『さむけ』(ロス・マクドナルド作 小笠原豊樹訳 早川書房 文庫本 S51.9.30発行)
ホロヴィッツやクレイヴン、ホリージャクソンなど現代英国ミステリーばかりご縁のある昨今。
ストレートな、外連味のない、そして人間存在の本質的な哀しさ・切なさにふれたくなって
再読しました。リュウ・アーチャーが主人公のロスマクドナルドの一連の探偵小説の中で
ご本人がもっとも愛着を抱いていそうな金字塔的作品「THE CHILL」和訳名「さむけ」。
様々なタイプの女と男が出てきて、それらに対するアーチャーの観察眼がいいです。
孤高だけどけして人間嫌いではないアーチャーとの、一人ひとりとの出会いのシーンがとくにキレイです。
なかでも、最も好きなくだりが、第25章の途中から(文庫本P306~約1ページ分のくだりです)。
あまりに名文なので、抜粋したくなりました。
シーンは、事件にかかわりがあるとみて、過日すでに別々に聞き込みをしていた、2人の老婦人がなんと一緒に連れ立って歩いているのを偶然カフェにいたアーチャーが目撃し、追跡をはじめるシーンです。以下抜粋
わたしはちょっと失礼と言って、二人のあとを追った。二人の婦人は街区の中途で道を横断し、裁判所の敷地を囲んでいる大きな糸蘭の木の下の光と影の模様のなかを、下町のほうへ歩きつづけた。絶えずことばをやりとりしてはいるが、その歩きぶりは見知らぬ者同士のようで、歩調も雰囲気も一致していない。ミセス・デロニーはずっと年上のはずだが、乗馬をやった夫人らしい大股の歩き方だった。ミセス・ホフマンは疲れた足をひきづるようにしている。
わたしは距離をおいて道の反対側の歩道を歩き、二人の婦人を追跡した。わたしの心臓は烈しく悸っていた。ミセス・デロニーがカリフォルニアへやって来たということは、デロニー殺しとヘレン殺しがつながっているというわたしの信念、そしてミセス・デロニーがそれをしっているはずだというわたしの推理を、裏書きするものではないだろうか。
二人の婦人は二街区歩いて本通りに出ると、出っくわさいた最初のレストランに入っていった。そこは観光客むきの店で、ガラス窓ごしに空いているテーブルがたくさん見える。レストランの筋向いには、入口をあけ放した煙草屋があった。わたしは並んでいるペーパーバック本を物色し、シガレットを一箱買い、旧式のガスライターで火をつけて、三、四本も吸ってから、おもむろに古代ギリシャ哲学の入門書を買った。その本のなかのゼノンについての章を、たったまま読み始めた。老婦人たちの昼食はなかなか終わらない。
「アーチャーは老婦人たちに決して追いつけないだろう」と、わたしは言った。
カウンターの向こうにいた男が耳に手をあてがった。「え、なんだって?」
「いや、独り言です」
「独り言は個人の自由だ。わたしも仕事がすむと、よく独り言をいうよ。この店じゃ、ちょっとまずいけれども」金歯を宝石のように光らせて男は微笑した。
この描写です。
すごいですよね。ゼノンの「アキレスと亀」の定理を出しています。ちなみに、このアキレスと亀の話は、物語の最初のほう、前に一度、アーチャーが行方不明になった娘を探しに大学に聞き込みに訪れた時に、キャンパスで男女の大学生が議論をしているそばを歩いて過ぎたシーンがあります。そこでは、アーチャーは何も語っていません。
なんだか、美しいです。
アーチャーの苦みばしった来し方を凝縮したようなシーンで、多くは語ってませんが、アーチャーのここまでの半生とそれを経た彼の性格が出ているようです。
こういう男だからこそ、他人のどうしようもない性(さが)を、うけとめつつもそれを「裁く」ことなく、抑制された感情のもと、粛々と任務をやりとげるのだなと思います。しかし、彼の心の奥底には一つまた一つと人生の苦味が沈殿していくのでしょう。
近いうちに、私の最も好きなロスマクドナルドのリュウ・アーチャーシリーズの作品『ブルーハンマー』も読み直したいと思います。
『デスチェアの殺人』(上・下) M.W.クレイヴン作 東野さやか訳 ハヤカワ文庫2025.9
文庫本に巻かれた広告キャッチコピーに「さらば、ワシントン・ポー」とありますが。
ネタバレはしませんが、ここだけ断っておくと、ワシントン・ポーはいなくならないからご安心ください笑。
さて、
この小説は今までのワシントン・ポーシリーズでは最も多くの「どんでん返し」があります。
同じく広告のキャッチコピーの続きに「驚きに次ぐ驚き。これぞ著者の真骨頂!」とありますが、まさにそんな内容です。
物語の終わり頃に、私は大きな驚きを1つ感じて、もうすでにこのキャッチコピーに納得していたのですが、さらにその後に
2つもの驚きがあり、ラストがすごいことになっております。
一方で、事件の真相は、クレイブンが以前も好んで題材としていた関係もあり、こちらは想定内ではありました。
ですので、犯人捜しを楽しむ読み方でしたら、登場人物間の人間関係から、わりと早く犯人の動機や、なにか異常性を感じることで、犯人がわかるかもしれません。しかし、真犯人に行きつくかは、どうでしょうか(笑)。
この物語はひとことでいうと、孤独な魂の救済、かと思いました。
ポーの孤独、事件関係者の孤独など。多くの登場人物の行動の動機に、人間存在の孤独が隠れているように思います。
そして、物語の主題は、その「孤独」な魂を持った人間同士のふれあいがいかにして生まれるかとその尊さ、かと思いました。
ポーの傷つき具合が大きければ大きいほど、ブラッドショーの存在が映えます。
読んだ後、すぐに同じようなテーマ(ここではテーマをばらさないようにします)をもとにした探偵小説
ロス・マクドナルドのリュウ・アーチャーシリーズを再度手に取って見たくなりました。
以前も同じ感慨を確かに感じたので、
クレイブンの作品は、ロス・マクドナルドに何かしら共通な訴求点があるのかもしれません。
『マーブル館殺人事件』(上)(下)(A・ホロヴィッツ作 山田蘭訳 2025.9 創元推理文庫)
現代の英国ミステリー最高峰と目されるホロヴィッツの最新作。
期待に応える堂々とした本格的ミステリーでした。
ネタばれしないように、主に、主人公について考えさせられたことを記します。
普通、人生の実り豊かさとは、年齢を重ねるごとに芳醇になると私たちは思うのですが、ここで描かれた主人公スーザン・ライランド(50代後半だと推定)の人生を考えると、それがまったくの「幻影」であることに気づかされます。
スーザンがこれまでに出会ったのは、別離、孤独、挫折、解雇、そして破壊された人間関係とその結果としての人間不信。本来は出会いたくない不幸が前作までに次々に襲ってきた彼女の半生。特に直近の前作では信頼していた盟友(上司)とも言える貴重な理解者に、なんと殺されはぐった彼女です。そして、ついに愛せる人を見つけて地中海の小島に移住したのもつかのま、愛はさめて、ひとり、ロンドンに戻ってきた彼女。前回の事件により、彼女の属する出版界でよからぬ汚名が流布され、かつての名編集者が「安定した社員編集者」としての地位を確保するため、フリーの編集者に身をやつして、意にそぐわないひとつの原稿を担当します。ところがこの作品と著者がまた彼女をさらなる奈落の底にまで引きずり下ろすことになるのです。地獄へようこそ、と言った感じです。
そんな設定だからこそ、読者は「人生」を考えざるを得ません。そして、もし自分の人生に「甘え」が感じたら、恥ずかしく思うのではないでしょうか?私はそうでした。
この作品の面白さは、そんな彼女の内面が、言動と心理描写でわかりやすく伝わってくること。そして、ホロヴィッツ作品の魅力ですが、個性的な登場人物とのふれあいと、先の見えない展開です。
今作でもスーザンは普通考えられないような手痛い苦痛を何度も味わいます。しかし、そこでは「くじけない」という強い人間が描かれているのではなく、もっとせっぱつまった感じで、「やるしかない」的な状況に追い込まれた果ての彼女の決断と言動に多くのことを感じさせられるのでした。
人はどう自らの信念と向き合い、その時その時の事態と対峙するか、を考えさせられる名作と言えると思います。