自費出版専門出版社、碧天舎倒産 の記事を書いたのは昨年の4月でしたが、今度は自費出版ビジネスのトラブルで著者が出版社を訴えたニュース
 大都市の書店に本が並ぶと錯覚を起こさせたということですが、部数だけ考えても大都市の書店に行き渡らない、と笑ってはいけません。私は企業を訴える個人というのはそれだけで尊敬します。私ならできませんから、こういう人が立ち上がらないと巨悪はますます闇に微笑むことになるのです。
 
 このニュースについて書いたブログをあさっていて見つけたこの記事 を見ますと、自費出版本は大都市の書店に並ぶとまではいかないにしろ、アマゾンにも楽天ブックスにもYahoo!ブックスにも掲載されるのですね。これはすごいではありませんか。さすがロングテールです。
 タイトルをうまくつければ、アマゾンにあるだけでも検索上位に表示されます。
 
1 検索から購入につながる(自分で買う)
2 買った人がレビューで絶賛(自分で書く)
3 有名ブロガーが書評を書いてくれる(自分が有名ブロガーになって書く)
 
 おお、これは、個人の力でも、大ヒットは無理としてもポテンヒットくらいは打てるのではないでしょうか。中身さえよければ。
 
 いい時代になったものです。私が近所の印刷屋で製本してもらっただけではアマゾンで扱ってもらえないでしょうから(仕組はわかりませんが)、それだけでも出版社に頼んだ価値があるというものです。
 自費出版本を購入して酷評レビューを書く趣味のある人もいるようですから、ネット上にあげてしまえばいつか売れるチャンスがあるのです。(在庫がある限り載せていてもらえるのか知りませんが)
 ちょっちぷんさんがアドラーのことを書いた ら、少なくとも私ともうお1人(あびさん)がアドラー本を購入したので、ブログ情報にも侮れないものがあります。もちろん全て、内容がよければですが。
 
 
 7月6日の記事。コメント欄より。
「2万円前後でISBNコードを取り、年間9000円でアマゾンE託販売サービスを利用すれば取り扱ってもらえますよ。印刷所で本を100冊作って10万円としても、15万円あればアマゾン販売できますね。いい時代になったものです」(とおりすがり)
とおりすがりはビビリます。
 アメブロの登録ジャンルを変更しようかと思うんですけどどれがいいでしょう に投票して下さった9人の皆様、ありがとうございました。投票結果をからめて長文記事を書こうと企んでいたのですが、うまくまとまらないままもう7月4日なので、単独で結果報告してしまいます。
 
OL日記として「住まい・暮らし」 4人
頭を使って「学び・教育」     2人
今まで通り「美容・健康」     2人
血迷って「お笑い」         1人
 
という訳で「住まい・暮らし」に決定し、今月から変更しました。アメブロ ではトップページに最新10記事が表示されていますが、美容健康のかけらもないので、きっとよかったのでしょう。障害か個性か とコラボしたと白状してしまったので若干方向性を作ってしまったかも知れません。(それほどの投票数でもないか)
 
 そう言えば今年のブログバースディ で半年に1回大きな出来事があると書きましたが、今回はこれでしょうか。タイトル変更ほど大きなことでもありませんが。
 大勢に影響なく、私の気分の問題になりますが、着々と発達障害色が目立たなくなっております。別にこのテーマから離れたい訳ではないんですけど(ホニャラララララ)。
 そういう訳で、2007年後半戦もよろしくお願いします。(もう後半か)
 
 
 文中にもありますが、7月4日の記事。こうしていつの間にかジャンル変更していたのでした。別に変わったことはありません。お笑いにならなかったことには内心ほっとしたのでした。
 高度な大人の道徳 コメント欄より。
 
その理由は?と問われるとなんと答えていいやらわからないのですが、chargeupさんは絶対軸の人なのに、相対軸を押し付けられて困っているように見えるのです。(ちょっちぷんさん)
 
 このコメントから妄想をつらつら。
 
 他人に比べて劣っているのが嫌なのか。
⇒それはない。私は他人より劣っていることを知ったから。と書くとどういう訳か説教が押し寄せるから嫌だ。つまらない言葉で自分がグラグラになり、返信に悩まされて混乱するのが嫌だ。だから私はコメントを消す。そして消したことに追いつめられてウダウダする。
 
 なぜウダウダするのか。
⇒他人を傷つけてはいけないという価値観に逆らっているから。
 
 それは絶対軸ではありません。私には私が傷つかないことの方が優先です。人は誰でも、生きているだけで誰かを傷つけます。絶対に誰も傷つけないためには、死ぬか人里離れた場所で野生化するしかありませんが、自殺も失踪も家族や友人を傷つけるかも知れないので八方塞です。なぜ
「他人を傷つけてはいけない」
に追いつめられるかというと
「他人を傷つけても平気とは何事だ」
という説教がどっと来るのが怖いからです。その人たちが私を傷つけるのは構わないらしいのですが。
 
 これはブログ限定の話ではなく、誰にも見られていないはずの日常生活でも
「こんなこと考えたら怒られる」「こんなことしたら怒られる」
と被害妄想しています。
 この「怒られる」の主体、誰か具体的に怒る人、上司とか親とか説教好きな無関係者とかが存在する訳ではないのになお自分を監視し続ける何か、あえて言えばこれまでの人生で私を否定し叱りつけてきた全てです。
(あれ買い忘れたけどまあいいや、明日で)
(またミスしたね、ミスが1個でもあればミスだ、甘えだ甘えだ甘えだ、努力しろ努力しろ努力しろ)
こういう話を昔別な人にしたらノイローゼだと言われました。これでノイローゼなら私は30年くらいノイローゼです。もう常態だからいいのでしょうか。
 
 たとえ説教妄想でも、そこから人を思いやる気持ちが発生するなら悪いことではありません。絶対軸だけで世の中を生き抜こうとすれば単なるわがままになる恐れがあります。自分の価値観をしっかり持った上で周囲とそこそこに調和する、それはいわゆる本音と建前の世界です。
 内なる神は、誰かに説教される度蓄積します。必要悪か、それとも絶対軸をより高いレベルに磨くことで追放できるのか、あるいは絶対軸以外にしっかりした相対軸を確立させれば様々な人の様々な価値観にゴチャゴチャされずに済むのか、まだ答は見えません。
 
 
 7月2日の記事。変な神に支配されないために最も必要なのが
「取捨選択能力」
あまりそれを身につけることというのは奨励されて来なかったように思います。とにかく目上の人の言うことは聞かなければならない、みたいに。みんなどこで身につけるのでしょう。

 ナイジェルさんの記事
▼差別とヘイトスピーチQ&A(1)「差別する心」(Q1-Q2)
▼差別とヘイトスピーチQ&A(2)「差別する心」(Q3-Q5)
のQ&Aにまたまた便乗して、自分の考えをまとめてみます。

 

Q1 差別をしない人間はいると思われますか?

 差別という言葉の意味を広く捉えれば、いません。社会秩序は序列を必要としているからです。非常に狭い意味に限定すればいるかも知れません。
 
Q2 「差別をしていない」(あるいは「差別はいけない」)と言った時点ですでに「差別をしている人に対して差別をしている」というパラドックスに陥っていないでしょうか?
 それを言い出すと日本語が成立しないので、「陥っていない」をマイルールとして決議します。論点ずらしは混乱します。
 
Q3 「差別はしない方がいい」という考え方は今の社会の風潮として定着していると思われますか?
 考え方としては定着していると思いますが、その意味や捉え方が人によって随分違います。
「障害を言い訳にして健常者と同じにできないのは努力が足りないからだ、怠け者怠け者怠け者、努力しろ努力しろ努力しろ」
と恫喝することが差別しないことだと思っている人はたくさんいます。
 総論賛成各論反対というものです。
 
Q4 「差別をしない人はいない」ということを認めた方がよい社会になり得ると思われますか?
 よりよい社会になるかどうかはわかりませんが、そこは認めないと話が進まないでしょう。
 
Q5 差別に基づいた暴力や名誉毀損は、他の場合よりも重罪を課すべきだと思われますか?(改題)
 私はルールがある方がありがたいので、社会が本気で差別をなくそうと考えるなら法整備は勧めるべきと考えます。
「差別意識があった」
と証明することは困難とは思いますが、法律になってしまえば多くの人が知ることになりますし、道徳(徳育)か社会科の授業で次代を担う青少年にきちんと教えることもできます。
 
 この質問(改題しましたが)の入ったナイジェルさんの記事に、異文化交流議論中間報告で、私は
「法は意識を裁けない」
というメモをつけました。
 どんなに差別的考え方を持っている人でも、それを変えることはできません。心の中では犯罪的なことを考えていても、普通はそれが悪いことだと知っているから行動には移さないでしょう。裁けるのは行動だけです。
 人によって意味の幅が違うことであるだけに、法律とまではいかなくてもルールが整備されていかないと多様な価値観を持つ人々を包括するのは難しいように見えます。
 
 
 7月1日の記事。ナイジェルさんのご用意されるテンプレはいつも使いやすいです。
「社会秩序は序列を必要としている」
については、異文化交流議論の中で少し触れましたが、いつかちゃんと書いてみたいネタのひとつです。
 こんな夜更けにバナナかよ   渡辺一史著 北海道新聞社 \1,890
 
 タイトルが面白かったので読んでしまいました。ノンフィクションです。
 24時間介護を必要とする筋ジストロフィーの鹿野さんは1人暮らし、介護は昼夜3交替でボランティアが行い、そのスケジュール調整が主な仕事です。学生なら、テストだ帰省だ風邪引いたとすぐ休むから、代わりの手配は大変です。
 ボランティアも、
「かわいそうな障害者の面倒を見てあげる」
な人から、妙に謙虚でおっかなびっくりの人まで様々です。
 
 鹿野さんは結構わがままで、どなられて2度と来なくなった人もいます。わがままでなければ24時間介護をボランティアで乗り切ろうなんて思わないでしょう。ご両親も健在ですのに。
 夜中にバナナが食べたいから食べるというのも、健常者が自分でできるならわがままでも何でもありません。真冬にスイカだったらかなりわがままですが。
 
 おそらくあまりにも暗い内容は省いていると思われますが、
「障害者は謙虚で前向きで健気で、健常者はそれを助けて感謝される」
というドラマみたいなことを考えている人がボランティアに来たらショック受けそうです。反発した人も多かっただろうと推測されます。
 
 筋ジストロフィーは現代医学で治癒する見込みがなく、筋肉は弱っていく一方です。
「今日生きる」「明日も生きる」
毎日がその積み重ねという凄まじさに、前向きだの後ろ向きだのいう言葉が何とつまらなく映ることでしょう。
「できないんだからしょうがない、できる人にやってもらう」
うわ、障害者が自分で言うと説教されそう。
 
 卒業シーズン、学生ボランティアたちは入れ替わります。してあげた、だけではない何かを得て、彼らは旅立っていきます。それは、ある時には反発かも知れなくても。
 鹿野さんはこの本の完成を待たずに42歳で亡くなりますが、まれに見るタフな精神力に、生きるとはすごい、生きているだけですごい、と思わせてくれます。対等であるとはどういうことかも。
 
 
 6月30日の記事。一方的に世話を受ける関係である場合、世話を受ける側にも相手に与えることができる何かがないと、対等の関係にはなれないでしょう。この本に対しては、
「スーパーマンのような障害者でないと自立できないのか」
という評価もあります。乙武さんやヘレン・ケラーもそういうタイプでしょう。それを標準形にされ、
「あなたもこれくらいがんばってみたら。やってみなければわからないよ」
と説教族に利用されてしまうのは悲劇。