神学「悪も他も自分の内にある、ピューリタン、カトリック、ヒステリズム、グローバリズム」 | まあのブログ

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神は「全有」でもあるから全ての善悪を抱えている(神からすれば悪ではないが)。ところで一人一人は自分の奉ずる価値観を持っており、その善に従って(いるつもりで)生きていたりする。

「他の人から見れば私も悪ですよね」と言っておきながら、自己完結的な傾向が強い(プロテスタント的な自閉主義=福田恆存はプロテスタントの悪い所は「自分が神様になってしまうところ」と言っていた)。要は「他の価値観を認める力が強くても、他の価値観が自分に流入する度合が弱い=他者と血管が繋がっていない」。世界がカオスであることを認めはするが、「自分がカオスである」ことを実感する度合が実は弱いのだ。やはりこの点島国であり日本と似ている。「世界全体として色々な価値観があり、他から見れば私も悪である」と言うことは認めるが、「自分も自分以外である=自分の中に悪がある」と実感する度合が弱い。

 

万物が神を分有するとして、神の中に無限の価値観があるなら、一人一人の中に「悪も確実にある」はずなのだが、「私はパーツ。全体として色々な価値観があるのは分かるよ」という傾向が強い。これに対して「一人一人の中に善も悪もある。自分が嫌うものも自分に内在してしまっている」という意識が低いと言うことだ。

 

プルーストの『失われた時を求めて』の要約として紅茶を飲んで終わると言うイギリスの喜劇があった。他にも英語圏の他者に対する扱いは「ぞんざい、丁寧でない、粗雑」であることが多い。「存在することは認めるけど、はいはいそうなんだね」程度の認識で切って捨ててしまう。

 

お前の価値観に対する物凄い批判があったとして、それを真面目に聞かず、適当にいなすことによって、「わかったわかったと認める」ことはあっても、「真に受けることはない=血管を繋げてしまうことはない」。

 

逆にその適当さ、軽さがあればこそ「そう言う意見もあるにはあるんでしょ」と認めることには繋がる。それがユーモアにもなる。「実は自閉的。本当は真に受けていない。ささっと離れていく姿勢」がユーモアを保証している(日本も島国で他者と距離があればこそ「他者を尊重する心が育まれた」とも言われる。それと似ている)。真に受けてしまうと、適当に流せず「なんだこの野郎!」と喧嘩になってしまう。結果的に傷を受け、他者性を余計に認めることになるか、逆に「そんなものは俺の中には無い」と潔癖になる可能性もある(潔癖や過敏というのは「他者を真に受ける」ことから来ているはずだ)。

 

ただ他者を軽く扱えると「一人一人がある意味伸び伸びと私は私と自閉できる=真に受けてガチで潰し合うことから免れる」ので、結果的に多様性が生まれる傾向もあるかも知れない。

圧倒的な多様性が生まれてしまえば、「自閉的で他者を軽く扱う」と言っても、さすがに繋がりを意識してしまう局面も多くなる。島国的自閉が一皮むける瞬間だろうか。

 

「日本は島国で侵略を受けなかった」「他者に対してあまり介入せず一人一人が自閉的」だからこそ、他者をリスペクトする姿勢が育まれたと言う意見もある。

これが常に間近にあると軋轢も生まれやすく、アレルギー(蓄積量で問題化する)を発症して、他者に過敏になる。

 

アンドレ・ジッドが「我々フランス人は悲しい人種だ。美しいビーチでバカンスを楽しんでいても、どこか思い悩んでいる」と言っていた。

「他者性の流入、自分に内在する悪の実感」が強いわけだ。

逆にそこまで他者を流入させた上で、ユーモアを発揮する時、本当に深い優しさと笑顔が生まれる。

その具体例はアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真、油絵の明るいやつ(深刻なものも好きだけど、ここではユーモアとか笑顔なので明るいということで。マティスでもモネでもピカソでもシャガールでも良いけど)。

ブレッソンの写真は決定的瞬間と言うより「相対的瞬間」である。「砂浜でズキューンキスしている二人」をクローズアップで撮るのではなく、その他の平和な風景、笑っている人々も同時に写っているが、とても優しい。

 

アンドレ・ジッドだと思うんですけど、「イギリス人って言うのはブラックユーモアとか善悪の相対性を言いながらも、心の底では、自分なりの正義を自然に信じている明るい奴等だ」

「それに対して、我々フランス人っていうのは独善的だの押し付けがましいだの言われながら、美しい海辺の観光地で素晴らしい一日を過ごしていても、心の底で、喜び切ることができない悲しい人種だ」っていう風に言ってたんですよ。 これがフランスかなって言う。絶えず「他者」を抱えている。

 

【形而上的社会性】≒観念論
メリット:絶えず自分も間違いにされされる。大陸なりに「他者」を意識する。
デメリット:押し付けがましい。結果的に独善的。
【形而下的個人性】≒経験論
メリット:控え目。私は私、君は君。島国なりに「他者」を意識する。
デメリット:自閉的。本質的に独善的。

・イギリスは島国で、アングロサクソンは本質的に近代的性質を持っている。
・「善悪は相対的である」ということを本能的に知っている民族だ。
・しかし、大陸もやがて近代を迎え、真善美が相対化される。

・真善美の数が「個人の数」とイコールになった場合、違いはあるか。
・その真善美が「形而上的か、形而下的か」という違いがあり、
 本質的には、上に書いた傾向が表れる。

・男性的島国は「自分と異なる価値観を持っている人間がいる」と知っているが、
 自らの「本質」に「間違い」が入ってくることはない(まあ、一つのレトリックだけど)。
・大陸には男性的島国のようなユーモアセンスはないが、
 自らの「本質」に「間違い」が入っている。

・ユーモアセンスを持ちながら、本質に「他者」が入っているのが良いね。
・男だね。

 

 

【東洋的な倫理は、「そうせねばならない」ではなく、「その理が腹に落ちればそれ以外の在りようができなくなる」という形を取る。 逆に言えば「そうできない」なら「まだわかっていない」ということである】

「なんと非倫理的な態度だろう」と思ってしまう。倫理とは「思慮性≒可能性を考慮し続けること」だからである。「無意識に染みついてこそ常識」じゃないけれど、「自然に手を差し伸べてこそ倫理」と言うのは理解できるが、一方で「手を差し伸べることは本当に良いことだろうか?」と思慮し続ける姿勢は「色々な人や意見を思い遣る姿勢」であり、「自分が間違っているかも知れないなと反省する姿勢」でもあり、それをこそ「良心=自覚⇒ユーモア」と言いたい。

即ち東洋的倫理とは「これ以外ない=絶対主義=子宮主義」という形を取る。「私は私で正しい」と叫ぶ。なるほど、ごもっとも。あなたはあなたで正しい。だが他の正しさもある。

結果的に「自閉している状態=自分」を正しいとするのではなく、「相対性を考慮している状態=神」を正しいとする姿勢こそ倫理的なのだ。

 

小学生中学生の頃は女の方が大人っぽいが、高校生以上になると男の方が大人っぽい。

東洋文明の要諦は「高校生以上にならないこと=男を高校生以上にさせないこと」にある。

「ある特定の価値観を見事に受胎する」ことは女の方が得意だが、単純に言ってそれだとユーモアに欠ける。欠けるだろ?

ある価値観からすると悪とされるものが時間的経過で善になったり、その逆もある。「何がどう影響するのか知れたものでは無い」と言う複雑怪奇な国際情勢を「真」と認め、「それが人生だよね。ははは」と言う余裕とユーモアこそ男の取るべき倫理的態度である。

 

私が「ワタシキレイ」を根底から嫌う限り、私が東洋と相容れることはない。何という違いだろうといつも思う。

女が「危機」を嫌うのは、

「異物が体内に入ることに対する嫌悪感」と

「嫌なものをイメージする時の生々しさ(脳梁を渡らない時)」が原因だろうと思う。

 

しかし近代に入ると「多様性が如実になる」ため、ワタシキレイを相対化する情報に触れ過ぎる。結果的に引き籠るしかないのである。女は引き籠りである。

 

女は大人っぽいが、男の大人っぽさとは

善悪の相対性

空間的には「今この瞬間に色々な価値観を持った人がいる」です。

時間的には「善と思ったことが悪に転換していく(または逆)」です。

即ち「情報と交通が圧倒的になった」ため、「多様性が突き付けられてしまう」。

それは「数」です。

 

「フィードバック能力の違い」です。
女は子宮主義で、一度受精したら、その精子を徹底的に展開することに命を懸ける。「途中で他の精子にします」と言う卵子は無い。
男の場合、色々なものからフィードバックを受けて、軌道修正する。それが浮薄にもなり、柔軟な姿勢にもなる。