まあのブログ -36ページ目

まあのブログ

夢日記や神学などを書いております。

「あいつは半分狂ってる」

もう半分はもっと狂ってるw

 

5年に1度ぐらい公的権力に怒られる。私はそれを覚悟している。

私は「社会殺す」と言っているわけで、社会としては「殺そうとしてくれてありがとうございます」とはならないだろうからだ。

ところでしばしば思うのだが、役人はグローバリズムが嫌いなのだろうか?

 

同質性前提の逐一の反応を求めるのは間違っている。

俺とお前は別人だし、逐一反応しているほど時間もないからだ。

いや本当は時間はあるのだが面倒なのだ。

人に面倒を要求してはならない。

 

先輩は無限におり

先輩の先輩も無限におり

先輩たちの求めた先も無限にある。

すなわち先輩を敬えということは無限を敬えということである。

 

達観するために神の視点を獲得する

全てに感動するために子供の視点を獲得する

「何のために勉強するのですか」と言われれば、現実的な理由が挙がるだろうが、究極的にはその2つである。

キリスト教はまさに神と子がいる。

 

副作用が無く、ステロイドなど比較にならぬ程の筋肉増強剤ができれば、明日にでも人類皆ビッグラミーで、それでも別に構わない。それでも筋トレしたい奴はするだろう。

 

天国では何でも出来るが、それを前提にした上で、どう生きるか。

「技術の進歩」と言うなら、その覚悟が欲しい。

 

俺の好きなもので言うと、ゲーム俳句HIPOHOPなどは初心者と上級者の区別が無い。いや、あるが、勝負で言うと、ゲームで言うとレベル1のグレネードに最高レベルのやつが爆殺されたり、俳句は子供が圧倒的に強く、HIPHOPはぽっと出でも幾らでも良い曲がある。

 

クラシックや筋トレだと、まあ、さすがに今日ヴァイオリンを始めた人が世界的なヴァイオリニストに勝つ(?)ことは不可能だろう。少なくとも人類史上、歴史的名演に、初心者の演奏は無い。

筋トレを今日始めたヒョロガリが明日にゴリマッチョになるわけではない。

 

だがサイボーグになれば話は別だ。AIも搭載している。

要はいきなりスーパーマンだ。ドラえもんの世界だ。

その場合、どういう「方向性=センス」を持つかが重要だ。大胸筋だけ異様にデカくする人もいれば、バランスよくする人もいるだろうし、それは現実でも同じで、その実現速度が上がるだけである。

 

「会う人皆先生力」というのがあって、俺の場合、ヤバい領域に達している。擦れ違う虫にすらお辞儀する程で、まあ、俳句をやっていればウンコも題材にする程なので、そりゃ感謝したくもなりますわ。

 

「剣の名人vs鉄砲雑魚」では鉄砲雑魚が勝つ。

1対1億なら尚更だ。

ところで一人一人にフォーカスしてみれば、鉄砲に対して「剣を握るだけの名人=雑魚」なのかも知れない。

人は皆己だけの剣を握っている。

「それでも俺は」と生きていく志。

生き方の問題ですね。

 

自分の価値観を絶対に向けて膨らませるより、相対化してドンドン「点でしかないもの」にしていく。

ところで「威がある人間」というのは偉そうで気に喰わない。

わかりやすく「俺は偉い」と示すことで、周囲がどう行動して良いか明確にしてやってるとも言えるが、認識する側もされる側も「エックス=不確定な存在」で良い。

「相手がどんな奴でも、お互いに礼儀正しくあれ」というモラルを要求する。

 

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日本は言語優位、左脳優位、「日本主義=60歳30歳0歳の子宮的団子三兄弟+形骸化した伝統」の世界で、

対して、感覚優位、右脳優位、通時的クラウド主義(ルネサンス、西洋音楽、数学、などが良い例だ)

 

時代を超越したクラウドを糧にして、自分を作り上げることがない。

そもそも過去のものを今生きているもののように扱う精神に欠ける。

伝統伝統言うが「有職故実、浮世絵も含めてマンガ絵的輪郭線として死物として保存されている」。

 

日本人を見ていると、ホシュだの何だの言っているが、「自分が子供の頃にインストールされた癖」を維持したい人達にしか見えない。それぞれの癖をホシュするために絶叫している。

自分の癖も含めて、全ての癖を相対化して眺める精神の作法に欠けている。それはインテリではない。日本に成熟したインテリはいない?これは昔から言われていることなんだけどね。

 

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黒板君でもボール君でも良いが、筋肉の位置が分からない。

大腿四頭筋はどこだ?「ある者はあそこだ、別の者はここだ」と。

腕橈骨筋が全身に及び、僧帽筋上部が足元まで伸びてしまっている。

輪郭が不定なのだ。

そもそも大腿四頭筋とか腕橈骨筋とか僧帽筋とか名付けるべき対象なのかも疑わしい。

それでも何とか分けて、名付けたのだが、腑分けしてみれば、「人それぞれの分け方名付け方」が出来上がり、「これでは統一規格にならずコミュニケーションを取りづらい」と言うことで、統一したのだが、「俺には俺の分け方名付け方がある」と名残惜しさもある。確かに「統一に基づいた訓練も参考にはなる」のだが、「いややっぱりな」と。そして我が道を往く。芸術の芽生えです?

 

ところで人は統一規格を学べているのだろうか?

人それぞれ同じ言葉を使っていても、全く別の意味に使っている場合もある。ペン一本取ってみても、ある者は鉛筆を、別の者は万年筆を彷彿としている。これが自由だの愛だのになってくるともう大変だ。

孔子も言葉の乱れについて言っている。プラトンも詩人を追放した。

言葉の意味を統一することで、相手を正しく理解できると。

「正言≒言葉を統一する」意志も人類には働き続けるが、結局「人それぞれ認識は違う」という現実が常に存在している。

 

「正言を学んでからオリジナルに向かいなさい」って、まあ、そう上手く育ちゃ良いんですけど、自らを省みれば分かるように、「無くて七癖あって七十七癖」と申しまして、「お前などお前の妄想的分け方名付け方に拘泥することしかできない気違いでしかない」ことを弁えなければならない。古代から「言葉の意味が乱れている!」と洋の東西を問わず騒いでいるわけですから、推して知るべしです。

確かに100円の買い物をして、1万円請求されたら怒ることができるのも人間なんですけどね。「私にとって100=1万ですから」と言われても社会が成り立たない。

 

まあでもだから、数字とかそういうのは未だ良いんですよ。「統一しろ」の圧力も凄い。

ところがさっき言ったような自由だの何だのという言葉はフレキシブルに使われている。自由に限らず、自らの思考を辿ってみなさい。かなり好い加減に、かなり独自に、いや誰一人として通じないような意味で使っていることも多い。

 

それがダメと言っているのではなく、ヤバい時もあるが、そこにお前らしさが宿っているのかも知れず、それを上手い具合に育てて、自分らしくなれたら素敵ですね。

 

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何故悪は存在するのか。議論は尽きない。

「蛇に唆されたから」

「なんで蛇に唆されるような不完全な存在を完全な神が作るの?」

「ドキドキしたかったから、チャレンジ精神、常に試される自分、生みの苦しみ(神にマイナスは無いが)」

それらも神の所有物であり、神は作らなくても良いこの世界を、意志を持って敢えて作った。

そして人間に意志を与えた。

意志のバックボーンには先に挙げたものがある。失敗すれば墜落するが、墜落から立ち直り、世界を調和させるのも、神の似姿の人間に課された課題であるから?

 

神は全知全能で意志を持っている。

人間は神から意志を与えられたが全知全能ではない。

意志とは「選択肢の中からこれと選ぶこと」である。

決断である。決断の背後には、認識ミス決断ミスなど色々な失敗が潜んでいる。

スポーツと同じである。

神は失敗しないし、失敗したと思いきやそれも成功にしてしまう全知全能だが、

人間は失敗するし、失敗するとへこたれる。

「神の劣化版である人間」は劣化版ゆえに「悪=善の欠如」を犯す。

 

福田恆存が言っているように「神学というのはイエス様の尻拭い」」である。

ところで「誰の尻をどう拭うのか」が問題で、

何を聖書にして、どういう理屈をつけるのかが腕の見せ所。

「ドラゴンボールを聖書にして、ジャンプ最高!」?

「ガラスの仮面を聖書にして、云云かんぬん」?

 

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女性は生物に惹かれる。

男は機械に惹かれる。

と言われるが、理想に関しては男も生きているものに惹かれるのではないかと俺は思っている。

生気の無い漫画絵では拍子抜けだ。ドラゴンボールはどうか?あれは生きているのだ W

 

機械に惹かれる男も、女に惹かれるわけで、その女と来たらやはり生き物で、2次元の女が好きでも、生き物のように扱っている。

 

ルネサンスも一度なくなったものを生き物として復活させている。そもそもロマネスクもゴシック建築も、宗教的理想をいわば強引に顕現させたわけである。

メイフラワー号に乗った人たちは、なんとアメリカを作ってしまった。

 

男にはどうやら「未来のイヴ=生きている過去=神の国=理想の女=決して存在しないもの」を実現したい欲求があるらしい。

 

妄想を形にして、そこに息を吹き込み、自律的に動く存在を作りたいのだ。

神様もそんな欲求から人間を生み出したのかもしれない。

 

ところで永井荷風は「日本人は妄想から歴史を突き動かしたことがない情けない民族なのです」と言っていた。

 

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文化も言葉も常識もとにかく何から何まで違うのだが、とにかくあなたは素晴らしい。

そんな素晴らしいあなたを尊重する作法を、私という愚か者は全く知らぬのですが、私なりに精一杯頑張ります。

結果的に無言で頷くだけになるかもしれないが、それが私にできる精一杯の礼節なのです。

 

ヘラヘラする素晴らしさ。

全ては冗談か何かであり、そうは言っても、時に真剣に取り組まざるを得ない問題もあるので、その時だけ少し頑張るw

半笑いの神。

神は半笑いであらせられるのである。

 

電車は、多くの人を早く安定的に運ぶことができて凄い。

ところで、電車は俺のことを好きなのだろうか?

好かれなくても、参考にしたり讃嘆したり感謝すれば良い。

それは相手が人でも同じだ。

 

お前がどんな奴か一瞬で理解したいから、

分かりやすいキャラを演じろ

ありがちな行動を取れ

皆と違うことするな

「型にハマっとけ」ってね。

「型にハマりたくない」と俺も含めて皆叫ぶが、意外に皆、型にハマって、その恩恵も受けている。

言葉なんて特にそうだし、信号も守る。

「いや、そこは十戒的なルールだから守って当然なんですが、それ以上に手取り足取り束縛してくるのが嫌なんですよ」と。

「私にも個性がありまして、そんなに型にハメられるのは苦しい思いんですよね」と。

私はそもそも「認識のコスパ問題」を言うなら、認識する側が基本ボケっとすることを要求する。

「誰が何を仕出かすか分からないことに慣れろ」と言うことだ。

テロなどは怖いので銃規制などには酷しい。これも十戒は徹底するが、他はダルダルと言う路線だ。

「軍隊とダルダル」の組み合わせで、中間が無い。それが良い。 日本人の漫画絵認識を改める必要がある。

油絵認識で、基本ボケッとできるようになれ。

 

「嫌味っぽく話し掛けるのではなく、正々堂々楽しくコミュニケーションしろよ」

それに対して「それは確かにそうなんだけど、そんな風に出来ないキモオタがほとんどなんだよ。そんな奴でも、嫌味っぽいけれど他者に語り掛けようとしているだけマトモなんだよ」という反論。

 

「外見や態度、話し方などで差別するのは良くない」と言いながら、お前は可愛い子を求めるアンビバレント。

「活き活きと清潔で、言葉遣いも態度もまともでなければ人は寄り付かないぞ」とアドバイスする優しさ。

 

丸いなあ。丸なった。

40を超えて丸なった。

「殴り合いや激論の末にどうにかこうにか落ち着いて、今じゃ心の形も分かる」

「ああいう考えもある、こういう考えもある。皆様ご苦労なすったのでしょう」と。

確かに、そうやって余裕を持って、人様を眺められるようになったのも立派な成長ってもんだが、

一方で「じゃあお前はなんなの?」ってのがあるんですよ。

「無数の意見に頷くだけの木偶の坊かよ」ってね。

「どうにかこうにか吹き過ぎて、ここでもう一盛り」

 

主観は主観であるのだが、

主観だけが正解となると、

誤解も正解になるので、

常に主観を超えた何かを想定するべきだ。

あらゆる存在は神秘である。

それは謙虚さを生む。

正解は人それぞれとも言えるし、全ての人の理解力など高が知れている。

それは本人が本人を認識する時も同じだ。

 

異質性前提でコミュニケーションしてきた歴史があるか。

近代になり他者性が突き付けられると異質性前提でどう話すか振る舞うかの蓄積された模範がないし、

日本人は臆病遺伝子があるので向こう三軒両隣りに縮こまってしまう。

 

「同質性前提だからそこまで言わんでも分かり合える」と言うが、同質性前提が崩れると、ただの「不愛想、ぶっきらぼう」になる。
異質性前提で積み上げられてきたコミュニケーションの歴史が無いんだよね。
Boys,be American!

 

マナーマナーうるせえ奴はコミュニケーションする機会を減らす。

どこにどんなマナーがあるか分からないからだ。

「そのマナーを学ぶまで俺と喋れないよ」などと言うつもりか?

何様か?

「万人に通用する十戒的マナーを徹底的に教え、それ以上を要求するのは無礼」と弁えることこそマナーだ。

そして私から言わせれば、マナーも言葉遣いも態度も動きも、「芸術的でなければ意味がない。受胎したくない」のだ。

 

「現実を舐め腐る」と言うが、なるほど良い表現かもしれぬ。

と言うのは現実など「舐め腐らせるもの」だからだ。

腐食させて骨だけが残ると軽くなる。現実を軽々しく思うことでユーモラスにクールに余裕を持って生きていける。

その上で自分の拘りがあれば、幾ばくかの骨を拾い、そこに肉付けしていく。その肉は天空から降りてくる。

 

「型が多い」と、自分がどこかの型にハマると思いがちだが、お前はお前である。その型と自分が似ているからだ。

「型が少ない」と、仕方なく合わせる時もあるが、結局「俺は俺だし」と忌憚なく思える。その型と自分が似ていないからだ。

日本は前者であり、ある程度納得のいくグループを形成するには便利だが、オーダーメイドからは遠ざかる。

「近似値集合文化」である。

「ジャストフィット文化」ではない。

「集合できれば集合知も糧にできる」と言うメリットはあるが、自分は成仏し切れない。

オーダーメイドを徹底的に意識しながら、集合知も活かせれば良い。それは不可能であろうか?そんなことは無いように思える。

 

「社会問題が多い外国に比べ、日本はまだ安定している」という論は、私は実際に国内国外の現実を知らないものの、「そうなのだろうな」とは思う。

だが「日本人が左脳優位で、型にハマりやすく、保存料天国であること」と「日本人に鬱病が多いこと」はどうにも関係がありそうで仕方がない。

 

博愛的なのは国家による洗脳ではなく、人間の性質の一つである。

ただ博愛的な人間もいれば、狭い範囲の人間を愛する人間もいる。

そもそも国家が「博愛的でありなさい」と国民を教育するか知らないが、大規模運営に向いた人間を多く必要とするのは当然だろう。

国家はそれを特に選び、奨励する。

狭く愛する人間もある程度は必要なのだろうが、それは自然発生に任せているのかもしれない。

私からすると理性的であれば自然と博愛的な傾向も強まると思っている。

 

言葉と言うのは意味とイメージがあり、論理も分かりやすく作り出せる。

言葉に触発されて浮かぶイメージは「夢を見ている時の映像」にも似ていると言う。

即ち文学とは「論理的に夢を見る行為」とも言え、だから文学者はよく狂う?

夢が明晰すぎて「夢と現実の区別がつかなくなる」のだろう。

 

かなりの同質性を前提としないと人間は拒否反応を示す。面倒やらなんやらだ。

だが「人に興味がない人間の集まり」を作れば良い。

「つんぼにめくら」でいろ、ということだ。

そして古代中世社会と近代社会の違いは、異質性前提を受け入れるかにある。

都市化である。

「人類最大の発明は?」と言う問いに「都市」と答える人間もいる

私も都市を推す。

異質性前提で、つんぼにめくら、住所不定無職がフラフラしている世界である。

そこでは「異質性に慣れる」という教育と、「翻訳こんにゃく」の発明が期待される。

まあ、そんな用意周到なことをする以前に、きもい奴は溢れかえり、引きこもり社会になるのだろうが。

ところで俺は筋トレをして、占い師なだけあって毎日コミュニケーションしている。

そろそろ服装にも気を付けようとしている。

 

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吉田松陰は獄中で古典文法を唸り散らしていたようで、当時の武士たちもそれに倣ったそうである。

ちなみに聡明なる私は高校時代に「受験勉強が古典だ」と気付いただけでなく、「古語文法こそ日本の古典だ」とも気付いた。

気付きのミソは、先ず「日本代表として出せるものは何か?」と考えたこと。

中国からは書を出せる。

ヨーロッパ大陸からはクラシック音楽を出せる。

じゃあ日本は?

能歌舞伎文楽?完成度は素晴らしくても、通時性が足りない。

富士山?あれは山だからなあ。

寿司天ぷら?象徴的ではあるが断片的とも言える。

 

古典の条件(市川 裕 東京大学・大学院人文社会系研究科教授)

1、古代のある時代までに作られて完成された思想がその中に語られている。

2、そのテキストの価値を皆が共有している。解釈の歴史さえも共有している。

3、そのテキストを導く人が必要で、学問が伝達されるための組織的体制も必要。

プラス俺

時を越えた膨大な人数の参加。

先輩も参考書も豊富。

奇手・裏技なども飲み込みながら進軍。

昔の亜流も本流に結合。

世阿弥的な綴錦。

などなど古典の凄さは枚挙に暇がない。

 

こうなると日本から出せる文化芸術は漫画アニメを筆頭に沢山あるが、古典として提出できるものはそんなに無いはずだ。

和歌短歌俳句なら「言霊の幸ふ国」と言うこともあり良いだろうが、それにしても和歌がそこまで通時的かと言うと書にもクラシック音楽にも及ばない。和歌短歌俳句セットなら何とかなるかもしれない。ただ教育体制はどうかと言うと、所謂教育体制など無くても「自然発生的な盛り上がりや共有も教育だ」と言う意見も分かるが、それでも所謂教育体制は低いように思う。漫画アニメも古代から存在しているわけではない(色々な観点はあるが実際のところ存在しなかった)。能歌舞伎文楽も、では逆に時代を超えた骨格となり幅広い影響を与えたかと言うと、書やクラシックと言った時に持つ「本源性・総合性」はない。バロック音楽とかロマン派とかオペラの一形式と言ったところだろう。

 

そうなると古典文法から和歌短歌俳句・漫画アニメ・日本語の全てを捉えて「それらは結局のところ古典文法を骨格としています」と言った方が良い。ちなみにオノマトペや文法の破格、現代日本語も古典文法の視野に入る。古典文法とはそんなにヤワなものではない。雑音もクラシック音楽の範疇のようなものである。

 

ところでクラシック音楽をやっている人間があらゆる音楽を「平等」に眺められるように、古典文法をやるとあらゆる日本語に冷静に対処できる。例えば言語の勉強をしている人は昔から自由闊達で破格もありまくり、現代に流行りの日本語が出現しても平気で取り込んでしまう。

源氏物語などとりとめなき子供の感想文と見る向きもあり(私は全くそう思わないが)、相馬御風など明治時代にもうパンク過ぎて日本語なのかい?って感じだし、そもそも万葉集なんて読めんの?

 

古典文法は古代から完成していたし、その後もお寺やらなんやらで色々研究されていた。確かに仏教哲学などに比べて哲学的深遠があるかと言われればそうでもないだろうが、まあでも源氏物語もあるわけだし、和歌もあるわけだし、哲学的世界観を提示しているわけではないものの、言語体系ですからね、それはそれで一つの総合的体系であり、世界観でもありましょう。

 

「哲学が提示する世界観」と「ある一つの言語体系が示す世界観」

どちらが深く重みがあるか。それはわかりませんが、哲学も言語で考えているところを見ると、やっぱり凄いんじゃないの?

インド語!実際にイン哲は最強だからなw インド人の外国語学習能力は世界一だろうし。やっぱ凄いんだよ。

と言うことで、日本の古典はやっぱり古典文法というお話でした。

 

古典文法はしばしば読み返すが、「お経のように詠む」という習慣は無かった。お経と位置付けて日々唸る、黙読するのが良いな。

ちなみに近代日本語の九成宮は三島由紀夫の『金閣寺』だと思っている。

古典文法と『金閣寺』を唸り散らすか。

 

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日本は女の国だからカタルシス機能のある人間をイジメる。

男をやっつける本能だ。

喜怒哀楽、プラスマイナス全てを発揮するのが人間の生き様であり、便所も必要だ。

何を便所にするか?

男はスポーツを清々しく便所にすべきだが、女はカタルシス機能がないのでイジメが必須になる。

イジメは汚い。

なので全人類は男になるべきである。

と言うより、人間はロボットになるべきである。

何故ならないのだろう?

 

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偉いのは神だけであり、他はどれほどの人でも、そんなでもない。

人は皆平等に神の奴隷である。

人間の分際で威張る奴がいれば、悪い子はいねかとナマハゲの如く、狩りに行かねばならない。

内村鑑三も「神様に頭を下げろと言われても、あの神この神言うことが違いますので、はて、これは困ったことになりました」と言っていた。

 

理由を述べる時は「相当因果関係で抑え、無限に述べることなかれ」と言われても、あの単純で有名な国際情勢ですら複雑怪奇ですから、無理なんですよね。

これが「あなたは今なぜそこに存在しているのか」という問題になったら、さあ大変だ。

宇宙開闢から解いていかなくてはならない。

そこで逐一、宇宙史を述べる代わりに、直感的な詩を詠むことになる。

または「全ては神の思し召しのままです」と理由を述べる代わりに神を賛嘆することになる。

俺はそっち系が強すぎる。

 

ところで理由を述べるって、相手を安心させたり楽しませたりするためであって「正確性なんて二の次だ」という意見もある。

適当と思われると相手も安心しないし楽しめないので「結果的に正確であるべきだが、本質は安心と楽しませなのだ」と。

理由なんていくらでも出てくるし、どれが本当の理由かなんて誰にもわからないのだから、そういうもんでもありましょうね。人に対しては安心と楽しませだとして、自分に対してもそれは言えるのだが、俺の場合、どんな理由をつけるかも芸術的表現だと言いたい。そもそも論理も連想の一種ですからね。

人間、この神話的なるもの

なんでその人を好きになったの?理由を述べなさい。

その時その理由は果たして説得的であろうか?

気違いめいている?

恋とはいつもそんなもの。

 

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「実力も運のうち」という表現は私には非常に刺さる。

「だからお前ひとりの力と思ってはいけないよ」と。

その通りだと思う。

その力はどこから来たかと言うと無限から来ている。

トレーニーは特に鶏ムネに感謝すべきだが、鶏ムネだけでなく、他の食材、器材、それを作った人。道路や電気ガス水道などの社会資本にも感謝せねばならない。それらの複雑怪奇な因縁が自分を刻一刻作っているのであって、鶏ムネだけに感謝し、他を蔑ろにするなら、それは背徳的と言える。

 

鶏ムネだけに恩返しすると他が可哀想だ。

世話になった人の個人的意向だけを尊重すると「俺は鶏ムネだけに恩返ししたいんだよ!」となるので、強制的に徴税して、他のものにも配る必要がある(鶏ムネに多めに恩返ししたいなら個人的に行えば良い)。

 

兵役や社会資本などの管理は特に重要なため、待遇を厚くすることによって人を集める必要があるが、もしそれが不可能な場合は徴兵する。なので徴兵制も許される。

そのために国家権力が必要である。国家でなくても良いが、皆で管理できる権力である。うまく管理できるか分からないが、それが理想である。

 

GAFAが出てきた時に「プラットフォーマー経営学、管理学、活用学」などが必要だと思ったが、国家もそれと同じである。

 

ただ国家となると、本当に管理できるか分からないと言われる。

でも小規模的共同体(?)なら管理できるのだろうか?人間関係で雁字搦めになるだけなのではないだろうか?

 

大体そんなのが私の理想なのだが、それって何主義?国家主義?知らないw
常識で俺を束縛してきたり、マナーにうるさかったり、上下関係に厳しいのは無理。
そもそも俺は極度の学校嫌いだしな。

グローバルがなんで好きかと言うと、近代とは数と可能性の時代であり、常識ではなく、頭で考えると、大体グローバル規模、宇宙規模の思考になっていくので、ピタッと来るからである。

ちなみに「人の顔の見える範囲の共同体が良い」と言うが、見えなくて良いw そんなのウゼえからw
その分すぐに笛が鳴って厳しく取り締まるとかね。ああ、でもそれもうぜえわw 「そこは絶対に守れよ」的な十戒には凄く厳しいが、他はダルダルくらいが良い。
そこをどう決めていくかは常に議論されなければならない。
誰が取り締まるかと言うと、基本的に警察であり、警察の腐敗も徹底的に牽制しなくてはならない。

 

要は「田舎万歳!人間関係大好き!向こう三軒両隣が落ち着く」という価値観が俺には無理であり、「隣は何をする人ぞ」で知ったこっちゃなく、国際都市で言葉も通じねえ代わりに、憲兵みたいなのがうろちょろしているのが最高であり、それは観光地?

 

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「全ての人が何でもありのMMAに取り組んだら、誰がそれぞれの武術を継承するのよ」という話があるが、それをこそAIに任せてしまえば良い。それ面白いな。

現実の人間を投影して、その武術ならではの動きでどこまでできるかシュミレーションしまくる。色々な人が参考にできるだろう。螳螂拳とかね。

逆に八極拳とかをAIのシミュレーションで究極に強くして、「極めるとここまで行くのか」と伝統的な拳法を基本とした動きで、MMAで勝ちまくるとかな。

それいいよ!

なので何でもありのMMA的なものもシュミレーションできるし、伝統的な武術を継承発展させることも、AIならできるだろう。

結局個人個人がどう生きたいかだが、全員がMMAに行ったら古武術がなくなるという心配はない。

ところでそもそも今と昔とでは、今の方が古武術も栄えている。人口も情報も多いから。

 

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地上に於いて身に納め文化を継承していく

天上に向けて身から離し古典を蓄積していく

 

西洋では「遠い理想実現学」が発達しました。

 

日本が通時的でないのは、女が「生きているもの好き」だからである。女は今をイキイキ生きているものが好き。

「遠い理想やロマンを胸に遠い理想も蘇らせれば良いじゃん」と思うが、やはり望遠レンズではなく広角レンズなのだろう。遠いものは生きているとは思えない。

だが一度蘇らせて、蘇ったものが本当に生き物っぽく感じられれば、それも愛することはある。

「死人から射出された〇液を受胎したい」とは思えないよねw

 

私はしばしば言うが、育ちの良さとは、人や物に牽引され牽制されて出来上がる。

その人や物が所謂上品なものだと「育ちが良い」とされるのだろうが、俺としてはヤンキー系も育ちが良く思える。

所謂上品なものでなくても牽引牽制してくれる人や物に囲まれているからだ。

私はこれによって「育ち良くあれ」と言いたいのではない。

焼け野原の眺望こそ、無手勝流でイメージできる最高のキャンヴァスであり、白地に一滴の深紅が落ちれば、その輝きは掛け替えのないものとなる。

「それしか見えない。もうぶるるん!」と恥も外聞もなく駆けておしまいなさい!

「葉隠」は、一面謙譲の美徳をほめそやしながら、一面人間のエネルギーが、エネルギー自体の法則に従って、大きな行動を成就するところに着目した。エネルギーには行き過ぎということはあり得ない。獅子が疾走していくときに、獅子の足下に荒野はたちまち過ぎ去って、獅子はあるいは追っていた獲物をも通り過ぎて、荒野のかなたへ走り出してしまうかもしれない。なぜならば彼が獅子だからだ。

三島由紀夫『葉隠入門』

 

どのような人間が威張るのだろうか?

「富て驕らず」の教えを貫くと、威張り散らしてえ奴が金持ちを目指さないから社会を停滞させる可能性はある。

結局「小金持ちが一杯」か「兆大金持ちが少数か」。

うぜえから後者で良い。そして小金持ちの利便性などAIで代用すれば良いと思ってしまう。後者も置き換えられるだろうが、別にそれならそれで良いじゃん。

いや、別に威張る奴が嫌いと言うわけでもないんですけどねw

ただ威張る奴は「神=無限」を蔑ろにして、「自分を絶対=悪魔」として振舞ってくるから、やはりキリスト教徒としては懲らしめる必要がある?

ただキリスト教も「神々≒悪魔」を利用してのし上がっているので、まあ、そこそこですわw

「キリスト教の言う天使のなんと悪魔に似たることよ」バタイユ

 

メディアリテラシーがない人はどうすれば良いんですか?

メディアリテラシーがある人が得して、私たちは損しちゃうのでは?そんなのイヤだから、神に一網打尽にしてもらいたい。それで皆を幸せにしてほしい。

「その願い叶えて進ぜよう」

人間の頑張りたくない欲望って凄いですから。

 

近くのスーパーで売っている「アジの南蛮漬け」がなかなかです。
自分で作るのは手間なのでこれからも買おうと思います。
昔「ポテサラじじい」と言う妖怪がいたが、先ず自分で作ってみろって。
「知ったこっちゃない精神で、仕事だけに邁進するオヤジ」が多い方が回りまわって社会にとってプラスなのだという意見もあるが、知らぬ。軍人のように身の回りのことは自分で出来るようになれ。
「身の回りのことを全部自分で出来ちゃったら家政婦はどうすんのよ?家から電気ガス水道からブタから何から自作すんのか?」と。
良いんじゃない?そこはいつものディストピア。
 

「社会社会っていうけど、そんなに社会の仕組や成り行きにお詳しいのですか?」

「詳しくは無いけど、ある程度安定する方向を示していきたいと思います」

「まあ、ただどうなるか分かりませんから我儘言ってりゃ良いような気もしてきました。神の見えざる手で調整してくれませんかね?」

やっぱりここでもフルダイヴ式VRが求められる。それしか勝たん?

 

俺もお前らを点に見ているのだから、お前らが俺を点に見るのも当然のことだ。

そこには何の不当さもない。

 

野蛮さを維持するためには知性が必要である。放っておけば人は皆、常識化するからである。

 

一神教というのは一神教というだけあって、統一を求めるのだが、その統一というのは「無限の多様性」を前提にしており、無限の多様性の中で人は生きていけないので、「多様性に対処する処方箋」を培ってきた宗教とも言える。

 

「ナチスはキリスト教の戯画」と言うのはよく言われることで、俺もそう思う。これは特に東方にありがちな傾向で、「ある特定の価値観を超越する神」を想定するは良いが、超越存在を現実に求めてしまうから、独裁者が生まれる。無論、独裁者は現実存在なので「特定の偏り」を持っている。神ではない。

これもクラシックの大指揮者が生まれるのと同じ理由(?)で、確かにすげえのだが、神ではない。神ではないが「人間の分際にしては王様的才能はある」わけだ。なのでまさに芸術領域に於ける指揮者には向いている。だが神ではない。「ある特定の価値観を統御する存在」としては良い。

無論「現実を理想化しよう」という試みこそが高速道路を生んだり、ベンツを生んだり、化学肥料を生んだり、色々と有難いのだが、それにしても「現実=理想」ではない。「現実存在=神」ではない。まあ、そのくらいの勢いがある方が色々と産んでくれるんでしょうけどね。

 

そうは言っても、人と言う存在は環境の積み重ねによって出現したのであるが、ニュートラルを想定した場合、それ以外になりたくない欲望がある。俺にはある。身に着けるのではなく、外置きするのだ。身に着けないために頑張る。何としても外置きしなくてはならない。

逆に「いや、そうは言っても汚染されていますよ」と言われるだろうが、「その通り。でもあなたも身に着けられていませんよ」と返す。完璧に外置することも、完璧に内蔵することも共に不可能なのだ。

外置きとは何だろうか?ユーモアセンス、自分を客観視する、価値観を相対化するあたりだろうか。

 

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ニーチェやDHロレンスが言っているように「日輪と共に始めよ。全ては随って起こるであろう」ってやつで、キリスト教は「ユダヤ的神とヨーロッパの文化の混交」とも言われる。あるいは「砂漠の宗教が森の宗教を利用した」とも言われる。

私からすれば「女に性転換手術を施した宗教」である。

ヨーロッパでは天空神が地母神を殺して主導権を得ている。そう考えると、ヨーロッパにキリスト教が広まったのも、キリスト教以前にその型が出来ており、そこにすっぽりハマったとも見える。歴史は繰り返す?

 

ロレンスはニーチェのように自然を憎むユダヤ=キリスト的感覚が人間の本能を蝕んでいると指摘している。まことにその通りで、放っておくとキリスト教は弱者のルサンチマンに成り下がる。いや、本来確かにそういうものなのかも知れぬ。自然の生理を否定し、人工的な人間像を作り上げる。その人間像は美しもあるが、実は弱者の嫉妬、不健康を素材にして作られたものだと。

「そうでもあろうね」と私はあっけらかんと答える。ところでギリシャ彫刻も人工的な美である。幾何学も自然と対立的に思える(いや対立的でなくても良いんですけどね)。

しかし私から言わせれば、キリスト教もギリシャ彫刻も幾何学も、男の生理が生んだものであり、男も自然の一部とも言えるのだから「別に自然じゃん」と言う話なのだ。

ユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教は「憎悪の宗教、復讐の宗教」と言われることもある。「そうでもあろうね」と私はあっけらかんと答える。ただそんな復讐の宗教がそんなに世界に広まっているのは何故か?人類が生来的に生理的に「復讐的」だからではないか?そこまで合わないものを人は受け付けない。本能的に欲する何かだから受け入れるとも見える。

 

実際、人は皆弱者であり、弱者ならではの不健全さから、傲慢に鉄槌を食らわせたいと思っている。

それは人ひとりを取ってもそうで、理想だけが先走っても現実が追い付かなかったり、頑張り過ぎると体に祟りポキっといってしまうようなものである。この場合「理想や頑張りが強者であり、追い付かず祟る方が弱者」である。

実際に古代宗教の神々と言うのは、その辺を弁えず滅んでいったと言える。最初は勢いよく登場するのだが、やがて何らかの理由で潰えてしまう。何らかの理由とは結局のところ「人類の、あるいは自らの弱者性を顧みなかった」ことかも知れない。

 

キリスト教にせよイスラム教にせよ、世界的に宗教に伸し上がった宗教は「恨みつらみ嫉み≒弱者≒人間は皆弱くて汚い」を認めて、原動力に出来たからこそ、サステイナブルに蔓延ったのかもしれない。

ちなみに「頑張りたい」という意識も誰にでもあり、美輪明宏が「強い男なんて架空の生物、龍やグリフォンと同じ」と言っていたように「男は頑張って理想を追求しないと生きていけない弱さ」も持っている。

事程左様に人間は色々な意味で弱い。その色々な弱さを認めて、エネルギーにできたから世界宗教になれたのだ。

 

で、まあ、キリスト教は西洋に広まった宗教なので、男性的であり、男の弱さには事程左様に色々と寛容なのであるが、女の弱さには寛容ではない。寛容ではない代わりに「男にしてあげようとする」わけだ。そこに痺れる憧れるで、これに比べるとイスラム教は「女をかくまってあげている」感じで、あのヴェールはドライな気候から女の柔肌を守ってあげているのだ。キリスト教はそのヴェールを引き裂き、「てめえ慣れろ。男になれば一発だ」と容赦がない。そこに痺れる憧れるで、キリスト教会というのはのほほんと見えるが、外科室であり、古代の女神たちの死体が埋まっている。人造人間ならぬ人造女神を作る場所だったんですね。実際によく教会から骨が出てきて問題になっている。原住民を浚ってレ〇〇して殺してるんですよね。民だけでなく「原住神」にも同じことをしています。

 

「キリスト教がそういう宗教であることをバラすのは良くない」という文化防衛本能がハイデガーを無視させているのかも知れない。

でもそれだけではなく、それを自覚しない方が爆発力があるんだよね。男が「男は弱い」なんて自覚しちゃったら、強さへの階段を大きく上がってしまう。「強さへの第一歩は自分の弱さを自覚すること」とも言うからな。

でもそれを自覚することで、また強くなるのも事実で、強さの希求も「人類の本能≒弱さ」であり、「ニーチェやロレンスはキリスト教の聖人として列聖されるかもしれぬのである(福田恆存)」って感じよ。

そう考えると、ハイデガーがヨーロッパより日本で広まっているのも「キリスト教がアジアの神々にも習おう=攫おう=糧にしよう」という本能なのかもしれない。

 

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ガスコイン神父とマルキ・ド・サド

三島由紀夫が言っている通り「キリスト教の自然ほど自然から乖離したものはない」。

それは弱者の嫉妬であろうか?

あるいは強さへの渇望であろうか?

 

そもそも不定形な素材を特定の型にはめ込んだり、

色々な方向に飛び出していきたい本能を特定の理念の元に束縛すれば、

そこに葛藤軋轢対立が生まれて当然である。

サディズムなりキリスト教はその葛藤を楽しみたいという戦闘欲求なのかもしれない。

人間という場所は天使と悪魔が戦う劇場。

 

環境主義で生活を「彩る」ことも

キリスト教的世界観で世界に意味を与えて人々をニヒリズムから救出することに似ている。

実際、環境主義って24時間体制で楽しめるからなw

ヒップホップ?!

 

日本人や日本社会は複雑系で生きており、企業もそれを織り込んでビジネスをしているのに、戦争になると参謀が弱いんですね。

生の現実に触れている時は柔軟でも、一度抽象的な場に行くと生の現実を織り込めない感じですかね。ドイツの場合はロマン派のように音楽的に抽象しても、かなり柔軟ですよね。

禅などは抽象的理論と言うより、「生の現実を体験しろ」という感じですものね。

日本の生と抽象的理論の関係って、自分は勝手気ままに生きていた女が、一度母親になると子供に無理な束縛をすることに似ていませんか?

「理論化する、作戦に落とし込む」って、変数を前提としながら、目的と守るべきポイントは守ると言うことにあると思いますね。

変数を前提として、「ここは絶対に固定が良い。ここはまあまあ変わって良い。ここは緩くて良い」と決めポイントとゆるポイントを分けることでもあると思いますね。

変数の扱い、変数の固定性と柔軟性でバランスを取ること。

生の現実から離れて理論化・作戦化しても、生の現実の生々しさを忘れないこと。

 

 

私は「かな書」が大好きで、日本文化の何たるかを示して余りあるとも思うが、

「書」ということで言うと、日本と中国の書の差は「イギリスと欧州大陸のクラシック音楽の差」に似ている。

無論、中国と欧州大陸が圧倒的な本場だ。歴史上、日本の楷書に碌なものはない。

反論があるなら見せてくれ。見たいし。

 

私はユーモアが大好きだが、ユーモアのいけないところは「開き直る」ところである。センチメンタルに小さく「あいつよりマシだ」とウジウジしている心性こそが道徳の根本なのであって、「それを否定してしまっては社会など持たない」と言う意見もある。

例えばイギリスはユーモアの国でもあり、近代スポーツ発祥の国でもあるが「結局、極悪非道な聞かん坊じゃん」という意見がある。「スポーツや芸術でカタルシスを得ても、結局どこかで現実に於いて爆発するんだ」と。そうでもあろうね。

 

神は人間を愛する。

神は人間が不完全であることを知っている。

神は不完全な人間を愛している。

その神の意志(我々は不完全だけど、神はそんな我々を愛してくれている)を教会は信者に伝える

信者はこの神の愛を理解し、自分自身と他者の不完全性を受け入れ、愛し合いながら生きることを目指す。

 

そもそも敬うなら神を敬わなければならないものを「先輩」などと言う無限に存在する有限なる存在を絶対(?)と見做し、異なる意見を敬わない時点で高が知れた道徳観よ。

 

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「ただで済むと思うなよ」とは「しがらみの中で生きずに済むともうなよ=しがらみの中で束縛されろ!」という意味でもあるが、そこはビッグテックと軍事力で何とか打開しなければならない。

 

アメリカは日本やロシア(的なるもの)を恐れており、日本を「本の引っ繰り返し」という作業に終始させておきたい。

これはアメリカのイギリス的面より、大陸的な面から来ていると私は勘繰っている。

それは民主党に強めだが、共和党に無いわけでもない。

その根本は現実的には「ノルマンコンクエストに遡る」と私は思っている。

英語圏はどこかで「ウィリアム一世的な魔法戦士をインストールしないとヤバい」本能が働いている。

だが一度ウィリアム一世を受胎すると、ウィリアム一世が「古女房」になり、新たな女房の出現を恐れ始める。

西洋はコスモスを志向しながら、教会の天辺に十字架を刺したり、どこかでカオスを流入させる本能がある。

受胎させるにあたり、女の体内で徹底抗戦が行われるように「ウィリアム一世=新女房候補」は徹底的に淘汰される。

 

で、受胎させるにあたり、北風と太陽で「日本は怖くないですよ=太陽」と説得する方法もあるし、「いや確かに怖いよw=北風」と〇〇プする方法があり、私は後者で良いと思っている。

「何を仕出かすか分からない」ではなく「何が起こるか分からない」のだから、「どうせだったら〇〇pe me」という戦略である。

 

偉大な国は「北風と太陽を両方とも経験する義務」があり、イングランドもノルマンコンクエストされたくてされたわけではないだろうが、いや、されたかったのである。

 

「近代以降アングロサクソンに戦争を仕掛けたものは必ず敗れる。そのアングロサクソンを破ったウィリアム一世からイギリスの近代史は始まる」福田恆存『私の英國史』

 

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「白人が自分達の後ろめたさを解消するために、アジア人に罪を擦り付ける」。これも男という存在の弱さを象徴している。「綺麗でいたい」のだ。ワタシキレイの男版だね。

無論過去に向き合ったり、ヘラヘラできる奴もいるが、ピューリタン的感覚も男にはあり、その弱者性が社会規模では、こう現れる。

 

「砂の上にわが恋人の名をかけば波のよせきてかげもとどめず」

浜辺にラブレターを書いたのは100年前の落合直文だが、100年前に書いたのならば、1000年前にも書かれているはずで、遡れば文字を得て直ぐのことだろう。

我は海の子白浪の。

 

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フランスのお家芸は「涜神(とくしん)=神を穢すこと」だが、神はそれ以上の存在であり、いくら穢しても神は傷つかないし、それは「人間が決めた神の概念を相対化しているだけ」なので、本質的には問題ないが、結局「賛美も冒涜もセンス」の問題である。

 

本質的には、涜神の精神あればこそ「世俗化≒私からすればそれがキリスト教の近代化」できたわけで、人間が勝手に決めた神の概念など一片の多様性の前に葬り去られる。

「無限なる神を、有限なる自分の妄想」に閉じ込める背教者には聖なる鉄槌が下って然るべき。

 

Aさんが神の教えだと思い込んでいるものに対して、Bさんが「俺の神はそんな教えをクソだと言っています」とお伝えすることは、

・神の無限性

・有限なる価値観の多様性

・貶されることなんて当然にあるという心構え

・それでも俺は一個人として「この考え方が好きだ」という信念

・「やっぱりBさんの考え方も良いな」という柔軟性

などを教えることになるので、本質的には涜神とは非常に良いものである。

 

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「欠点のある人や過去に傷ある人には、何も学びたくない」と言うなら、どこの国も虐殺の歴史があるわけで、誰にも学べなくなってしまう。

それに対して「今生きている人に関しては欠点や傷が気になるが、死んだ人なら、それらがあっても学んでも良い」と言うかもしれない。

結局日本の60年主義だね。

学ぶと言うことは、ある意味「遜る」ことであり、死んだ奴になら遜っても良いが、生きている人間に学ぶべき点があっても「素直に学んじゃったら自分のプライドが許さないから学ばないよ」と言う弱い心が根底にあるのかも知れない。「会う人皆先生」の逆であり、そんなの弱者である。

 

私は理系偏差値40で、文系偏差値80なので、文章が論理的でないことはないし、論理は大好きなのだが(論理とは定義の必然的展開)、

「同じことを繰り返し言ったり、文章に無駄が多い」とよく言われる。 しかしそこにこそ我が真骨頂が現れている。同じような言葉でも微妙に違い、それを表現せずにいることに我慢できないのだ。

そんな文章を10年も20年も書き続けると、そのニュアンスの違いが大きく花開いていく。

しかも無駄だというが、本当に無駄かわからないし、無駄のない文章を書く人が実は無駄なことを書いていたり、重要なことを取りこぼしていたりすることはよくあるだろう。

 

学力とは、

1,冷静に切った貼ったできる能力であり、

2,それを自分に適用する能力=「そんなのモンタージュに過ぎない」と批判されても「頑張って消化します」と。

いや「学力とは」と言うより、学が無い人間は、その作法を冷静に進める力が弱いような気がする。

 

人は繋がっており、誰かをナメたらチクられる。「あの人がこんな風に私を馬鹿にしました」ってな。それに対して、そんなに油断も隙も無い世の中なら「誰をナメたら良いの?私のナメたい欲をどう解消してくれるの?」と来る。

「命懸けでナメろ」と言いたい。誰もナメてはならぬの裏返しだ。

 

平時は戦争反対と叫べば、反戦の心に酔い痴れ、反戦仲間を広げられる。これはこれで一つの生き方だ。

いざミサイルが飛んで来たら「やっぱりやり返して!」と叫ぶ。

結局「平時は反戦を叫んでも、戦時にも対応できるのだから、それで良いじゃん」という意見。 

問題なのは、反戦の度が過ぎて、本当に戦時対応できなくなることである。

サヨクとしては戦時対応要員を生かさず殺さずにしておくことがミソで、

「平時の酔い痴れ+戦時対応」を可能にするには、何だかんだで本当は戦争できる国にしておきたいのである。(意識的に狙ったのでは「酔い痴れる」ことができないので、戦時対応要員を生かして置くくらいにするのは少数の指揮者のような人がいれば良いのかも知れない)

 

日本の場合、大和朝廷成立と大和朝廷による日本統一が、そこまで和を以て貴しとなされたかは分からないが、外国よりは穏便な気がするw まあ、建国神話などそんなものだろうが、何をどのように正当化・正統化するかに国柄が出るのだろう。

キリスト教が天賦人権説かと問われれば、具体的な内容は言ってないものの、明らかに天賦人権説である。国より先に神があり、神は有限なるものの尊厳も守るからである。神に具体的な力はないので、国家を教導する必要がある。

欧州大陸の長所も短所も「大陸法的・最初に設計する」感覚であり、グローバル企業もそれである。王様も神でないから処刑され得なければならないが、王様的感覚である。 あるゲーム世界を作るようなもので、人間の定義はゲームごとに異なるが、そのゲームでは決まっている。変化しても良いが。

大陸の場合、価値観の統一が為されにくいので、「フィクション=このゲーム=特定のルールに参加しろ」と収めていく必要がある。

結局アメリカからグローバル企業が出るのは、島国的な現実感覚と大陸的な制度設計感覚のある人間が排出されるからだと思っている。

現実を生々しく想像しているとコスパが悪い。 一方で固定的に見ると例外を想定できない。

まさに「X=エックス=未知数」という塩梅。

グローバル企業を作るのが白人男性ばかりなのは、アルファベット脳だからだろう。

ちなみにフランス革命について私は全然知らない。バークは読んだが。思うところが多々あるはずだ。

結局「伝統や常識や流れなどクソ」という超時空的感覚か。バークが批判する所であるが、そこが魅力でもあり、文化的遺伝子は世界にバラまかれる。

結局「古典vs伝統」という構図。

フランス革命で虐殺が多いのもキリスト教が色々な神様を虐殺したことと符合するのかも知れない。カルトを禁止する力も、フランスでは強いし。

プロテスタント的な「それはそれで認める=自治権を認める」ではなく、一旦フラットにして、その上で「個人を直接支配する」。

英米の虐殺数は中国よりは少ないが、フランスよりは多いだろう。知らんけど。

だが同胞を殺すという観点を取ると、さすがに左翼が圧倒的で、これは大昔からそうだろう。

「異なる存在」を許せないヒステリズムがある。

「私は私、人は人」と言うより、「他者も内包してしまう」心性が虐殺に繋がると予想する。太古の昔より「対他的なスポーティーな戦争は男神の役割」だが「内部への虐殺は女神の役割(間引き?)」。

女は精子を殺しまくる。「内部に気に喰わない存在」があることを身の毛がよだつほど嫌うのだが、その存在をゼロにできないので、どこかでヒステリズムを爆発させて、バランスを取る必要があるのだろう。

「ナチスはカトリックの戯画である」という意見もあり、私もそう思う。
近代国家というのはカトリックのバリエーションであり、さらにビッグテックがそうである。
「戯画と本物は違う」けれど。
宗教改革と対抗宗教改革ではないが、どちらもポンコツでも、進化(?)していく。

 

ドイツ人ってのは、定期的にゲロを吐かないと生きられない民族で、ドイツはローマ的洗練を受けていない分、「原始の吸い上げ」が強い。ドイツ語を話していると、何かを掬う時に、川底の泥も浚ってしまう。それをたまに吐き出すわけだ。

「おじさんの詰め合わせ」的な汚いイメージが実は常に脳内に巣くっている。

ドイツ人の目は恨みを持った目だ。

それはローマ的洗練へ上昇する時に、切り落とされるものへの未練だ。

その堆積が黒い森を形成し、時に芸術に昇華され、時に嘔吐物になる。

洗練された上澄みを提示するだけの「ローマ諸国」への憧憬と軽蔑だ。

実際ゲーテも含めて、ドイツ人はイタリアへのどうしようもない憧憬と悲恋がある。

泣いている。

ドイツが古代ローマをスルーして、古代ギリシャの復権を歌った時、横目に見たイタリアは暗く輝いていた。

 

昔、友人が「目を瞑っても見える幽霊」というのを発明し、「そんなの発明しちゃダメだよ。パンドラ開けたな」と諫めたものだが、武術の心構えでも「お前が妄想していれば常に敵はそこにいる」というのがあって、トラウマ系も同じことだろう。

逆に「目を瞑っても見える幽霊」という存在を明確にプレゼンすることによって、「トラウマというのはそういうことだよ」と意識できて、トラウマ改善に役立つ可能性もあるかも。

 

近代は情報と交通が圧倒的に発達した時代であり、他者との接触が激しい。異質性前提でのコミュニケーション能力が求められる。 日本は島国であり、それが幻想であろうが事実であろうが同一性前提であった。「人と触れ合う」と言った場合、あたかも自分が未知の人と話せる能力アリと錯覚するかもしれないが、多くの場合「似た人」と話していただけである。

ところが価値観も多様化したところで、異質性が確かになると、異質なものとコミュニケーションできる能力に欠けていることに気付かざるを得ない。そこに現代のSNSがあるから「仲間内で引き籠れる」わけだ。元より「仲間以外は皆風景」という田舎根性が強い日本だけに、近代を今更目の当たりにし、技術もあれば「仲間だけ」に引き籠るのは明らかだった。

ただそもそもさらに技術が発達して、「一人自己完結的な生活が面白くなれば=一人に一つの完全没入型VRがあれば」、仲間すら要らなくなるだろうが。

 

 

 

【ヒップホップ感想】

文化の根本と頂点は言語であり、日本のhiphopは結局勝つ。日本語強過ぎる。

「英語的なるもの」が好きなら「英語的なるもの」にすれば良いだけ。

「英語も日本語である」

 

【HIPHOP、ライフスタイル、落語家、サステイナブル、五体満足】

俺は神職や落語家に憧れていた。生活全体を芸術化したかったからだ。伝統工芸士や伝統農業などにも同じ理由で憧れていた。少なからずの人がそうだろう。永井荷風や私小説作家が生活全体を作品にしないと遣り切れなかったのもそういうことだろう。そもそも「意味のない時間・意味のない行動」が嫌なんだよね。刻一刻、一挙手一投足に意味を持たせて充実した人生を送りたい。

HIPHOPがファッションから入ったり、生活全体を作品にするのも、そのような欲望が大きく影響しているからだろうか。だとしたら「HIPHOPは恵まれている」。「現代生活に基づいて五体満足」だからね。俺なんか「神職たるものエアコンを使ってはならない」と部屋のエアコンを止めてみたのだが、2分でギブアップした。落語家や伝統工芸士なども不便だし禁欲的であらねばならず「無理だわ」と挫折した。そもそも現代生活の素材を全て扱えるスタンスでないと意味を付与できない対象が多過ぎて、世界の殆どが真っ白なままになってしまう。HIPHOPのように扱う対象が何でもありだと「こち亀」的に自分の世界に自分の好みに応じて引き摺り込める。と言うことは、自分と全て(と言って言い過ぎならとても多くの対象)の間に何らかの関係が出来て、意味を付与できる。「エアコンを使わないのがヒップホッパー」ってこともないだろうから現代生活の利便性を享受しても世界観は崩れない。

日本の私小説作家は色々と批判を受けるが、日本文学史にとっての圧倒的な意味は「扱う素材の圧倒的拡大」にあるんだよね。具体的な私小説作品だけでなく、私小説を書いた作家は素材の拡大を齎した人が多い。それは結局「人生ずっと気持ち良くないと嫌だ」という人間にとっての根本的な欲求から来ているのかも知れない。(逆に今、私小説作家が出るとすれば「リアルさによって重さ・世界観などを作る」だろうか。それはとうの昔にマンガによって達成されていると言うべきだろうけれど)

「五体満足でサステイナブルな世界」に没入すると、それがフィルターになって、世界の一つ一つに意味が出て来る。それが何よりの効用。生きてる甲斐があるってもんよ。それが無いと世界や自分の人生に意味を見出せなかったりする。空漠たる世界でニヒリズムに陥ってしまう。

俺の場合ゲームに没入して写真や俳句をやり続けて、俺の世界を作る「回路と素材」が出来てきたところで、短歌・和歌・授業とブレイクした。求めていた美しい街を建設できるようになっていた。

ちなみにHIPHOPに比べると、お笑いの世界は何か落語家的に厳しい感じがする。窮屈って言うか色々と面倒が多そう。HIPHOPの場合、毎日の時間割があるわけでもないし、人付き合いが面倒なら一人でやれば良いし、それでもネットを通じて同好者と繋がることもできるし、YOUTUBEなどで作品を発表できるし、受け手も好きな時に好きなように聞いてくれる。

素材が「全て」だといよいよ強い。「なんでもあり」は日本の御家芸でもあるし。

 

http://ameblo.jp/jsda/entry-12230028277.html

「HIPHOPはカルチャーだからね。HIPHOPはブロンクスのゲトーから発生して、みんな全部(4大要素)をやっていたし、それが自然なことだった。それ自体をHIPHOPと呼んだんだよ。だけどブロンクスから外に出た時に、それぞれ1つの要素に重きを置くという現象が起きたんだ。HIPHOPはライフスタイルだから。ダンスじゃないんだよ。カルチャーとしての中身をしっかり尊重することが大事だね」

そうなんだろうね。それだからこそ定着させる甲斐があるし、惹かれる人も多いのだと思う。それは「救い」にもなるし。

 

日本語ラップで頑張って韻踏んじゃうと、いよいよダサく聞こえる。全ての文字に母音が付属しており「韻を踏んでいない」と言っても重なる母音は山盛りで、さらに最後に韻を踏んだら言葉遊びかオヤジギャグみたいに聞こえる。

英語だと言葉だけでもメロディアスにクールに聞こえるが、日本語だと御経とかオヤジギャグに聞こえる。ただ楽曲にすると全体として気持ち良い。ラップ的に歌うくらいが心地良い。

言語ということなら、日本人は虫の声も左脳で聞くわけで、楽器の音もリリックとして聞いているのかも知れない。ならばいよいよ楽曲全体として気持ち良ければ良い。

 

英語の曲で楽曲と一緒だと、かなり喋ってる感を出さないと、これはこれでダサく聞こえる。訥々と喋るくらいがカッコ良い。英語の曲の場合。

 

「メロディアスなヴォーカルは本質的にカッコ良くない」のかも知れない。

一方「御経、早口言葉、オヤジギャグもカッコ良くない」。

曲なしの勝負だと、なので日本語は圧倒的にダサい。

曲ありで英語だと、意識的に喋る感じにしないとダサい。

曲ありで日本語だと、心地良く響く。

 

ビートルズもオアシスも、そもそもカッコ良くはないもんな。「一緒に歌おう」みたいな。事実、高校生の時はカラオケでよく歌った。

 

幻想的な舞・意味の強い田楽・様々な楽器・そして和歌や物語などの文学が「能楽」に流れていったように、

日本のヒップホップもそういうものなわけね。

 

そもそも喋るくらいがカッコいいものが多い。

 

そもそもジャンルに拘る俺でもないが、らしさを徹底すると味が出て来るし、徹底しないと滅していくことも多い。

何にせよ旨味を逃すな。

cf書の歴史、能楽の歴史。

 

リズムメロディハーモニー。最低限で良く、何がそれに値するか決まっているわけでもない。

なんでも放り込める器。

根底として「韻を踏む」があるのは、それが詩としての古来よりの最低限の纏まりだったからだろうか。

絶対に575と言うわけでもないが、それなりの纏まりを作れる単位。

絶対に韻を踏めと言うわけでもないが、それなりの纏まりを作れる単位。

詩や音楽というのは繰り返しであり、一つの世界としての纏まりであるわけだから、

その纏まりを示して心地良さを味わうためには、最低限の纏まりを作る必要がある。

それが音数だったり、韻だったりする。

 

全てが壊れたところから点で繋げれば良い。その方が自由で自在。しゃぼんで包めば世界は七色。夢か現か弾けて飛んだ。

 

繋げることができりゃ、細けえ方が勝つからね。

 

「そんなの和ゲーRPGだ」と馬鹿にして来る奴への反論としては「和ゲーRPGでない君の和テイストはどこから来るの?私はそれに向き合った。その時はそれが結果として和ゲーRPGという形になったのだ。和ゲーRPG自体悪いものでないが、そのようにディスってるところを聞くと、君は和テイストに向き合っていないのでは?と疑ってしまうのですよ。だから君は君の嫌うような臭味から逃れられない。FFでもDQでも日本っぽいでしょ。その日本っぽい要素だけを抜き出すと、結果としてその要素を多分に持った素材を集めてみたくなることもある。そうすると伝統的な素材が数多く集まることもある。結果として所謂和ゲーRPGになることもある。それにしっかり向き合わないことには自分の中にある逃れることのできない要素をしっかり把握できない。自分の内臓の奥にある油を眼前に曝け出して、さてそれをどう調理するか。そこから始めないことには臭味は抜け切らないんですよ。化粧で面は繕えても〇〇コの匂いはそうはいかない。俺はよく手〇〇するから知ってるけど、〇〇コの匂いはそう簡単には落ちへんぞ。Never Disguise 〇〇コの匂い。Never Disguiser経由でない限り、聖地には辿り着かない」

日本語のHIPHOPは最初にこの問題にぶち当たるからね。

 

【よぎりの私、吐き出させる、ゴミクズをかき集めろ、数で駆逐する】

音楽は「思い付きを形にする・クラウド方式」で集めて行った方が強いし、カッコいいものが生まれやすいだろうな。カッコよさで言うと、殆どの音楽より、たまに頭によぎる音を「AIが良い感じに再現してくれる・そこからヴァリエーションを付けられる」が上回るはずで、それを世界規模でやれば良いわけ。JAZZもHIPHOPもバラバラになったものを再構築する試みとも言えるわけだが、バラバラも再構築もまだまだ足りない気がする。人々の頭の中には昔からあるのだが表現できないので、この世には存在しないフラグメント。

「世界中の消えてゆくはずのゴミクズを集めて、何らかのものに勝手に生成する機械」みたいなものをイメージしている。自動で楽器毎の音を完全に音符化するのも、まだ十分でないみたいなんだよね。それが出来ると、歴史上の全ての音楽を切った貼ったできるから、かなり良いんだけど。「交響曲からヴァイオリンだけピアノだけ、その調を変えて、ピアノの音をチェロに変えて(尚且つマッチするように)」などを、超高速で勝手に色々なヴァージョンを作ってくれるAI。VRと混ぜて、音符を手掴みで調節できればいよいよ簡単。マウスでチョロチョロ動かすのは面倒なんだよ。手でガッツリ行きたい。「こういう音が鳴るのか」とドンドン試行錯誤。体を使って音楽を作ろうよ。

 

「ら~らら♪って感じの音作ってよ」

「こういうのですか?×100」

「いや違うな」

「例えばどういう曲のどの部分ですか」

「この曲のだいたいこの辺の感じ」

「こういうのですか?×100」

「なんかイメージに近付いて来た」

「こういうのですか?×100」

「これこれ!」or「違うんだけど、これはこれで良いかも」

ってやってるうちに300の音やフレーズや曲ができるわけだ。

「これこれ!」となった音も、実は自分が最初にイメージしていたものとは違うのかも知れないが、

それはそれ。良ければ良いわけで。

 

「数に駆逐されていないジャンルはダサいもので溢れ返っている」

 

「日本語ヒップホップがダサいと言うなら日本語自体がダサい」と返そうか。ヒップホップは日本を根底からハックした。ところでやっぱり日本語って最高にファンキーだぜ。

 

【日本語の安定と不安定、細かいところまでよく気が付く】

活用、音読み訓読み、同音異義語、助詞助動詞の識別など、

相対に投げ出されることが多い、本来、一文字単位で不安定な言語。

どのような意味になるか、そこからどう展開するか分からない。

逆にそこから安定に持っていく。

細かいところまで気が付くから「心配になる」。

「心配を払拭するため」に細かいところまで気を遣う。cf潔癖症

細かいところまで気を遣える。パターン化できる。cf日本製品・技術

細かいところまで気を遣えるからこそ、気付きにくいパターンを外せる。細かく破壊できる。

俺は戦う古語MW3DZ。現代に於ける歌の触発(一文字単位で日本語の特質を活かした)。

 

人生と作品とモチーフは三位一体でなくてはならない。塗って塗られて塗られて塗って。終なき油絵である。

 

所謂ヒップホップという音楽が好きでやっている奴等がいる。そこに定型詩や散文詩などをやっている奴、あるいは自らの人生を言葉にした奴が乱入して来る。ヒップホップ大好きな奴等からすればどう映るだろうか。「この門外漢が」と思うだろうか。自分なりのリズムを掴んでいる奴等はどのジャンルに於いても、それなりの旨味を残していくものだが、結局のところ最後に残るのは「ならではが大好きな奴等」だったりする。花開くまでには時間が掛かるし、花開くまで乱入者的な奴等の活躍を仰がねばならぬハメになったりもする。最終的にはそいつらを全部栄養分にして花開く時が来るので「不器用でもお前の好きを貫けよ」とハートに暖かく怒鳴りつけたい。

ただ気になることがある、HIPHOPの場合「門外漢がそのまま正統になることもあるのではないだろうか」ということだ。楽曲は誰かにもらって、そこにそいつなりの言葉を乗せれば、確かにラップの技術は稚拙かも知れないが、何とかなる場合も多いなら、やっぱりそいつエターナルに凄えってことになる場合も多いのでは?それも含めてHIPHOPの大きさなのかも知れない。そこまで広いからこそそれぞれの人生に寄り添える。滅びず永遠に発展を遂げてゆくってのもあるだろうから。

 

クラウドに上がるようなBGM的な簡易な曲を、玄人筋は馬鹿にするだろうか。俺からすると、あの数が「微妙な心にジャストフィット」で、クラシックに通じるんだよね。自分の「些細な感覚」を大事にしたい。

 

それまでの文化が解体され、現代音楽などが形成された。ブラックカルチャーと言うのは、その細かさと、その細かさを言うまでもなく具現化している現代生活を、日常として吸い込みながら発達したものだろう。戦後文化の中でブラックカルチャーに匹敵するものはおそらくない。古典の総合性、細かさ、展開力。全てを兼ね備えている。ああ、日本があったか。

 

ヒップホップは万物の鼓動と共鳴し、ジャズはどのような体勢からでもどのようなものにも繋げようとする?

人類がアフリカで生まれたように、ヒップホップもジャズもアメリカの黒人によって生まれ育てられたわけか。

 

歌の中で小気味良い感じで使う時は気持ち良いけど。でも日本語に対する興味を持たせるのに丁度良いかな。教育的効果を狙ったのか。

あまり効果が無い韻に拘るより、語彙力を増やした方が効果的だと思う。語彙が身に付けば、自然と韻も踏めるようになるし。

韻から行くのではなく、語彙から行った方が良いと思う。

日本語で韻を踏むと「定食定食定食定食大盛り御飯定食」に聞こえる。

日本語って韻を踏みっぱとも言えるわけで。

 

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HIPHOPと筋トレを比べると、

筋トレの場合、確かに商売っ気が強いと辟易する面は強い。

HIPHOPはマネーマネーで行っても、それが作品になるし、グッズを売っても「そんなもんだろう」と思える。

 

HIPHOPと筋トレを比べると、

筋トレで「初心者が間違った情報を流すのは怪我に繋がったりするから警戒する」。

HIPHOPの場合「間違えもクソも無く、誤解も正解にすれば良いし、そもそも音楽だから正解なんてない」。

 

HIPHOPと筋トレを比べると、

筋トレで「初心者が俺が世界一だ!と叫べば、その志や良しだが、さすがに体を見れば一目瞭然ではある」。

HIPHOPの場合「まあ好みだし、実際に適当に作った素人の曲でも良いものは良い」。

 

俳句の例を出すまでもなく、言語自体が初心者と上級者の区別を許さない(?)。そもそも「言語のプロ」というのが怪しげだが、俳句なら子供の俳句の方が上等であり、言語も色々な人間が好き勝手に使うから富ましめられるのである。

圧倒的なクラウドを糧にできる分野は強い。ゲームの攻略など死屍累々、試行錯誤、文句、チートから発達するわけで、「文句ばかり言ってんな!」ではなく、文句を言いたい奴は好き勝手に言えば良いし、言いたくない奴はそれでも良いしと、「現実は現実である」に近付いていく。それが強い。

 

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ヒップホップってアホほど強いよな。

その強さを羅列するのさえめんどくせえ。

ぽっと出でも良いし、「そもそもぽっと出って何?」って突きつけられるし、でもやっぱりレジェンドに比べられて打ちのめされたり、「でもやっぱあいつはあいつで良いな」と言われたり、そこから這い上がったり、引退しかと思いきや復活したり、批判も賛同も含めてヒップホップであり、

「そんなのウジャウジャいるよ」と言われても、ウジャウジャいてめでてえし、数は力だし、非量産型を名乗る人間が出て来て、それを飲んでも、また飲まれたり、もう「現実は現実です」と言っているようなものであり、それがヒップホップ?

「決まったコースが本当に無い」という現実を突きつけてくれるのが本当に心地良いんだよね。証拠しかねえよ。

 

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煮豚を丸ごとホロホロと食べている。最後の一つが生で、吐き出して歯を磨こうとしている。

それを母親に報告している。

アピシウス
突然予約を入れて食べることになった

テーブルまで長い廊下を小走りでいく。
クエを半生にして、茶色いソースと、もう1つは梅風味にしてある。
非常に美味しい。

ウニと焼肉を合体させた寿司
回転寿司のような味だった

メインはビーフストロガノフ
ご飯が皿の端にあることが判明し、最後に大量に余った。
しかしそこでパテ・アンクルート型に焼いた白身魚とほうれん草とクリームが合体したものが出てきて、切るとクリームがどんどん流れてくるのだが、非常に美味しくそれをおかずにしてご飯を食べた。

食べている最中に巨大なフォークを落とした。でもそれを変えてくれた。
サービスの人は無線で誰かに持ってくるように頼んでいる。

紫色のTシャツを着た女の子がすごくうるさい。それを止める T シャツで短パンの中年男性。話によるとどこかの音楽をやっている大学教授らしい。

長いワゴンに乗せたデザートが運ばれてくる。
アーモンド風味のパテンクルートがまた出てきた W でもそれも美味しかった。

いつの間にかレストランの壁がなくなっており、デパートのエスカレーターの近くであることが判明した。
通りかかりの人が日本舞踊を踊っている。

ケーキやフルーツを乗せた豪華なデザートがもう1皿出てきて、その上で機械の人形が踊っている。
それを動画で撮影しようとすると、日本舞踊を踊っていた人がレストランの真ん中で踊り始めて、動画の画面手前で小さいロボット、向こう側で日本舞踊の人がコラボする形になった。
これは大したものだと私は思った。

「科学がどれほど進歩しても科学的に証明できないもの」があるとして、それを共有できるか、というのが本質なのかも知れぬ。

(ちなみに神は全知全能なので科学を無限に進歩させることも出来るし、無限に進歩した科学によってさえ証明できないものも作れる。それは矛盾だろうか?それは玄義、神秘である)

 

現実的にも「科学的に証明できるから通じ合う」と思って、人に話しかけるわけではなく、「何となく通じんじゃない?」という希望の元に、人類は話し掛け続けて来たわけだろう。

それも私の言うカトリシズムの特徴なのだが、「全有である神を、人は分有する」ので、自分をどう区切ろうと(区切るまいと)、他者が自分の中にあるわけだ。

「全有である神を分有しているから他者と繋がれる」。科学的に証明されるから繋がれるのではない。さもなくば科学的に証明されない場合、人と人が繋がれなくなる。人と人との繋がりを科学的証明に担保させるのは第一ではない。「ああやっぱり科学的にも証明されましたか」などの安心や強めの役割を果たすことはある。

 

イギリスは「中世をすっ飛ばしていきなり近代を迎えた=イギリスは元々近代的民族=近代とはイギリス的時代」とも言われるが、科学と言う「最強の共通証明」と「ピューリタン的個人主義」でバランスを取っていることも興味深いと言うより、これはこれで実は頼もしく、私にもそう言う所はある。

一方「ある個人は本質的に他者を分有している」と言う感覚も私の本能なのだから参っちゃうよ。いや、参らない。それこそキリスト魂?

 

 

「神は1234」

Aさん「俺は1担当」

Bさん「俺は2担当

Cさん「俺は3担当」

Dさん「俺は4担当」

皆集まれば1234なんだから、俺は俺でいるよ。

 

対して、

ABCD各氏「俺の中に1234全部があるのが前提なんだけど、それぞれ好みってものがあり、俺は1系でやらせて頂いております」という感覚。

 

 

「絵解き」と言うのがあって、図像って言うのかな。ああいうのは俺の心を萎れさせる。面白いと感じないし、「意味を見出す」みたいなことに興味が無い。

ワインの味の微妙さを追求する人が文学的意味を考えるだろうか?確かにワインを提供する時に「その人の生年月日や出身地にちなんだものを出す」などはあっても、だ。

アーノンクールがパリ音楽院を批判しているが、私からすれば、パリ音楽院だけでなく、フランス文化と言うのは「感覚の微妙さを追求する文化」であり、それが良いわけだ。「意味からの離脱」こそ近代が達成した自由ぞ。

ちなみに作曲家で言うとシューマン、指揮者で言うとアーノンクールは、クラオタ界隈では「文学的感覚から離れられなかったダサい人」と言う認識もあるらしい。俺はシューマン、アーノンクールも好きだが、では「グールドのバッハに宗教的意味があるだろうか?」と言いたい。

何かを受け取る時「意味=パーツ、内在的性質、関係的属性」を受け取らずに済むだろうか?例えば絵画で抽象的に描かれた女を見た時に、それがいくら抽象的だからと言って「女を意識せずに済むだろうか?」と言えば、そうではないだろう。人は意味から逃れられないかも知れない。

一方、私の中には「絵解き的意味の見出しを嫌う本能が確実に存在する」のだ。一体料理を味わう時に「感覚の歓喜」以外の何が必要だろうか、と。ワインの例と同じで、確かに京極さんの鮎よろしく、思い出や生年月日に関連させたもので感動も一入ということはあるだろう。

ただ感覚の微妙さを味わう時と、意味を見出して喜ぶ時とでは、脳ミソの動きが違うと思うんだよな。

少なくともソムリエ選手権は「思い出発表大会」ではないはずだ。

「感覚だけなんて機械みたい」という批判があるが、感覚と言ってもどう受け取るか何を好むかは千差万別であり、そもそも感覚って人間的動物的なものでしょ。それを機械にも測定できるようにしただけで、機械も人間が作り、機械は人間的な機能の延長でもあるはずだ。

「意味を味わうのが人間で、動物には無い」と言うなら、「動物も意味を味わっているのでは?」と返す。

さらに前にも言った「京極鮎薬」の例。それを飲むと意味も彷彿とする薬の開発も待たれる。それを料理にぶっこめば完璧だろうか。

「感覚も意味から逃れることは出来ない」と言うなら、「逃れることは出来なくてめでたいですね。ソムリエ大会も結局は意味大会なのかも知れません」と返すが、現実的に程度問題はあるだろう。

ところでやっぱり「ソムリエ大会は意味大会ではない」はずだ。それだったらワインの品評会が思い出発表会になってしまうからね。自分の思い出を元に(個別)、その思い出を知らない人間の感覚(普遍)に訴えるところに面白さがある。

フランスが感覚を重視する文化であることは、普遍性と表裏一体である。感覚とて個別性に基づいて発達するものであろうが、少なくとも「他者に投げ与える」レベルには昇華されている。

言ってみればパラメータ化している。

その上で好みはあろうね。

「あなたには分からない!」と自閉することを嫌う本能。

竹本忠雄さん(『マルローとの対話』は必読)もフランス文化の「普遍性」について度々言及している。私はそれを「他者性を弁えた上での繋がり意識」と捉えている。それは大人な姿勢だ。ヒステリックであるべきでない。

 

そもそも知らない土地の知らない人に、文脈抜きで感動させるのが近代芸術の野蛮さであり、愛であり、自由であり、魅力だろうよ。

 

雪国ユキという女が押売を撃退する夢を見た。
仮名で国ユキと名乗っているのではあるが。

押売は高級カモを適正価格で売っており、俺も味を見たが、素晴らしいもので、購入しようとしたところを、雪国ユキが追い返してしまった。

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初登場第一位系【(俺なりの)陶器近代絵画、受験勉強、仮名書、俳句、写真、得意なゲーム、短歌和歌】

熟練もある【神学哲学】

結果的に熟練もするはず【詩】

熟練させた方が良い【仮名書】

 

・陶器と近代絵画。最初から目が良過ぎた。好みの変遷もあるがレベルが上がったと言う感覚が無い。

・受験勉強。中学の時はコツコツ勉強していた。高校生になると1年生の段階で、一気に大学大学院レベルで、文系偏差値は80(理系偏差値は40)。

・仮名書。臨書も出来ず変体仮名もほとんど覚えていないが、これも少し練習して納得のレベル。

・俳句。最初から高レベル。美意識、日本文学、哲学、編集術など全体重を乗せた。

・写真。写真は皆様そんな感じだろうが、そもそも俺は見る方が好き。選ぶ側。

・ゲーム。MW3DZ。これは初登場第一位過ぎるw

・短歌和歌。短歌和歌の練習ではなく、脳ミソの回路が落ち着くと、自然と詠めるようになった。

 

・要は俺は「回路を整えた挙句は初登場第一位モノ」以外、あまりやっていないのだ。「熟練・上達・ベテラン」を得ていない。

・いや、色々なものに影響を受け、回り回って落ち着く、成熟するわけで、簡単には言えないが、それにしてもだ。

・哲学や神学は常にやり続けている。実際に同じことを書いているが、それこそ望む所であり、落ち着きもし、定着もし、そこからまたレベルが上がる感覚もある。

・結局「それを続ける」ことこそ亀の甲より年の劫で、熟練や上達するならば、俺にとってその効果が表れるのは哲学神学なのだろうか。

 

・詩(俳句短歌和歌全般)については、結果としてついて来る感じだろうか。

・写真についてはディレクションをする。自分で京都の写真を撮るなどはあり得るが、これも人に任せたい。

・仮名書については引き籠って出来る故に、変体仮名を学び、必要な道具を揃えれば、自他共に認めるレベルまで行かせる自信はあるが、結局手を動かすのが面倒。

・料紙制作もやりたいが、これは陶器と同じく、他の人に任せたい。

 

・何故私がレストランに行くのかと言うと「私が料理人になりたかったから」「とにかく料理に興味がある」と言うのもあるが、「熟練や上達とは何事であるか」を身に染み込ませたいわけだ。

・「他のものではダメなの?」

ヒップホップはグローバルでクラウドなのが良いが、「歴史の浅さと個人的成熟」に関しては料理に軍配が上がるように思える。どちらも私にとって重要なのではあるが。

・料理の強さとは家庭料理からジャンクフードから伝統的お惣菜から高級料理まで繋がっている感があるところでもあり、それはクラシックとヒップホップが当然に合体している世界でもある。

・ヒップホップの場合、今の所「一人で哲学的探究をする」と言う面に於いてクラシックより凄いと言えない。

・ヒップホップの場合、今日始めたやつもセンスだけでサンプリングしてどうにかなるので、俳句レベルに取り組みやすい。しかもそれが「本当に良い」のが良い。「今日始めた割には」ではなく、最高レベルを叩き出せる。俳句と同じように。

 

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「国柄が破壊される」というが、「破壊され続けて来た」とも言えるわけで、何を今更と言う感じだ。100年前の文章にすら共感できなくなっているのである。そもそも明治維新って国体の破壊だろうよw 「いや、あれは続いている」と言うのだろうが、そりゃ見方ですな。大和朝廷成立もそれまでの国体が破壊された瞬間かも知れないし、「弥生時代でもうアウト」と言う人もいるかも知れない。ちなみに古代日本では戦国時代のように豪族が群雄割拠しており、「和を以て貴しとなす」ような状況ではなく、「和を以てねえ」から「和を以てや!」と宣言したらしいよw

結局、ウヨクだのホシュだのが言っている日本は実は戦後日本であり、「サヨクなき戦後日本」こそ本願なのだろうね。

確かに日本はグループ主義で、個人主義を生み出した国ではない。近代を切り開いた国でもない。

私からすれば「古代と中世を繰り返す幼稚な国」とも言える。

「グローバル個人主義」と言えば、結局はカトリックの理想なのだ。天皇家にはカトリックが多く、私から言わせれば、それも日本の歩むべき歴史として象徴的(八百万の神々を形而上化・フルメタルジャケット化するため)なのだが、それは置くとして、

個人を威張らせると、上下関係・集団主義が否定されるようで、それを恐れる本能が働くのである。確かに個人が突き抜けて、猛威を振るうようになると「平均化の魔の手から逃れてしまう」ので、社会としては厄介なんだろうね。「さあ行くぞ、社会〇せ」の掛け声だ!

 

実際カトリックというのはその土地の神々を吸収しながら、カトリックを広めて来たわけで、戦国時代も追い出されているw 藩を越えて怪しげな動きをして、一定の力を持ち、「超えんな。怖えな」と潰されたのである。

 

ところで日本の伝統などと言う奴等が本当に日本の伝統を知っているか、身に付けているか、守ろうとしているか、甚だ疑問である。

別に全然伝統的とは思えない。戦前の日本のことすら知らないのだ。

そう、私がよく言う「60年主義」でしかないのだ。戦前にも達しない。まさに戦後体制でしかない。

 

この辺は私が最近も書いた「日本の伝統の在り方=団子三兄弟型・生き物+言語化された諸々」などを参照されたし。

 

ところで、GAFA的なグローバルプラットフォームが独占的であるのは良くないと思う。その意味でイーロンマスクがアメリカ民主党から距離を取っているのも良い。他にもそういう勢力が出てくると良い。

 

グローバル個人主義って、そんなに悪いの?良いのでは?良い点が余りにも多いのでは?世界の色々な人と繋がれる。自己実現できる。地方の中小企業が知られる。

60年以上前の古典に注目が集まる!そう、伝統伝統うるせえ奴等って、古典を知らねえのな!

 

Youtubeで「コロナワクチンは必要ない」と言うとBANされるというのは確かにイカれているが、アメリカは反ワクチン運動もカルト的な意味で喧しいので、「御上のおふれ」として理解はできる。統制しなければいけない側も大変なのだ。

逆に放置してもマイナスは出る。冷静な意見も潰すことになるが、それは他の媒体でアピールすべきでもある。その意味でツイッターなどがあるのは良いし、他にも出てくるべきなのだ。

 

結局「誰がどの程度威張るか」と言う問題なんですよ。

「グローバル個人主義を推し進めると、国柄が変わるから怖い」と言う意見も、それです。

伝統を言う奴等が常に疑わしいのは、伝統じゃねえんだからw 「100年前の手紙にも共感できぬ民族になってしまった」と保田與重郎も嘆いていた。

 

それにしても伝統や古典を大切にしてきたのは、カトリックである。「外から来る」人達は平等に全部見るからね。

「常識に埋もれて、自覚的に過去を学ばない、周りに合わせることこそ国柄を維持することなのだ」と言う意見もあるが、クソだろ。それは古典主義でも、伝統主義でもなかろう。

 

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「魯山人は傲慢だ」と言う意見をたまに聞くが、HSPな時点で謙虚だ。永井荷風も謙虚だ。鹿鳴館の猿踊りをするバカどもは何を感じ取り、何故そうしているのか?

 

日本も含めてアジアの街並が汚いのは社会性が無いからだ。「人のことより自分のこと」などと言ひて、公共性に興味が湧かないのは自閉的だからだ。目は前について、視覚に飛び込んでくる映像を気にせざるを得ない。人を気にするのは当然のことで、アーモンドアイで目を瞑り、自分のことばかり考えているから、街が汚くなる。

自閉症であり、威張ることではない。

 

誰が凄いかなんて分からない。常に臨戦態勢であるべきだ。

威の無い奴は偉い奴。機械にも威が無い。黙々と働くのにな。

「近代は人間を機械化した」と言うが、近代を徹底しないからダメなわけで、全ての人間に価値があることを分からせたのも近代である。

SNSを馬鹿にするな。バカに出来ない人間に出会えるが故也。

 

私は本居宣長が大好きだが、1000年以上前の古事記を蘇らせたが宣長である。イメージ力が違うんだよ。保田與重郎も「宣長翁くらいのお人になると、源氏物語の世界を如実に実感できていたはず」と言っていたが、そういうことだ。

「明恵上人は我が朝に於いて最も清らかなお人である」保田與重郎

その明恵上人も『夢記』であり、イメージ力が抜群。

と言うより、平安貴族も浄土教でイメトレ三昧であり、聖徳太子も『日出処の天子』よろしく。

今の人が物質に頼っているところを精神力に頼っていたのですからね。

 

フルダイブ式VRも、そう考えると古代に帰っていく原始的な本能の表れなのだろうな。実際、古代人は天国などを夢想したこと多々であろうし、天から貫かれる法悦感覚など、ありゃフルダイブ式VRだぜw

 

野生野生言うけど、それなら昔の人に触れると良い。ナスDしかいねえよ。電気もガスも無いのだからね。そこから紡ぎ出されるパワーをとくと味わえ。

 

「人類を幸福にする」という大願が根本である。

宗教家なれば也。宗教家であれ。

 

「何を仕出かすか分からないから怖い」などと言ひて、個性を貶めた奴には必ず落とし前を取らせねばならない。

ふざけた前例を作らせてはならない。

 

オルテガは「アメリカ人は文明を持った原始人」と言ったが、日本人は「技術を持った田舎者」と言ったところだろう。近代的でないのだ。「近代とは何か」はきちんと書いた。

 

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「マキャベリズム=目的のために手段を選ばない」って、冷酷に思われてしまうと警戒されて、目的から遠ざかってしまう。冷酷なのも味があって、ファンが増えて、目的に近付く可能性もあるが、まあ、そこは上手いこと育てばよろしゅうござんすねと。

 

ところで「真面目に生きる」とは、与えられたことを黙々とこなすことではなく、「何が何でも到達してやる」と死に物狂いに生きることである。ゲームで言うと、どんなキャラでどんな環境からでも目的に到達する試行錯誤が「真面目に生きる」ことである。

 

さらにジャンキー的様相も帯びてくる。効く薬を求めて本能で生きるようなものだ。ジャンキーは効く薬のためなら形振り構わないだろう。能書きを述べられても、それが本当に効くか効かないかは体が判断する。能書きに左右されている場合では無いのだ。いや、むしろ能書きをも血眼で読み倒すかも知れないが、それも形振り構わず効く薬を求める本能に寄る。

 

それが真面目に生きること。

 

それに対して、

確かにジャンキー的だと冷静さが奪われるかも知れない。一歩引いて他人事のように観察する冷静さこそ、効く薬を処方する要なのかも知れない。

さらに「効く薬なんて求めない=医者はジャンキーでない」。「目的なく遊びで研究してたら、色んな薬が出来て、結果的に誰かさんにも効果的だった」なんてことは枚挙に暇が無かろう。

 

根源的本能×最先端科学=戦闘機?

ジャンキー×クラウド=HIPHOP?

 

思えばゲルマン民族は戦闘民族であり、原ゲルマン形質を強く残すと言われるイギリスも戦闘国家であり、イエズス会も軍人が設立しており、アメリカはご存知の通りであり、ゲーム帝国なんて何をか況や。

 

ところで「ユダヤ人に戦争なんてできんのかよw」と言われたが、イスラエルは出来た。

「本能、信仰、逃げられない」がやる気を生む?

 

個人で考えても、火事場のクソ力を発揮せざるを得ない時、土壇場でペルソナが発動する?

 

ところで脳ミソは回遊魚と同じで、動いてないと死んでしまう。やることもなくニヒリズムに陥っている時って、脳ミソからすれば危機的状態。

でも溺れる者は藁をもつかむで、そういう時に掴んだものって忘れないんだよね。20代で本を読み散らかせたのは、俺の傷跡、死に物狂いの痕跡。

 

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「キリスト教は憎悪の宗教」という説は、やはり私にも興味深くて、ニーチェもDHロレンスもハンナアレントも、チェスタトンも明確に言及している。

 

「弱者の嫉妬、活き活き生きている奴等への嫉妬、健康への嫉妬」etc

 

ところで私は昔から「なんでこんな奴が威張ってんだ?」と言われることがある。

 

ギリシャでは自由学芸が高貴な学問とされ、その上に詩人がいる。

キリスト教時代になると「哲学は神学の婢」と呼ばれ「神学・哲学・自由学芸」という順番だ。

フランスって何の国?料理?恋愛?いや違う。芸術の国ですらない。そう、哲学の国。

戦争で威張るのは指揮官であり、現代世界で幅を利かせているのはGAFAであり、その社長達である。

屈強な兵士より銃器の方が強く、さらに核兵器の方が圧倒的である。

修道院やオックスブリッジは引き籠りの聖地だが、世界に影響を与えている。

ビルゲイツは「オタクタイプを大切にすると良い。将来彼等はあなたの上司になる可能性が高い」と言っている。

モンゴルの諺では「体を鍛えると3人〇せるが、本を読むと1000人〇せる」と言われる。

 

「なんでこんな奴が威張ってんだ?」という問いにズバッと返そう。

「16タイプ診断で言うと建築家だからである」

さらにテストステロンが多く、攻撃的で支配欲が強いからである。

「攻撃的な建築家こそ男の中の男であり、男性的な才能の塊」と信じちゃっているからである。

 

ところでキリスト教が憎悪の宗教という話なのだが、私からすると、「戦争に向いた社会を作ろうとする宗教」ではある。

戦争に威力を発揮する司令官や科学者が成長するまでには時間が掛かる。小学生の段階で暴れる奴等に潰されてしまうと、金の卵が劣等感に陥り、十分に育てない恐れがある。

そうならないように司令官や科学者候補を、子供の頃から大切に扱うようにする社会的厚みを自覚的無自覚的に作って来た、というのが私の見立て。

 

ヨーロッパは群雄割拠で地続きなので気が抜けないのだ。勝てる男を確保しないとヤバ過ぎる。

 

小学生は勢いだけ。

中学生は不安定過ぎる。

逆にこの頃の男なら、女の掌の上で転がせる。実際に中学生までは女の方が肉体的にも大きい程だ。

 

高校生になると、男は自分の世界を持ち始める。自我も安定する。「自分は自分、人は人」と思えてくる。ユーモアセンスまで身に付けられれば最高だ。ヒステリーからの卒業である。

肉体的にも男の方が大きくなってくる。

即ち女の掌の上で転がせなくなってくる。男には自分の世界があり、恋愛や結婚もどうでも良くなる。一方女は恋愛や結婚に惹かれ続ける。男に振り回される段階に入るのだ。

 

女は威勢がいい男に惹かれるが、威勢では戦争に勝てない。威勢のいい男は女を楽しませる役割は果たすが、それはアイドルに過ぎないのだ。女としては男には自分達を楽しませる存在であってほしいから、男に「むくつけき兵」になってほしくないわけだ。だが男の世界で威張るのは「戦争に強い奴」である。

 

小中的基準でカーストを決めると、女好みの男に威張らせると、戦争に弱い国になってしまう。それは致命的なことだ。

そもそも男の本能に合っていない。小中基準で威張っている男など、脳ミソが女性化されたオカマに過ぎない。

 

キリスト教が「憎悪の宗教、リベンジの宗教」と言うのは、私からすれば「小中基準で威張ってる奴等バカじゃねえの?」と言うことであり、それは「戦争の宗教」だからである。

 

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「絵解き」と言うのがあって、図像って言うのかな。ああいうのは俺の心を萎れさせる。面白いと感じないし、「意味を見出す」みたいなことに興味が無い。

ワインの味の微妙さを追求する人が文学的意味を考えるだろうか?確かにワインを提供する時に「その人の生年月日や出身地にちなんだものを出す」などはあっても、だ。

アーノンクールがパリ音楽院を批判しているが、私からすれば、パリ音楽院だけでなく、フランス文化と言うのは「感覚の微妙さを追求する文化」であり、それが良いわけだ。「意味からの離脱」こそ近代が達成した自由ぞ。

ちなみに作曲家で言うとシューマン、指揮者で言うとアーノンクールは、クラオタ界隈では「文学的感覚から離れられなかったダサい人」と言う認識もあるらしい。俺はシューマン、アーノンクールも好きだが、では「グールドのバッハに宗教的意味があるだろうか?」と言いたい。

何かを受け取る時「意味=パーツ、内在的性質、関係的属性」を受け取らずに済むだろうか?例えば絵画で抽象的に描かれた女を見た時に、それがいくら抽象的だからと言って「女を意識せずに済むだろうか?」と言えば、そうではないだろう。人は意味から逃れられないかも知れない。

一方、私の中には「絵解き的意味の見出しを嫌う本能が確実に存在する」のだ。一体料理を味わう時に「感覚の歓喜」以外の何が必要だろうか、と。ワインの例と同じで、確かに京極さんの鮎よろしく、思い出や生年月日に関連させたもので感動も一入ということはあるだろう。

ただ感覚の微妙さを味わう時と、意味を見出して喜ぶ時とでは、脳ミソの動きが違うと思うんだよな。

少なくともソムリエ選手権は「思い出発表大会」ではないはずだ。

「感覚だけなんて機械みたい」という批判があるが、感覚と言ってもどう受け取るか何を好むかは千差万別であり、そもそも感覚って人間的動物的なものでしょ。それを機械にも測定できるようにしただけで、機械も人間が作り、機械は人間的な機能の延長でもあるはずだ。

「意味を味わうのが人間で、動物には無い」と言うなら、「動物も意味を味わっているのでは?」と返す。

さらに前にも言った「京極鮎薬」の例。それを飲むと意味も彷彿とする薬の開発も待たれる。それを料理にぶっこめば完璧だろうか。

「感覚も意味から逃れることは出来ない」と言うなら、「逃れることは出来なくてめでたいですね。ソムリエ大会も結局は意味大会なのかも知れません」と返すが、現実的に程度問題はあるだろう。

ところでやっぱり「ソムリエ大会は意味大会ではない」はずだ。それだったらワインの品評会が思い出発表会になってしまうからね。自分の思い出を元に(個別)、その思い出を知らない人間の感覚(普遍)に訴えるところに面白さがある。

フランスが感覚を重視する文化であることは、普遍性と表裏一体である。感覚とて個別性に基づいて発達するものであろうが、少なくとも「他者に投げ与える」レベルには昇華されている。

言ってみればパラメータ化している。

その上で好みはあろうね。

「あなたには分からない!」と自閉することを嫌う本能。

竹本忠雄さん(『マルローとの対話』は必読)もフランス文化の「普遍性」について度々言及している。私はそれを「他者性を弁えた上での繋がり意識」と捉えている。それは大人な姿勢だ。ヒステリックであるべきでない。

そもそも知らない土地の知らない人に、文脈抜きで感動させるのが近代芸術の野蛮さであり、愛であり、自由であり、魅力だろうよ。

 

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「科学がどれほど進歩しても科学的に証明できないもの」があるとして、それを共有できるか、というのが本質なのかも知れぬ。

(ちなみに神は全知全能なので科学を無限に進歩させることも出来るし、無限に進歩した科学によってさえ証明できないものも作れる。それは矛盾だろうか?それは玄義、神秘である)

現実的にも「科学的に証明できるから通じ合う」と思って、人に話しかけるわけではなく、「何となく通じんじゃない?」という希望の元に、人類は話し掛け続けて来たわけだろう。

それも私の言うカトリシズムの特徴なのだが、「全有である神を、人は分有する」ので、自分をどう区切ろうと(区切るまいと)、他者が自分の中にあるわけだ。

「全有である神を分有しているから他者と繋がれる」。科学的に証明されるから繋がれるのではない。さもなくば科学的に証明されない場合、人と人が繋がれなくなる。人と人との繋がりを科学的証明に担保させるのは第一ではない。「ああやっぱり科学的にも証明されましたか」などの安心や強めの役割を果たすことはある。

 

イギリスは「中世をすっ飛ばしていきなり近代を迎えた=イギリスは元々近代的民族=近代とはイギリス的時代」とも言われるが、科学と言う「最強の共通証明」と「ピューリタン的個人主義」でバランスを取っていることも興味深いと言うより、これはこれで実は頼もしく、私にもそう言う所はある。

一方「ある個人は本質的に他者を分有している」と言う感覚も私の本能なのだから参っちゃうよ。いや、参らない。それこそキリスト魂?

 

 

「神は1234」

Aさん「俺は1担当」

Bさん「俺は2担当

Cさん「俺は3担当」

Dさん「俺は4担当」

皆集まれば1234なんだから、俺は俺でいるよ。

 

対して、

ABCD各氏「俺の中に1234全部があるのが前提なんだけど、それぞれ好みってものがあり、俺は1系でやらせて頂いております」という感覚。

 

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一人称も様々であり気分によって言葉を変える。

何を何と呼ぶかも同様で、文章レベルでも同じである。

絵画の場合も同じであり、「リンゴを描け」と言って「〇」を描く人もいる。実際にそういう禅画もある。

さらに「犬を描け」と言って、魚を描く人もいる。犬をよくよく見ると魚っぽく見えて来たので、気分に正直に描いていたら魚っぽくなってしまったのだ。

事程左様にシニフィアンシニフィエと言うのは固定的でない。

「雪が降って電線に積もっている。その風情を花に譬えよ。どの花を選ぶかは任せる」と言ったお題。譬えらんない?そりゃお前の頭脳がやべえよw 人間の頭脳の根本は「連想にあり」だからな。論理もそうだ。

論理とは定義の必然的展開であるが、一つ一つの要素の定義は本来的に任意である。「1+1=2」も究極的にはそうである。

 

「川端康成にリズムを求めるのは干物にジューシーさを、ドライフルーツに瑞々しさを求めるのと同じだ」と言って、我ながら含蓄のある表現だと思ってしまったw

 

あれもやれこれもやれと言うが、そしてあれもやってこれもやったからこそと言うが、現代人は王族でも貴族でもないが、食べるものは昔の王族や貴族より美味しい。

実際に20世紀に料理文化が花開き始めた頃の人は現代人は乞食のような格好をしながら昔の王様より豪華なものを食べていると証言している。

 

西洋の哲学者で「西洋哲学の根底にはニヒリズムがある」と言う者があるが、「そうだよ」と私はあっけらかんと応える。それが良いんじゃん。

「東洋哲学の根底にはヒステリズムがある」のと同じだ。

哲学だけでなく文明文化そのものがニヒリズムを根底にしているのが西洋だ。何を今更。

「ニヒリズムだけだと息苦しゅうござんすね」と。そこで「ニヒリズムを活かしたユーモラスな生き方」が提案される。ニヒリズムあればこそ「俺はこれが好きだけど、まあね、色々ありますよね」と他者を尊重する姿勢や余裕が生まれる。結構なことだ。

ヒステリズムやナルシズムがあればこそ、妊娠して出産できる。ヒステリーとは子宮であり、「かなり閉じなければ流産して、子供なんて産めませんよ」と来たもんだ。

自分を大切にするから、それが宇宙規模になれば宇宙の色々なものを大切に出来る。「他人も自分」という恐るべき考えにはなるが、それでも大切にしようという方向性だ。

「そんなに自分が好きかね?」と、私は東洋思想を嫌悪するが、まあ、合う人には合うんでしょうな。

私はニヒリストw

 

反ユダヤ主義というのは厳しく咎められるが、「鬼畜米英」と叫んでも余裕を持って微笑まれる(?)。実際には「米英」的なる感覚こそ、余計に近代的だと思うが、私は近代が好きである。近代とはイギリス的時代。イギリスとは近代的民族。

ユダヤ人批判にも興味があるが、イギリス批判も興味がある。と言うより、枚挙に暇が無かろうが。

 

ドイツはやはり交響曲の国で、近代批判も喧しいが、自らがナチスを生み出して、全体主義を希求している。

人は自分の為だけには生きられず「for the team,for the goal」でないとやってられない。

それは、近代になり社会が分業化され、「個人=歯車=道具」となってしまった人への処方箋・親心のようなものだ。「一見無味乾燥な歯車的な人生に感じられるかも知れないが、君は単なる道具では無いよ」と。

そう、事態は深刻であり、ナチスの処方箋はクリティカルである。と言うのは近代が陥りがちな病への答えにもなっているからである。ワンダーフォーゲル、労働者の休日と健康などにもナチスは気を配っていたと聞く。

それらって現代社会が抱え続ける問題でもあるから。

個人が歯車になると「俺って何のために生きているんだろう。俺はただの道具じゃない!」と生甲斐への問いが生まれる。ナチスもそこに火をつけた。三島由紀夫が「ナチスが大繁盛したのはドイツ人のセンチメンタリズムに火をつけたからです」と言っていたが、そういうことだ。

それに対して「すぐに全体感を与えてくれる国家に飛びつくバカ」と貶すだろうか?そうは言っていられない。現代のトランプ現象だけではない、人間は原始時代からそういうったものを求めて来たはずだ。

そりゃ恵まれた人は良いでしょうね。だって自分が歯車とされることなんてないんだもの。全能感と言っては言い過ぎだが、単なる歯車では無いと言う「有能感」に浸っていられる。ところが、そうでない「恵まれない人々」もいる。

そう言う人間がほとんどだろう。いや、有能感に浸っている人間も常に「全体感、歯車でない感覚、影響力」によって自らの尊厳を維持しようとしながら、実はそうではない自分に苛まれているのかも知れない。

「俺は社会の歯車じゃない!」と言う「一人の人間でありたい心」がナチスを生んだのだ。

なので、ナチス的なものを根絶しようとしても無駄だろう。そう言ったものを人は生み、今も生まれている。

ただナチスに虐殺されたユダヤ人も黙っちゃいない。と言うのはSNSである。「皆がインフルエンサー」という「有能感」を与えやすいメディアを作れば、そこで落ち着く度合も強い。

俺もな。

 

ちなみにドイツの凄さもヤバさも長所は短所であり、交響曲を作れるが、交響曲は所詮交響曲に過ぎないことである。芸術は現実ではない。理念は現実ではない。交響曲を邪魔するものを排除する心が全体主義=根絶主義を生んだ。

現実って交響曲じゃありませんから。雑音は不可避的である。

何故イギリスが威張っているのか。近代に於いて、あんなに有利なのか。それは「雑音は不可避である」と言うことを骨身に染みて分かっているユーモラスな民族だからである。ある立場を取ったが最後、雑音は必ず生まれる。それに逆らうのは「人間は不死である」と言うようなものだ。

 

近代は情報と交通が発達した時代であり、多様性に直面する、数の時代である。少数の村でさえ他者はいるが、何とか村長の力で抑え込める。ところが世界規模で考えると、気に喰わない人間が気に喰わないやり方で気に喰わない結果を残しているのだ。

技術も進歩した。

「具体例は探すか作れ」となる。

 

それにヒステリーを起こしちゃったら大変なのだが、ヒステリーを起こすのが人類で、事実近代は「閉じる技術」も提供した。自分で殺生せずに肉を喰えるし、異質が多くても、同質的な人間とばかり結びつこうとすれば出来る。異質が現れたらヒステリーを起こして逃げられる?

社会なんて本能的にどこかでバランスを取ろうとするものだから、「近代=ヒステリー起こすなと要求する時代」になれば、女は堪ったものでは無く、ヒステリーを起こせるように全身全霊を尽くすのだ。それがナチスだ?

第二次世界大戦とは文明vs文化の戦争とも言われ、私から言わせれば古来からやまない男女大戦争の一環に過ぎない。

 

「お可哀想に。国家に煽られることでしか生甲斐を持てないのね」と侮蔑する感覚!それがナチスの生みの親だぞ!

「皆、自分は道具なんかじゃない!」と叫びたいわけ。自分と言う「自分でもあり、他者と絡む存在でもあり、全体に奉仕できる存在でもありたい」という願望。

神様を見よ。

「女神は豊穣の神で、綺麗ですね!お若いですね!」と褒められて気分を良くする。

「男神は創造や戦の神で、あんたが大将!御蔭様!」と褒められて好い気になる。

人間なんてそんなものなのだ。神様も人間の投影ですから。

ほとんどの人間はそう言った感覚を持てない。持たせてくれる人間に惹かれる。気分を良くしてくれる人間にな。

お世辞を言って気分を害されるのは大根役者で、褒め方が下手なのだ。それでは相手の満足感に寄与しない。

個人主義を奨励するのは「自分なりのツボを自分なりに追求できるから、自分の機嫌を自分で取れるようになり、他者に依存しなくなって、平和的で良いじゃねえか」ということである。

いや、我儘で他の誰かに指示されたくないからだけどねw 二次的効果として、そういうのもありますよ。

 

キリスト教は占いを禁ずるが、カトリックは「神父と一対一の懺悔室」を持っており、告解される。占い師みたいなものだね。ちなみに「カトリックの個人主義は懺悔室から生まれた」とも言われる。家族にも言えないことを神に告白するのですからね。

これを思ったのは、写真で言うと「外国人観光客はその国の特徴を捉えるのに長けているが、内輪の人間に見せるような表情は撮れない」と言うことだ。カメラマンと家族写真の違いと同じだね。アラーキーも「こんな表情、家族にしか見せませんよ」と言っていた。

だがしかし、自分の生活環境と離れた相手だからこそ「都合の良い不倫相手になり、大股開きで本性を曝け出す」と言うのはある。

 

SFというのは常識的ではないが、グローバルに考えると現実的ではある。

 

三島由紀夫が「写真の価値は『これは写真です』と言うことにある」と言っていたが(?)、「現実=芸術」になるとして、現実は天国のように素晴らしく、天国も現実のように悩ましい。現実に於いて不平不満を言わず、天国に於いて不平不満を言う。 「理想、夢、希望」は常に求められるべきだ。

 

パラリンピックの方が良い記録が出るかもしれない。

ならば自分の足を積極的に切断して、義足に付け替える人間も出てくるかもしれない。

でもそれはどうだろうか?

しかしならば、先天的に脚が不自由な人間は義足をつけ、圧倒的な記録を残すことが許され、健常者はそれが許されないのだろうか?

自分の力ではどうすることもできない状態や環境を前提とするなら、許されることもあるのかもしれない。

「世界最速を目指したいから自分の脚を切断しました」というのもエンハンストゲームだろうか?

先天的な病気の治療のためステロイドを使う人はいるだろう。

結果的に筋肉もよく付くのかもしれない。

しかしその必要がない人がほとんどだ。

でも筋肉増強のためステロイドを使ってる人はいる。

そもそも人間は異常な存在で、植物のように風に揺られて光に照らされて生きていれば良いのに、妄想に捕らわれて余計なことをし始める。

それが魅力でもあろうか。

原始人を基準にすべきだろうか。

 

「絵がわかるの?」って、「文字わかるの?」

言葉なんて分かっているようで分からぬぬものだが、人は皆、分かったように使い、しかも楽しんでいる。

結構なことだ。

「ある程度要素や機能や性質、それらの関連やもたらす効能を言語化できたら、それを分かっていると言う」と言うのかも知れないが、それを言い出したら日頃の会話もできないぜ。

まあ「プロは一家言ある」と言うかも知れないが、その意見が正しいのか分からないし、一家言ないアマチュアの現実への影響力と言ったら、暇もない程だ。

 

「やり過ぎて筋肥大しなかった」と。

それに対して「センス良いですね!」と言うのは不思議な問答だが、だが本当にセンスが良いのかも知れぬ。

実体験してみて「ああ、これはやり過ぎだな」と言う本能の声を拾うことこそセンスの良さかも知れぬからである。

一体、試行錯誤しない人間がいるだろうか?

自分なりの試行錯誤の積み重ねを続けることこそ、試行錯誤に寄与する行いをすることこそセンスの良さなのかも知れない。

まあ、確かに人生は有限ですから、ある程度合理的な行動を取りたいし、実際に試行錯誤した人は、後輩に対して「こうすると良いよ。それは無駄かなw ははは」と優しく助言してくれるのかも知れないが、それでも自分の骨身に染みる試行錯誤は大事ですよね。

「人生の価値は無駄で決まる」と言う言葉もあって、そもそも無駄しなければ「それは無駄だよ」と言う言葉も出てこない。「何が無駄で何が無駄でないか」など永遠の謎ではあるが、どうにも「無駄をしてない人間って、滲み出る優しさが無い」ように感じるんだよね。

 

「王侯貴族は金も権力もあるから生活全体を文化できた。対して現代庶民はその欠片を崇めることしかできない」と言う意見。

そうでもあろうが、それが良いのだ。特化できるということではないか。

生活全体は基本的に原始人で良い。

「抜く」ことができれば良い。

カタルシスを得るための手段は色々ある。その一つを昔の王侯貴族が提供してくれたのだ。

文化するということは良いことではない。

作法だの何だのに雁字搦めにされると言うことであり、無作法に走り回るくらいが最高だ。

ただ無作法に走り回るだけでは、チンピラが格闘家に勝てないのと同じで、洗練や凝縮や鍛錬や学習が足りず、結局スッキリしないこともあるだろう。

そこでありとあらゆる知恵や歴史や文化や文明を参考にすれば良いのであって、お前の活力を奪うためにそれらがあるのではない。

「知恵分別に流されてはならない」。

 

「全ての物を軽くするメリットとはインストールして、身籠りながら実践することにあるのでは?」と思いたくもなる。

「マンガ絵と油絵」の関係から「日本とロシア」の関係に思いを馳せる。

日本の場合、有職故実的に24時間365日の生活的実践をするために文字化マンガ絵化して一つ一つの容量を軽くする。

ロシアの場合、倉庫主義で何でもかんでも丸のまま倉庫に放り込む。放り込んで使いたい時に引き摺り出す。Googleなどネットがそうだ。

俺の場合、「マンガ絵24時間主義」ではなく、「やる時だけやる原始人」なんだよね。こち亀の両津勘吉が理想人間像だからなw

 

日本は治安が良くて、社会資本が安定している。

「それは日本人気質故だ」ということだが、現代の技術を使って、荒くれ者が多い社会でも、治安を良くして社会資本を安定させれば、「日本及び日本人の長所って何なの?」となる?

俺はよく「日本人ロボットを作れば良い」と言う。

 

「本気を出せばというなら、成長したらというなら」、全員が引き分けになってしまう。

それで良いと思う。

万人に対して謙虚であれる。

素晴らしいではないか。

そして実際、全ての人はそれだけのポテンシャルを持っていると思う。

引き出すな?

いいや、引き出す。

 

家庭·社会·世界·神とあって、

移民が問題になるぐらいだから、伝統的な常識が社会的紐帯になることによって社会は安定を保っているわけだが、常識はやはり煩わしく、十戒以外はご自由にで、十戒をかなり厳しくしてしまえば良い。

「列に並び、挨拶をきちんとする両津勘吉だらけ」みたいな世界だ。

 

料理が世界的に栄えているのは料理が文化的であるより古典的であるからだろう。
古典とは何かは何度も書いた。

 

詰まるところ、ユーモアセンスと十戒が大事ということであり、
それに反対するのはヒステリックである。
南国チックにダルダル行きたい。

 

20代の頃はレタッチしてボヤッとさせるのが好きだったが、30代からはシャープな感じが好きになって、今もそうかな。
若い頃はアイドルとかおっぱいが好きだが、30を超えるとモデルとか脚が好きになるのに似ている?
画面の世界だけに閉じ籠ってしまうのではなく、世界の広がりを感じさせてくれるもの。
三島由紀夫の「仮面の告白」はもちろん散文芸術として素晴らしいが、「金閣寺」に至って現実世界のリアルな重さを獲得した。戦後日本の飽和的な軽さの中で。
吉本隆明も言っていた。
ゲームの世界でもオープンワールドが技術的に簡単に作れるようになると、アメリカがあっという間にゲーム大国になって、日本を軽く抜かした。
「これだったら俺の作りたいものが作れる」と才能が集まったんだろうと予想している。

 

獣道を常道に。

「パターンを乱す例外は潰せ」と言うが、例外を人工培養せよ。

そもそも例外を嫌うなら、どうやって人生を歩むのだ。

お前の夢は目標はお前の中の例外に他ならず、その例外によってお前は前に進むことができるのだ。

自分の中に例外を抱えぬ人間など植物人間に他ならぬ。

 

春になると写真を撮る。写真は俺の素を映し出す。

背伸びでも継続的努力でもなく。

占いの場合は仕事的過ぎる。これはこれで悪くない。

「得意・好き・親しみ・命削り」みたいに分けると、

「和歌が命削り」

「占いがある種の得意」

「神学が業(恨みつらみ楽しみ喜び)」だね。

 

「写真は得意好き親しみと言うには及ばないが、やっぱりある程度そう」であり、

そもそも写真は20代の頃にリハビリとして始めたのだ。現代の街並が醜いので、全てをモノクロにして撮影していた。廃墟ならば醜い街並でも見ることが出来るから。外出の度にカメラをぶら下げていた。コロナでマスクをするように。

写真は考える切っ掛けでもあった。「知的でありたいなら五感を磨きなさい」ってやつで、感じるからこそ考える。無ならば何も考えられない。

写真は現実を写すし、俺の場合、スナップショット的になってきている。もちろん綺麗に撮ろうとするが、そこそこである。わざわざ撮影のためにどこかに行くのも億劫で、帰りがけなどである。写真の為に頑張らない。

それでも今の俺らしくなっている、気がする。

ちなみに仮名書は研鑽していないが「好き得意」です。親しみと言うには全然やっていない。

 

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「ロシア大陸・朝鮮半島・日本列島」とあって、「生」の扱い方についてである。日本と韓国の比較で、日本の場合「素っぽく見えても加工されまくっている」という話は多く、私もそう思うことが多い。「万物が意匠化されている」というか全てがフラットな地平に並んでいる。

 

仏画などが象徴的で、高麗仏画に描かれている仏様は人である。植物や周りの装飾と調和しながらも、日本の仏画のように「人まで意匠化されている」というニュアンスではない。

一方でこの世には「XをXのまま置いておく優しさ=決め付けない=近代画家の始祖であるレンブラントの絵は闇に埋もれている(福田恆存)」という傾向もある。

 

別に「意匠化=決め付け」というわけでもなく、それは作品に寄るし、「色や形や間などが色々思わせてくれる」し、「全ての言葉は花鳥風月であるから、どんなものもフワッとさせてくれる」のではあるが、それにしても、まあ、ただ、少なくとも日本の場合は「浮世絵、マンガ絵、絵は右脳で描こう的なガン見ではなくレディメイドのレイアウト傾向は強い」わけで、日本のものは感覚的ニュアンスを切り捨てて、「言葉・概念・マンガ絵」になっているものが多い。

 

「低容量・多品目」を扱うには都合が良いわけだが(動画より文字の方が超低容量)、どうにも「文字ばっか」見せつけられているようで、元気がなくなる。

 

ところで恋愛に於いても「男は一点豪華主義、女は平均主義」と言われ、女はチェックポイントが多過ぎて、活力を奪う。

「そんなことどうでも良い」ってやつで、女と付き合うことは「どうでも良いことに囚われよ!」と説教されているかのようだ。

 

ロシアの場合「捨てられない文化、倉庫好き」と聞く。

寒いから冷凍保存だ。

日本の場合レトルトにする。

チンすれば良いから便利に色々楽しめて非常に有難いが、全てがレトルトだと気が滅入って来る。実際に日本はレトルト天国であり、保存料天国であり、鬱病が多い。

冷凍保存は冷凍とは言え天然であり、そこから料理するのが面倒だが、まあ、上手く料理できればやっぱり素晴らしいし、ネットで素材を漁って、自分なりに調理すれば、「俺のスペシャリテ」になるわけで、そんなん素敵やん。

 

日本が保存料天国なのも、「日本人の生好きと言いながら、実は生でなく加工されているものが基本」と符合している。生卵とかも薬漬けでヤバいらしいじゃん。一方で生魚を食べるために交通網が整備された。日本の社会資本が安定的なのは日本人が刺身好きなためです?それは有難いこと。

 

ちなみに中国とロシアで言うと、中国人は現実的物質的で、ロシアは可能性的精神的で、中国人にSFチックなことを言うと激怒してくることも多い。ありゃやっぱり東洋なんだね。でもSFが現実的になった現代では、中国人もSFチックに現実を生き始めた。SFも現実だと中国大陸の腑に落ちたのだろう。

 

ロシア人は%お構いなしで可能性をフラットに並べて来るために陰謀論好きで共産主義になりました。ただ現代は「数や技術や可能性で誰が何を仕出かすか分からない」時代で、やっぱりロシアの影響力は多大である。実際にロシアの言う通り、「万物は雪の欠片」でしかないのだろう。

 

「マンガ絵・油絵」

「レトルト・冷凍」

「ナマって言うけど、どんなナマ?」

「SFも現実に」

「%はフラットに」

 

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HIPHOPと筋トレを比べると、

筋トレの場合、確かに商売っ気が強いと辟易する面は強い。

HIPHOPはマネーマネーで行っても、それが作品になるし、グッズを売っても「そんなもんだろう」と思える。

 

HIPHOPと筋トレを比べると、

筋トレで「初心者が間違った情報を流すのは怪我に繋がったりするから警戒する」。

HIPHOPの場合「間違えもクソも無く、誤解も正解にすれば良いし、そもそも音楽だから正解なんてない」。

 

HIPHOPと筋トレを比べると、

筋トレで「初心者が俺が世界一だ!と叫べば、その志や良しだが、さすがに体を見れば一目瞭然ではある」。

HIPHOPの場合「まあ好みだし、実際に適当に作った素人の曲でも良いものは良い」。

 

俳句の例を出すまでもなく、言語自体が初心者と上級者の区別を許さない(?)。そもそも「言語のプロ」というのが怪しげだが、俳句なら子供の俳句の方が上等であり、言語も色々な人間が好き勝手に使うから富ましめられるのである。

圧倒的なクラウドを糧にできる分野は強い。ゲームの攻略など死屍累々、試行錯誤、文句、チートから発達するわけで、「文句ばかり言ってんな!」ではなく、文句を言いたい奴は好き勝手に言えば良いし、言いたくない奴はそれでも良いしと、「現実は現実である」に近付いていく。それが強い。

 

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言語というものを「対人的話し言葉」ではなく、「独り言的書き言葉」に高めたのがアウグスティヌスを言われている(何情報だ?w)

まあ、分かる気がする。書き言葉派であり、カトリックである俺からすると、励まされるものがある。

 

結局「カオスとコスモスをどう扱うか」のバランス問題。

俺は週刊少年ジャンプが好き過ぎる。

やる時だけやって、後はだるだる。

「マナーも身に付けばそれが自然体となる」と言うが、やはり「カオスでない」点は強く響く。

さらに「人類史上最高峰でないのも嫌」。

 

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ロシア大陸=敗北

朝鮮半島=恨み

日本列島=嫉妬

 

私には敗北も恨みも嫉妬もないのかもしれない。

 

善悪の彼岸ではなく、ある特定の善悪を抱えた上での感情なり何なりも万物のone of themであるから、万物を愛でると言うなら、それらも抱擁すべきである。

そして「西洋文明の凄さとは円空ではなく木喰から清らかさに到達することだ」と私もしばしば言うが、私はやはり「冷たい人間=天真爛漫=子供は冷酷」なのかもしれない。

 

であるから「お前は深くない」と切って捨てられてしまうと、私も反論したくなる。と言うのは、美的細かさについて私も煩いからである。優美な仮名書や俳句、微分積分が生まれたのは日本である。

 

そして私が人間の抱く感情に全て鈍感で、どうでも良いと思うかというと、それも反論したくなる。というのは男心、ダンディズムなどに私なりに心から共感するからである。

 

ロシア人が愛する熊には感情があるのか?

あるのだろうが、人間ほど敗北や恨みや嫉妬があるのかというと、あるのかもしれないが、まあもっと天真爛漫だろう。

食べたければ食べ、破壊したければ破壊する。

それは自然の申し子である。

俺はそっちに共感するな。

 

「カオス全肯定でのどんちゃん騒ぎ」でないとロシア人は満足しない、と言うのはよく分かる、気がするw

「芸術と現実を、スポーツと日常生活を分けて、スカッとして、現実の日常生活に帰還する」と言うのは、現実的な処世術だが、それではやり切れぬ思いもある。

それを幼児的と言えば簡単だが、「人間は幼稚」であることをロシアは突きつける。

縛れば爆発する。「その爆発が良い」と俺は言う。

少なくとも「コスモスとカオスをバランスよく使い分けるのが大人ですよ」なんて言い草は甘っちょろい。人間はそこまでバランスよく生きられない。その証拠に現実でもよく爆発する。

現実は爆発だ?

 

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しかし、近代を切り開いたのがピューリタン、アメリカを建国したのもピューリタン(少なくともその影響は強い)であることは見逃せない。

やはり突破力があると言うか、どれほど自己主張が強く、どれほどワタシキレイを主張しようと、結局はone of themに過ぎない。

ならば自己主張したいだけして、ワタシキレイを叫べば良いという見方も出来る。「業が深ければ悟りも深い」じゃないけれど、反動も大したものになるだろう。そして実際にアメリカはそう言う国である。

 

私は女〇〇の香りを愛するが、あの魅惑的な香りは何故生まれたのだろうか?私を虜にする計画を持って、この世に生を受けたのではないはずだ(だとしたら壮大な神の計画である)。出物腫物ところ構わずで、勝手に醸し出ちゃったわけである。

結果的に、嗅いで喜ぶバカもいるってなもんだ。

『目的意識について』

 

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欧米人がアジア人のマナーを馬鹿にすることがあるが、私の勝手なランキングの発表です。

1位日本

2位現実の中国ではなく中国の伝統(1位かも)

3位イスラム

4位欧米、東南アジア

5位以下は分からない。

本当に勝手すぎるので我ながら当てにならないが、そんなもんである。

 

ところで箸というのは確かに切ることも出来るが、基本「与えられたものを摘まむ」ものである。

対してナイフとフォークと言うのは自由自在に切ることが出来る。輪郭を自分で当意即妙・融通無下に作り出していくものだ。

 

さらに日本はマナーがうるさ過ぎて、一から十までカクカクしている。それが「流麗で、人類史上最高の美しさを持っている(=最初から最後までずっと気持ち良い)」なら良いが、そうでないなら無駄で堅苦しく不細工という最悪のコンボになり、やはりマナーなんて碌なもんじゃない。

 

即ち西洋文明と言うのは、事の初めから(?)、十戒以外はご自由に精神があり、最低限のルールさえ守れば、後は自由自在な点が良いのだ。

 

ヨーロッパは大陸であり、島国的に自閉していれば何とかなるところではない。常に周りに目を光らせて、フィードバックしなければ死んでしまう。箸と違って、与えられたものを淡々とパクついているのではダメなのだ。

 

さらに欧米では仲間を褒めたり、対立した後も、上手く付き合って行く「台詞や態度、精神がてんこもり」であり、そういうのが素晴らしい点であり、マナーでアジアを馬鹿にしようったって、そうはいかない。特に日本など鉄壁である。

 

ただナイフとフォークを生み出すような、フィードバック精神、当意即妙精神があり、「そこから生み出されるものはとにかく全て素晴らしい。それ以外クソ。だからアジアもクソ」と言うなら分かる。

ギリシャ彫刻最高、西洋音楽の和音こそ至高、何その他のクソみたいな雑音とかね。

 

あるいは自然と言うより、左右対称など人間が生み出す合理性に基づいているから素晴らしいとか。

俺はそんなものは幼稚な美意識と思うが、確かに音楽の和音やメロディなどは良いかな。

 

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理念によって存在を蒸発させるくらいが好きです。

 

合理性合理性って言いますがどこにでも売ってるシウマイ弁当を横浜で買って「面白かったね」と思い出にすることが何故馬鹿にされなければならないんだ!

 

「生産性がない」って、てめえ歳いくつだ? ところでお前が生まれた理由にもお前にも生産性の欠片もないのなw

「生産性がない」とブツブツ文句を言うことも、人生という無駄の一環であり、「だったら無駄好きのあなたにも丁度良いじゃん」と言われるかも知れませんが、私が言いたいのは例によって例の如く、「ユーモアセンスを持て」ということですかね。

いや「そんなの無駄だよ」と文句を言うのは、あなたなんかより私の方が多いくらいですけどね、ははは。

 

「仲間以外は皆風景」って

「友達がいないお前は景色ばっかw」って

「景色ばかりで何が悪いの?」

ただひたすらの皆風景を

一心不乱の皆風景を

 

アンデルセン神父が「野に咲く花のように」を歌っていました

 

正義感なんて迷惑と言うだろうか?

ならばよし迷惑上等

迷惑をかけない人間がいるだろうか?

どうせ迷惑をかけるなら。

 

見上げればアホがいる

 

「色んなことを思うので何とも言えません」

「相対化してばかりでいると、お前の立場も雲散霧消するの。これが絶対とヒステリーを起こすことで威がついてくるの」

「それぐらいでいいんじゃないすか?ユーモラスで」

 

旅行に行って死ぬと行かなければよかったと思うでしょうけれど、行ったからこそ助かる命もありますからね。

地震なんてどこで起きるかわからないわけで。

 

やる時だけやれば良い。
長くやりたい奴は長くやってろ。
結局それがそいつにとってのやりたい時なのだろうからな。

「マナーを人に強制するな」
「マナーなど千差万別であり、ある特定のマナーを持っていない者を軽蔑するな」

「じゃあいきなりぶん殴るマナーを持っている人はどうするんですか?」
それはダメで、「十戒以外はご自由に」の十戒に当たる。
十戒とは何かは常に考えられなければならない。
それをこそ政治と言う。

 

戦争と平和に関しては、いわゆる「性悪説」で考えることに躊躇はないくせに、

モラルに関して言うと「人間は道徳的でなくてはならない!」とガミガミ怒る。

「人間なんて戦争好きなんだからそれを前提に思考すべきだよ、ははは」と人間を面白がれるのに、

何と言うか日常のモラルに関して言うと「人間なんてクズなんだから仕方ないよ。それを前提に自分が得するように立ち回れよ」と思えないところが俺の情けないところ。

 

「不安定が好き」と最初に言うだろ?

そうすると「じゃあこういうのはどうだ?それでも不安定が好きなのかい?」とツッコミが入るわけ。

「だったらやっぱそういうのは嫌です」と、嫌な具体例をいっぱい積み重ねれば良いわけ。

やっぱ方式で修正していけば、自ずから輪郭が明確になっていく。

定義するにも最初からビシッとした定義なんかできるはずもないんだから狙わなくて良い。

「葉っぱってどんなもの?」

思いつくままどんどん上げていけばなんとかなるし、融通無碍でウィットに溢れた定義になるだろう。

注意点としては「やっぱ方式」で行くと、アホだと思われる可能性が高まる。

アホはアホなくせに「やっぱ方式」や「無限連想法」を貶してくるからな。

まあそんなのほっといてもいいし、ほっとけないなら密かにやっていれば良いかもね。

やっぱ方式で言い訳しろと言っているわけではないんだ。

自分の好みを見据えた上で、現実的にどの程度なのか浮かび上がらせたいだろ。そのための方法として言っている。

 

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日本の象徴と言えば富士山で、寿司天麩羅焼鳥も日本料理の代表である。

ところで福田恆存が「私の言うキリスト教は近代に於いて完成した宗教である」と言っている。

ところでキリスト教的本質を抽出したつもりで神学を構築しても、「そんなもんキリスト教ではない」と言う人達は一定数いる。かなりいる?w

 

例えば私は「これが具体的規則だ」と提示するわけではなく、「善悪は相対的であり、常に考え続けねばなりませんよね」と言う。

それに対して「そんなのキリスト教じゃねえ」と。「伝統的キリスト教は具体的に規則、モラル、法を説いてきた」と。

ある地域のキリスト教はこう説き、別のところではああ説いているので、それらは相対的であるのだが、確かに伝統的に「代表的・象徴的なもの」はある。

「キリスト教と言えば?」と言って出てくるものである。

「十字架、十字架が刺さった教会、イエス、パイプオルガン、天使」

モラル的にも何かあるのかも知れない。

 

日本人なら「いわゆる綺麗好き」と言われる。

それに対して「清潔にも色々あり、いわゆる体をよく洗うことだけが清潔なのではありませんよ」と言うことは出来るが、まあ、それにしても「いわゆる綺麗好き」の中に「色々な清潔の大元≒本質」が入っていそうではある。「寿司天麩羅焼鳥」の中に、他の日本料理に共通する本質が入っていそうな気配がするのと同じである。

 

その意味で「私の言うキリスト教は近代に完成した宗教である」という意見に反対する伝統的キリスト教感を集めてみたい。

「そんなのキリスト教じゃねえよ!」って頭の悪い頑固オヤジが血相を変えて怒鳴って来るわけですよw そういう奴の意見を聞きたい。

 

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「無意識的に絶対と信じられるようになってこそ常識」ってなもんで、「常識なんて色々ですよね」なんて言っている内は「常識化できていない=悪」という考えもある。

ドラクエでは回復魔法はホイミだが、FFではケアルである。

ドラクエ内部の住人が「は?なにケアルって?そんなの無いよ。ホイミのこと?なにこいつホイミのことをケアルって言ってんの?」と思えるくらいになって一丁前だと。

 

私はそういう奴を激烈に嫌うが、没入型の人はそういうのが好きなんでしょうね。

確かに「絶対と信じてこそ成長できる」という面もあり、ヨーロッパ大陸の天才はそう言う感じの人が多い。

音楽なんか良い例で、一つ一つの音に意味を与えて「この和音にはこういう意味があります」と真顔で言って来る。「このゲームに於いてはこういう意味があるが、他のゲームではそんなことありませんよねw ははは」と言う余裕が、そこには無い(?)。

私なんて常に「うちではこういう感じでやらせてもらっております。他の方ではまた違うんでしょうね。いや申し訳ございません。あっしはこれしか考えられないもんで。成長しませんね。ははは」と謙虚だが、そう言うのが無い奴なw そんな奴は付き合いづらい事この上ないが、まあ、とにかく勢いはありますな。

 

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東洋や女は「今ここ」と言って「腹を指す」が、

西洋や男は「ここではない未来」を志向する。チ〇〇から〇液が放たれる先である。

 

あれだけの精子が放たれて卵子に届くのは、たった一匹くらいである。その確率の低さたるや。

対して卵子は100%である。

これだけでも男が「可能性に賭ける生き物」ということが証明されるってもんよ。

 

「1%に満たない可能性に賭けて、遠い理想を実現する=受胎させる」、これが男の生き方なのであって、西洋文明が記録更新的、離脱的文明なのも頷ける。

 

「私ってのは今ここにあるものなの!」とヒステリックに怒鳴る女とは根本から違うよね。

 

ところで朝鮮半島文明の魅力とは「東洋という女性的空間」に於いて、男性を貫こうとしてきたところである。

韓国は「発祥地を捏造する」が、捏造するから悪い(これも捻じれ現象で一概に悪いと切って捨てられないが)のであって、どこが発祥でも朝鮮半島に於いて朝鮮半島化されれば十分であり、「朝鮮半島化した何かが朝鮮半島の本質」なのであって、それが無くなることは無かろう。

さらに「絶えることなく続いてきた」的な捏造も要らない。「一度絶えたけど復活させました」という成り行きがベストだからだ。ずっと続いているのも有難いが、それだと「ルネサンス=復活=再生」にならない。一度滅びてないんだからね。

西洋や男は一度滅びたものを復活させる習性があり、それが男の証明でもある。一度滅びたものを復活させるってのは大変であり、縄文人が縄文時代の生活をするのは当然でも、現代人がするのは色々と大変である。「その大変を克服して=遠い理想を実現して、常態化する」ところに西洋文明の凄みがある。

 

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A「神は全知全能だから金星と木星を合体させてキンモクセイを作れる。

データとしてそういうものがあるだけでなく、この現実に作ってもらわないと困る。と言うことで、じゃあ作って」

B「パラレルワールドに作った」

A「そうではなくこの現実に作って俺にも見せて。この現実はこの現実の摂理に則って動いていて、その摂理を外れた世界はこの世界には作れないというかもしれないが、神は全知全能であり、この世界にも奇跡を起こせるはずだ」

B「天国では色々な奇跡を起こしてやるが、この現実世界で奇跡を起こせたのはイエスキリストただ一人であり、イエスはもう死んでいる。

たまに奇跡認定される者もあるが、それはその者の信仰や生き様が神の恩寵と偶然的に合体して、そうなっただけであり、基本この世界を作った後は、楽園追放もあり、もう放置ですよ。この現実という摂理から抜け出すことはできない。だから人々は楽園追放以降、死に続けてきているわけでしょう。

救済というのは死んだ後に天国に行けるということだけです。

さっきあなたが言ったようにデータとしては金星と木星が合体したキンモクセイも持っているし、それが当たり前に起こっている世界も、奇跡として起こしてやる世界も存在するが、この現実ではそれはやらない主義です。もう放置ですね」



仮にこの現実で行った場合どうなるのか?

まず全知全能だから何が何でもできなくてはおかしい。

ただこの現実はこの現実として設定された世界だから、この現実の摂理を超える奇跡が起こった場合は、この現実でない別の世界に行ってしまうことになり、例えばこの現実めがけてキンモクセイを作ったら、できた瞬間別の世界に行ってしまい、別の世界の俺はキンモクセイを認識しているのだが、この俺にはその記憶はないし、経験もできないし、この世界に居残り続けることになる。

これは過去は全て天国に行ってしまうことに少し似ている。刻一刻即身成仏にも似ている。グレゴリウス1世は世界は一瞬一瞬消滅と生成を繰り返していると言っている(ちなみにこれを言っている西洋の思想家はいるだろうと思ったらそれがグレゴリウス1世だった)。


で、そんなことはどうでも良くて、とにかくこの現実で奇跡を俺の目に焼き付けてみせろと。

それがどうにも起ってなくて困っちゃうんですよね。

まぁやっぱりさっきの、この世界の摂理は動かないってやつですかね。


奇跡を起こした瞬間別のゲームになる。ゆえにこのゲームに留まる以上奇跡を経験できない。

奇跡を起こしても別のゲームにならない。ゆえにこのゲームに留まっても奇跡を経験できる。


ちなみにイエスキリストの起こした奇跡は完全に神の奇跡というわけではなかったはずだ。イエスは神でもあるがこの現実世界に真の人間として存在している以上、有限なる存在という枠組の中にある。

史的イエスが動物を食べたとして、過激派ヴィーガンからすれば、極悪非道の存在である。人より動物を愛護する連中からすれば連続殺人犯以上の大悪人だ。

そんなイエスなんですが、最後には救済されている。

史的イエスについては「実際にやったこと」の研究はあるのだろうが、それはそれとして、イエスが人殺しをしていても、俺としては全然構わない。史的イエスは神でもあるが人間でもあり、特に「苦しみ、悪」などの象徴でもあるからだ。それは「一般道徳的な悪(イエスが悪漢だったと言う説は知らないが)、喜ぶことが出来ない」など多岐に渡る悪徳であって良い。

節度があるから喰い過ぎはしなかったのだが、

・イエスが大食い選手権に出ていれば、喰いまくったはずだし、

・節度を弁えていたと思ったが、実は喰い過ぎていたこともあったはずだ。(別の観点の導入で不可避的に悪にする。その量はそれはそれで善だと言う観点もあるが、悪だと言う観点もあり、イエスはその悪も引き受けねばならない)

イエスが戦争に行って人を殺していたら、それを善だと言う人もいるが、当然悪人呼ばわりする人もいる(実際の従軍経験の有無など知らぬ)。

イエスはあらゆる悪を引き受ける存在であるから、そういうものである。

 

ちなみに神学大全にも「自分が罪を冒していないにも拘らず、自分が犠牲になった」ところにイエスの凄みがあるから、殺人などはしていないと書かれていた。

ただ先程のヴィーガンの例や「空気を吸っている時点で極悪非道」呼ばわりしてくることについてはどうか?

「罪を犯す」の本質は神に対する裏切りで、「神への感謝を忘れた」という、ただその一点とするか。空気を吸うのが悪ならイエスも悪党なのだが、「罪を犯すってそういうことじゃありませんから」と。そうではなくて、イエスは神を裏切った(まさにこれが罪)わけでないのに、他の人間が神を裏切った償いの代理人として裁かれた。ここにイエスの凄みがある。そう言えば良いだろうか。

 

ちなみに神は全知全能全有であるから、殺人者の心境や苦しみも、当の本人より深く感じている。最強に感じている。ただ神の中に「悪=善の欠如」は存在しない。神学大全を読んでいると、善とは「完成、達成」のことのように俺には思える。

人間にとってどんな悪と感じられる行為も、神の中には善として存在する。

 

 

 28巻P151

感覚的部分は理性と直接に関係し、理性の作用を受ける。この部分には理性に服するように傾く傾向性とそれに反する傾向性が存在し、対立している。

【理性に服する傾向性に従って働く場合はその行為は倫理的に善】となり、

【反する行為に従って働く場合はその行為は悪】となる。

【徳】はこの善への傾向性を助長し強化する修正であり、

それに反する傾向の根源となるのが【罪の火種】である。

だから徳の力が強まるほど火種の力は弱まる。

 

28巻P160

キリストは罪を犯さなかったから経験による罪の知は持たなかった。しかし言と合一している人間キリストは言から直接に受ける光の元にもっと完全に明瞭に罪のなんたるかについての知を得ている。

 

 

神は「全有」でもあるから全ての善悪を抱えている(神からすれば悪ではないが)。ところで一人一人は自分の奉ずる価値観を持っており、その善に従って(いるつもりで)生きていたりする。

「他の人から見れば私も悪ですよね」と言っておきながら、自己完結的な傾向が強い(プロテスタント的な自閉主義=福田恆存はプロテスタントの悪い所は「自分が神様になってしまうところ」と言っていた)。要は「他の価値観を認める力が強くても、他の価値観が自分に流入する度合が弱い=他者と血管が繋がっていない」。世界がカオスであることを認めはするが、「自分がカオスである」ことを実感する度合が実は弱いのだ。やはりこの点島国であり日本と似ている。「世界全体として色々な価値観があり、他から見れば私も悪である」と言うことは認めるが、「自分も自分以外である=自分の中に悪がある」と実感する度合が弱い。

 

万物が神を分有するとして、神の中に無限の価値観があるなら、一人一人の中に「悪も確実にある」はずなのだが、「私はパーツ。全体として色々な価値観があるのは分かるよ」という傾向が強い。これに対して「一人一人の中に善も悪もある。自分が嫌うものも自分に内在してしまっている」という意識が低いと言うことだ。

 

プルーストの『失われた時を求めて』の要約として紅茶を飲んで終わると言うイギリスの喜劇があった。他にも英語圏の他者に対する扱いは「ぞんざい、丁寧でない、粗雑」であることが多い。「存在することは認めるけど、はいはいそうなんだね」程度の認識で切って捨ててしまう。

 

お前の価値観に対する物凄い批判があったとして、それを真面目に聞かず、適当にいなすことによって、「わかったわかったと認める」ことはあっても、「真に受けることはない=血管を繋げてしまうことはない」。

 

逆にその適当さ、軽さがあればこそ「そう言う意見もあるにはあるんでしょ」と認めることには繋がる。それがユーモアにもなる。「実は自閉的。本当は真に受けていない。ささっと離れていく姿勢」がユーモアを保証している(日本も島国で他者と距離があればこそ「他者を尊重する心が育まれた」とも言われる。それと似ている)。真に受けてしまうと、適当に流せず「なんだこの野郎!」と喧嘩になってしまう。結果的に傷を受け、他者性を余計に認めることになるか、逆に「そんなものは俺の中には無い」と潔癖になる可能性もある(潔癖や過敏というのは「他者を真に受ける」ことから来ているはずだ)。

 

ただ他者を軽く扱えると「一人一人がある意味伸び伸びと私は私と自閉できる=真に受けてガチで潰し合うことから免れる」ので、結果的に多様性が生まれる傾向もあるかも知れない。

圧倒的な多様性が生まれてしまえば、「自閉的で他者を軽く扱う」と言っても、さすがに繋がりを意識してしまう局面も多くなる。島国的自閉が一皮むける瞬間だろうか。

 

「日本は島国で侵略を受けなかった」「他者に対してあまり介入せず一人一人が自閉的」だからこそ、他者をリスペクトする姿勢が育まれたと言う意見もある。

これが常に間近にあると軋轢も生まれやすく、アレルギー(蓄積量で問題化する)を発症して、他者に過敏になる。

 

アンドレ・ジッドが「我々フランス人は悲しい人種だ。美しいビーチでバカンスを楽しんでいても、どこか思い悩んでいる」と言っていた。

「他者性の流入、自分に内在する悪の実感」が強いわけだ。

逆にそこまで他者を流入させた上で、ユーモアを発揮する時、本当に深い優しさと笑顔が生まれる。

その具体例はアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真、油絵の明るいやつ(深刻なものも好きだけど、ここではユーモアとか笑顔なので明るいということで。マティスでもモネでもピカソでもシャガールでも良いけど)。

ブレッソンの写真は決定的瞬間と言うより「相対的瞬間」である。「砂浜でズキューンキスしている二人」をクローズアップで撮るのではなく、その他の平和な風景、笑っている人々も同時に写っているが、とても優しい。

 

アンドレ・ジッドだと思うんですけど、「イギリス人って言うのはブラックユーモアとか善悪の相対性を言いながらも、心の底では、自分なりの正義を自然に信じている明るい奴等だ」

「それに対して、我々フランス人っていうのは独善的だの押し付けがましいだの言われながら、美しい海辺の観光地で素晴らしい一日を過ごしていても、心の底で、喜び切ることができない悲しい人種だ」っていう風に言ってたんですよ。 これがフランスかなって言う。絶えず「他者」を抱えている。

 

【形而上的社会性】≒観念論
メリット:絶えず自分も間違いにされされる。大陸なりに「他者」を意識する。
デメリット:押し付けがましい。結果的に独善的。
【形而下的個人性】≒経験論
メリット:控え目。私は私、君は君。島国なりに「他者」を意識する。
デメリット:自閉的。本質的に独善的。

・イギリスは島国で、アングロサクソンは本質的に近代的性質を持っている。
・「善悪は相対的である」ということを本能的に知っている民族だ。
・しかし、大陸もやがて近代を迎え、真善美が相対化される。

・真善美の数が「個人の数」とイコールになった場合、違いはあるか。
・その真善美が「形而上的か、形而下的か」という違いがあり、
 本質的には、上に書いた傾向が表れる。

・男性的島国は「自分と異なる価値観を持っている人間がいる」と知っているが、
 自らの「本質」に「間違い」が入ってくることはない(まあ、一つのレトリックだけど)。
・大陸には男性的島国のようなユーモアセンスはないが、
 自らの「本質」に「間違い」が入っている。

・ユーモアセンスを持ちながら、本質に「他者」が入っているのが良いね。
・男だね。

 

 

【東洋的な倫理は、「そうせねばならない」ではなく、「その理が腹に落ちればそれ以外の在りようができなくなる」という形を取る。 逆に言えば「そうできない」なら「まだわかっていない」ということである】

「なんと非倫理的な態度だろう」と思ってしまう。倫理とは「思慮性≒可能性を考慮し続けること」だからである。「無意識に染みついてこそ常識」じゃないけれど、「自然に手を差し伸べてこそ倫理」と言うのは理解できるが、一方で「手を差し伸べることは本当に良いことだろうか?」と思慮し続ける姿勢は「色々な人や意見を思い遣る姿勢」であり、「自分が間違っているかも知れないなと反省する姿勢」でもあり、それをこそ「良心=自覚⇒ユーモア」と言いたい。

即ち東洋的倫理とは「これ以外ない=絶対主義=子宮主義」という形を取る。「私は私で正しい」と叫ぶ。なるほど、ごもっとも。あなたはあなたで正しい。だが他の正しさもある。

結果的に「自閉している状態=自分」を正しいとするのではなく、「相対性を考慮している状態=神」を正しいとする姿勢こそ倫理的なのだ。

 

小学生中学生の頃は女の方が大人っぽいが、高校生以上になると男の方が大人っぽい。

東洋文明の要諦は「高校生以上にならないこと=男を高校生以上にさせないこと」にある。

「ある特定の価値観を見事に受胎する」ことは女の方が得意だが、単純に言ってそれだとユーモアに欠ける。欠けるだろ?

ある価値観からすると悪とされるものが時間的経過で善になったり、その逆もある。「何がどう影響するのか知れたものでは無い」と言う複雑怪奇な国際情勢を「真」と認め、「それが人生だよね。ははは」と言う余裕とユーモアこそ男の取るべき倫理的態度である。

 

私が「ワタシキレイ」を根底から嫌う限り、私が東洋と相容れることはない。何という違いだろうといつも思う。

女が「危機」を嫌うのは、

「異物が体内に入ることに対する嫌悪感」と

「嫌なものをイメージする時の生々しさ(脳梁を渡らない時)」が原因だろうと思う。

 

しかし近代に入ると「多様性が如実になる」ため、ワタシキレイを相対化する情報に触れ過ぎる。結果的に引き籠るしかないのである。女は引き籠りである。

 

女は大人っぽいが、男の大人っぽさとは

善悪の相対性

空間的には「今この瞬間に色々な価値観を持った人がいる」です。

時間的には「善と思ったことが悪に転換していく(または逆)」です。

即ち「情報と交通が圧倒的になった」ため、「多様性が突き付けられてしまう」。

それは「数」です。

 

「フィードバック能力の違い」です。
女は子宮主義で、一度受精したら、その精子を徹底的に展開することに命を懸ける。「途中で他の精子にします」と言う卵子は無い。
男の場合、色々なものからフィードバックを受けて、軌道修正する。それが浮薄にもなり、柔軟な姿勢にもなる。