利休居士のお弟子さんが書いたと言われる
『山上宗二記』を見ると、 

「宗易(利休)ハ名人ナレハ、山ヲ谷、西ヲ東ト茶湯ノ法ヲ破リ、自由セラレテモ面白シ、平人ソレヲ其儘似セタラハ茶湯ニテハ在ルマシソ」と述べられている。

茶は規矩作法に縛られず、誰もが自由を得て面白いものではなくてはならないが、同時に、利休をただ真似て規矩作法を破っては茶の
湯は成立しない、とも言っているのである。
やはり、規矩作法は守らなければならないし、かつ、規矩作法は破らなければならないと
いう点で「守破離」の「守」と「破」が並んでいることと同じ趣旨のように思える。

論文引用:新潟大学三年 中田勝之さん



【規矩作法守りつくして破るとも
                     はなるるとても本を忘るな】

そもそも、なぜこのような
言葉があるのでしょうか?


常に、いまという時代に合わせて

利休百首、あくまで伝ですが

守りつくして破ってきた歴史が
茶道にもあるからではないでしょうか?

珠光さん、紹鴎さん、利休さん、織部さん
皆さん茶が違います。


茶道も宗教も破る事で、
沢山の考え方や新たな選択肢が生まれました。

そのおかげで、今日まで
大いに熟成発展してきたとも言えます。

仏教だけでも、こんな狭い日本に
沢山の宗派があるんです。

この宗派が更に細かく分かれています。





華道の流派だと300以上!
300人の家元なんて凄い。



茶道はまだまだ少ないですね。


引用  ※一例 さらに多くの流派があります。



では?

規矩作法 守りつくすのを、教えても

破る方法を教えてくれる
茶道の先生はいるでしょうか?

点前を間違ってしまった~💧
趣向を変えて楽しむ事も

全く 破るうちになんて入りませんね。

 一介の茶をしている人間が
どんなに破ろう、破ろうとしても
破りきれませんな~

まして、離なんてありえまへん

孫悟空がお釈迦様から逃げ切れんのと
同じですわ。

結局、破り方なんて誰も教えてくれまへん

だから、自分が師匠から学んだ事を礎に


【規矩作法守りつくして破るとも
                   はなるるとても本を忘るな】

生涯この境地に達しないのとちゃいますやろか。


破って初めてわかることなんです。
それでも破れません。アイツは破っとる、
なんて見た事ないですやん。

海外に留学したら
やっと日本の事が分かるのと同じです。


破ったで!離れたで!

桃山時代のように、
利休居士や道安さん、織部さんのように
やられた~
エグいわ~という手本を
見てみたいですけど…。