教育「ゲームと受験勉強に習ひて27」 | まあのブログ

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夢日記や神学などを書いております。

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初登場第一位系【(俺なりの)陶器近代絵画、受験勉強、仮名書、俳句、写真、得意なゲーム、短歌和歌】

熟練もある【神学哲学】

結果的に熟練もするはず【詩】

熟練させた方が良い【仮名書】

 

・陶器と近代絵画。最初から目が良過ぎた。好みの変遷もあるがレベルが上がったと言う感覚が無い。

・受験勉強。中学の時はコツコツ勉強していた。高校生になると1年生の段階で、一気に大学大学院レベルで、文系偏差値は80(理系偏差値は40)。

・仮名書。臨書も出来ず変体仮名もほとんど覚えていないが、これも少し練習して納得のレベル。

・俳句。最初から高レベル。美意識、日本文学、哲学、編集術など全体重を乗せた。

・写真。写真は皆様そんな感じだろうが、そもそも俺は見る方が好き。選ぶ側。

・ゲーム。MW3DZ。これは初登場第一位過ぎるw

・短歌和歌。短歌和歌の練習ではなく、脳ミソの回路が落ち着くと、自然と詠めるようになった。

 

・要は俺は「回路を整えた挙句は初登場第一位モノ」以外、あまりやっていないのだ。「熟練・上達・ベテラン」を得ていない。

・いや、色々なものに影響を受け、回り回って落ち着く、成熟するわけで、簡単には言えないが、それにしてもだ。

・哲学や神学は常にやり続けている。実際に同じことを書いているが、それこそ望む所であり、落ち着きもし、定着もし、そこからまたレベルが上がる感覚もある。

・結局「それを続ける」ことこそ亀の甲より年の劫で、熟練や上達するならば、俺にとってその効果が表れるのは哲学神学なのだろうか。

 

・詩(俳句短歌和歌全般)については、結果としてついて来る感じだろうか。

・写真についてはディレクションをする。自分で京都の写真を撮るなどはあり得るが、これも人に任せたい。

・仮名書については引き籠って出来る故に、変体仮名を学び、必要な道具を揃えれば、自他共に認めるレベルまで行かせる自信はあるが、結局手を動かすのが面倒。

・料紙制作もやりたいが、これは陶器と同じく、他の人に任せたい。

 

・何故私がレストランに行くのかと言うと「私が料理人になりたかったから」「とにかく料理に興味がある」と言うのもあるが、「熟練や上達とは何事であるか」を身に染み込ませたいわけだ。

・「他のものではダメなの?」

ヒップホップはグローバルでクラウドなのが良いが、「歴史の浅さと個人的成熟」に関しては料理に軍配が上がるように思える。どちらも私にとって重要なのではあるが。

・料理の強さとは家庭料理からジャンクフードから伝統的お惣菜から高級料理まで繋がっている感があるところでもあり、それはクラシックとヒップホップが当然に合体している世界でもある。

・ヒップホップの場合、今の所「一人で哲学的探究をする」と言う面に於いてクラシックより凄いと言えない。

・ヒップホップの場合、今日始めたやつもセンスだけでサンプリングしてどうにかなるので、俳句レベルに取り組みやすい。しかもそれが「本当に良い」のが良い。「今日始めた割には」ではなく、最高レベルを叩き出せる。俳句と同じように。

 

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「国柄が破壊される」というが、「破壊され続けて来た」とも言えるわけで、何を今更と言う感じだ。100年前の文章にすら共感できなくなっているのである。そもそも明治維新って国体の破壊だろうよw 「いや、あれは続いている」と言うのだろうが、そりゃ見方ですな。大和朝廷成立もそれまでの国体が破壊された瞬間かも知れないし、「弥生時代でもうアウト」と言う人もいるかも知れない。ちなみに古代日本では戦国時代のように豪族が群雄割拠しており、「和を以て貴しとなす」ような状況ではなく、「和を以てねえ」から「和を以てや!」と宣言したらしいよw

結局、ウヨクだのホシュだのが言っている日本は実は戦後日本であり、「サヨクなき戦後日本」こそ本願なのだろうね。

確かに日本はグループ主義で、個人主義を生み出した国ではない。近代を切り開いた国でもない。

私からすれば「古代と中世を繰り返す幼稚な国」とも言える。

「グローバル個人主義」と言えば、結局はカトリックの理想なのだ。天皇家にはカトリックが多く、私から言わせれば、それも日本の歩むべき歴史として象徴的(八百万の神々を形而上化・フルメタルジャケット化するため)なのだが、それは置くとして、

個人を威張らせると、上下関係・集団主義が否定されるようで、それを恐れる本能が働くのである。確かに個人が突き抜けて、猛威を振るうようになると「平均化の魔の手から逃れてしまう」ので、社会としては厄介なんだろうね。「さあ行くぞ、社会〇せ」の掛け声だ!

 

実際カトリックというのはその土地の神々を吸収しながら、カトリックを広めて来たわけで、戦国時代も追い出されているw 藩を越えて怪しげな動きをして、一定の力を持ち、「超えんな。怖えな」と潰されたのである。

 

ところで日本の伝統などと言う奴等が本当に日本の伝統を知っているか、身に付けているか、守ろうとしているか、甚だ疑問である。

別に全然伝統的とは思えない。戦前の日本のことすら知らないのだ。

そう、私がよく言う「60年主義」でしかないのだ。戦前にも達しない。まさに戦後体制でしかない。

 

この辺は私が最近も書いた「日本の伝統の在り方=団子三兄弟型・生き物+言語化された諸々」などを参照されたし。

 

ところで、GAFA的なグローバルプラットフォームが独占的であるのは良くないと思う。その意味でイーロンマスクがアメリカ民主党から距離を取っているのも良い。他にもそういう勢力が出てくると良い。

 

グローバル個人主義って、そんなに悪いの?良いのでは?良い点が余りにも多いのでは?世界の色々な人と繋がれる。自己実現できる。地方の中小企業が知られる。

60年以上前の古典に注目が集まる!そう、伝統伝統うるせえ奴等って、古典を知らねえのな!

 

Youtubeで「コロナワクチンは必要ない」と言うとBANされるというのは確かにイカれているが、アメリカは反ワクチン運動もカルト的な意味で喧しいので、「御上のおふれ」として理解はできる。統制しなければいけない側も大変なのだ。

逆に放置してもマイナスは出る。冷静な意見も潰すことになるが、それは他の媒体でアピールすべきでもある。その意味でツイッターなどがあるのは良いし、他にも出てくるべきなのだ。

 

結局「誰がどの程度威張るか」と言う問題なんですよ。

「グローバル個人主義を推し進めると、国柄が変わるから怖い」と言う意見も、それです。

伝統を言う奴等が常に疑わしいのは、伝統じゃねえんだからw 「100年前の手紙にも共感できぬ民族になってしまった」と保田與重郎も嘆いていた。

 

それにしても伝統や古典を大切にしてきたのは、カトリックである。「外から来る」人達は平等に全部見るからね。

「常識に埋もれて、自覚的に過去を学ばない、周りに合わせることこそ国柄を維持することなのだ」と言う意見もあるが、クソだろ。それは古典主義でも、伝統主義でもなかろう。

 

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「魯山人は傲慢だ」と言う意見をたまに聞くが、HSPな時点で謙虚だ。永井荷風も謙虚だ。鹿鳴館の猿踊りをするバカどもは何を感じ取り、何故そうしているのか?

 

日本も含めてアジアの街並が汚いのは社会性が無いからだ。「人のことより自分のこと」などと言ひて、公共性に興味が湧かないのは自閉的だからだ。目は前について、視覚に飛び込んでくる映像を気にせざるを得ない。人を気にするのは当然のことで、アーモンドアイで目を瞑り、自分のことばかり考えているから、街が汚くなる。

自閉症であり、威張ることではない。

 

誰が凄いかなんて分からない。常に臨戦態勢であるべきだ。

威の無い奴は偉い奴。機械にも威が無い。黙々と働くのにな。

「近代は人間を機械化した」と言うが、近代を徹底しないからダメなわけで、全ての人間に価値があることを分からせたのも近代である。

SNSを馬鹿にするな。バカに出来ない人間に出会えるが故也。

 

私は本居宣長が大好きだが、1000年以上前の古事記を蘇らせたが宣長である。イメージ力が違うんだよ。保田與重郎も「宣長翁くらいのお人になると、源氏物語の世界を如実に実感できていたはず」と言っていたが、そういうことだ。

「明恵上人は我が朝に於いて最も清らかなお人である」保田與重郎

その明恵上人も『夢記』であり、イメージ力が抜群。

と言うより、平安貴族も浄土教でイメトレ三昧であり、聖徳太子も『日出処の天子』よろしく。

今の人が物質に頼っているところを精神力に頼っていたのですからね。

 

フルダイブ式VRも、そう考えると古代に帰っていく原始的な本能の表れなのだろうな。実際、古代人は天国などを夢想したこと多々であろうし、天から貫かれる法悦感覚など、ありゃフルダイブ式VRだぜw

 

野生野生言うけど、それなら昔の人に触れると良い。ナスDしかいねえよ。電気もガスも無いのだからね。そこから紡ぎ出されるパワーをとくと味わえ。

 

「人類を幸福にする」という大願が根本である。

宗教家なれば也。宗教家であれ。

 

「何を仕出かすか分からないから怖い」などと言ひて、個性を貶めた奴には必ず落とし前を取らせねばならない。

ふざけた前例を作らせてはならない。

 

オルテガは「アメリカ人は文明を持った原始人」と言ったが、日本人は「技術を持った田舎者」と言ったところだろう。近代的でないのだ。「近代とは何か」はきちんと書いた。

 

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「マキャベリズム=目的のために手段を選ばない」って、冷酷に思われてしまうと警戒されて、目的から遠ざかってしまう。冷酷なのも味があって、ファンが増えて、目的に近付く可能性もあるが、まあ、そこは上手いこと育てばよろしゅうござんすねと。

 

ところで「真面目に生きる」とは、与えられたことを黙々とこなすことではなく、「何が何でも到達してやる」と死に物狂いに生きることである。ゲームで言うと、どんなキャラでどんな環境からでも目的に到達する試行錯誤が「真面目に生きる」ことである。

 

さらにジャンキー的様相も帯びてくる。効く薬を求めて本能で生きるようなものだ。ジャンキーは効く薬のためなら形振り構わないだろう。能書きを述べられても、それが本当に効くか効かないかは体が判断する。能書きに左右されている場合では無いのだ。いや、むしろ能書きをも血眼で読み倒すかも知れないが、それも形振り構わず効く薬を求める本能に寄る。

 

それが真面目に生きること。

 

それに対して、

確かにジャンキー的だと冷静さが奪われるかも知れない。一歩引いて他人事のように観察する冷静さこそ、効く薬を処方する要なのかも知れない。

さらに「効く薬なんて求めない=医者はジャンキーでない」。「目的なく遊びで研究してたら、色んな薬が出来て、結果的に誰かさんにも効果的だった」なんてことは枚挙に暇が無かろう。

 

根源的本能×最先端科学=戦闘機?

ジャンキー×クラウド=HIPHOP?

 

思えばゲルマン民族は戦闘民族であり、原ゲルマン形質を強く残すと言われるイギリスも戦闘国家であり、イエズス会も軍人が設立しており、アメリカはご存知の通りであり、ゲーム帝国なんて何をか況や。

 

ところで「ユダヤ人に戦争なんてできんのかよw」と言われたが、イスラエルは出来た。

「本能、信仰、逃げられない」がやる気を生む?

 

個人で考えても、火事場のクソ力を発揮せざるを得ない時、土壇場でペルソナが発動する?

 

ところで脳ミソは回遊魚と同じで、動いてないと死んでしまう。やることもなくニヒリズムに陥っている時って、脳ミソからすれば危機的状態。

でも溺れる者は藁をもつかむで、そういう時に掴んだものって忘れないんだよね。20代で本を読み散らかせたのは、俺の傷跡、死に物狂いの痕跡。

 

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「キリスト教は憎悪の宗教」という説は、やはり私にも興味深くて、ニーチェもDHロレンスもハンナアレントも、チェスタトンも明確に言及している。

 

「弱者の嫉妬、活き活き生きている奴等への嫉妬、健康への嫉妬」etc

 

ところで私は昔から「なんでこんな奴が威張ってんだ?」と言われることがある。

 

ギリシャでは自由学芸が高貴な学問とされ、その上に詩人がいる。

キリスト教時代になると「哲学は神学の婢」と呼ばれ「神学・哲学・自由学芸」という順番だ。

フランスって何の国?料理?恋愛?いや違う。芸術の国ですらない。そう、哲学の国。

戦争で威張るのは指揮官であり、現代世界で幅を利かせているのはGAFAであり、その社長達である。

屈強な兵士より銃器の方が強く、さらに核兵器の方が圧倒的である。

修道院やオックスブリッジは引き籠りの聖地だが、世界に影響を与えている。

ビルゲイツは「オタクタイプを大切にすると良い。将来彼等はあなたの上司になる可能性が高い」と言っている。

モンゴルの諺では「体を鍛えると3人〇せるが、本を読むと1000人〇せる」と言われる。

 

「なんでこんな奴が威張ってんだ?」という問いにズバッと返そう。

「16タイプ診断で言うと建築家だからである」

さらにテストステロンが多く、攻撃的で支配欲が強いからである。

「攻撃的な建築家こそ男の中の男であり、男性的な才能の塊」と信じちゃっているからである。

 

ところでキリスト教が憎悪の宗教という話なのだが、私からすると、「戦争に向いた社会を作ろうとする宗教」ではある。

戦争に威力を発揮する司令官や科学者が成長するまでには時間が掛かる。小学生の段階で暴れる奴等に潰されてしまうと、金の卵が劣等感に陥り、十分に育てない恐れがある。

そうならないように司令官や科学者候補を、子供の頃から大切に扱うようにする社会的厚みを自覚的無自覚的に作って来た、というのが私の見立て。

 

ヨーロッパは群雄割拠で地続きなので気が抜けないのだ。勝てる男を確保しないとヤバ過ぎる。

 

小学生は勢いだけ。

中学生は不安定過ぎる。

逆にこの頃の男なら、女の掌の上で転がせる。実際に中学生までは女の方が肉体的にも大きい程だ。

 

高校生になると、男は自分の世界を持ち始める。自我も安定する。「自分は自分、人は人」と思えてくる。ユーモアセンスまで身に付けられれば最高だ。ヒステリーからの卒業である。

肉体的にも男の方が大きくなってくる。

即ち女の掌の上で転がせなくなってくる。男には自分の世界があり、恋愛や結婚もどうでも良くなる。一方女は恋愛や結婚に惹かれ続ける。男に振り回される段階に入るのだ。

 

女は威勢がいい男に惹かれるが、威勢では戦争に勝てない。威勢のいい男は女を楽しませる役割は果たすが、それはアイドルに過ぎないのだ。女としては男には自分達を楽しませる存在であってほしいから、男に「むくつけき兵」になってほしくないわけだ。だが男の世界で威張るのは「戦争に強い奴」である。

 

小中的基準でカーストを決めると、女好みの男に威張らせると、戦争に弱い国になってしまう。それは致命的なことだ。

そもそも男の本能に合っていない。小中基準で威張っている男など、脳ミソが女性化されたオカマに過ぎない。

 

キリスト教が「憎悪の宗教、リベンジの宗教」と言うのは、私からすれば「小中基準で威張ってる奴等バカじゃねえの?」と言うことであり、それは「戦争の宗教」だからである。

 

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「絵解き」と言うのがあって、図像って言うのかな。ああいうのは俺の心を萎れさせる。面白いと感じないし、「意味を見出す」みたいなことに興味が無い。

ワインの味の微妙さを追求する人が文学的意味を考えるだろうか?確かにワインを提供する時に「その人の生年月日や出身地にちなんだものを出す」などはあっても、だ。

アーノンクールがパリ音楽院を批判しているが、私からすれば、パリ音楽院だけでなく、フランス文化と言うのは「感覚の微妙さを追求する文化」であり、それが良いわけだ。「意味からの離脱」こそ近代が達成した自由ぞ。

ちなみに作曲家で言うとシューマン、指揮者で言うとアーノンクールは、クラオタ界隈では「文学的感覚から離れられなかったダサい人」と言う認識もあるらしい。俺はシューマン、アーノンクールも好きだが、では「グールドのバッハに宗教的意味があるだろうか?」と言いたい。

何かを受け取る時「意味=パーツ、内在的性質、関係的属性」を受け取らずに済むだろうか?例えば絵画で抽象的に描かれた女を見た時に、それがいくら抽象的だからと言って「女を意識せずに済むだろうか?」と言えば、そうではないだろう。人は意味から逃れられないかも知れない。

一方、私の中には「絵解き的意味の見出しを嫌う本能が確実に存在する」のだ。一体料理を味わう時に「感覚の歓喜」以外の何が必要だろうか、と。ワインの例と同じで、確かに京極さんの鮎よろしく、思い出や生年月日に関連させたもので感動も一入ということはあるだろう。

ただ感覚の微妙さを味わう時と、意味を見出して喜ぶ時とでは、脳ミソの動きが違うと思うんだよな。

少なくともソムリエ選手権は「思い出発表大会」ではないはずだ。

「感覚だけなんて機械みたい」という批判があるが、感覚と言ってもどう受け取るか何を好むかは千差万別であり、そもそも感覚って人間的動物的なものでしょ。それを機械にも測定できるようにしただけで、機械も人間が作り、機械は人間的な機能の延長でもあるはずだ。

「意味を味わうのが人間で、動物には無い」と言うなら、「動物も意味を味わっているのでは?」と返す。

さらに前にも言った「京極鮎薬」の例。それを飲むと意味も彷彿とする薬の開発も待たれる。それを料理にぶっこめば完璧だろうか。

「感覚も意味から逃れることは出来ない」と言うなら、「逃れることは出来なくてめでたいですね。ソムリエ大会も結局は意味大会なのかも知れません」と返すが、現実的に程度問題はあるだろう。

ところでやっぱり「ソムリエ大会は意味大会ではない」はずだ。それだったらワインの品評会が思い出発表会になってしまうからね。自分の思い出を元に(個別)、その思い出を知らない人間の感覚(普遍)に訴えるところに面白さがある。

フランスが感覚を重視する文化であることは、普遍性と表裏一体である。感覚とて個別性に基づいて発達するものであろうが、少なくとも「他者に投げ与える」レベルには昇華されている。

言ってみればパラメータ化している。

その上で好みはあろうね。

「あなたには分からない!」と自閉することを嫌う本能。

竹本忠雄さん(『マルローとの対話』は必読)もフランス文化の「普遍性」について度々言及している。私はそれを「他者性を弁えた上での繋がり意識」と捉えている。それは大人な姿勢だ。ヒステリックであるべきでない。

そもそも知らない土地の知らない人に、文脈抜きで感動させるのが近代芸術の野蛮さであり、愛であり、自由であり、魅力だろうよ。

 

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「科学がどれほど進歩しても科学的に証明できないもの」があるとして、それを共有できるか、というのが本質なのかも知れぬ。

(ちなみに神は全知全能なので科学を無限に進歩させることも出来るし、無限に進歩した科学によってさえ証明できないものも作れる。それは矛盾だろうか?それは玄義、神秘である)

現実的にも「科学的に証明できるから通じ合う」と思って、人に話しかけるわけではなく、「何となく通じんじゃない?」という希望の元に、人類は話し掛け続けて来たわけだろう。

それも私の言うカトリシズムの特徴なのだが、「全有である神を、人は分有する」ので、自分をどう区切ろうと(区切るまいと)、他者が自分の中にあるわけだ。

「全有である神を分有しているから他者と繋がれる」。科学的に証明されるから繋がれるのではない。さもなくば科学的に証明されない場合、人と人が繋がれなくなる。人と人との繋がりを科学的証明に担保させるのは第一ではない。「ああやっぱり科学的にも証明されましたか」などの安心や強めの役割を果たすことはある。

 

イギリスは「中世をすっ飛ばしていきなり近代を迎えた=イギリスは元々近代的民族=近代とはイギリス的時代」とも言われるが、科学と言う「最強の共通証明」と「ピューリタン的個人主義」でバランスを取っていることも興味深いと言うより、これはこれで実は頼もしく、私にもそう言う所はある。

一方「ある個人は本質的に他者を分有している」と言う感覚も私の本能なのだから参っちゃうよ。いや、参らない。それこそキリスト魂?

 

 

「神は1234」

Aさん「俺は1担当」

Bさん「俺は2担当

Cさん「俺は3担当」

Dさん「俺は4担当」

皆集まれば1234なんだから、俺は俺でいるよ。

 

対して、

ABCD各氏「俺の中に1234全部があるのが前提なんだけど、それぞれ好みってものがあり、俺は1系でやらせて頂いております」という感覚。

 

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一人称も様々であり気分によって言葉を変える。

何を何と呼ぶかも同様で、文章レベルでも同じである。

絵画の場合も同じであり、「リンゴを描け」と言って「〇」を描く人もいる。実際にそういう禅画もある。

さらに「犬を描け」と言って、魚を描く人もいる。犬をよくよく見ると魚っぽく見えて来たので、気分に正直に描いていたら魚っぽくなってしまったのだ。

事程左様にシニフィアンシニフィエと言うのは固定的でない。

「雪が降って電線に積もっている。その風情を花に譬えよ。どの花を選ぶかは任せる」と言ったお題。譬えらんない?そりゃお前の頭脳がやべえよw 人間の頭脳の根本は「連想にあり」だからな。論理もそうだ。

論理とは定義の必然的展開であるが、一つ一つの要素の定義は本来的に任意である。「1+1=2」も究極的にはそうである。

 

「川端康成にリズムを求めるのは干物にジューシーさを、ドライフルーツに瑞々しさを求めるのと同じだ」と言って、我ながら含蓄のある表現だと思ってしまったw

 

あれもやれこれもやれと言うが、そしてあれもやってこれもやったからこそと言うが、現代人は王族でも貴族でもないが、食べるものは昔の王族や貴族より美味しい。

実際に20世紀に料理文化が花開き始めた頃の人は現代人は乞食のような格好をしながら昔の王様より豪華なものを食べていると証言している。

 

西洋の哲学者で「西洋哲学の根底にはニヒリズムがある」と言う者があるが、「そうだよ」と私はあっけらかんと応える。それが良いんじゃん。

「東洋哲学の根底にはヒステリズムがある」のと同じだ。

哲学だけでなく文明文化そのものがニヒリズムを根底にしているのが西洋だ。何を今更。

「ニヒリズムだけだと息苦しゅうござんすね」と。そこで「ニヒリズムを活かしたユーモラスな生き方」が提案される。ニヒリズムあればこそ「俺はこれが好きだけど、まあね、色々ありますよね」と他者を尊重する姿勢や余裕が生まれる。結構なことだ。

ヒステリズムやナルシズムがあればこそ、妊娠して出産できる。ヒステリーとは子宮であり、「かなり閉じなければ流産して、子供なんて産めませんよ」と来たもんだ。

自分を大切にするから、それが宇宙規模になれば宇宙の色々なものを大切に出来る。「他人も自分」という恐るべき考えにはなるが、それでも大切にしようという方向性だ。

「そんなに自分が好きかね?」と、私は東洋思想を嫌悪するが、まあ、合う人には合うんでしょうな。

私はニヒリストw

 

反ユダヤ主義というのは厳しく咎められるが、「鬼畜米英」と叫んでも余裕を持って微笑まれる(?)。実際には「米英」的なる感覚こそ、余計に近代的だと思うが、私は近代が好きである。近代とはイギリス的時代。イギリスとは近代的民族。

ユダヤ人批判にも興味があるが、イギリス批判も興味がある。と言うより、枚挙に暇が無かろうが。

 

ドイツはやはり交響曲の国で、近代批判も喧しいが、自らがナチスを生み出して、全体主義を希求している。

人は自分の為だけには生きられず「for the team,for the goal」でないとやってられない。

それは、近代になり社会が分業化され、「個人=歯車=道具」となってしまった人への処方箋・親心のようなものだ。「一見無味乾燥な歯車的な人生に感じられるかも知れないが、君は単なる道具では無いよ」と。

そう、事態は深刻であり、ナチスの処方箋はクリティカルである。と言うのは近代が陥りがちな病への答えにもなっているからである。ワンダーフォーゲル、労働者の休日と健康などにもナチスは気を配っていたと聞く。

それらって現代社会が抱え続ける問題でもあるから。

個人が歯車になると「俺って何のために生きているんだろう。俺はただの道具じゃない!」と生甲斐への問いが生まれる。ナチスもそこに火をつけた。三島由紀夫が「ナチスが大繁盛したのはドイツ人のセンチメンタリズムに火をつけたからです」と言っていたが、そういうことだ。

それに対して「すぐに全体感を与えてくれる国家に飛びつくバカ」と貶すだろうか?そうは言っていられない。現代のトランプ現象だけではない、人間は原始時代からそういうったものを求めて来たはずだ。

そりゃ恵まれた人は良いでしょうね。だって自分が歯車とされることなんてないんだもの。全能感と言っては言い過ぎだが、単なる歯車では無いと言う「有能感」に浸っていられる。ところが、そうでない「恵まれない人々」もいる。

そう言う人間がほとんどだろう。いや、有能感に浸っている人間も常に「全体感、歯車でない感覚、影響力」によって自らの尊厳を維持しようとしながら、実はそうではない自分に苛まれているのかも知れない。

「俺は社会の歯車じゃない!」と言う「一人の人間でありたい心」がナチスを生んだのだ。

なので、ナチス的なものを根絶しようとしても無駄だろう。そう言ったものを人は生み、今も生まれている。

ただナチスに虐殺されたユダヤ人も黙っちゃいない。と言うのはSNSである。「皆がインフルエンサー」という「有能感」を与えやすいメディアを作れば、そこで落ち着く度合も強い。

俺もな。

 

ちなみにドイツの凄さもヤバさも長所は短所であり、交響曲を作れるが、交響曲は所詮交響曲に過ぎないことである。芸術は現実ではない。理念は現実ではない。交響曲を邪魔するものを排除する心が全体主義=根絶主義を生んだ。

現実って交響曲じゃありませんから。雑音は不可避的である。

何故イギリスが威張っているのか。近代に於いて、あんなに有利なのか。それは「雑音は不可避である」と言うことを骨身に染みて分かっているユーモラスな民族だからである。ある立場を取ったが最後、雑音は必ず生まれる。それに逆らうのは「人間は不死である」と言うようなものだ。

 

近代は情報と交通が発達した時代であり、多様性に直面する、数の時代である。少数の村でさえ他者はいるが、何とか村長の力で抑え込める。ところが世界規模で考えると、気に喰わない人間が気に喰わないやり方で気に喰わない結果を残しているのだ。

技術も進歩した。

「具体例は探すか作れ」となる。

 

それにヒステリーを起こしちゃったら大変なのだが、ヒステリーを起こすのが人類で、事実近代は「閉じる技術」も提供した。自分で殺生せずに肉を喰えるし、異質が多くても、同質的な人間とばかり結びつこうとすれば出来る。異質が現れたらヒステリーを起こして逃げられる?

社会なんて本能的にどこかでバランスを取ろうとするものだから、「近代=ヒステリー起こすなと要求する時代」になれば、女は堪ったものでは無く、ヒステリーを起こせるように全身全霊を尽くすのだ。それがナチスだ?

第二次世界大戦とは文明vs文化の戦争とも言われ、私から言わせれば古来からやまない男女大戦争の一環に過ぎない。

 

「お可哀想に。国家に煽られることでしか生甲斐を持てないのね」と侮蔑する感覚!それがナチスの生みの親だぞ!

「皆、自分は道具なんかじゃない!」と叫びたいわけ。自分と言う「自分でもあり、他者と絡む存在でもあり、全体に奉仕できる存在でもありたい」という願望。

神様を見よ。

「女神は豊穣の神で、綺麗ですね!お若いですね!」と褒められて気分を良くする。

「男神は創造や戦の神で、あんたが大将!御蔭様!」と褒められて好い気になる。

人間なんてそんなものなのだ。神様も人間の投影ですから。

ほとんどの人間はそう言った感覚を持てない。持たせてくれる人間に惹かれる。気分を良くしてくれる人間にな。

お世辞を言って気分を害されるのは大根役者で、褒め方が下手なのだ。それでは相手の満足感に寄与しない。

個人主義を奨励するのは「自分なりのツボを自分なりに追求できるから、自分の機嫌を自分で取れるようになり、他者に依存しなくなって、平和的で良いじゃねえか」ということである。

いや、我儘で他の誰かに指示されたくないからだけどねw 二次的効果として、そういうのもありますよ。

 

キリスト教は占いを禁ずるが、カトリックは「神父と一対一の懺悔室」を持っており、告解される。占い師みたいなものだね。ちなみに「カトリックの個人主義は懺悔室から生まれた」とも言われる。家族にも言えないことを神に告白するのですからね。

これを思ったのは、写真で言うと「外国人観光客はその国の特徴を捉えるのに長けているが、内輪の人間に見せるような表情は撮れない」と言うことだ。カメラマンと家族写真の違いと同じだね。アラーキーも「こんな表情、家族にしか見せませんよ」と言っていた。

だがしかし、自分の生活環境と離れた相手だからこそ「都合の良い不倫相手になり、大股開きで本性を曝け出す」と言うのはある。

 

SFというのは常識的ではないが、グローバルに考えると現実的ではある。

 

三島由紀夫が「写真の価値は『これは写真です』と言うことにある」と言っていたが(?)、「現実=芸術」になるとして、現実は天国のように素晴らしく、天国も現実のように悩ましい。現実に於いて不平不満を言わず、天国に於いて不平不満を言う。 「理想、夢、希望」は常に求められるべきだ。

 

パラリンピックの方が良い記録が出るかもしれない。

ならば自分の足を積極的に切断して、義足に付け替える人間も出てくるかもしれない。

でもそれはどうだろうか?

しかしならば、先天的に脚が不自由な人間は義足をつけ、圧倒的な記録を残すことが許され、健常者はそれが許されないのだろうか?

自分の力ではどうすることもできない状態や環境を前提とするなら、許されることもあるのかもしれない。

「世界最速を目指したいから自分の脚を切断しました」というのもエンハンストゲームだろうか?

先天的な病気の治療のためステロイドを使う人はいるだろう。

結果的に筋肉もよく付くのかもしれない。

しかしその必要がない人がほとんどだ。

でも筋肉増強のためステロイドを使ってる人はいる。

そもそも人間は異常な存在で、植物のように風に揺られて光に照らされて生きていれば良いのに、妄想に捕らわれて余計なことをし始める。

それが魅力でもあろうか。

原始人を基準にすべきだろうか。

 

「絵がわかるの?」って、「文字わかるの?」

言葉なんて分かっているようで分からぬぬものだが、人は皆、分かったように使い、しかも楽しんでいる。

結構なことだ。

「ある程度要素や機能や性質、それらの関連やもたらす効能を言語化できたら、それを分かっていると言う」と言うのかも知れないが、それを言い出したら日頃の会話もできないぜ。

まあ「プロは一家言ある」と言うかも知れないが、その意見が正しいのか分からないし、一家言ないアマチュアの現実への影響力と言ったら、暇もない程だ。

 

「やり過ぎて筋肥大しなかった」と。

それに対して「センス良いですね!」と言うのは不思議な問答だが、だが本当にセンスが良いのかも知れぬ。

実体験してみて「ああ、これはやり過ぎだな」と言う本能の声を拾うことこそセンスの良さかも知れぬからである。

一体、試行錯誤しない人間がいるだろうか?

自分なりの試行錯誤の積み重ねを続けることこそ、試行錯誤に寄与する行いをすることこそセンスの良さなのかも知れない。

まあ、確かに人生は有限ですから、ある程度合理的な行動を取りたいし、実際に試行錯誤した人は、後輩に対して「こうすると良いよ。それは無駄かなw ははは」と優しく助言してくれるのかも知れないが、それでも自分の骨身に染みる試行錯誤は大事ですよね。

「人生の価値は無駄で決まる」と言う言葉もあって、そもそも無駄しなければ「それは無駄だよ」と言う言葉も出てこない。「何が無駄で何が無駄でないか」など永遠の謎ではあるが、どうにも「無駄をしてない人間って、滲み出る優しさが無い」ように感じるんだよね。

 

「王侯貴族は金も権力もあるから生活全体を文化できた。対して現代庶民はその欠片を崇めることしかできない」と言う意見。

そうでもあろうが、それが良いのだ。特化できるということではないか。

生活全体は基本的に原始人で良い。

「抜く」ことができれば良い。

カタルシスを得るための手段は色々ある。その一つを昔の王侯貴族が提供してくれたのだ。

文化するということは良いことではない。

作法だの何だのに雁字搦めにされると言うことであり、無作法に走り回るくらいが最高だ。

ただ無作法に走り回るだけでは、チンピラが格闘家に勝てないのと同じで、洗練や凝縮や鍛錬や学習が足りず、結局スッキリしないこともあるだろう。

そこでありとあらゆる知恵や歴史や文化や文明を参考にすれば良いのであって、お前の活力を奪うためにそれらがあるのではない。

「知恵分別に流されてはならない」。

 

「全ての物を軽くするメリットとはインストールして、身籠りながら実践することにあるのでは?」と思いたくもなる。

「マンガ絵と油絵」の関係から「日本とロシア」の関係に思いを馳せる。

日本の場合、有職故実的に24時間365日の生活的実践をするために文字化マンガ絵化して一つ一つの容量を軽くする。

ロシアの場合、倉庫主義で何でもかんでも丸のまま倉庫に放り込む。放り込んで使いたい時に引き摺り出す。Googleなどネットがそうだ。

俺の場合、「マンガ絵24時間主義」ではなく、「やる時だけやる原始人」なんだよね。こち亀の両津勘吉が理想人間像だからなw

 

日本は治安が良くて、社会資本が安定している。

「それは日本人気質故だ」ということだが、現代の技術を使って、荒くれ者が多い社会でも、治安を良くして社会資本を安定させれば、「日本及び日本人の長所って何なの?」となる?

俺はよく「日本人ロボットを作れば良い」と言う。

 

「本気を出せばというなら、成長したらというなら」、全員が引き分けになってしまう。

それで良いと思う。

万人に対して謙虚であれる。

素晴らしいではないか。

そして実際、全ての人はそれだけのポテンシャルを持っていると思う。

引き出すな?

いいや、引き出す。

 

家庭·社会·世界·神とあって、

移民が問題になるぐらいだから、伝統的な常識が社会的紐帯になることによって社会は安定を保っているわけだが、常識はやはり煩わしく、十戒以外はご自由にで、十戒をかなり厳しくしてしまえば良い。

「列に並び、挨拶をきちんとする両津勘吉だらけ」みたいな世界だ。

 

料理が世界的に栄えているのは料理が文化的であるより古典的であるからだろう。
古典とは何かは何度も書いた。

 

詰まるところ、ユーモアセンスと十戒が大事ということであり、
それに反対するのはヒステリックである。
南国チックにダルダル行きたい。

 

20代の頃はレタッチしてボヤッとさせるのが好きだったが、30代からはシャープな感じが好きになって、今もそうかな。
若い頃はアイドルとかおっぱいが好きだが、30を超えるとモデルとか脚が好きになるのに似ている?
画面の世界だけに閉じ籠ってしまうのではなく、世界の広がりを感じさせてくれるもの。
三島由紀夫の「仮面の告白」はもちろん散文芸術として素晴らしいが、「金閣寺」に至って現実世界のリアルな重さを獲得した。戦後日本の飽和的な軽さの中で。
吉本隆明も言っていた。
ゲームの世界でもオープンワールドが技術的に簡単に作れるようになると、アメリカがあっという間にゲーム大国になって、日本を軽く抜かした。
「これだったら俺の作りたいものが作れる」と才能が集まったんだろうと予想している。

 

獣道を常道に。

「パターンを乱す例外は潰せ」と言うが、例外を人工培養せよ。

そもそも例外を嫌うなら、どうやって人生を歩むのだ。

お前の夢は目標はお前の中の例外に他ならず、その例外によってお前は前に進むことができるのだ。

自分の中に例外を抱えぬ人間など植物人間に他ならぬ。

 

春になると写真を撮る。写真は俺の素を映し出す。

背伸びでも継続的努力でもなく。

占いの場合は仕事的過ぎる。これはこれで悪くない。

「得意・好き・親しみ・命削り」みたいに分けると、

「和歌が命削り」

「占いがある種の得意」

「神学が業(恨みつらみ楽しみ喜び)」だね。

 

「写真は得意好き親しみと言うには及ばないが、やっぱりある程度そう」であり、

そもそも写真は20代の頃にリハビリとして始めたのだ。現代の街並が醜いので、全てをモノクロにして撮影していた。廃墟ならば醜い街並でも見ることが出来るから。外出の度にカメラをぶら下げていた。コロナでマスクをするように。

写真は考える切っ掛けでもあった。「知的でありたいなら五感を磨きなさい」ってやつで、感じるからこそ考える。無ならば何も考えられない。

写真は現実を写すし、俺の場合、スナップショット的になってきている。もちろん綺麗に撮ろうとするが、そこそこである。わざわざ撮影のためにどこかに行くのも億劫で、帰りがけなどである。写真の為に頑張らない。

それでも今の俺らしくなっている、気がする。

ちなみに仮名書は研鑽していないが「好き得意」です。親しみと言うには全然やっていない。

 

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「ロシア大陸・朝鮮半島・日本列島」とあって、「生」の扱い方についてである。日本と韓国の比較で、日本の場合「素っぽく見えても加工されまくっている」という話は多く、私もそう思うことが多い。「万物が意匠化されている」というか全てがフラットな地平に並んでいる。

 

仏画などが象徴的で、高麗仏画に描かれている仏様は人である。植物や周りの装飾と調和しながらも、日本の仏画のように「人まで意匠化されている」というニュアンスではない。

一方でこの世には「XをXのまま置いておく優しさ=決め付けない=近代画家の始祖であるレンブラントの絵は闇に埋もれている(福田恆存)」という傾向もある。

 

別に「意匠化=決め付け」というわけでもなく、それは作品に寄るし、「色や形や間などが色々思わせてくれる」し、「全ての言葉は花鳥風月であるから、どんなものもフワッとさせてくれる」のではあるが、それにしても、まあ、ただ、少なくとも日本の場合は「浮世絵、マンガ絵、絵は右脳で描こう的なガン見ではなくレディメイドのレイアウト傾向は強い」わけで、日本のものは感覚的ニュアンスを切り捨てて、「言葉・概念・マンガ絵」になっているものが多い。

 

「低容量・多品目」を扱うには都合が良いわけだが(動画より文字の方が超低容量)、どうにも「文字ばっか」見せつけられているようで、元気がなくなる。

 

ところで恋愛に於いても「男は一点豪華主義、女は平均主義」と言われ、女はチェックポイントが多過ぎて、活力を奪う。

「そんなことどうでも良い」ってやつで、女と付き合うことは「どうでも良いことに囚われよ!」と説教されているかのようだ。

 

ロシアの場合「捨てられない文化、倉庫好き」と聞く。

寒いから冷凍保存だ。

日本の場合レトルトにする。

チンすれば良いから便利に色々楽しめて非常に有難いが、全てがレトルトだと気が滅入って来る。実際に日本はレトルト天国であり、保存料天国であり、鬱病が多い。

冷凍保存は冷凍とは言え天然であり、そこから料理するのが面倒だが、まあ、上手く料理できればやっぱり素晴らしいし、ネットで素材を漁って、自分なりに調理すれば、「俺のスペシャリテ」になるわけで、そんなん素敵やん。

 

日本が保存料天国なのも、「日本人の生好きと言いながら、実は生でなく加工されているものが基本」と符合している。生卵とかも薬漬けでヤバいらしいじゃん。一方で生魚を食べるために交通網が整備された。日本の社会資本が安定的なのは日本人が刺身好きなためです?それは有難いこと。

 

ちなみに中国とロシアで言うと、中国人は現実的物質的で、ロシアは可能性的精神的で、中国人にSFチックなことを言うと激怒してくることも多い。ありゃやっぱり東洋なんだね。でもSFが現実的になった現代では、中国人もSFチックに現実を生き始めた。SFも現実だと中国大陸の腑に落ちたのだろう。

 

ロシア人は%お構いなしで可能性をフラットに並べて来るために陰謀論好きで共産主義になりました。ただ現代は「数や技術や可能性で誰が何を仕出かすか分からない」時代で、やっぱりロシアの影響力は多大である。実際にロシアの言う通り、「万物は雪の欠片」でしかないのだろう。

 

「マンガ絵・油絵」

「レトルト・冷凍」

「ナマって言うけど、どんなナマ?」

「SFも現実に」

「%はフラットに」

 

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HIPHOPと筋トレを比べると、

筋トレの場合、確かに商売っ気が強いと辟易する面は強い。

HIPHOPはマネーマネーで行っても、それが作品になるし、グッズを売っても「そんなもんだろう」と思える。

 

HIPHOPと筋トレを比べると、

筋トレで「初心者が間違った情報を流すのは怪我に繋がったりするから警戒する」。

HIPHOPの場合「間違えもクソも無く、誤解も正解にすれば良いし、そもそも音楽だから正解なんてない」。

 

HIPHOPと筋トレを比べると、

筋トレで「初心者が俺が世界一だ!と叫べば、その志や良しだが、さすがに体を見れば一目瞭然ではある」。

HIPHOPの場合「まあ好みだし、実際に適当に作った素人の曲でも良いものは良い」。

 

俳句の例を出すまでもなく、言語自体が初心者と上級者の区別を許さない(?)。そもそも「言語のプロ」というのが怪しげだが、俳句なら子供の俳句の方が上等であり、言語も色々な人間が好き勝手に使うから富ましめられるのである。

圧倒的なクラウドを糧にできる分野は強い。ゲームの攻略など死屍累々、試行錯誤、文句、チートから発達するわけで、「文句ばかり言ってんな!」ではなく、文句を言いたい奴は好き勝手に言えば良いし、言いたくない奴はそれでも良いしと、「現実は現実である」に近付いていく。それが強い。

 

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言語というものを「対人的話し言葉」ではなく、「独り言的書き言葉」に高めたのがアウグスティヌスを言われている(何情報だ?w)

まあ、分かる気がする。書き言葉派であり、カトリックである俺からすると、励まされるものがある。

 

結局「カオスとコスモスをどう扱うか」のバランス問題。

俺は週刊少年ジャンプが好き過ぎる。

やる時だけやって、後はだるだる。

「マナーも身に付けばそれが自然体となる」と言うが、やはり「カオスでない」点は強く響く。

さらに「人類史上最高峰でないのも嫌」。

 

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ロシア大陸=敗北

朝鮮半島=恨み

日本列島=嫉妬

 

私には敗北も恨みも嫉妬もないのかもしれない。

 

善悪の彼岸ではなく、ある特定の善悪を抱えた上での感情なり何なりも万物のone of themであるから、万物を愛でると言うなら、それらも抱擁すべきである。

そして「西洋文明の凄さとは円空ではなく木喰から清らかさに到達することだ」と私もしばしば言うが、私はやはり「冷たい人間=天真爛漫=子供は冷酷」なのかもしれない。

 

であるから「お前は深くない」と切って捨てられてしまうと、私も反論したくなる。と言うのは、美的細かさについて私も煩いからである。優美な仮名書や俳句、微分積分が生まれたのは日本である。

 

そして私が人間の抱く感情に全て鈍感で、どうでも良いと思うかというと、それも反論したくなる。というのは男心、ダンディズムなどに私なりに心から共感するからである。

 

ロシア人が愛する熊には感情があるのか?

あるのだろうが、人間ほど敗北や恨みや嫉妬があるのかというと、あるのかもしれないが、まあもっと天真爛漫だろう。

食べたければ食べ、破壊したければ破壊する。

それは自然の申し子である。

俺はそっちに共感するな。

 

「カオス全肯定でのどんちゃん騒ぎ」でないとロシア人は満足しない、と言うのはよく分かる、気がするw

「芸術と現実を、スポーツと日常生活を分けて、スカッとして、現実の日常生活に帰還する」と言うのは、現実的な処世術だが、それではやり切れぬ思いもある。

それを幼児的と言えば簡単だが、「人間は幼稚」であることをロシアは突きつける。

縛れば爆発する。「その爆発が良い」と俺は言う。

少なくとも「コスモスとカオスをバランスよく使い分けるのが大人ですよ」なんて言い草は甘っちょろい。人間はそこまでバランスよく生きられない。その証拠に現実でもよく爆発する。

現実は爆発だ?

 

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しかし、近代を切り開いたのがピューリタン、アメリカを建国したのもピューリタン(少なくともその影響は強い)であることは見逃せない。

やはり突破力があると言うか、どれほど自己主張が強く、どれほどワタシキレイを主張しようと、結局はone of themに過ぎない。

ならば自己主張したいだけして、ワタシキレイを叫べば良いという見方も出来る。「業が深ければ悟りも深い」じゃないけれど、反動も大したものになるだろう。そして実際にアメリカはそう言う国である。

 

私は女〇〇の香りを愛するが、あの魅惑的な香りは何故生まれたのだろうか?私を虜にする計画を持って、この世に生を受けたのではないはずだ(だとしたら壮大な神の計画である)。出物腫物ところ構わずで、勝手に醸し出ちゃったわけである。

結果的に、嗅いで喜ぶバカもいるってなもんだ。

『目的意識について』

 

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欧米人がアジア人のマナーを馬鹿にすることがあるが、私の勝手なランキングの発表です。

1位日本

2位現実の中国ではなく中国の伝統(1位かも)

3位イスラム

4位欧米、東南アジア

5位以下は分からない。

本当に勝手すぎるので我ながら当てにならないが、そんなもんである。

 

ところで箸というのは確かに切ることも出来るが、基本「与えられたものを摘まむ」ものである。

対してナイフとフォークと言うのは自由自在に切ることが出来る。輪郭を自分で当意即妙・融通無下に作り出していくものだ。

 

さらに日本はマナーがうるさ過ぎて、一から十までカクカクしている。それが「流麗で、人類史上最高の美しさを持っている(=最初から最後までずっと気持ち良い)」なら良いが、そうでないなら無駄で堅苦しく不細工という最悪のコンボになり、やはりマナーなんて碌なもんじゃない。

 

即ち西洋文明と言うのは、事の初めから(?)、十戒以外はご自由に精神があり、最低限のルールさえ守れば、後は自由自在な点が良いのだ。

 

ヨーロッパは大陸であり、島国的に自閉していれば何とかなるところではない。常に周りに目を光らせて、フィードバックしなければ死んでしまう。箸と違って、与えられたものを淡々とパクついているのではダメなのだ。

 

さらに欧米では仲間を褒めたり、対立した後も、上手く付き合って行く「台詞や態度、精神がてんこもり」であり、そういうのが素晴らしい点であり、マナーでアジアを馬鹿にしようったって、そうはいかない。特に日本など鉄壁である。

 

ただナイフとフォークを生み出すような、フィードバック精神、当意即妙精神があり、「そこから生み出されるものはとにかく全て素晴らしい。それ以外クソ。だからアジアもクソ」と言うなら分かる。

ギリシャ彫刻最高、西洋音楽の和音こそ至高、何その他のクソみたいな雑音とかね。

 

あるいは自然と言うより、左右対称など人間が生み出す合理性に基づいているから素晴らしいとか。

俺はそんなものは幼稚な美意識と思うが、確かに音楽の和音やメロディなどは良いかな。

 

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理念によって存在を蒸発させるくらいが好きです。

 

合理性合理性って言いますがどこにでも売ってるシウマイ弁当を横浜で買って「面白かったね」と思い出にすることが何故馬鹿にされなければならないんだ!

 

「生産性がない」って、てめえ歳いくつだ? ところでお前が生まれた理由にもお前にも生産性の欠片もないのなw

「生産性がない」とブツブツ文句を言うことも、人生という無駄の一環であり、「だったら無駄好きのあなたにも丁度良いじゃん」と言われるかも知れませんが、私が言いたいのは例によって例の如く、「ユーモアセンスを持て」ということですかね。

いや「そんなの無駄だよ」と文句を言うのは、あなたなんかより私の方が多いくらいですけどね、ははは。

 

「仲間以外は皆風景」って

「友達がいないお前は景色ばっかw」って

「景色ばかりで何が悪いの?」

ただひたすらの皆風景を

一心不乱の皆風景を

 

アンデルセン神父が「野に咲く花のように」を歌っていました

 

正義感なんて迷惑と言うだろうか?

ならばよし迷惑上等

迷惑をかけない人間がいるだろうか?

どうせ迷惑をかけるなら。

 

見上げればアホがいる

 

「色んなことを思うので何とも言えません」

「相対化してばかりでいると、お前の立場も雲散霧消するの。これが絶対とヒステリーを起こすことで威がついてくるの」

「それぐらいでいいんじゃないすか?ユーモラスで」

 

旅行に行って死ぬと行かなければよかったと思うでしょうけれど、行ったからこそ助かる命もありますからね。

地震なんてどこで起きるかわからないわけで。

 

やる時だけやれば良い。
長くやりたい奴は長くやってろ。
結局それがそいつにとってのやりたい時なのだろうからな。

「マナーを人に強制するな」
「マナーなど千差万別であり、ある特定のマナーを持っていない者を軽蔑するな」

「じゃあいきなりぶん殴るマナーを持っている人はどうするんですか?」
それはダメで、「十戒以外はご自由に」の十戒に当たる。
十戒とは何かは常に考えられなければならない。
それをこそ政治と言う。

 

戦争と平和に関しては、いわゆる「性悪説」で考えることに躊躇はないくせに、

モラルに関して言うと「人間は道徳的でなくてはならない!」とガミガミ怒る。

「人間なんて戦争好きなんだからそれを前提に思考すべきだよ、ははは」と人間を面白がれるのに、

何と言うか日常のモラルに関して言うと「人間なんてクズなんだから仕方ないよ。それを前提に自分が得するように立ち回れよ」と思えないところが俺の情けないところ。

 

「不安定が好き」と最初に言うだろ?

そうすると「じゃあこういうのはどうだ?それでも不安定が好きなのかい?」とツッコミが入るわけ。

「だったらやっぱそういうのは嫌です」と、嫌な具体例をいっぱい積み重ねれば良いわけ。

やっぱ方式で修正していけば、自ずから輪郭が明確になっていく。

定義するにも最初からビシッとした定義なんかできるはずもないんだから狙わなくて良い。

「葉っぱってどんなもの?」

思いつくままどんどん上げていけばなんとかなるし、融通無碍でウィットに溢れた定義になるだろう。

注意点としては「やっぱ方式」で行くと、アホだと思われる可能性が高まる。

アホはアホなくせに「やっぱ方式」や「無限連想法」を貶してくるからな。

まあそんなのほっといてもいいし、ほっとけないなら密かにやっていれば良いかもね。

やっぱ方式で言い訳しろと言っているわけではないんだ。

自分の好みを見据えた上で、現実的にどの程度なのか浮かび上がらせたいだろ。そのための方法として言っている。

 

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日本の象徴と言えば富士山で、寿司天麩羅焼鳥も日本料理の代表である。

ところで福田恆存が「私の言うキリスト教は近代に於いて完成した宗教である」と言っている。

ところでキリスト教的本質を抽出したつもりで神学を構築しても、「そんなもんキリスト教ではない」と言う人達は一定数いる。かなりいる?w

 

例えば私は「これが具体的規則だ」と提示するわけではなく、「善悪は相対的であり、常に考え続けねばなりませんよね」と言う。

それに対して「そんなのキリスト教じゃねえ」と。「伝統的キリスト教は具体的に規則、モラル、法を説いてきた」と。

ある地域のキリスト教はこう説き、別のところではああ説いているので、それらは相対的であるのだが、確かに伝統的に「代表的・象徴的なもの」はある。

「キリスト教と言えば?」と言って出てくるものである。

「十字架、十字架が刺さった教会、イエス、パイプオルガン、天使」

モラル的にも何かあるのかも知れない。

 

日本人なら「いわゆる綺麗好き」と言われる。

それに対して「清潔にも色々あり、いわゆる体をよく洗うことだけが清潔なのではありませんよ」と言うことは出来るが、まあ、それにしても「いわゆる綺麗好き」の中に「色々な清潔の大元≒本質」が入っていそうではある。「寿司天麩羅焼鳥」の中に、他の日本料理に共通する本質が入っていそうな気配がするのと同じである。

 

その意味で「私の言うキリスト教は近代に完成した宗教である」という意見に反対する伝統的キリスト教感を集めてみたい。

「そんなのキリスト教じゃねえよ!」って頭の悪い頑固オヤジが血相を変えて怒鳴って来るわけですよw そういう奴の意見を聞きたい。

 

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「無意識的に絶対と信じられるようになってこそ常識」ってなもんで、「常識なんて色々ですよね」なんて言っている内は「常識化できていない=悪」という考えもある。

ドラクエでは回復魔法はホイミだが、FFではケアルである。

ドラクエ内部の住人が「は?なにケアルって?そんなの無いよ。ホイミのこと?なにこいつホイミのことをケアルって言ってんの?」と思えるくらいになって一丁前だと。

 

私はそういう奴を激烈に嫌うが、没入型の人はそういうのが好きなんでしょうね。

確かに「絶対と信じてこそ成長できる」という面もあり、ヨーロッパ大陸の天才はそう言う感じの人が多い。

音楽なんか良い例で、一つ一つの音に意味を与えて「この和音にはこういう意味があります」と真顔で言って来る。「このゲームに於いてはこういう意味があるが、他のゲームではそんなことありませんよねw ははは」と言う余裕が、そこには無い(?)。

私なんて常に「うちではこういう感じでやらせてもらっております。他の方ではまた違うんでしょうね。いや申し訳ございません。あっしはこれしか考えられないもんで。成長しませんね。ははは」と謙虚だが、そう言うのが無い奴なw そんな奴は付き合いづらい事この上ないが、まあ、とにかく勢いはありますな。

 

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東洋や女は「今ここ」と言って「腹を指す」が、

西洋や男は「ここではない未来」を志向する。チ〇〇から〇液が放たれる先である。

 

あれだけの精子が放たれて卵子に届くのは、たった一匹くらいである。その確率の低さたるや。

対して卵子は100%である。

これだけでも男が「可能性に賭ける生き物」ということが証明されるってもんよ。

 

「1%に満たない可能性に賭けて、遠い理想を実現する=受胎させる」、これが男の生き方なのであって、西洋文明が記録更新的、離脱的文明なのも頷ける。

 

「私ってのは今ここにあるものなの!」とヒステリックに怒鳴る女とは根本から違うよね。

 

ところで朝鮮半島文明の魅力とは「東洋という女性的空間」に於いて、男性を貫こうとしてきたところである。

韓国は「発祥地を捏造する」が、捏造するから悪い(これも捻じれ現象で一概に悪いと切って捨てられないが)のであって、どこが発祥でも朝鮮半島に於いて朝鮮半島化されれば十分であり、「朝鮮半島化した何かが朝鮮半島の本質」なのであって、それが無くなることは無かろう。

さらに「絶えることなく続いてきた」的な捏造も要らない。「一度絶えたけど復活させました」という成り行きがベストだからだ。ずっと続いているのも有難いが、それだと「ルネサンス=復活=再生」にならない。一度滅びてないんだからね。

西洋や男は一度滅びたものを復活させる習性があり、それが男の証明でもある。一度滅びたものを復活させるってのは大変であり、縄文人が縄文時代の生活をするのは当然でも、現代人がするのは色々と大変である。「その大変を克服して=遠い理想を実現して、常態化する」ところに西洋文明の凄みがある。

 

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