まあのブログ -35ページ目

まあのブログ

夢日記や神学などを書いております。

肩甲骨はがしと言って俺の肩甲骨に手を入れて持ち上げる巨人のような男。 これ肩甲骨どころか腕が抜けるでしょと俺は思ったが、まあここまでやってくれれば間違いないかなとも期待している。

江戸川乱歩の蔵書室みたいなところで本を調べている。その当時の人の名前が50音順で載っている本をめくっている。

「渋谷さとこ」という名前を探したら、存在しなかったが、前後に面白い名前があった。

「聖太郎のテモト」みたいな名前もあった。

同じ音階だけで山下達郎が歌いきってしまう。機関車PV でFF 7のコレルに機関車で突っ込むレバーを左右両方ガチャガチャやるやつをサイヤマンがやっている。

歩いて日本一周みたいなグループ。

俺が料理役で、とん汁を作ろうと思っている。

途中からRPGゲームになって、最初のダンジョンのボスに挑む。楽勝と思われたが負けた。

また歩いて日本一周みたいなことをしてレベル上げをする。

知人が俺に行くべき場所を携帯で指示するんだけど
途中から指示が曖昧になって
俺がキレている夢を見たw

小学校の脇を通って、川沿いを歩いて、いつの間にか山の上に登って、山の頂上の大きなサービスエリアとバス停が合体したところで、俺が何で明確に行くべき場所を教えてくれないの?と怒っている

黄色いインコが2匹
俺の腰ぐらいまである大きな鳥が1匹
俺の部屋に迷い込んでいた。
前に住んでいた部屋だ。

インコを洗ったら水が黄色くなった。

修学旅行で俺は今の年齢だがなぜか生徒として行っている。

西田敏行が先生で、ツッコミが非常にうまい。

観光地の山の目の前のホテルで非常に幻想的な場所にある。

 

信号を待っている。

ヤマトの大きいトラックが雪を散らすと子犬の耳にかかって、その雪が地面に落ちると子犬の耳の形になって可愛い。

 

猫が足を引きずっており、これは大変だと近づいて抱き上げると、左足が痛いようだ。

雨が当たらない場所に移した。

誰も医者に連れて行くお金もなく、もらい手もないのでダンボールに入れて捨て猫として保護してもらおうということになった。

俺はずっと撫でて励ましている。

 

自転車で町田のゲーセンに行くと1階と地下1階があり、地下1階がその日は休みで修理中だった。

1階にはガチャが並んでおり、インドネシア人の団体客が入っていた。食べ物も売っていた。

ウマ娘のガチャは100円から300円ぐらいまであった。200円のものは機体がピンク色の布で包まれていた。

もう午前0時を回りそうなので、自転車で家に帰る。

途中夜空に赤い光線が走った。隕石だろうけどミサイルじゃないかと心配だった。

帰ってもそんな話をする母親はもうこの世にいないから寂しい。

 

どこかの会社に部長として就職した。高層ビルの非常に上の階だ。前の部長が俺に全て任せると言っている。

今度からは仕事が非常にゆるくなる分給料は下がる。それで良いという人だけが残るそうだ。だが俺次第で好きな仕事ができるから、非常に優秀な女性が一人残って、俺の近くにいてくれる。

その部署で、まだ前任の部長が離れず、全員がいる時に部屋が暗くなった。今日の正午丁度に大地震が起きるという予言があり、それに備えて部屋を暗くしたらしい。

結局起きなかった。だが前任の課長が絶対に起きると信じており、皆はそれに合わせて機嫌をとっていたようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

神学大全メモ

1巻

第一問題

第一項 問一答

・「人間の認識以上の事柄は、人間は理性によって探求すべきでない」とあるが、

 何が人間の認識以上の事柄かについて具体例を出していない。

第五項 問一

cf、「どれほど精確を期しても人間は必ず間違える。

絶対的な精確を装う諸学も実は完璧に精確ではあり得ない。

人間が作り、把握するものであるからだ」

「最高の事物についての最小の認識>最小の事物の最も確実な認識」

(そもそも人間理性による把握は完璧ではあり得ない)

第六項

神は全知全能であるから、思慮と知恵の区別がないように思われるが、

「神の意志」という観点から見た場合、「思慮ある存在」と言えるかもしれない。

端的に「全知」ということであれば、神はひたすらに「知恵ある存在」であろう。

第八項

「下位の諸学は、自らの出発点たる基本命題を証明するものでもなければ、

 またこれらの基本命題を否認する者と対決を行うわけでもなく、

 却ってこれを上位の学に委ねるのである」

・議論するためにはある種の共通前提が必要だが、

具体的にどの種を共通前提にすべきかは言っていない。

・そもそも言葉が通じなければ議論できない。

(マルセル、言語、認識、その時の定義、信仰など)

・cf、なんらかの具体的な教義を「とにかく肯定」「とにかく否定」。

 それらが激突した場合、「他者がある」「限界がある」など、

 それを切っ掛けに究極的なものに気付くことがある。

 西方教会は肯定否定を熾烈にぶつけ合わせてきた。

 

 

第三問題

第一項

「神もやはり物体だ」「神は絶対に物体ではない」

・物体には「その前」があるし、物体を分割したり手を加えられるが、

 神にそれは無理ってもの。

・物体は無生物だが、神は生きている。

問二答

・人間があらゆる動物を凌駕しているのは「理性・知性」において。

 その意味で、「神の如くに・非物体的な意味で」人間は神に似ている。

第二項

問三答

・固体化するにあたって質量が必要なものと、形相だけで十分なものがある。

第三項

・人間と人間性

「普遍的か個別的か」「形而上的か形而下的か」

 

第四問題

第三項

・種的類的な類似性ではなく、一種のアナロジアに従っての類似性を分有する限りで、

 被造物は神に似ている。例えば、太陽と太陽を受けて生まれる色々なもの。

問三答

・「神は本質による有であり神以外のものは分有による有であるという共通性」

 

第五問題

第一項本文

「善と有とは、事柄の上ではいずれも同じ」であり、

「両者の相違は単なる概念の上での相違」に過ぎない。

「善は望ましいもの」という意味を含み、「有はそうした意味を含まない」。

問一答

「究極的に完全であるところのものであってこそ、端的な意味において善と呼ばれる」

cf、何をもって「完全」とするかは決定的でない。何を「望ましい」とするかも。

問二答

「有の形相として善が語られる場合は、それは究極的な現実体に即しての端的な意味」

第二項本文

「有が概念的に善に先立つ」

cf・客観と主観

 ・逆と言うか、「望むもの」に従って存在が「デザイン」される場合などはどうか。

問二答

cf・善は「望ましいもの」という意味で「理想」というニュアンスもある。

  理想は「実現されずともそれ自体として存在する」が、

  「未だ実存的関係に無い可能性」としての側面もある。(善と美)

・理想を「イデア的に安らっている」ものとして捉えるか、

 「未だ実現されていない可能性」として捉えるか。

・「有が善に先立つなら現実が理想に先立つのか」という問いに対して、

 理想をイデア的に捉えるか可能性的に捉えるかで違うと答えられる。

第四項

「善は目的因だが、作動因や形相因の概念を予想するものでもある」

問一答

善とは「希求に関わっている」「希求は物事に向かっての運動」「目的という性格」

美とは「認識力に関わっている」「均整において成立する」「形相因の性格」

第六項

有用なもの「願望さるべきものを自らの内に有せず他へ導く限りにおいて願望されるもの

それを通って他に向かう中間点。例えば、苦い薬→病からの回復」

貴いもの「願望さるべきものを自らのうちに有するごときもの。

希求の運動を終結にまで至らしめるもの」

快適「願望された事物においての休らいとして希求の運動を終結せしめるところのもの」

問二答

・「固有の仕方で快適なもの」と呼ばれるものは

「快適性の他に何ら望ましさの特質を有しない。快適なものが有害であることもある」

問三答

・善の優先順位「貴いもの、快適なもの、有用なもの」

 

 

【第十問題】

第五項

・悠久は、時と永遠との間に介在する中間者として、これら両者のいずれとも異なる。

・その存在が変転性に従属し乃至は専ら変転性において存立するにまでいたるのであり、

 この種のものは時によって測られる。あらゆる運動、あらゆる化滅的なものの存在。

・悠久。変転性において存立するのでもなければ変転性に従属しているのでもないが、

 ただ、これらのものは或いは現実的に或いは可能的に結合された変転性を有している。

 天体や天使など。

・永遠。可変的ならぬことは勿論、また可変性と結びつくこともない。

・時は先後を有するのに対して、

悠久はそれ自身としては先後を有せず、ただし、先後がこれに結合されることが可能。

 永遠は先後を有しないのみならず、またその共存をも全く許さない。

問一答

・「霊的被造物は情感や知性活動に関する限りにおいては時によって測られる。

  だがその本性的存在に関する限りにおいては悠久によって測られる。

  栄光の直観に関する限りにおいては永遠を分有する」

問三

・「過去とか未来とかの差異は天使自体の存在そのものにあるのではなく、

それに結合された諸々の変移に即してあるにすぎない」

cf

・ある経験を天使化するとして、その本質とその実存的展開の関係。

 天使は悠久なる存在であるから、ある経験も悠久なる存在になれる。

 天使になることによってペルソナになる。

 ある経験はペルソナになる。経験にも意志や理性がある。蜘蛛の巣さん。

 

【第十二問題】

第一項

本文

「至福な者たちは神の本質を見るものであることを端的に容認せざるを得ない」

問三答

「神はいかなる仕方においても認識されることができないということではなくして、

 却って、神があらゆる認識を超出したものである、換言すれば、

 神は把握されることのできないものである」

cf、至福な者は神の本質を見るが、神を「把握」できるわけではないのだろう。

 

第二項

・被造物における知性能力は神の分有された似姿。根源的光明に由来。

・神の本質を見るためには「見る側は神の似姿≒被造物の知性能力」が必要。

 しかし、神的本質そのものを表現していると言ったものはそもそも無いし、

 被造的な似姿によって、神の本質が見られるということはあり得ない。

 

第三項

本文

「新体的な器官の現実態の能力はとうてい物体的なものの領域を超えて

それ以上に及ぶことはできない。神が見られうるのはただ知性による」

問二答

「感覚と直ちに同時的な、それ自身感覚ならぬ別の認識能力によるのである」

「物体を見て、神の現在がこれらの物体よりして知性によって直ちに認識される、

 といった事態が可能になるのは、次の二つの事柄に基づく。

 一つは知性の明徹。もう一つは新生した物体の世界に見出される神の明るさの返照」

 

第五項

問一答

「神の本質はもともと可知的なもの」

「それにしても自然本性を超えた何らかの力が付与されなければ、

 被造物の自然本性的な知性によって神の本質を見ることは不可能」

cf、あらゆる被造物は神に比べた時、絶対的な欠陥を持っている。

 

【第六項】

本文

「神を見る能力が被造的知性に適合するのは本性や自然に基づいてではなく、

 栄光の光による。栄光の光をより多く分有する者は、より完全に神を見るであろう。

 栄光の光をより多く分有するであろう者とは、より多くの愛を有する者に他ならない」

「より大いなる愛があるところ、より大いなる欲求がある。

 そして欲求は、ある仕方において欲求する者をして、欲求されるところのものの受容に

 適応しそれに対して準備されたものたらしめるのである」

問三項

「見るということにおける差等は対象の側からは生じないであろう」

 

 

第十五問題

【第三項】

本文

「如何なる時にもつくられることのないものであるにしても」

(神はそのイデアを持っている)

問一答

「悪が神に認識されるのは、その固有の理念によってではなく、善の理念によって」

「悪は神のうちにイデアを持たない」

問四答

「神の摂理は種に及ぶのみではなく、それは個々のものにも及ぶ」

 

第一六問題

【第一項】

本文

「善とは欲求が向かうところのものの呼び名」

「真とは知性認識が向かうところのものの呼び名」

「善は欲求される事物に存する」(関連して欲求自体が善と呼ばれることも)

「真は知性そのもののうちに」(〃知性認識される事物そのものが真〃)

・制作者の思う正解 ・その正解を具有している事物

・既定的客観的正解とそれを有している事物

 

【第三項】

本文

「善は望ましいという意味を有の上に加える」

「真は知性への関連付けということを有の上に加える」

問二答

「非有も概念的な一種の有と考えることもできる」

 

第十七問題

【第一項】

本文

「事物の世界においては、知性への秩序づけによるのでないかぎり、真理もなければ虚偽もないのである」

問三答

「事物が偽なるものと呼ばれるのは、神の知性への関連においてではない」

「我々の知性への関連においてにほかならない」

【第四項】

本文

真が「事物の、それに対等せる受けとり」

偽は「事物の、それに対等せざる受けとり」

問二答

「すべての悪は何らかの善のうちに、そしてすべての偽は何らかの真のうちに基盤を持つ」

 

第一八問題

【第四項】

本文

「神によって造られたすべてのものは、知性認識されたものとして神のうちにあるわけゆえ、

 すべては神において、神の生命そのものなることが帰結する」

cf音楽、記憶、一連の事象

 

第一九問題

【第六項】

本文

「一つの秩序に従えば神の意志から離れるように見えることがらも、

他の秩序よりすればやはり神の意志へのつながりを取りもどす」

 

第二十問題

【第二項】

本文

「存在は存在自体として善」「それぞれの完全性も善」

【第三項】

引用「なかでも理性的被造物をより多く愛し給う」

【第四項】

問二答

「人間本性は、神はこれを、すべての天使たちを愛する以上に愛し給う。

人間本性は、何よりも特にその合一ということのゆえをもって、天使たち以上に善きものなのである」

「地位に関する限りにおいては、天使の方が人間よりも善きもの」

「病んでいる奴僕に、健康な息子には与えない高価なものを与えると一般である」

問三答

「神の愛によるその者の善性は、その時点で決まる。ある時点では善く、ある時点では悪い。善くもなく悪くもない時点すらある」

 

第二十一問題

【第三項】

本文「他者の悲惨を、だから、悲しむということは神にふさわしくないが、然し他者の悲惨を取り去るということ、~神にふさわしい」

「完全性があらゆる失陥を取り払うものなるかぎりにおいて、それは憐憫に属するのである」

 

第二十二問題

【第一項】

本文「ものごとを目的にまで秩序づける」のが思慮に固有なことがらなのである。

【第二項】

本文「存在を有するところのものは、すべて神によって目的にまで秩序づけられているのでなくてはならない」

cf、「万物はどのような秩序にも何らかの形で関わる」

【第三項】

本文「秩序付けの理念。神は直接無媒介的にすべてのものを摂理する」

  「統宰。神の摂理に対して何らかの媒介が存在する。原因性という一つの優位性が被造物にまでも伝達される」

問答二「直接に摂理しているからと言って、第二次的な因が排除されるわけではない」

【第四項】

本文「あらゆる存在の段階が事物の間に見出されないかぎり、ありえないところである。

   だからして、あらゆる段階の有を産出するということが、やはり神の摂理に属している」

本文「神の摂理は、或る果のためには、それが必然的な仕方で生起するよう必然的な因を用意し、

   また他の或る果のためには、それがその近接因の条件に従って非必然的な仕方で生起するよう非必然的な因を用意したのである」

cf.取れる選択肢が複数あるにしても、結局「それを選ぶのは必然である」ということはできる。

意志と神秘を保証しなければ、全ては必然になってしまう。

 

第二十三問題

【第一項】

本文「すべては神の摂理のもとにある」

本文「自然本性を超え出たもの」「被造物が自らの自然本性の力に従って達成しうるごときもの」

【第二項】

本文「摂理とは、摂理する者の知性のうちにおける或る理念」

「予定とは、何者かを永遠の救済にまで秩序づけるそうした秩序の或る理念。それは神の精神のうちに存在する」

  「受動的には予定される者においてある。しかし能動的には、やはり神におけることがら」

 

第六十五問題

【第四項】

カレーが複雑怪奇な因縁で自然の成り行きで出来たものだとしても、カレーが出来る前からカレーを知っていた天使もいる。神も。

イデアや形相自体は神が全て作った。

 

 

 

第三部

第一問第一

・受肉が神に適合する究極の根拠は「神の善性≒恵み深い、あわれみ深い」。

それは本性必然的な行為ではなく、神の意志に基づく自由な行為から。

・受肉によって神には何の変化も無いが、被造物には根本的な変化が起こる。

・「罪とは、神の法から離反することにおいて成立する悪」

 「罰とは、それに対する報いとして、その人に対し正義にもとづいて科せられる悪」

・人間キリストは他の人間と同じ被造物だったが、ただ「罪」としての悪だけは有していなかった。

 しかし「罰」としての悪を身に受けた。人類の犯した罪の贖いとしての「罰」であり、

 十字架上の苦痛を甘受することによって、人類の贖い主となったのである。

第一問第二

・人間の回復を通して、他の一切の有情無情の救済に及び、いわば宇宙的な回復をもたらしたのである。

・人間が神に対して犯した罪は個々の人間の償いによっては果し切れない。神であり人であるイエスにのみ可能。

第一問第四

・「感覚の罰とは、感覚に加えられる罰」

 「損失の罰とは、自分の有しているものを奪われ、損失を蒙るという罰」

・原罪に対する罰は、損失の罰。恵を失って、神の国を見ることが出来なくなった。

 最初の人間の子孫である全人類は、この原初に支えられた恩恵の喪失という罰を負うて、この世に生まれてくる。

第一問第五

・人間でありながらその分際をこえて、神のようになろうと「たかぶる=スペルビア」ことにおいて最初の罪を犯した。

・「信仰を持たなかった受肉以前の人々でも、もし彼等がそれを知ったならば受け入れたであろう人々は、

 全て神の予定のうちに含まれており、すべて救いにあずかるのである」

第一問第六

・人間が救いを得るためには、「1神を知ること」「2神を敬うこと」「3正しい道徳を守ること」が必要。

・受肉において完成に達した人間本性はキリストだけ。それ以外は完成されていない。

 完成は受肉によって終わるのではなく、却ってここから始まる。

 受肉は確かに人間本性のキリストにおける、完成の終極であるが、

それは同時にまた、キリストによる全人類の完成を目指す始まりでもある。

・キリストは二度来る。「1罪を許す≒受肉」「2罪を裁く≒終末」

 

第二門第一

・「それぞれの本性を保ちながら、キリストに於いて、神性がペルソナ的に肉と合一し、肉が「言の肉」になった

 という意味に解されなければならない。

・本性の次元ではなく、ペルソナの次元。

第二問第二

・しかもそれは、人間のペルソナと言のペルソナが合一したものではない。

 ペルソナは言のペルソナ一つであり、それに人間本性が受容されるという仕方で、両性の合一がなされた。

・真の神であるとともに真の人間であり、しかもペルソナとしては言のペルソナただ一つ。

・本性「1それ自体」「2種の本性(人間に共通の本性)」「3個の段階で附帯性を受け取り、固体化されている本性」(byダマスケス)

・「自存=個物のこの世界におけるそれぞれの独立の存在の仕方」

「主体=共通の本性を担いながら、この世界に個々に独立に存在するもの」

・この世界に於いていかなる個物も本性そのものではなくて、本性を有する何か自存するものとして、

 本性そのものとは区別されて存在している。

・本性そのものが自存し、それより他にそのものに属する何も有しないものがあるとすれば、

 このものにおいては本性が即ち主体であり、本性と主体との区別は実在的には存在しない。

・「ペルソナ=理性的本性を有する個的実体」

・受肉した言は、言である限り神の本性であり、受肉によって人間本性を受容した限り人間の本性であり、

 したがって神性と人性という二つの本性を有する。それゆえキリストは、同一のペルソナであって、神であり人である。

・言が受容した人間本性は、一般的な人間本性ではなく、キリストにのみ独自な、

その意味で「個においてある人間本性」でなければならない。

 もし一般的な人間本性を受容したのであれば、どんな人間の人間本性でも神の言に受容されれば、

 キリストと同様に神の言であるということになる。キリストが複数になる。

第二問第三

・「一つのペルソナ、二つの本性」(神の言、神と人の本性)

第二問第四

・一つのペルソナでありながら、二つの本性に応じて自存の二つの仕方を持つ。

第二問第五

・キリストは魂と肉体が結合して人間となるが、その人間は「ただの人間」の場合のように、

 それ自体として独立したペルソナにならない。そうではなくて、既に存在している言のペルソナに付加され、それの本性的部分となる。

 それゆえ、人間キリストは人間としての心身の働きをするが、そのはたらきの主体は人間ではなく、人間を自分に付加した言のペルソナ。

・キリストに於いてある人間本性は、ただキリストにおいてのみある本性として「個的アトム的」である。

第二問第六

・言は、自分の存在を人間に伝えることによって、本来有していた自己の存在を増すことも減らすこともない。

 言に付け加わる人間本性が、言からその存在を伝達され、それを共有し、一つの受肉せる言となることがincarnatioである。

第二問第七

・神のうちに取り入れられたものは、すべて神となる。何故なら神のうちにあるものは全て神であるから。

・神は創造の前後に何らかの変化を生ずることもない。「創造の関係は実在的でなく、ラチオによるもの」

・神によって考えられたものは神のうちにイデアとして存在する。

 しかしイデアの多様性は神のうちに実在的多性を生ぜしめない。

第二問第八

・受肉は被造のことである。被造のことであるということは、

時間に於いてこの世界にいつか生起したこと、すなわち歴史的出来事であることを意味する。

第二問第十

・神のうちに「言」が発出し、更に「父」なる神と「言」との間に、相互の愛としての「聖霊」が発出する。

 こうした神の内部におけるペルソナの発出は、自然本性的のものであって、自由意志によるものではない。

 これに対して創造は、神の自然本性的なはたらきではなくて、自由意志による行為である。

 

第四問第二

・人間本性は神のペルソナにconsumereされることによって、持ち得たであろう固有のペルソナ性を阻止される。

第三

・神のペルソナに受容されたのは既に具体的に存在する「人間」ではなく、ペルソナにおいて具体化される「人間本性」。

 神の子に受容されるのは、まだいかなる主体においてもない「人間本性」であって、何らかの主体ではない。

第四

・すべての個々の人間に対して、その救いの原因としてかかわる可能性を有する人間本性が、神の子によって受容されるべき人間本性。

・かと言って、抽象された共通的人間本性が神の子に受容されるに適しない。

第五 P326「輝き続ける」と訳しておく

 

第五問題四項

・人間本性は形相たる魂と質量たる身体から合成されている。

・魂のうちなる知性的部分はいわば魂を媒介として身体と結合している。それは人間本性における最も高貴な部分であり精神(mens)と言われる。

 

第六問題

・真の人間は「肉体・魂・精神(知性)の三つを完全に備えている。イエスも真の人間であるから同じ。

・受容する順番は「知性・魂・肉」だが、それは時間的な順番ではない。時間的には同時。

三項

・人間の魂は肉体以前に創造されたのではなく、その都度の創造において、身体に魂が注ぎ込まれると同時に創造される。

 それはキリストも同じ。魂が最初に作られたのではない。魂と肉体が別個に創造されることはあり得ない。

四項

・質量はそれがある形相に固有な質量として整えられた時はじめて、その形相を受け取る。

・異論反論1・2。マリアの受胎の順番は普通の人間とは違う。

六項

・万物創造の恵み、理性的被造物を永遠に置く恵み、習性的恵。

・普通の人間は存在ではなく、はたらきにおいて神と合一する。魂が神を見、愛するはたらきにおいて極致に達する時。

 この極致に達するためには知性と意志では不十分で、神から超自然的力が注ぎ込まれなければならない。これが「習性的恵」。

 普通の人間はこれを信仰によりキリストを通して受ける。

・キリストの場合、存在の次元で合一しているので、合一に習性的恵は必要ない。人間キリストとしては習性的恵に与る。

・聖霊は、受肉において動かす中間者としての役割を演じている(第三二問一項)

 

第七問

・教会の頭としてのキリスト。この場合の教会とはキリストの恵に何らかの仕方で与る全ての人々を包含するキリストの神秘体を意味する。

2項

・恵は魂を完成するために、その本質に付与される習性である。その意味で恵は魂の本質を基体とする。

 徳は魂の能力を活動に向けて強化するために、能力に付与される力である。その意味で徳は魂の能力を基体とする。

・キリストは「唯の人間」ではなく「真の人間」であるから、普通の程度を遥かに超えて、最高程度に徳を有していた。

3項

・対神徳「信仰・希望・愛」。

・信仰とは「見えない神の事柄に同意する」こと。キリストは懐胎の最初の瞬間に神を見ていた。したがってキリストに信はない。

4項

・希望とは「まだ得ていないもの」をいつか「必ず得るであろうと期待する」。

・対神徳としての「望」は持っていなかった。しかし例えば「復活」などに関しては

人間キリストにとっては未来に起こる事柄として期待されるにとどまっていた。そのような事柄についての「望」は持っていた。

5項

・「賜」とは聖霊の勧めに応じて行為できるよう、魂の状態を整えるため、神から魂に注ぎ込まれる超自然的な徳。

・キリストも賜を有していた。

6項

・「畏れ」。キリストは権力者のような対象に「怖れ」を有していなかったが、神の卓越性に「畏れ」を持っていた。

 

 

第九問第三

・「夕の認識=自分に注がれた諸事物についての知によって、自分自身と諸事物とを、その固有の本性において認識する」

 「朝の認識=自分の根源である言に向かい、言において事物を知る。ここに夕の認識は完成する」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何故悪は存在するのか。議論は尽きない。

「蛇に唆されたから」

「なんで蛇に唆されるような不完全な存在を完全な神が作るの?」

「ドキドキしたかったから、チャレンジ精神、常に試される自分、生みの苦しみ(神にマイナスは無いが)」

それらも神の所有物であり、神は作らなくても良いこの世界を、意志を持って敢えて作った。

そして人間に意志を与えた。

意志のバックボーンには先に挙げたものがある。失敗すれば墜落するが、墜落から立ち直り、世界を調和させるのも、神の似姿の人間に課された課題であるから?

 

神は全知全能で意志を持っている。

人間は神から意志を与えられたが全知全能ではない。

意志とは「選択肢の中からこれと選ぶこと」である。

決断である。決断の背後には、認識ミス決断ミスなど色々な失敗が潜んでいる。

スポーツと同じである。

神は失敗しないし、失敗したと思いきやそれも成功にしてしまう全知全能だが、

人間は失敗するし、失敗するとへこたれる。

「神の劣化版である人間」は劣化版ゆえに「悪=善の欠如」を犯す。

 

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福田恆存が言っているように「神学というのはイエス様の尻拭い」」である。

ところで「誰の尻をどう拭うのか」が問題で、

何を聖書にして、どういう理屈をつけるのかが腕の見せ所。

「ドラゴンボールを聖書にして、ジャンプ最高!」?

「ガラスの仮面を聖書にして、云云かんぬん」?

 

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女性は生物に惹かれる。

男は機械に惹かれる。

と言われるが、理想に関しては男も生きているものに惹かれるのではないかと俺は思っている。

生気の無い漫画絵では拍子抜けだ。ドラゴンボールはどうか?あれは生きているのだ W

 

機械に惹かれる男も、女に惹かれるわけで、その女と来たらやはり生き物で、2次元の女が好きでも、生き物のように扱っている。

 

ルネサンスも一度なくなったものを生き物として復活させている。そもそもロマネスクもゴシック建築も、宗教的理想をいわば強引に顕現させたわけである。

メイフラワー号に乗った人たちは、なんとアメリカを作ってしまった。

 

男にはどうやら「未来のイヴ=生きている過去=神の国=理想の女=決して存在しないもの」を実現したい欲求があるらしい。

 

妄想を形にして、そこに息を吹き込み、自律的に動く存在を作りたいのだ。

神様もそんな欲求から人間を生み出したのかもしれない。

動かぬマンガ絵では飽き足らぬ男の生理である。

 

ところで永井荷風は「日本人は妄想から歴史を突き動かしたことがない情けない民族なのです」と言っていた。

 

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「あいつは半分狂ってる」

もう半分はもっと狂ってるw

 

5年に1度ぐらい公的権力に怒られる。私はそれを覚悟している。

私は「社会殺す」と言っているわけで、社会としては「殺そうとしてくれてありがとうございます」とはならないだろうからだ。

ところでしばしば思うのだが、役人はグローバリズムが嫌いなのだろうか?

 

同質性前提の逐一の反応を求めるのは間違っている。

俺とお前は別人だし、逐一反応しているほど時間もないからだ。

いや本当は時間はあるのだが面倒なのだ。

人に面倒を要求してはならない。

 

先輩は無限におり

先輩の先輩も無限におり

先輩たちの求めた先も無限にある。

すなわち先輩を敬えということは無限を敬えということである。

 

達観するために神の視点を獲得する

全てに感動するために子供の視点を獲得する

「何のために勉強するのですか」と言われれば、現実的な理由が挙がるだろうが、究極的にはその2つである。

キリスト教はまさに神と子がいる。

 

副作用が無く、ステロイドなど比較にならぬ程の筋肉増強剤ができれば、明日にでも人類皆ビッグラミーで、それでも別に構わない。それでも筋トレしたい奴はするだろう。

 

天国では何でも出来るが、それを前提にした上で、どう生きるか。

「技術の進歩」と言うなら、その覚悟が欲しい。

 

俺の好きなもので言うと、ゲーム俳句HIPOHOPなどは初心者と上級者の区別が無い。いや、あるが、勝負で言うと、ゲームで言うとレベル1のグレネードに最高レベルのやつが爆殺されたり、俳句は子供が圧倒的に強く、HIPHOPはぽっと出でも幾らでも良い曲がある。

 

クラシックや筋トレだと、まあ、さすがに今日ヴァイオリンを始めた人が世界的なヴァイオリニストに勝つ(?)ことは不可能だろう。少なくとも人類史上、歴史的名演に、初心者の演奏は無い。

筋トレを今日始めたヒョロガリが明日にゴリマッチョになるわけではない。

 

だがサイボーグになれば話は別だ。AIも搭載している。

要はいきなりスーパーマンだ。ドラえもんの世界だ。

その場合、どういう「方向性=センス」を持つかが重要だ。大胸筋だけ異様にデカくする人もいれば、バランスよくする人もいるだろうし、それは現実でも同じで、その実現速度が上がるだけである。

 

「会う人皆先生力」というのがあって、俺の場合、ヤバい領域に達している。擦れ違う虫にすらお辞儀する程で、まあ、俳句をやっていればウンコも題材にする程なので、そりゃ感謝したくもなりますわ。

 

「剣の名人vs鉄砲雑魚」では鉄砲雑魚が勝つ。

1対1億なら尚更だ。

ところで一人一人にフォーカスしてみれば、鉄砲に対して「剣を握るだけの名人=雑魚」なのかも知れない。

人は皆己だけの剣を握っている。

「それでも俺は」と生きていく志。

生き方の問題ですね。

 

自分の価値観を絶対に向けて膨らませるより、相対化してドンドン「点でしかないもの」にしていく。

ところで「威がある人間」というのは偉そうで気に喰わない。

わかりやすく「俺は偉い」と示すことで、周囲がどう行動して良いか明確にしてやってるとも言えるが、認識する側もされる側も「エックス=不確定な存在」で良い。

「相手がどんな奴でも、お互いに礼儀正しくあれ」というモラルを要求する。

 

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日本は言語優位、左脳優位、「日本主義=60歳30歳0歳の子宮的団子三兄弟+形骸化した伝統」の世界で、

対して、感覚優位、右脳優位、通時的クラウド主義(ルネサンス、西洋音楽、数学、などが良い例だ)

 

時代を超越したクラウドを糧にして、自分を作り上げることがない。

そもそも過去のものを今生きているもののように扱う精神に欠ける。

伝統伝統言うが「有職故実、浮世絵も含めてマンガ絵的輪郭線として死物として保存されている」。

 

日本人を見ていると、ホシュだの何だの言っているが、「自分が子供の頃にインストールされた癖」を維持したい人達にしか見えない。それぞれの癖をホシュするために絶叫している。

自分の癖も含めて、全ての癖を相対化して眺める精神の作法に欠けている。それはインテリではない。日本に成熟したインテリはいない?これは昔から言われていることなんだけどね。

 

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黒板君でもボール君でも良いが、筋肉の位置が分からない。

大腿四頭筋はどこだ?「ある者はあそこだ、別の者はここだ」と。

腕橈骨筋が全身に及び、僧帽筋上部が足元まで伸びてしまっている。

輪郭が不定なのだ。

そもそも大腿四頭筋とか腕橈骨筋とか僧帽筋とか名付けるべき対象なのかも疑わしい。

それでも何とか分けて、名付けたのだが、腑分けしてみれば、「人それぞれの分け方名付け方」が出来上がり、「これでは統一規格にならずコミュニケーションを取りづらい」と言うことで、統一したのだが、「俺には俺の分け方名付け方がある」と名残惜しさもある。確かに「統一に基づいた訓練も参考にはなる」のだが、「いややっぱりな」と。そして我が道を往く。芸術の芽生えです?

 

ところで人は統一規格を学べているのだろうか?

人それぞれ同じ言葉を使っていても、全く別の意味に使っている場合もある。ペン一本取ってみても、ある者は鉛筆を、別の者は万年筆を彷彿としている。これが自由だの愛だのになってくるともう大変だ。

孔子も言葉の乱れについて言っている。プラトンも詩人を追放した。

言葉の意味を統一することで、相手を正しく理解できると。

「正言≒言葉を統一する」意志も人類には働き続けるが、結局「人それぞれ認識は違う」という現実が常に存在している。

 

「正言を学んでからオリジナルに向かいなさい」って、まあ、そう上手く育ちゃ良いんですけど、自らを省みれば分かるように、「無くて七癖あって七十七癖」と申しまして、「お前などお前の妄想的分け方名付け方に拘泥することしかできない気違いでしかない」ことを弁えなければならない。古代から「言葉の意味が乱れている!」と洋の東西を問わず騒いでいるわけですから、推して知るべしです。

確かに100円の買い物をして、1万円請求されたら怒ることができるのも人間なんですけどね。「私にとって100=1万ですから」と言われても社会が成り立たない。

 

まあでもだから、数字とかそういうのは未だ良いんですよ。「統一しろ」の圧力も凄い。

ところがさっき言ったような自由だの何だのという言葉はフレキシブルに使われている。自由に限らず、自らの思考を辿ってみなさい。かなり好い加減に、かなり独自に、いや誰一人として通じないような意味で使っていることも多い。

 

それがダメと言っているのではなく、ヤバい時もあるが、そこにお前らしさが宿っているのかも知れず、それを上手い具合に育てて、自分らしくなれたら素敵ですね。

 

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何故悪は存在するのか。議論は尽きない。

「蛇に唆されたから」

「なんで蛇に唆されるような不完全な存在を完全な神が作るの?」

「ドキドキしたかったから、チャレンジ精神、常に試される自分、生みの苦しみ(神にマイナスは無いが)」

それらも神の所有物であり、神は作らなくても良いこの世界を、意志を持って敢えて作った。

そして人間に意志を与えた。

意志のバックボーンには先に挙げたものがある。失敗すれば墜落するが、墜落から立ち直り、世界を調和させるのも、神の似姿の人間に課された課題であるから?

 

神は全知全能で意志を持っている。

人間は神から意志を与えられたが全知全能ではない。

意志とは「選択肢の中からこれと選ぶこと」である。

決断である。決断の背後には、認識ミス決断ミスなど色々な失敗が潜んでいる。

スポーツと同じである。

神は失敗しないし、失敗したと思いきやそれも成功にしてしまう全知全能だが、

人間は失敗するし、失敗するとへこたれる。

「神の劣化版である人間」は劣化版ゆえに「悪=善の欠如」を犯す。

 

福田恆存が言っているように「神学というのはイエス様の尻拭い」」である。

ところで「誰の尻をどう拭うのか」が問題で、

何を聖書にして、どういう理屈をつけるのかが腕の見せ所。

「ドラゴンボールを聖書にして、ジャンプ最高!」?

「ガラスの仮面を聖書にして、云云かんぬん」?

 

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女性は生物に惹かれる。

男は機械に惹かれる。

と言われるが、理想に関しては男も生きているものに惹かれるのではないかと俺は思っている。

生気の無い漫画絵では拍子抜けだ。ドラゴンボールはどうか?あれは生きているのだ W

 

機械に惹かれる男も、女に惹かれるわけで、その女と来たらやはり生き物で、2次元の女が好きでも、生き物のように扱っている。

 

ルネサンスも一度なくなったものを生き物として復活させている。そもそもロマネスクもゴシック建築も、宗教的理想をいわば強引に顕現させたわけである。

メイフラワー号に乗った人たちは、なんとアメリカを作ってしまった。

 

男にはどうやら「未来のイヴ=生きている過去=神の国=理想の女=決して存在しないもの」を実現したい欲求があるらしい。

 

妄想を形にして、そこに息を吹き込み、自律的に動く存在を作りたいのだ。

神様もそんな欲求から人間を生み出したのかもしれない。

 

ところで永井荷風は「日本人は妄想から歴史を突き動かしたことがない情けない民族なのです」と言っていた。

 

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文化も言葉も常識もとにかく何から何まで違うのだが、とにかくあなたは素晴らしい。

そんな素晴らしいあなたを尊重する作法を、私という愚か者は全く知らぬのですが、私なりに精一杯頑張ります。

結果的に無言で頷くだけになるかもしれないが、それが私にできる精一杯の礼節なのです。

 

ヘラヘラする素晴らしさ。

全ては冗談か何かであり、そうは言っても、時に真剣に取り組まざるを得ない問題もあるので、その時だけ少し頑張るw

半笑いの神。

神は半笑いであらせられるのである。

 

電車は、多くの人を早く安定的に運ぶことができて凄い。

ところで、電車は俺のことを好きなのだろうか?

好かれなくても、参考にしたり讃嘆したり感謝すれば良い。

それは相手が人でも同じだ。

 

お前がどんな奴か一瞬で理解したいから、

分かりやすいキャラを演じろ

ありがちな行動を取れ

皆と違うことするな

「型にハマっとけ」ってね。

「型にハマりたくない」と俺も含めて皆叫ぶが、意外に皆、型にハマって、その恩恵も受けている。

言葉なんて特にそうだし、信号も守る。

「いや、そこは十戒的なルールだから守って当然なんですが、それ以上に手取り足取り束縛してくるのが嫌なんですよ」と。

「私にも個性がありまして、そんなに型にハメられるのは苦しい思いんですよね」と。

私はそもそも「認識のコスパ問題」を言うなら、認識する側が基本ボケっとすることを要求する。

「誰が何を仕出かすか分からないことに慣れろ」と言うことだ。

テロなどは怖いので銃規制などには酷しい。これも十戒は徹底するが、他はダルダルと言う路線だ。

「軍隊とダルダル」の組み合わせで、中間が無い。それが良い。 日本人の漫画絵認識を改める必要がある。

油絵認識で、基本ボケッとできるようになれ。

 

「嫌味っぽく話し掛けるのではなく、正々堂々楽しくコミュニケーションしろよ」

それに対して「それは確かにそうなんだけど、そんな風に出来ないキモオタがほとんどなんだよ。そんな奴でも、嫌味っぽいけれど他者に語り掛けようとしているだけマトモなんだよ」という反論。

 

「外見や態度、話し方などで差別するのは良くない」と言いながら、お前は可愛い子を求めるアンビバレント。

「活き活きと清潔で、言葉遣いも態度もまともでなければ人は寄り付かないぞ」とアドバイスする優しさ。

 

丸いなあ。丸なった。

40を超えて丸なった。

「殴り合いや激論の末にどうにかこうにか落ち着いて、今じゃ心の形も分かる」

「ああいう考えもある、こういう考えもある。皆様ご苦労なすったのでしょう」と。

確かに、そうやって余裕を持って、人様を眺められるようになったのも立派な成長ってもんだが、

一方で「じゃあお前はなんなの?」ってのがあるんですよ。

「無数の意見に頷くだけの木偶の坊かよ」ってね。

「どうにかこうにか吹き過ぎて、ここでもう一盛り」

 

主観は主観であるのだが、

主観だけが正解となると、

誤解も正解になるので、

常に主観を超えた何かを想定するべきだ。

あらゆる存在は神秘である。

それは謙虚さを生む。

正解は人それぞれとも言えるし、全ての人の理解力など高が知れている。

それは本人が本人を認識する時も同じだ。

 

異質性前提でコミュニケーションしてきた歴史があるか。

近代になり他者性が突き付けられると異質性前提でどう話すか振る舞うかの蓄積された模範がないし、

日本人は臆病遺伝子があるので向こう三軒両隣りに縮こまってしまう。

 

「同質性前提だからそこまで言わんでも分かり合える」と言うが、同質性前提が崩れると、ただの「不愛想、ぶっきらぼう」になる。
異質性前提で積み上げられてきたコミュニケーションの歴史が無いんだよね。
Boys,be American!

 

マナーマナーうるせえ奴はコミュニケーションする機会を減らす。

どこにどんなマナーがあるか分からないからだ。

「そのマナーを学ぶまで俺と喋れないよ」などと言うつもりか?

何様か?

「万人に通用する十戒的マナーを徹底的に教え、それ以上を要求するのは無礼」と弁えることこそマナーだ。

そして私から言わせれば、マナーも言葉遣いも態度も動きも、「芸術的でなければ意味がない。受胎したくない」のだ。

 

「現実を舐め腐る」と言うが、なるほど良い表現かもしれぬ。

と言うのは現実など「舐め腐らせるもの」だからだ。

腐食させて骨だけが残ると軽くなる。現実を軽々しく思うことでユーモラスにクールに余裕を持って生きていける。

その上で自分の拘りがあれば、幾ばくかの骨を拾い、そこに肉付けしていく。その肉は天空から降りてくる。

 

「型が多い」と、自分がどこかの型にハマると思いがちだが、お前はお前である。その型と自分が似ているからだ。

「型が少ない」と、仕方なく合わせる時もあるが、結局「俺は俺だし」と忌憚なく思える。その型と自分が似ていないからだ。

日本は前者であり、ある程度納得のいくグループを形成するには便利だが、オーダーメイドからは遠ざかる。

「近似値集合文化」である。

「ジャストフィット文化」ではない。

「集合できれば集合知も糧にできる」と言うメリットはあるが、自分は成仏し切れない。

オーダーメイドを徹底的に意識しながら、集合知も活かせれば良い。それは不可能であろうか?そんなことは無いように思える。

 

「社会問題が多い外国に比べ、日本はまだ安定している」という論は、私は実際に国内国外の現実を知らないものの、「そうなのだろうな」とは思う。

だが「日本人が左脳優位で、型にハマりやすく、保存料天国であること」と「日本人に鬱病が多いこと」はどうにも関係がありそうで仕方がない。

 

博愛的なのは国家による洗脳ではなく、人間の性質の一つである。

ただ博愛的な人間もいれば、狭い範囲の人間を愛する人間もいる。

そもそも国家が「博愛的でありなさい」と国民を教育するか知らないが、大規模運営に向いた人間を多く必要とするのは当然だろう。

国家はそれを特に選び、奨励する。

狭く愛する人間もある程度は必要なのだろうが、それは自然発生に任せているのかもしれない。

私からすると理性的であれば自然と博愛的な傾向も強まると思っている。

 

言葉と言うのは意味とイメージがあり、論理も分かりやすく作り出せる。

言葉に触発されて浮かぶイメージは「夢を見ている時の映像」にも似ていると言う。

即ち文学とは「論理的に夢を見る行為」とも言え、だから文学者はよく狂う?

夢が明晰すぎて「夢と現実の区別がつかなくなる」のだろう。

 

かなりの同質性を前提としないと人間は拒否反応を示す。面倒やらなんやらだ。

だが「人に興味がない人間の集まり」を作れば良い。

「つんぼにめくら」でいろ、ということだ。

そして古代中世社会と近代社会の違いは、異質性前提を受け入れるかにある。

都市化である。

「人類最大の発明は?」と言う問いに「都市」と答える人間もいる

私も都市を推す。

異質性前提で、つんぼにめくら、住所不定無職がフラフラしている世界である。

そこでは「異質性に慣れる」という教育と、「翻訳こんにゃく」の発明が期待される。

まあ、そんな用意周到なことをする以前に、きもい奴は溢れかえり、引きこもり社会になるのだろうが。

ところで俺は筋トレをして、占い師なだけあって毎日コミュニケーションしている。

そろそろ服装にも気を付けようとしている。

 

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吉田松陰は獄中で古典文法を唸り散らしていたようで、当時の武士たちもそれに倣ったそうである。

ちなみに聡明なる私は高校時代に「受験勉強が古典だ」と気付いただけでなく、「古語文法こそ日本の古典だ」とも気付いた。

気付きのミソは、先ず「日本代表として出せるものは何か?」と考えたこと。

中国からは書を出せる。

ヨーロッパ大陸からはクラシック音楽を出せる。

じゃあ日本は?

能歌舞伎文楽?完成度は素晴らしくても、通時性が足りない。

富士山?あれは山だからなあ。

寿司天ぷら?象徴的ではあるが断片的とも言える。

 

古典の条件(市川 裕 東京大学・大学院人文社会系研究科教授)

1、古代のある時代までに作られて完成された思想がその中に語られている。

2、そのテキストの価値を皆が共有している。解釈の歴史さえも共有している。

3、そのテキストを導く人が必要で、学問が伝達されるための組織的体制も必要。

プラス俺

時を越えた膨大な人数の参加。

先輩も参考書も豊富。

奇手・裏技なども飲み込みながら進軍。

昔の亜流も本流に結合。

世阿弥的な綴錦。

などなど古典の凄さは枚挙に暇がない。

 

こうなると日本から出せる文化芸術は漫画アニメを筆頭に沢山あるが、古典として提出できるものはそんなに無いはずだ。

和歌短歌俳句なら「言霊の幸ふ国」と言うこともあり良いだろうが、それにしても和歌がそこまで通時的かと言うと書にもクラシック音楽にも及ばない。和歌短歌俳句セットなら何とかなるかもしれない。ただ教育体制はどうかと言うと、所謂教育体制など無くても「自然発生的な盛り上がりや共有も教育だ」と言う意見も分かるが、それでも所謂教育体制は低いように思う。漫画アニメも古代から存在しているわけではない(色々な観点はあるが実際のところ存在しなかった)。能歌舞伎文楽も、では逆に時代を超えた骨格となり幅広い影響を与えたかと言うと、書やクラシックと言った時に持つ「本源性・総合性」はない。バロック音楽とかロマン派とかオペラの一形式と言ったところだろう。

 

そうなると古典文法から和歌短歌俳句・漫画アニメ・日本語の全てを捉えて「それらは結局のところ古典文法を骨格としています」と言った方が良い。ちなみにオノマトペや文法の破格、現代日本語も古典文法の視野に入る。古典文法とはそんなにヤワなものではない。雑音もクラシック音楽の範疇のようなものである。

 

ところでクラシック音楽をやっている人間があらゆる音楽を「平等」に眺められるように、古典文法をやるとあらゆる日本語に冷静に対処できる。例えば言語の勉強をしている人は昔から自由闊達で破格もありまくり、現代に流行りの日本語が出現しても平気で取り込んでしまう。

源氏物語などとりとめなき子供の感想文と見る向きもあり(私は全くそう思わないが)、相馬御風など明治時代にもうパンク過ぎて日本語なのかい?って感じだし、そもそも万葉集なんて読めんの?

 

古典文法は古代から完成していたし、その後もお寺やらなんやらで色々研究されていた。確かに仏教哲学などに比べて哲学的深遠があるかと言われればそうでもないだろうが、まあでも源氏物語もあるわけだし、和歌もあるわけだし、哲学的世界観を提示しているわけではないものの、言語体系ですからね、それはそれで一つの総合的体系であり、世界観でもありましょう。

 

「哲学が提示する世界観」と「ある一つの言語体系が示す世界観」

どちらが深く重みがあるか。それはわかりませんが、哲学も言語で考えているところを見ると、やっぱり凄いんじゃないの?

インド語!実際にイン哲は最強だからなw インド人の外国語学習能力は世界一だろうし。やっぱ凄いんだよ。

と言うことで、日本の古典はやっぱり古典文法というお話でした。

 

古典文法はしばしば読み返すが、「お経のように詠む」という習慣は無かった。お経と位置付けて日々唸る、黙読するのが良いな。

ちなみに近代日本語の九成宮は三島由紀夫の『金閣寺』だと思っている。

古典文法と『金閣寺』を唸り散らすか。

 

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日本は女の国だからカタルシス機能のある人間をイジメる。

男をやっつける本能だ。

喜怒哀楽、プラスマイナス全てを発揮するのが人間の生き様であり、便所も必要だ。

何を便所にするか?

男はスポーツを清々しく便所にすべきだが、女はカタルシス機能がないのでイジメが必須になる。

イジメは汚い。

なので全人類は男になるべきである。

と言うより、人間はロボットになるべきである。

何故ならないのだろう?

 

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偉いのは神だけであり、他はどれほどの人でも、そんなでもない。

人は皆平等に神の奴隷である。

人間の分際で威張る奴がいれば、悪い子はいねかとナマハゲの如く、狩りに行かねばならない。

内村鑑三も「神様に頭を下げろと言われても、あの神この神言うことが違いますので、はて、これは困ったことになりました」と言っていた。

 

理由を述べる時は「相当因果関係で抑え、無限に述べることなかれ」と言われても、あの単純で有名な国際情勢ですら複雑怪奇ですから、無理なんですよね。

これが「あなたは今なぜそこに存在しているのか」という問題になったら、さあ大変だ。

宇宙開闢から解いていかなくてはならない。

そこで逐一、宇宙史を述べる代わりに、直感的な詩を詠むことになる。

または「全ては神の思し召しのままです」と理由を述べる代わりに神を賛嘆することになる。

俺はそっち系が強すぎる。

 

ところで理由を述べるって、相手を安心させたり楽しませたりするためであって「正確性なんて二の次だ」という意見もある。

適当と思われると相手も安心しないし楽しめないので「結果的に正確であるべきだが、本質は安心と楽しませなのだ」と。

理由なんていくらでも出てくるし、どれが本当の理由かなんて誰にもわからないのだから、そういうもんでもありましょうね。人に対しては安心と楽しませだとして、自分に対してもそれは言えるのだが、俺の場合、どんな理由をつけるかも芸術的表現だと言いたい。そもそも論理も連想の一種ですからね。

人間、この神話的なるもの

なんでその人を好きになったの?理由を述べなさい。

その時その理由は果たして説得的であろうか?

気違いめいている?

恋とはいつもそんなもの。

 

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「実力も運のうち」という表現は私には非常に刺さる。

「だからお前ひとりの力と思ってはいけないよ」と。

その通りだと思う。

その力はどこから来たかと言うと無限から来ている。

トレーニーは特に鶏ムネに感謝すべきだが、鶏ムネだけでなく、他の食材、器材、それを作った人。道路や電気ガス水道などの社会資本にも感謝せねばならない。それらの複雑怪奇な因縁が自分を刻一刻作っているのであって、鶏ムネだけに感謝し、他を蔑ろにするなら、それは背徳的と言える。

 

鶏ムネだけに恩返しすると他が可哀想だ。

世話になった人の個人的意向だけを尊重すると「俺は鶏ムネだけに恩返ししたいんだよ!」となるので、強制的に徴税して、他のものにも配る必要がある(鶏ムネに多めに恩返ししたいなら個人的に行えば良い)。

 

兵役や社会資本などの管理は特に重要なため、待遇を厚くすることによって人を集める必要があるが、もしそれが不可能な場合は徴兵する。なので徴兵制も許される。

そのために国家権力が必要である。国家でなくても良いが、皆で管理できる権力である。うまく管理できるか分からないが、それが理想である。

 

GAFAが出てきた時に「プラットフォーマー経営学、管理学、活用学」などが必要だと思ったが、国家もそれと同じである。

 

ただ国家となると、本当に管理できるか分からないと言われる。

でも小規模的共同体(?)なら管理できるのだろうか?人間関係で雁字搦めになるだけなのではないだろうか?

 

大体そんなのが私の理想なのだが、それって何主義?国家主義?知らないw
常識で俺を束縛してきたり、マナーにうるさかったり、上下関係に厳しいのは無理。
そもそも俺は極度の学校嫌いだしな。

グローバルがなんで好きかと言うと、近代とは数と可能性の時代であり、常識ではなく、頭で考えると、大体グローバル規模、宇宙規模の思考になっていくので、ピタッと来るからである。

ちなみに「人の顔の見える範囲の共同体が良い」と言うが、見えなくて良いw そんなのウゼえからw
その分すぐに笛が鳴って厳しく取り締まるとかね。ああ、でもそれもうぜえわw 「そこは絶対に守れよ」的な十戒には凄く厳しいが、他はダルダルくらいが良い。
そこをどう決めていくかは常に議論されなければならない。
誰が取り締まるかと言うと、基本的に警察であり、警察の腐敗も徹底的に牽制しなくてはならない。

 

要は「田舎万歳!人間関係大好き!向こう三軒両隣が落ち着く」という価値観が俺には無理であり、「隣は何をする人ぞ」で知ったこっちゃなく、国際都市で言葉も通じねえ代わりに、憲兵みたいなのがうろちょろしているのが最高であり、それは観光地?

 

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「全ての人が何でもありのMMAに取り組んだら、誰がそれぞれの武術を継承するのよ」という話があるが、それをこそAIに任せてしまえば良い。それ面白いな。

現実の人間を投影して、その武術ならではの動きでどこまでできるかシュミレーションしまくる。色々な人が参考にできるだろう。螳螂拳とかね。

逆に八極拳とかをAIのシミュレーションで究極に強くして、「極めるとここまで行くのか」と伝統的な拳法を基本とした動きで、MMAで勝ちまくるとかな。

それいいよ!

なので何でもありのMMA的なものもシュミレーションできるし、伝統的な武術を継承発展させることも、AIならできるだろう。

結局個人個人がどう生きたいかだが、全員がMMAに行ったら古武術がなくなるという心配はない。

ところでそもそも今と昔とでは、今の方が古武術も栄えている。人口も情報も多いから。

 

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地上に於いて身に納め文化を継承していく

天上に向けて身から離し古典を蓄積していく

 

西洋では「遠い理想実現学」が発達しました。

 

日本が通時的でないのは、女が「生きているもの好き」だからである。女は今をイキイキ生きているものが好き。

「遠い理想やロマンを胸に遠い理想も蘇らせれば良いじゃん」と思うが、やはり望遠レンズではなく広角レンズなのだろう。遠いものは生きているとは思えない。

だが一度蘇らせて、蘇ったものが本当に生き物っぽく感じられれば、それも愛することはある。

「死人から射出された〇液を受胎したい」とは思えないよねw

 

私はしばしば言うが、育ちの良さとは、人や物に牽引され牽制されて出来上がる。

その人や物が所謂上品なものだと「育ちが良い」とされるのだろうが、俺としてはヤンキー系も育ちが良く思える。

所謂上品なものでなくても牽引牽制してくれる人や物に囲まれているからだ。

私はこれによって「育ち良くあれ」と言いたいのではない。

焼け野原の眺望こそ、無手勝流でイメージできる最高のキャンヴァスであり、白地に一滴の深紅が落ちれば、その輝きは掛け替えのないものとなる。

「それしか見えない。もうぶるるん!」と恥も外聞もなく駆けておしまいなさい!

「葉隠」は、一面謙譲の美徳をほめそやしながら、一面人間のエネルギーが、エネルギー自体の法則に従って、大きな行動を成就するところに着目した。エネルギーには行き過ぎということはあり得ない。獅子が疾走していくときに、獅子の足下に荒野はたちまち過ぎ去って、獅子はあるいは追っていた獲物をも通り過ぎて、荒野のかなたへ走り出してしまうかもしれない。なぜならば彼が獅子だからだ。

三島由紀夫『葉隠入門』

 

どのような人間が威張るのだろうか?

「富て驕らず」の教えを貫くと、威張り散らしてえ奴が金持ちを目指さないから社会を停滞させる可能性はある。

結局「小金持ちが一杯」か「兆大金持ちが少数か」。

うぜえから後者で良い。そして小金持ちの利便性などAIで代用すれば良いと思ってしまう。後者も置き換えられるだろうが、別にそれならそれで良いじゃん。

いや、別に威張る奴が嫌いと言うわけでもないんですけどねw

ただ威張る奴は「神=無限」を蔑ろにして、「自分を絶対=悪魔」として振舞ってくるから、やはりキリスト教徒としては懲らしめる必要がある?

ただキリスト教も「神々≒悪魔」を利用してのし上がっているので、まあ、そこそこですわw

「キリスト教の言う天使のなんと悪魔に似たることよ」バタイユ

 

メディアリテラシーがない人はどうすれば良いんですか?

メディアリテラシーがある人が得して、私たちは損しちゃうのでは?そんなのイヤだから、神に一網打尽にしてもらいたい。それで皆を幸せにしてほしい。

「その願い叶えて進ぜよう」

人間の頑張りたくない欲望って凄いですから。

 

近くのスーパーで売っている「アジの南蛮漬け」がなかなかです。
自分で作るのは手間なのでこれからも買おうと思います。
昔「ポテサラじじい」と言う妖怪がいたが、先ず自分で作ってみろって。
「知ったこっちゃない精神で、仕事だけに邁進するオヤジ」が多い方が回りまわって社会にとってプラスなのだという意見もあるが、知らぬ。軍人のように身の回りのことは自分で出来るようになれ。
「身の回りのことを全部自分で出来ちゃったら家政婦はどうすんのよ?家から電気ガス水道からブタから何から自作すんのか?」と。
良いんじゃない?そこはいつものディストピア。
 

「社会社会っていうけど、そんなに社会の仕組や成り行きにお詳しいのですか?」

「詳しくは無いけど、ある程度安定する方向を示していきたいと思います」

「まあ、ただどうなるか分かりませんから我儘言ってりゃ良いような気もしてきました。神の見えざる手で調整してくれませんかね?」

やっぱりここでもフルダイヴ式VRが求められる。それしか勝たん?

 

俺もお前らを点に見ているのだから、お前らが俺を点に見るのも当然のことだ。

そこには何の不当さもない。

 

野蛮さを維持するためには知性が必要である。放っておけば人は皆、常識化するからである。

 

一神教というのは一神教というだけあって、統一を求めるのだが、その統一というのは「無限の多様性」を前提にしており、無限の多様性の中で人は生きていけないので、「多様性に対処する処方箋」を培ってきた宗教とも言える。

 

「ナチスはキリスト教の戯画」と言うのはよく言われることで、俺もそう思う。これは特に東方にありがちな傾向で、「ある特定の価値観を超越する神」を想定するは良いが、超越存在を現実に求めてしまうから、独裁者が生まれる。無論、独裁者は現実存在なので「特定の偏り」を持っている。神ではない。

これもクラシックの大指揮者が生まれるのと同じ理由(?)で、確かにすげえのだが、神ではない。神ではないが「人間の分際にしては王様的才能はある」わけだ。なのでまさに芸術領域に於ける指揮者には向いている。だが神ではない。「ある特定の価値観を統御する存在」としては良い。

無論「現実を理想化しよう」という試みこそが高速道路を生んだり、ベンツを生んだり、化学肥料を生んだり、色々と有難いのだが、それにしても「現実=理想」ではない。「現実存在=神」ではない。まあ、そのくらいの勢いがある方が色々と産んでくれるんでしょうけどね。

 

そうは言っても、人と言う存在は環境の積み重ねによって出現したのであるが、ニュートラルを想定した場合、それ以外になりたくない欲望がある。俺にはある。身に着けるのではなく、外置きするのだ。身に着けないために頑張る。何としても外置きしなくてはならない。

逆に「いや、そうは言っても汚染されていますよ」と言われるだろうが、「その通り。でもあなたも身に着けられていませんよ」と返す。完璧に外置することも、完璧に内蔵することも共に不可能なのだ。

外置きとは何だろうか?ユーモアセンス、自分を客観視する、価値観を相対化するあたりだろうか。

 

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ニーチェやDHロレンスが言っているように「日輪と共に始めよ。全ては随って起こるであろう」ってやつで、キリスト教は「ユダヤ的神とヨーロッパの文化の混交」とも言われる。あるいは「砂漠の宗教が森の宗教を利用した」とも言われる。

私からすれば「女に性転換手術を施した宗教」である。

ヨーロッパでは天空神が地母神を殺して主導権を得ている。そう考えると、ヨーロッパにキリスト教が広まったのも、キリスト教以前にその型が出来ており、そこにすっぽりハマったとも見える。歴史は繰り返す?

 

ロレンスはニーチェのように自然を憎むユダヤ=キリスト的感覚が人間の本能を蝕んでいると指摘している。まことにその通りで、放っておくとキリスト教は弱者のルサンチマンに成り下がる。いや、本来確かにそういうものなのかも知れぬ。自然の生理を否定し、人工的な人間像を作り上げる。その人間像は美しもあるが、実は弱者の嫉妬、不健康を素材にして作られたものだと。

「そうでもあろうね」と私はあっけらかんと答える。ところでギリシャ彫刻も人工的な美である。幾何学も自然と対立的に思える(いや対立的でなくても良いんですけどね)。

しかし私から言わせれば、キリスト教もギリシャ彫刻も幾何学も、男の生理が生んだものであり、男も自然の一部とも言えるのだから「別に自然じゃん」と言う話なのだ。

ユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教は「憎悪の宗教、復讐の宗教」と言われることもある。「そうでもあろうね」と私はあっけらかんと答える。ただそんな復讐の宗教がそんなに世界に広まっているのは何故か?人類が生来的に生理的に「復讐的」だからではないか?そこまで合わないものを人は受け付けない。本能的に欲する何かだから受け入れるとも見える。

 

実際、人は皆弱者であり、弱者ならではの不健全さから、傲慢に鉄槌を食らわせたいと思っている。

それは人ひとりを取ってもそうで、理想だけが先走っても現実が追い付かなかったり、頑張り過ぎると体に祟りポキっといってしまうようなものである。この場合「理想や頑張りが強者であり、追い付かず祟る方が弱者」である。

実際に古代宗教の神々と言うのは、その辺を弁えず滅んでいったと言える。最初は勢いよく登場するのだが、やがて何らかの理由で潰えてしまう。何らかの理由とは結局のところ「人類の、あるいは自らの弱者性を顧みなかった」ことかも知れない。

 

キリスト教にせよイスラム教にせよ、世界的に宗教に伸し上がった宗教は「恨みつらみ嫉み≒弱者≒人間は皆弱くて汚い」を認めて、原動力に出来たからこそ、サステイナブルに蔓延ったのかもしれない。

ちなみに「頑張りたい」という意識も誰にでもあり、美輪明宏が「強い男なんて架空の生物、龍やグリフォンと同じ」と言っていたように「男は頑張って理想を追求しないと生きていけない弱さ」も持っている。

事程左様に人間は色々な意味で弱い。その色々な弱さを認めて、エネルギーにできたから世界宗教になれたのだ。

 

で、まあ、キリスト教は西洋に広まった宗教なので、男性的であり、男の弱さには事程左様に色々と寛容なのであるが、女の弱さには寛容ではない。寛容ではない代わりに「男にしてあげようとする」わけだ。そこに痺れる憧れるで、これに比べるとイスラム教は「女をかくまってあげている」感じで、あのヴェールはドライな気候から女の柔肌を守ってあげているのだ。キリスト教はそのヴェールを引き裂き、「てめえ慣れろ。男になれば一発だ」と容赦がない。そこに痺れる憧れるで、キリスト教会というのはのほほんと見えるが、外科室であり、古代の女神たちの死体が埋まっている。人造人間ならぬ人造女神を作る場所だったんですね。実際によく教会から骨が出てきて問題になっている。原住民を浚ってレ〇〇して殺してるんですよね。民だけでなく「原住神」にも同じことをしています。

 

「キリスト教がそういう宗教であることをバラすのは良くない」という文化防衛本能がハイデガーを無視させているのかも知れない。

でもそれだけではなく、それを自覚しない方が爆発力があるんだよね。男が「男は弱い」なんて自覚しちゃったら、強さへの階段を大きく上がってしまう。「強さへの第一歩は自分の弱さを自覚すること」とも言うからな。

でもそれを自覚することで、また強くなるのも事実で、強さの希求も「人類の本能≒弱さ」であり、「ニーチェやロレンスはキリスト教の聖人として列聖されるかもしれぬのである(福田恆存)」って感じよ。

そう考えると、ハイデガーがヨーロッパより日本で広まっているのも「キリスト教がアジアの神々にも習おう=攫おう=糧にしよう」という本能なのかもしれない。

 

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ガスコイン神父とマルキ・ド・サド

三島由紀夫が言っている通り「キリスト教の自然ほど自然から乖離したものはない」。

それは弱者の嫉妬であろうか?

あるいは強さへの渇望であろうか?

 

そもそも不定形な素材を特定の型にはめ込んだり、

色々な方向に飛び出していきたい本能を特定の理念の元に束縛すれば、

そこに葛藤軋轢対立が生まれて当然である。

サディズムなりキリスト教はその葛藤を楽しみたいという戦闘欲求なのかもしれない。

人間という場所は天使と悪魔が戦う劇場。

 

環境主義で生活を「彩る」ことも

キリスト教的世界観で世界に意味を与えて人々をニヒリズムから救出することに似ている。

実際、環境主義って24時間体制で楽しめるからなw

ヒップホップ?!

 

日本人や日本社会は複雑系で生きており、企業もそれを織り込んでビジネスをしているのに、戦争になると参謀が弱いんですね。

生の現実に触れている時は柔軟でも、一度抽象的な場に行くと生の現実を織り込めない感じですかね。ドイツの場合はロマン派のように音楽的に抽象しても、かなり柔軟ですよね。

禅などは抽象的理論と言うより、「生の現実を体験しろ」という感じですものね。

日本の生と抽象的理論の関係って、自分は勝手気ままに生きていた女が、一度母親になると子供に無理な束縛をすることに似ていませんか?

「理論化する、作戦に落とし込む」って、変数を前提としながら、目的と守るべきポイントは守ると言うことにあると思いますね。

変数を前提として、「ここは絶対に固定が良い。ここはまあまあ変わって良い。ここは緩くて良い」と決めポイントとゆるポイントを分けることでもあると思いますね。

変数の扱い、変数の固定性と柔軟性でバランスを取ること。

生の現実から離れて理論化・作戦化しても、生の現実の生々しさを忘れないこと。

 

 

私は「かな書」が大好きで、日本文化の何たるかを示して余りあるとも思うが、

「書」ということで言うと、日本と中国の書の差は「イギリスと欧州大陸のクラシック音楽の差」に似ている。

無論、中国と欧州大陸が圧倒的な本場だ。歴史上、日本の楷書に碌なものはない。

反論があるなら見せてくれ。見たいし。

 

私はユーモアが大好きだが、ユーモアのいけないところは「開き直る」ところである。センチメンタルに小さく「あいつよりマシだ」とウジウジしている心性こそが道徳の根本なのであって、「それを否定してしまっては社会など持たない」と言う意見もある。

例えばイギリスはユーモアの国でもあり、近代スポーツ発祥の国でもあるが「結局、極悪非道な聞かん坊じゃん」という意見がある。「スポーツや芸術でカタルシスを得ても、結局どこかで現実に於いて爆発するんだ」と。そうでもあろうね。

 

神は人間を愛する。

神は人間が不完全であることを知っている。

神は不完全な人間を愛している。

その神の意志(我々は不完全だけど、神はそんな我々を愛してくれている)を教会は信者に伝える

信者はこの神の愛を理解し、自分自身と他者の不完全性を受け入れ、愛し合いながら生きることを目指す。

 

そもそも敬うなら神を敬わなければならないものを「先輩」などと言う無限に存在する有限なる存在を絶対(?)と見做し、異なる意見を敬わない時点で高が知れた道徳観よ。

 

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「ただで済むと思うなよ」とは「しがらみの中で生きずに済むともうなよ=しがらみの中で束縛されろ!」という意味でもあるが、そこはビッグテックと軍事力で何とか打開しなければならない。

 

アメリカは日本やロシア(的なるもの)を恐れており、日本を「本の引っ繰り返し」という作業に終始させておきたい。

これはアメリカのイギリス的面より、大陸的な面から来ていると私は勘繰っている。

それは民主党に強めだが、共和党に無いわけでもない。

その根本は現実的には「ノルマンコンクエストに遡る」と私は思っている。

英語圏はどこかで「ウィリアム一世的な魔法戦士をインストールしないとヤバい」本能が働いている。

だが一度ウィリアム一世を受胎すると、ウィリアム一世が「古女房」になり、新たな女房の出現を恐れ始める。

西洋はコスモスを志向しながら、教会の天辺に十字架を刺したり、どこかでカオスを流入させる本能がある。

受胎させるにあたり、女の体内で徹底抗戦が行われるように「ウィリアム一世=新女房候補」は徹底的に淘汰される。

 

で、受胎させるにあたり、北風と太陽で「日本は怖くないですよ=太陽」と説得する方法もあるし、「いや確かに怖いよw=北風」と〇〇プする方法があり、私は後者で良いと思っている。

「何を仕出かすか分からない」ではなく「何が起こるか分からない」のだから、「どうせだったら〇〇pe me」という戦略である。

 

偉大な国は「北風と太陽を両方とも経験する義務」があり、イングランドもノルマンコンクエストされたくてされたわけではないだろうが、いや、されたかったのである。

 

「近代以降アングロサクソンに戦争を仕掛けたものは必ず敗れる。そのアングロサクソンを破ったウィリアム一世からイギリスの近代史は始まる」福田恆存『私の英國史』

 

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「白人が自分達の後ろめたさを解消するために、アジア人に罪を擦り付ける」。これも男という存在の弱さを象徴している。「綺麗でいたい」のだ。ワタシキレイの男版だね。

無論過去に向き合ったり、ヘラヘラできる奴もいるが、ピューリタン的感覚も男にはあり、その弱者性が社会規模では、こう現れる。

 

「砂の上にわが恋人の名をかけば波のよせきてかげもとどめず」

浜辺にラブレターを書いたのは100年前の落合直文だが、100年前に書いたのならば、1000年前にも書かれているはずで、遡れば文字を得て直ぐのことだろう。

我は海の子白浪の。

 

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フランスのお家芸は「涜神(とくしん)=神を穢すこと」だが、神はそれ以上の存在であり、いくら穢しても神は傷つかないし、それは「人間が決めた神の概念を相対化しているだけ」なので、本質的には問題ないが、結局「賛美も冒涜もセンス」の問題である。

 

本質的には、涜神の精神あればこそ「世俗化≒私からすればそれがキリスト教の近代化」できたわけで、人間が勝手に決めた神の概念など一片の多様性の前に葬り去られる。

「無限なる神を、有限なる自分の妄想」に閉じ込める背教者には聖なる鉄槌が下って然るべき。

 

Aさんが神の教えだと思い込んでいるものに対して、Bさんが「俺の神はそんな教えをクソだと言っています」とお伝えすることは、

・神の無限性

・有限なる価値観の多様性

・貶されることなんて当然にあるという心構え

・それでも俺は一個人として「この考え方が好きだ」という信念

・「やっぱりBさんの考え方も良いな」という柔軟性

などを教えることになるので、本質的には涜神とは非常に良いものである。

 

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「欠点のある人や過去に傷ある人には、何も学びたくない」と言うなら、どこの国も虐殺の歴史があるわけで、誰にも学べなくなってしまう。

それに対して「今生きている人に関しては欠点や傷が気になるが、死んだ人なら、それらがあっても学んでも良い」と言うかもしれない。

結局日本の60年主義だね。

学ぶと言うことは、ある意味「遜る」ことであり、死んだ奴になら遜っても良いが、生きている人間に学ぶべき点があっても「素直に学んじゃったら自分のプライドが許さないから学ばないよ」と言う弱い心が根底にあるのかも知れない。「会う人皆先生」の逆であり、そんなの弱者である。

 

私は理系偏差値40で、文系偏差値80なので、文章が論理的でないことはないし、論理は大好きなのだが(論理とは定義の必然的展開)、

「同じことを繰り返し言ったり、文章に無駄が多い」とよく言われる。 しかしそこにこそ我が真骨頂が現れている。同じような言葉でも微妙に違い、それを表現せずにいることに我慢できないのだ。

そんな文章を10年も20年も書き続けると、そのニュアンスの違いが大きく花開いていく。

しかも無駄だというが、本当に無駄かわからないし、無駄のない文章を書く人が実は無駄なことを書いていたり、重要なことを取りこぼしていたりすることはよくあるだろう。

 

学力とは、

1,冷静に切った貼ったできる能力であり、

2,それを自分に適用する能力=「そんなのモンタージュに過ぎない」と批判されても「頑張って消化します」と。

いや「学力とは」と言うより、学が無い人間は、その作法を冷静に進める力が弱いような気がする。

 

人は繋がっており、誰かをナメたらチクられる。「あの人がこんな風に私を馬鹿にしました」ってな。それに対して、そんなに油断も隙も無い世の中なら「誰をナメたら良いの?私のナメたい欲をどう解消してくれるの?」と来る。

「命懸けでナメろ」と言いたい。誰もナメてはならぬの裏返しだ。

 

平時は戦争反対と叫べば、反戦の心に酔い痴れ、反戦仲間を広げられる。これはこれで一つの生き方だ。

いざミサイルが飛んで来たら「やっぱりやり返して!」と叫ぶ。

結局「平時は反戦を叫んでも、戦時にも対応できるのだから、それで良いじゃん」という意見。 

問題なのは、反戦の度が過ぎて、本当に戦時対応できなくなることである。

サヨクとしては戦時対応要員を生かさず殺さずにしておくことがミソで、

「平時の酔い痴れ+戦時対応」を可能にするには、何だかんだで本当は戦争できる国にしておきたいのである。(意識的に狙ったのでは「酔い痴れる」ことができないので、戦時対応要員を生かして置くくらいにするのは少数の指揮者のような人がいれば良いのかも知れない)

 

日本の場合、大和朝廷成立と大和朝廷による日本統一が、そこまで和を以て貴しとなされたかは分からないが、外国よりは穏便な気がするw まあ、建国神話などそんなものだろうが、何をどのように正当化・正統化するかに国柄が出るのだろう。

キリスト教が天賦人権説かと問われれば、具体的な内容は言ってないものの、明らかに天賦人権説である。国より先に神があり、神は有限なるものの尊厳も守るからである。神に具体的な力はないので、国家を教導する必要がある。

欧州大陸の長所も短所も「大陸法的・最初に設計する」感覚であり、グローバル企業もそれである。王様も神でないから処刑され得なければならないが、王様的感覚である。 あるゲーム世界を作るようなもので、人間の定義はゲームごとに異なるが、そのゲームでは決まっている。変化しても良いが。

大陸の場合、価値観の統一が為されにくいので、「フィクション=このゲーム=特定のルールに参加しろ」と収めていく必要がある。

結局アメリカからグローバル企業が出るのは、島国的な現実感覚と大陸的な制度設計感覚のある人間が排出されるからだと思っている。

現実を生々しく想像しているとコスパが悪い。 一方で固定的に見ると例外を想定できない。

まさに「X=エックス=未知数」という塩梅。

グローバル企業を作るのが白人男性ばかりなのは、アルファベット脳だからだろう。

ちなみにフランス革命について私は全然知らない。バークは読んだが。思うところが多々あるはずだ。

結局「伝統や常識や流れなどクソ」という超時空的感覚か。バークが批判する所であるが、そこが魅力でもあり、文化的遺伝子は世界にバラまかれる。

結局「古典vs伝統」という構図。

フランス革命で虐殺が多いのもキリスト教が色々な神様を虐殺したことと符合するのかも知れない。カルトを禁止する力も、フランスでは強いし。

プロテスタント的な「それはそれで認める=自治権を認める」ではなく、一旦フラットにして、その上で「個人を直接支配する」。

英米の虐殺数は中国よりは少ないが、フランスよりは多いだろう。知らんけど。

だが同胞を殺すという観点を取ると、さすがに左翼が圧倒的で、これは大昔からそうだろう。

「異なる存在」を許せないヒステリズムがある。

「私は私、人は人」と言うより、「他者も内包してしまう」心性が虐殺に繋がると予想する。太古の昔より「対他的なスポーティーな戦争は男神の役割」だが「内部への虐殺は女神の役割(間引き?)」。

女は精子を殺しまくる。「内部に気に喰わない存在」があることを身の毛がよだつほど嫌うのだが、その存在をゼロにできないので、どこかでヒステリズムを爆発させて、バランスを取る必要があるのだろう。

「ナチスはカトリックの戯画である」という意見もあり、私もそう思う。
近代国家というのはカトリックのバリエーションであり、さらにビッグテックがそうである。
「戯画と本物は違う」けれど。
宗教改革と対抗宗教改革ではないが、どちらもポンコツでも、進化(?)していく。

 

ドイツ人ってのは、定期的にゲロを吐かないと生きられない民族で、ドイツはローマ的洗練を受けていない分、「原始の吸い上げ」が強い。ドイツ語を話していると、何かを掬う時に、川底の泥も浚ってしまう。それをたまに吐き出すわけだ。

「おじさんの詰め合わせ」的な汚いイメージが実は常に脳内に巣くっている。

ドイツ人の目は恨みを持った目だ。

それはローマ的洗練へ上昇する時に、切り落とされるものへの未練だ。

その堆積が黒い森を形成し、時に芸術に昇華され、時に嘔吐物になる。

洗練された上澄みを提示するだけの「ローマ諸国」への憧憬と軽蔑だ。

実際ゲーテも含めて、ドイツ人はイタリアへのどうしようもない憧憬と悲恋がある。

泣いている。

ドイツが古代ローマをスルーして、古代ギリシャの復権を歌った時、横目に見たイタリアは暗く輝いていた。

 

昔、友人が「目を瞑っても見える幽霊」というのを発明し、「そんなの発明しちゃダメだよ。パンドラ開けたな」と諫めたものだが、武術の心構えでも「お前が妄想していれば常に敵はそこにいる」というのがあって、トラウマ系も同じことだろう。

逆に「目を瞑っても見える幽霊」という存在を明確にプレゼンすることによって、「トラウマというのはそういうことだよ」と意識できて、トラウマ改善に役立つ可能性もあるかも。

 

近代は情報と交通が圧倒的に発達した時代であり、他者との接触が激しい。異質性前提でのコミュニケーション能力が求められる。 日本は島国であり、それが幻想であろうが事実であろうが同一性前提であった。「人と触れ合う」と言った場合、あたかも自分が未知の人と話せる能力アリと錯覚するかもしれないが、多くの場合「似た人」と話していただけである。

ところが価値観も多様化したところで、異質性が確かになると、異質なものとコミュニケーションできる能力に欠けていることに気付かざるを得ない。そこに現代のSNSがあるから「仲間内で引き籠れる」わけだ。元より「仲間以外は皆風景」という田舎根性が強い日本だけに、近代を今更目の当たりにし、技術もあれば「仲間だけ」に引き籠るのは明らかだった。

ただそもそもさらに技術が発達して、「一人自己完結的な生活が面白くなれば=一人に一つの完全没入型VRがあれば」、仲間すら要らなくなるだろうが。