葛城では、高鴨神社を上鴨社、葛城御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼んでいました。
葛城御歳神社(以下、御歳社)は、鴨都波社から葛城川に沿って上流へ、金剛山の扇状地には稲田が広がり、三歳山と呼ばれる神体山を背後にいただいた御所市東持田に鎮座している。
葛城御歳神社
所在地/奈良県御所市東持田(小字御歳山)
御祭神/御歳神・大歳神・高照姫命
例祭/二月建国記念日(祈年祭)、十月第二月曜日(秋祭り)
本社は葛城の地で奉斎した、三社の一つで俗に中鴨社ともいう。稲の神として古来から名高く、朝廷で行われた年頭の祈年祭には、本社の御祭神を中心にして、豊作祈願がなされた。そのため、仁寿二年(852)には大和国で本社だけが最高の正二位の神位を授かる程篤く尊崇され後に従一位に昇格され延喜の制では名神大社に列した。御歳神社大年神社の総社である。
【葛城御歳神社社頭案内板】より
御歳社の主祭神は御歳神、相殿に大年神と高照姫命をならび祀る。
延喜式神名帳には、大和国葛上郡十七座(大十二座、小五座)の中に「葛木御歳神社 名神大社、月次、新嘗」とある。
御歳社は「御歳明神」とも呼ばれ、延喜式神名帳では名神大社、旧社格は村社。
三代実録には「貞観八年(866)二月十三日己未、神祇官奏して言はく、大和国の三歳神、旧より神主無く、而して新たに之を置くに、祟りや咎を致す。実に此の由にて、仍ち停めむ」とあり、御歳社には元来神主がいないため神主を置いたところ、神の祟りが生じて、即時取り止めた話を載せている。
新撰姓氏録(815)では、大和国未定雑姓に「三歳祝、大物主神五世孫意富太多根子命の後なり」とあり、御歳社の神職家だろうと考えられるが、三歳祝の職掌が一時的なものだったのか、三代実録との関連は分からない。
主祭神である御歳神は、古事記に「(大年神の)香用比賣を娶して生める子は、大香山戸臣神、次に御歳神」とあるように、大年神の子神であり、大年神は「(速須佐之男命の)大山津見神の女、名は神大市比賣を娶して生める子は、大年神、次に宇迦之御魂神」とあるので、御歳神は素戔嗚尊の孫にあたる。
御歳神に関しては古語拾遺に以下の説話を記載している。
昔在神代に、大地主神、田を営る日に、牛の宍を以て田人に食はしめき。時に、御歳神の子、其の田に至りて、饗に唾きて還り、状を以て父に告しき。御歳神怒を発して、蝗を以て其の田に放ちき。苗の葉忽に枯れ損はれて篠竹に似たり。是に、大地主神、片巫(志止々鳥)、肱巫(今の俗の竃輪及米占なり)をして其の由を占ひ求めしむるに、「御歳神祟を為す。白猪・白馬・白鶏を献りて、其の怒を解くべし」とまをしき。教に依りて謝み奉る。
【古語拾遺】斎部広成(807)より
神代の昔、大地主神が田を作る時に、贄にした牛の肉を田人に食わせたところ、それを見た御歳神の子は、牛の饗物に唾を吐き、その有様を御歳神に告げる。
御歳神は怒って、その田にイナゴを放すと、苗の葉はことごとく枯れて篠竹のようになってしまった。
大地主神がその訳を占ったところ、御歳神の祟りだと判明し、白猪・白馬・白鶏を献上して、神の怒りを宥めようとします。
延喜式祈年祭祝詞には「御年皇神の前に白猪白馬白鶏種々の色物を備へ奉りて」との一節があり、それはこの御歳神の故事に因むものである。
御歳社は、祈年祭の主祭神として、毎年朝廷から白鶏・白猪・白馬を贈られていました。
この説話は稲作に対する物語であり、御歳神が穀物を司る神、年穀すなわち稲の神であり、田の神でもあると分かる。
また、苗が枯れて篠竹みたいになったことについて、高鴨社の別名を「捨篠社」と呼ぶことに関連があるのではとの指摘もあります。
仮に関係があるとなれば、御歳神の祟りが生じたのは、この葛城が舞台だったのかもしれない。
大地主は「おほなぬし」と訓むと思われ、このことは大己貴神や大国主神の語義が、元々は広大な土地の支配者から生じていると想像できる。
大国主神は、素戔嗚尊の子神もしくは子孫とされるので、御歳神とは親戚筋である。
つまり御歳社は、葛城にある出雲神を祀る神社の一つであり、葛城が古くは出雲文化の影響下にあったことの一つの傍証であるとも言える。
しかしながら、大国主神ではなく大地主神という表現は、出雲神話が成立する以前、もしくは大和に出雲文化が浸透する以前に成立した、とても古い表現なのではないかとも感じるのである。
ところで、御歳神に大年神が配祀されているのは分かるが、同じく配祀神の「高照姫命」に関してはどうしてだろうか。
高照姫命は記紀に見えない神名だが、旧事紀は「高照光姫」を大国主神の子神、事代主神の妹神として「高照光姫大神命、倭国葛上郡御歳神社に坐す」と記している。
また、海部氏勘注系図には「天道日女命は亦名屋乎止女命と云ふ。大己貴神多岐津姫命、亦名神屋多底姫命を娶りて、屋乎止女命、亦名高光日女命を生みます」とあり、天火明命の妃である「天道日女命」の別名に「高光日女」と書かれてある。
古事記に「大国主神、神屋楯比賣命を娶して生める子は、事代主神」とあるのを鑑みると、高光日女とは高照姫命を指していると考えて差し支えないないだろう。
天道日女命については、海部氏の勘注系図の他、丹後風土記残欠にその名が見える。
往古、豊宇気大神天降り、当国の伊去奈子嶽に坐します時、天道日女命ら大神に五穀及び桑蚕等の種を請ひ求め、便ち其の嶽に真名井を掘り、其の水を濯ぎ、以って水田陸田を定め、悉くに植えむ。
【丹後国風土記残欠】大聖院権大僧都智海写(1488)より
天道日女命もまた記紀には見えない神だが、丹後風土記残欠では天道日女命が稲作を行ったと伝えており、御歳神が穀物を司る神とされていることによく似ている。
そして、この天道日女命とは、旧事紀に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天道日女命を妃と為て天上に天香語山命を誕生ます」と記され、天火明命との間に天香語山命を生んでいる。
言うまでもないが、天香語山命を祖神とする尾張氏と、大国主神を祖神とする賀茂氏とはここに繋がるのである。
つまり高照姫命を祀る「中鴨社」は、上鴨社の祭神味鉏高彦根神、下鴨社の祭神事代主神とは兄妹関係にあるだけでなく、共に大国主神の子神という点で、賀茂氏や尾張氏にとって共通の祖神を祀る社なのである。
そして、大和に出雲神話が流入したのは、神武東征以前、大国主神の勢力拡大に伴って、天道日女命や天香語山命らに導かれた賀茂氏や尾張氏の先祖達が担ったのかもしれない。