需要と供給のあれこれ | 秋山のブログ

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菅原氏が自信をもって否定している論理(①)、「需要を伸ばすことによって供給が伸びる」ということに関して、まず書いてみよう。

 

新古典派経済学の理解をまず書けば、需要不足で財政政策が有効なのは短期的な現象で、成長は総需要とは関係なく供給側の要因によってのみ決定されるというものである。しかしこれは一部の経済学者が主張しているだけ、教科書にそう書いてあるだけで、確固たるエビデンスがあるわけではない。現実を観察し、少し経済学的に考えるだけで、おかしいことが分かることだ。

成長の要素として投資(設備投資)があるが、投資はより多く生産するためにおこなわれることが多いだろう。すなわち、もっと多く消費したいという需要の増大によって引き起こされるものだ。例えば胃袋の限度を超えていて、これ以上作らなくてよいという状況なら、設備投資なんてするわけがない。成長の別の要素である技術の進歩に関しても同じことが言えるだろう。

成長に関して需要がいかに重要かということに関しては、西欧諸国が植民地として技術移転した国と、日本が援助で(もしくは盗まれて)技術移転した国の違いを見ればよく分かる。技術移転により、移転した国の生産性が増大しても、増大した分搾取され国民の収入に反映されなければ、その国における経済は拡大していかない。逆に言えば、途上国を成長させるのは簡単である(②)。技術を移転し、需要を確保するために、そこから搾取せず、その国内で格差(消費率に違いがあるため、収入に偏りがあると需要が縮小する)が拡大するのを防げばいいのである。

 

供給側の要因によってのみ決定されるということの意味は、供給力がフルにいかされた最適な状態になっているということとほぼ同じである。需要不足は、何か偶発的な特別なことが起こらない限りは大きなものは起こらず、普段は景気の循環によって揺らぎのようにわずかに起こるものとされている。もちろんそれを裏付けるエビデンスはない(○○の波はどれもとてもエビデンスとは言えないレベルである)。市場機能が働いて安定的に均衡し、全てが最適な状態になるというのは、19世紀には物理学者も持っていた信仰によるものだ。このような批判をすれば、新古典派経済学者は完全な市場などないこと、経済理論の限界を理解しているなどと反論するかもしれない(③)。しかし主流派経済学者の研究を見てみれば、それは単なる言い訳に過ぎず、大凡成立するものとして扱っている。それでは限界を理解していることにはならないだろう。

最適な状態が標準だと思っているので、平均的な生産要素を投入した時可能なGDPを安易に潜在GDPとしている(リンク参照)。だからGDPが潜在GDPより高いと計算されても、需要が供給より上回ったとは言えるはずはない(④)。需要と供給の関係を考える上では、失業率で考える方法もあるが、失業率にはワークシェアリングや働く意思の問題など不正確になる要素が存在はするものの、日本の今までの失業率の推移から考えれば、まだ需要は供給に追い付いていないとは言えるだろう。そして追いつくまでは、財政政策はすべき政策である(⑤)。

 

ケインズ以外のマクロ経済政策が実用的でないのも、需要が最適化された状態を前提にしていることにほとんど由来する。水が満タンでないコップを、満タンであると仮定して計算すれば、間違った答えが出ることはむしろ必然だろう。逆に、現代においては、マクロ的には需要が常に足りていないと考えて経済を見れば、ほとんどの点と線が繋がって、すっきりと経済を理解できるだろう。著名な主流派経済学者が謎としている話の多くも、謎ではなくなる。

 

以上、菅原氏の主張で間違いと思われるものに対する説明(番号をふっている)を含めて、新古典派経済学の問題点(需要と供給)について記述してみた。