11月になると、茶の湯では


「炉開き」が行われます。


江戸時代の記録にもあるように

炬燵開き・炉開きの日を

「亥の月の亥の日」としていました。


第一亥の日が武家

第二亥の日が町人

ちなみに

2018年  平成30年の
第一亥の月亥の日 11月  3日
第二亥の月亥の日    11月15日 
 

陰陽五行では、


亥は「水性の陰」としてとらえられるため、

火に勝つとされていることから

 

亥の日の亥(イノシシ)は、火(火難)を
免れるという信仰が生まれました。

そこから陰暦10月 亥の月の亥の日に
火(暖房器具)を使い始めれば、その冬は
火事にならないと信じられてきました。

~戌の月→ 陰暦  9月・亥の月→ 陰暦10月
・子の月→ 陰暦11月・丑の月→ 陰暦12月
・寅の月→ 陰暦  1月・卯の月→ 陰暦2月~

亥の重なる亥の日は

「玄猪(げんちょ)」と呼ばれ、
唐の風習が伝り『古今要覽稿』では、
貞觀(859-877)以前としています。
 
豕(中国では猪は豚のこと)形の
7種の餅を作ったようです。

宮中では平安~明治三年まで
行われていたようです。

多産である猪(亥)にあやかり、
子孫繁栄を願い

大豆、小豆、大角豆、胡麻、
栗、柿、糖の7種の粉、新米で

『亥の子餅』を餅を作り祝ったそうです。


摂津能勢の村人達より『亥の子餅』や小豆や
農作物が明治3年まで京の禁裏へ
献上されていたという記録があるそうです。

なぜ摂津能勢村から献上されるのかは、
応神天皇が皇太子の時に、
猪に危難を救われた事が起源との事です。

非常に似た話は、





ちなみに平安時代に書かれた
源氏物語の若紫の段に

『その夜さり、亥の子餅参らせたり
 かかる御思いのほどなれば 
  ことことしき さまにあらで
  こなたばかりに をかしげなる
  檜破籠などばかりを』

訳:その夜のこと、(館のものが)
亥の子餅を御前に差し上げた。

このような(葵の上の)喪中の
ことであるから儀式ばらず、
こちら(紫の上)だけに
美しい檜破籠(ひわりご)に入れられて。

つまり平安時代は結婚するものは、
三日間女性の下へ通い

三日目に、三日夜餅みかよのもちい
といい、紅白の餅を用いるるのが
慣わしであったが、葵の上の喪中でもあり
光源氏が亥の子餅を
紫の上に贈ったと書かれています。




下賜される亥の子餅は身分により異なる紙
(大高檀紙・小高檀紙・杉原紙)で包んで、
小さな角型の折敷にのせ、水引で結びます。
(『禁中近代年中行事』は引合紙・
大奉書・杉原紙)


包みの中には、

一の亥は菊としのぶ、

ニの亥は紅葉としのぶ、

三の亥は鴨脚イチョウとしのぶを入れる。

また、鴨脚の葉に下賜する人の名を書いて、
包み紙に差し挟む。

餅の色は三色、 

公卿は黒白品々、殿上人は赤、

五位殿上人以下は白、子供は赤、

地下は白、禁中の女性の上臈は黒、

中臈は赤、下臈は白。

黒は黒胡麻で和える、赤は小豆の汁で色を付けるとあります。

以後鎌倉~江戸幕府までそれぞれ形を変えながら続けられてきました。

茶の湯では

仁清の「玄猪包香合」や
裏千家八代家元 一燈の「臼水指」
などが良く知られています。

現在では、猪を祀る京都 護王神社で、
11月1日午後5時より
平安時代の宮中で行われていた
年中行事「御玄猪」を再現し
亥子祭(いのこさい)が斎行されています。
「亥の子餅」をつくり振舞われています。

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以上「亥の子餅」の説明だけでも
かなり要しましたが、
茶の湯をする人にとって重要なのは、


「開炉の時期」になぜ

「茶人の正月」と言われるのか?

「口切」なのか?「善哉」が振舞われるか?

「さんべ」が目出度いのか?

ではないでしょうか。


諸説ある中で、この疑問に私なりに
順次迫ってみたいと思います。