「かんさつ日記2 」で、私の過去の言葉として
「私が何をしても絶対に怒らないで欲しい、全部ほめてくれ」
を出しました。コメントに対するお返事の代わりにもう少し掘り下げてみます。
 定型発達者には「怒る」「叱る」「注意する」様々な段階があるようですが、私は他人のそんな細やかな感情は読めないので、全部同じです。私の「怒られる」には上記全てとその周辺が含まれます。(怒られるスペクトラムです)特に怒られると叱られるの違いは全然わかりません。

「2度とこんなことはしないように」
穏やかな言い方であれば、これで怒られたとは感じない人も多いかも知れません。しかし私には恐ろしい言葉でした。2度とこんなことはしない、なんて誰が約束できますか。10年後も20年後も、一生涯、365日24時間、同じミスを2度としてはいけないという恐怖を抱えて生きていけるのでしょうか。「2度と」ですからそれは永遠を示します。終身刑と同じです。ミスをしたくてしたわけではないのに。
 私はこの言葉を言った上司に
「2度となど約束できません。誰にもできないと思います。もう1度やったら私はどうなるのでしょうか」
と食い下がりました。最初は相手にされなかったのですが、私は思いつめて翌日
「同じミスをもう1度したらその日1日は有休扱いするようにできないか」
と聞いてみました。終身刑のような状態で一生過ごすことに耐えられそうにありませんでした。
「そこまでのミスではないよ」
かなりびっくりされたようです。
「でもどうなるかわからないと心配で」
とりあえず予定を決めておきたかったのです。ミスをしたらこうなるということがわかっていればまだ安心できます。結局絶対にしてはいけないという意味ではないということで落ち着いたのですが、ブカブカ語ですらなくて明らかに嘘だよな、人を悩ます嘘をわざわざつくなよ、と釈然としない思いでした。

 今まで私はコミュニケーションの不自由がブログでは通じないことに悩んでいましたが、もしかしたら最もわかりやすい、コミュニケーション障害の例だったでしょうか。
 自閉症の子供を叱ると、叱られたという記憶しか残らない、内容は全く通じていないと言われます。大人も同じです。怒られている時はピストルを乱射されている状態で、自分の心を守るために私もひたすらピストルを振り回すか、弾丸を受け止めズタズタになります。内容は届いていません。もしくは上記のように言葉を文字通りに受け取って悩みます。
 ひたすらほめてもらうことで初めて相手の言葉を聞く余地が生まれます。聴覚認知の問題もあって、一定のトーン以上の声が非常に響いてうまく認知できないこともあります。

「私が何をしても絶対に怒らないで欲しい、全部ほめてくれ」
私のためにこの言葉を受け入れた人は1人ではありません。だから、難しいことではありますが、不可能ではないと思っています。この言葉は、私だけでなく発達障害者が社会で受け入れられるキーかも知れません。もちろん
「怒られるようなことするからでしょう」
「子供じゃないんだから」
と相手にしない人の方がずっと多いでしょうけれど。
 私たちは社会で生きていけますか。私たちを受け入れてくれますか。私たちは存在を許されますか。それとも。

 

 

 5月11日の記事。時期がいきなり戻ります。ちなみにこの時のミスは

「出社したら緊急事態が発生していてその対応に追われ、タイムカードを押し忘れた」

というものです。同じことが起こった時、何としてもタイムカードを押そうとしたら、他の人に奇異に思われることでしょう。だから、何があろうとタイムカードを優先するべきなのか、かなり上司にしつこく聞きました。月に何度もタイムカードを押し忘れる人もいたので、私はそんなに大変なことをしたのか、と混乱しました。

「今度ミスしたらクビだ」

の方が予定がはっきりして安心です。もちろん、本当にもう1度タイムカードを押し忘れたら、私はクビだなと荷物をまとめ始めます。

「それくらいの気概で」

という意味らしいのですが、気概があれば実現しなくていいというのも謎でした。「気概」は説教族がすきそうな言葉です。説教族にとってはできるかできないかではなく、やる気がありそうな善語を言うか言わないかが重要です。言葉は事実を伝えるためのものではなく、自己PRのためのものです。

「気概を」

というのは

「ちゃんと自己PR語で話せ」

という意味だったのです。

 新作です。「かんさつ日記 」を読んでいた当時、私はずっと、R氏のような人が社会に受け入れられるのか、考えていました。R氏は普通に仕事をする能力はあるようですし、こういう人を福祉の対象とするのは若干無理があるように感じたからです。

 

 結論は、本人の自覚がないと無理、ということのようです。(参考資料:「説教する人の言語体系」コメント欄 )それはいいのですが、その間にいろいろ考えて記事にしたことをいろんな立場の人に批判されたので(被害妄想)混乱しつつ、継ぎ足しの記事を書いて余計おかしなことになりました。

 

 発達障害者の中には働いていない人もいます。得意なことを引き受け、苦手なことを助け合うということが自然になれば多くの人が社会に出て行けるようになる、と考えたのですが、どうもずれていたようです。

 

 受け入れ環境さえ整えば皆働きたいはずだ、というのは間違いだったのかも知れません。働かなければ世間に受け入れを強要することも迷惑をかけることもない、R氏のような人は仕事をするべきでない、という意見もあるかも知れません。

 

 こういう失敗体験を積みながら人の心がわからなくなっていく気がします。(参考資料:「たまには時事ネタ」コメント欄 )就職講座が参考になったというお言葉もあるので、私の全てが否定された訳ではありません。

 

 私は私自身のためにがんばればいいのです。多くの発達障害者が受け入れられるにはなどということは、私が考えることではありませんでした。この件で傷ついた、あるいは迷惑をこうむった方(説教族含む)本当に、本当にごめんなさい。

 本編 も大づめ、

「人間のクズ」

と叫んでまた場を凍らせたらしいR氏です。私がR氏びいきだからなんですが、

「人間のクズ」

ってそんなにひどい言葉ですか。コメント欄に

「人間のクズ」

とだけ書いてあったら削除すると思いますが、具体性がないからずっと心に残る言葉ではありません。
「あなたのような人間は社会でやっていけない」
「今に誰にも相手にされなくなるよ」
の方がよほどひどい言葉だと思いませんか。
 
 私は「かんさつ日記」をR氏の視点から読んでいますが、それは本物のR氏ではなく、自分を投影させた姿です。そのR氏は、場面には出てこない言葉を投げかけられています。退職にあたって
「あなたのことを考えて言うんだけれど、我慢を覚えないと」
みたいな言葉を投げかけられたとしたら、
「人間のクズ」
という言葉が出てきた気持ちも理解できなくはないのです。
 それなりに傷ついて、不安も持ちながら退職するのに、死ねと言っているに等しいことをなぜ言う必要があるのでしょう。
 私が退職する時、そんな言葉を投げかけられ、R氏のように言い返すこともなく、こらえて立ち去りました。他人に死ねという資格など誰にもありはしない、この世で生きていけない人間などいない、そんなことを言う人間はそれこそクズなんだと思っていました。クズは私だったのに。
 
 どこでどうしているかわかりませんが、地上の楽園はきっとあります。あなたは生きていてはいけない人間などでは決してない、私の近くにあなたが現われたら、仕事の一覧表くらいは作ってあげましょう。やり取りはメールで。

 

 

 7月1日の記事。これがかんさつ日記シリーズの最終回です。もう1、2回やるつもりで下書きも作ったのですが、未発表に終わりました。

 この記事の最大のポイントは

「人間のクズ」

「社会でやっていけない」

のどちらが傷つく言葉か。私はてっきり後者だと思っていました。自分がそうだからです。前者の方が傷つくというコメントを複数いただきびっくり仰天。根拠のない自信はガラガラ崩れます。

 そんなに傷つくポイント違うんだ。

「私がこんなに人を傷つけないよう気を使っているのに、他の人はなぜ私が傷つくことを平気でいうのか」

の謎はここにあります。私が人の心を読むなど無駄です。違いすぎ。こういうことに人は傷つく、と知識で覚えるしかないけれど、自分が傷つく言葉はなかなか人には言えないし、言語体系違うとわかっていても、傷つく言葉を言われたくありません。

 今日も更新ありましたが、タイトルは「終焉 」。やっぱりクビかな。そうだよね。私が経営者でもクビですこんな奴。だけど、だけど、私たちはやっぱり、社会で受け入れられないのかな、とジワーッと悲しくなります。
 絶対、自分は社会の中で生き抜いていけるはずだ、と信じていました。今も信じています。私は法律上は健常者です。障害年金もなく、何の保護も支援もない、成人には生きていくための教育もない、なのに社会に受け入れられないとしたら、どこでどうやって生きていけばいいのでしょう。

 私も営業やったことがあり、お客様を怒らせたことがあります。さすがにR氏のような自分語りはせず、ひたすら謝りました。他の人もお客様を怒らせたことあるし、自分が特別悪いと思っていませんでした。お客様は許してくれ、いい条件の契約を結ぶこともできました。
 なのに私だけがこんなに責められるのはなぜ? と自分をわかっていませんでした。きっと、R氏のように、反省がない、言い訳ばっかりして、と思われていたのでしょう。

 大逆転があることを望みたいけど、多分無理ですね。どこかにR氏の楽園がありますように。

 

 

 6月23日の記事。かんさつ日記の後日談 で、orz嬢は

「R氏の障碍の可能性」

について触れています。

>本当に自分が人と上手くかかわれない事をまずいと思ったら病院へ行くでしょう。

その理由で病院行くのは無理あります。私だったらその理由では行けません。

 また批判受けそうな内容なんですが、

「誰も僕を否定しない、許してくれる世界」

は私も言ったことあるのでとてもわかります。そして、とんでもないことだと思われる気持もわかります。多分、私が受け取っている「否定しない世界」と他の方が受け取っている「否定しない世界」は意味が微妙に違います。

 日本語の会話って否定の応酬が基本だから、否定しないと機能不全になりそうです。

「いえそんなことございませんのよ」「まあご冗談ばかり」

「ここは私が払いますわ」「いえ私が」

「ありがとう、これ少ないけど」「とんでもございません、そんなつもりでお手伝いしたのではありません」

こういう言語体系だと知っていないとかなり奇妙。だったら全部逆にして、肯定しあう言語体系だって悪ではないのです。一般的に存在しないだけで。

 私も表現力怪しいですが、肯定形の話し方を心がけてあげるとかで解決の余地ないでしょうか。

「よくできているよ、90点」「あとの10点は何ですか」「ここを直せば100点」

とか。

「健常者でも、いつ怒られるかわからない環境では仕事に集中できない」

というコメントがありました。それなら

「絶対に怒らないで欲しい」

というのはそんなにひどい要求ではないような気がするけど、何か違う意味に受け取られているのでしょうか。せめて

「今から怒っていい?」

と聞いてくれれば。

 それは説教族をものすごく怒らせたようですが、正直そんなに怒られるとは思いませんでした。

「かんさつ日記」

の記事を合わせて読むとすごいわがままなことなんですね、これ。私は

「自分の言うことを全部否定してくれ」

と言われたら、変わった趣味だなあとは思っても、わがままには感じないけど。私の言葉の使い方が変なのか、言語体系の違いか、

「人の言うことを否定する」

というのは定型発達者の存在の根源に関わることで、絶対に譲れないのか。

 多数派は少数派に歩み寄らなくても生きていけるけど、少数派は多数派に歩み寄らないと生きていけません。

 訪問者履歴に、「かんさつ日記 」のorz012さんのIDがあります。げ。ついに見られたでしょうか。最近R氏のことを書いていないから、初めてきてそんな過去の記事を読みませんよね。
 久しぶりに更新があったのですが、その内容も微妙です。

>昔の私は、
私が黒くて四角い物体にみえるのだから、これは黒くて四角い物体じゃないという人がいたら
そいつはおかしい!!!!!
って考えでした。

でも今は
これは私には黒くて四角い物体に見えるのだけど、他の人にはどう見えているのだろう?
違うように見えてる人もいるんだな
って感じ。

 やっぱり見られたかしら。

 こんなにファンなのに、1回も交流したことありませんが、もしお話するチャンスがあったら、どうか許して下さい、と言いたいのです。勝手にネタにしたことではなく、R氏(私)のような人間が社会に存在することを、です。
 いつも読んで下さっている皆様は私を謙虚な努力家だとちょっとくらいは思ってくれているかも知れませんが、診断前の私はそんなではありませんでした。自分が悪いなんてちっとも思っていないどころか、よくできた方だとすら思っていたのです。こんなに周囲に迷惑をかけて、傷つけていたなんて全然わかっていない、とんでもない人でした。

 
 R氏も多分、気づいていません。気づいたから許されるのではなく、障碍だから許してやろうということでなく、そのまま許してもらいたい、もちろんわがままです。そんなことができるわけがありません。でも
「障碍なんだ」「こんなに努力してもできないんだ」
と訴えて歩かないと生きられないのでしょうか。R氏が許されないなら診断前の私も許されてはいません。
 R氏の代わりに私が土下座します。ネコのトイレの始末も私がします。(いや現実には無理かも知れません、顔さらせないから)だからどうか許して下さい。

>だけどね、それはとうとう叶わなかったよ。
残念だけどね。

 その終わり方は何でしょう。何があったのでしょう。続きが気になります。

 

 

 6月21日の記事。かなり飛びました。この間にいろいろあって、それが内容にも反映されているので、やはり順番を入れ替えると矛盾が生じることがわかりました。

 説教族は恐らくこのあたりを甘えというのでしょう。黒くて四角い物体は誰の目にも黒くて四角い物体なんだと信じる人々。この頃は世界に自分の存在を許して欲しくていっぱいでした。それまでの人生にないくらいの謙虚さ。

 まさかそれが甘えに見えたとは。それが妬みであれ、自分の方が優れているんだぞという自慢話であれ、善意であれ、同じことです。説教族の皆様はもう見ていないだろうけれど、説教族が私の存在を許さないなら、私も説教族の存在を許しません。お互い様だからいいですよね。

  

善語:苦手なことは助け合う。苦手なことは個人によって違う。

悪語:できないものはできない。できないことに時間と労力をかけるのは無駄。

 

 善語だと柔らかいけど、あくまで健常者の範囲の「苦手」を指すようで、やはり私には悪語の方がすっきり言い切ったぞという気がします。私には同じ意味に見えるんですけど、説教族は正反対に受け取るのでしょう。

「それはこう考えればいいのよ」

と言葉を言い換えれば解決したかのようになる場面多いです。現象は同じじゃんか。説教族は

「説教ではない、忠告だ」

と言いそうです。同じだって。

 説教族が存在しなければ私の障碍はバリアフリーできるのかも知れません。とはいえ怖いのでコメント拒否にしよう。(臆病)