麗音 -14ページ目

 麗音

「麗音」とは、私の友達の書道家”翔鸞”さんが音楽好きな私のために

造ってくれた造語です。





音楽を楽しみながら、少しずつ、日々感じたことを皆さんに

「音信」していけたら・・・。


 麗音-きんもくせい

大きな箱が届きました。 

開けてみると、娘が大好きだった金木犀でした。 

姉を想い届けてくれたことに有り難く、息子の優しさを感じました。私はじっとその金木犀を眺め、娘の幼き頃を想い出し、涙が溢れてきました。


しかし、どうしても自分の手で庭に植えようとは思いませんでした。

娘が永遠に私のもとを去ったその歳月の流れを、私はこの金木犀の成長と共に確認することになるのではないかと・・・・・。


お子さんを亡くしたあるお寺の住職さんは、息子さんを偲び、梅の木にお子さんの名前を付けて植樹されたそうです。

夏には、のどが渇いたであろうと水をあげ、梅の実がなり、息子さんの成長を梅の木に託されたようです。

梅の木に悲しみを預けたそうです。

「悲しみを預ける」 とはどういうことだろうと、しばし考え込みました。


もうそろそろ、一周忌をむかえます。

私の心に ぽっかりと大きな穴があき、その穴を埋めるすべを知りません。


悲しみを背負って生きることに、もがき苦しみます。

どうしたらよいのか、答えが見えず、今は祈りの内に身を置くしかないように思っております。


今一度、娘に会いたい。 会わせて欲しいと、願わずにはいられません。



                                母

もうそろそろ姉の一周忌になります。
まだ昨日のことのような悲しみを感じつつも、会えていないだけで
ホントにまだどこかで生きているんじゃないかと思ったりもしてます。

この去年と同じ冬の匂い、そして今年も始まった吉祥寺の駅前の大きなイルミネーションの点灯・・・
まだ最初のころは綺麗だなと思い写メを姉に送ろうと撮ったのを憶えております。
が、毎日決まった景色と天井しか見えない病室にいる姉の気持ちを思うと送れませんでした・・・
とてつもない不安で病院へ行く時、何とかしたい!何とかしてくれ!と強く思いながら病院から帰るとき、私の気持ちとは裏腹に煌々とイルミネーションは点灯しておりました。
これほど悲しい思い出の詰まったイルミネーションはあるのだろうか・・・

あれから1年・・・


姉に恥じなく生きているだろうか・・・
姉は今何をしてるのだろうか?
天国で修行してるのかな?
いつも見守ってくれてるかな?
大好きなバイオリンを目一杯弾いてるかな?
天国の人たちと、相変わらず冗談を言ったりして友達を一杯作ってるかな?
天国の人たちからも慕われ、親身になって相談にのってあげたりしてるのかな?

など姉の事を考えだすと止まりません。。。

私たちには色々、楽しいこと、悲しいこと多々あると思いますが
どんな時でも私は最後に心の中で「お姉ちゃんがいたらな・・・」
「お姉ちゃんがこの場に居たらもっと嬉しいだろうな~」と思ってしまいます。

私の事、両親の事を本当に大事に思ってくれていた姉の事を思うと
この気持ちをどうしたら良いか?
いくら考えても答えがない疑問?悩みをかかえつつ日々過ごしております。
「もういい加減お姉ちゃんに会わしてくれ!」とさえも思ったりします。。。


でもようやく、私や両親が楽しかったり、嬉しかったりする時はきっとそばに居る姉も同じ思いでいてくれるんだろう、姉も喜んでくれてるんだろうと強く思い頑張っていこうと思い始めております。


麗音を見てくださる皆様は如何お過ごしですか?
皆さん毎日、ご多忙の日々を過ごされていると思いますが
またふと姉の事を思いだしこの麗音にいらしてくださいね。
姉はいつも皆さんの心の中とこの麗音にいますから。


元三階の住民 こと弟より




 麗音-酔芙蓉1  麗音-酔芙蓉2
 麗音-酔芙蓉3



酔芙蓉の花が咲きました。


酔芙蓉は白く華やかな花をつけ、やがて花弁をピンク色に染め、その姿を変えていきます。

その姿に魅せられ、是非娘に見せてあげたいと思い、娘の部屋の窓から見えるようにと植えました。

しかし、去年は花をつけることもなく、今年も諦めておりました。

 

命日の今日、真っ白な、まるで白いレースのフリルを重ねたように見事に咲きました。

娘はこの花を見ることなく、逝ってしまいました。写真に添えた花は、もう、うっすらとピンク色に変わってきました。


花の命もはかないものですね。



先日、泣いている私に息子が一言、

「悲しいのはお母さんだけじゃない。 お姉ちゃんはお母さんひとりのものじゃないんだよ。」  と、

私は思わず、ハッと我に返りました。



                               母

お彼岸を迎え、娘のお墓に主人が植えた彼岸花が咲き始めました。


娘は今頃天国で何をしているのだろうか。

私は相変わらず、娘が私共のもとを去ったことを受け入れることができず、哀しみ、寂しさ、苦しみの日々を過ごしています。


娘が居なくなってからというもの、全く何をしても喜びを感じることはありません。時だけが何事もなかったかのように過ぎ去っていきます。街を歩く楽しそうな親子を目にし、思わず涙し、目をそむけます。


私はいつまでも子離れできず、娘に寄り添い過ぎて生きてきた、愚かな母です。


娘の大好きな金木犀の薫りが、こんなにも涙と共に私を悲しませるのだろうか。


どなたでしょうか?

娘の墓前にお花を手向け、手を合わせてくださいました方、娘がどんなに喜んだことでしょう。

この場をお借りしまして、心からお礼申し上げます。有難うございました。



                             母

明け方、娘はよく寝ているであろうかと、娘の寝顔を確認し、一日のスタートを切ったものです。

その娘は、今はもうこの世に居ない。


夜が白々明け目覚めた時、娘が居ないことに例えようもない寂しさを覚えます。


時の経過と共に、心の空洞は益々広がるばかり、娘との日常かわす何気ない会話が一つづつ想い出され、声が聞きたくなる衝動に駆られます。娘の奏でるバイオリンの音も消え、主を失ったバイオリンが娘の微笑む遺影の傍に寄り添うだけです。


娘の部屋はそのまま残してあります。始末したのは、大量の薬だけ。額に入った写真はもう見ることはできず、裏返し。 「麗ちゃんの使っていた物は少しづつ処分したら・・・」 との友人達の助言にも関わらず、ヘヤーピンすら捨てることはできません。娘の存在を否定するような気がしてならないのです。


人は喜びを分かち合うことは容易ですが、悲嘆を分かち合うことなど、誰に、どのような言葉をかけられようと、我が子を失った者にしか解らぬ心の哀しみや苦しみは深いものです。


「傷が傷を癒す」  と言う言葉がありますが、今の私は、同じ立場の方々の集まりである、「死別体験者の分かち合いの会」 でのひと時が、唯一心が解放され、楽になれる場です。


深い心身の痛手から、どのように立ち上がり、再び前に向かい歩み始めていけるのであろうか、

私は最愛の娘の死を体験することで、まざまざと自分自身の弱さを象徴的に見せつけられた思いです。



                         母