訳)