明け方、娘はよく寝ているであろうかと、娘の寝顔を確認し、一日のスタートを切ったものです。
その娘は、今はもうこの世に居ない。
夜が白々明け目覚めた時、娘が居ないことに例えようもない寂しさを覚えます。
時の経過と共に、心の空洞は益々広がるばかり、娘との日常かわす何気ない会話が一つづつ想い出され、声が聞きたくなる衝動に駆られます。娘の奏でるバイオリンの音も消え、主を失ったバイオリンが娘の微笑む遺影の傍に寄り添うだけです。
娘の部屋はそのまま残してあります。始末したのは、大量の薬だけ。額に入った写真はもう見ることはできず、裏返し。 「麗ちゃんの使っていた物は少しづつ処分したら・・・」 との友人達の助言にも関わらず、ヘヤーピンすら捨てることはできません。娘の存在を否定するような気がしてならないのです。
人は喜びを分かち合うことは容易ですが、悲嘆を分かち合うことなど、誰に、どのような言葉をかけられようと、我が子を失った者にしか解らぬ心の哀しみや苦しみは深いものです。
「傷が傷を癒す」 と言う言葉がありますが、今の私は、同じ立場の方々の集まりである、「死別体験者の分かち合いの会」 でのひと時が、唯一心が解放され、楽になれる場です。
深い心身の痛手から、どのように立ち上がり、再び前に向かい歩み始めていけるのであろうか、
私は最愛の娘の死を体験することで、まざまざと自分自身の弱さを象徴的に見せつけられた思いです。
母