太田々根子命が発見されたのは、日本紀に「即ち茅渟県の陶邑に大田田根子を得て貢る」と記されています。
かつて大阪湾の古称を「茅渟の海」と言い、今の大阪府南部の沿岸地帯を「茅渟」と呼んでいたようです。
南の方より廻り幸でましし時、血沼海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。故、血沼(ちぬ)の海とは謂ふなり。
【古事記】太安万侶(712)より
大阪府和泉市の府中遺跡からは約四千年前の縄文土器が出土しており、茅渟の地には神武東征があった遥か以前の昔より人々が生活を営んでいました。
大神神社の社記には「大田々禰古命、今の和泉國大鳥郡上神村、只の神村、亦は陶荒田村とも云う」とあり、陶邑とは現在の「大阪府堺市中区上之」のあたりとされています。
上記の記述を信じるならば、地名の「上之(うえの)」は、かつては「上のかみ村」もしくは単に「かみ村」と訓んだらしい。
当地は、多数のため池やのどかな農地が広がる丘陵地帯であり、南隣の丘陵地に開発された「泉北ニュータウン」とは全く様相が異なるため、泉北ニュータウン内にある「泉ヶ丘駅」から向かうと、環境の差異に驚くことになる。
さて、この地には「陶荒田神社(以下、陶荒田社)」という式内社が存在している。
陶荒田神社
所在地/大阪府堺市中区上之
御祭神/高魂命・劔根命・八重事代主命・菅原道眞公
例祭/十月十日
当社の由緒によると、第十代崇神天皇の七年に、素盞嗚尊十世の孫、太田田根子がこの陶邑に社を建てたと伝えられています。主祭神の高魂命(たかみむすびのみこと)五世の孫剱根命の子孫にあたる荒田直が当社の祭祀を行っていたため、地名の陶と人名の荒田をとって陶荒田と名づけられました。
【陶荒田神社社頭案内板】より
延喜式神名帳には和泉国大鳥郡二十四座(大一座、小二十三座)のうち「陶荒田神社二座」とある。
現在の祭神は「高魂命・劔根命・八重事代主命・菅原道眞公」。
陶荒田社は「陶器大宮」又は「陶器夷」とも呼ばれ、社叢の森を「太田の森」と呼び、旧社格は郷社。
尚、明治四十一年(1908)大阪府堺市中区福田に鎮座していた同じく大鳥郡の式内社「火雷神社」を当社に合祀している。
山城国乙訓や大和国葛城と同じく、ここでも賀茂氏と火雷神との関係性が注目できる。
社名の「陶荒田」は陶邑に居住していた「荒田直」に因んで名付けられたと考えられる。
荒田直は「新撰姓氏録」和泉国天神に「荒田直、高魂命五世孫劔根命之後也」と記され、陶荒田神二座とは、社伝によれば荒田直の祖神である「高魂命・劔根命」のことらしい。
剣根命の子孫ということは、荒田直は元々は葛城国造家の一派だろうか。
しかしながら、活玉依媛の子孫と称する太田々根子命は、玉依彦の子とする剣根命にとって直系の子孫ではない。
このため、陶荒田社と太田々根子命を結びつけようとしてか、「大神分身類社鈔」では「天日方奇日方命・活玉依姫」とし、「神社覈録」では「祭神分明ならず、一座は荒田直祖神か、一座はいまだ考へ得ず。惣国風土記異本には、大己貴神・活玉依姫といふ」とあり、「和泉志」には「一座を以って天神と称す、一座を杵築と称す」と記し、「和泉国式神私考」では「大陶祇命、今陶天神と號す。剣根命、今枳都岐社」と述べて、陶荒田神二座については古来より諸説ある。
尚、かつて奈良の大神神社の例祭と同じく四月九日に「大神大祭」があり、この日には当社宮司の大神社例祭への参列と、御旅所(旧西陶器村辻之)へ早馬五頭を召す神事があったそうだが、この御旅所は枳築神社の跡地と伝えるので、もしかするとこの枳築社は太田々根子命の旧跡だったかもしれない。
古事記では、太田々根子を「河内の美努村」に得たと書かれているのは、大阪府八尾市に鎮座する御野県主神社あたりとの説もあるが、「和泉国」は天平宝字元年(757)、河内国から大鳥・和泉・日根の三郡が分離して出来たため、崇神朝には「陶邑」がまだ河内国だったためだろう。
陶邑の名称は、この地で須恵器を生産していたことに由来すると考えられ、陶荒田社鎮座地の旧名は「大阪府泉北郡東陶器村大字太田小字上之」であり、現在も周辺地域に「陶器」という地名を見ることができます。
須恵器は、製陶技術を持った渡来人により伝わったもので、それまでは土師器という素焼きの土器が用いられていました。
渡来人たちは、大阪府堺市にある百舌鳥古墳群を取り巻くように形成された「土師郷」の背後地である「泉北丘陵」を選び、ここで須恵器の独占的な生産が行われ、全国各地の古墳に供給されました。
この地では現在までに五百を超える窯跡が発掘されており、陶邑は須恵器発祥の地であり、日本最古の須恵器生産地だったのである。
しかしながら、当地で須恵器の生産が始まったのは五世紀からであり、崇神朝が紀元前一世紀頃だとすると、当時はまだ陶邑と呼ばれていなかった可能性が高い。
当地では、陶邑成立前の遺物と考えられる流水紋銅鐸や銅鏡が出土しているため、渡来人が移住する以前は無人の荒野だったとは考えにくい。
現在でも当社鎮座地の「上之」の東に隣接して「見野山」という地名が残り、かつては近隣に「見之」の字名も存在し、そもそも須恵器生産を始めて陶邑と呼ばれる前は、当地を「みの」と呼んでいた可能性がある。
だとすれば、古事記の言う通り、崇神朝では「河内国の美努村」が正解だったかもしれない。
ところで、太田々根子命の母である活玉依媛は、記紀に「陶津耳の女なり」とあるが、陶津耳とは陶邑の首長という意味だろうから、これは太田々根子命の故郷が須恵器生産地として有名になったため、誤って伝えられたものだろう。
ここはやはり、日本紀の「武茅渟祇の女なり」という表現の方が、茅渟祇が「茅渟」の首長だったと想像できるうる点で、時代的に相応しいと考える。
しかしながら、武茅渟祇は建角身命のモデルなのか、陶邑もしくは茅渟の地に実在した人物だったのか、それとも他の土地から移住してきたのか、彼らが出雲文化を大和へ持ち込んだのか、疑問は尽きない。