今日も更新ありましたが、タイトルは「終焉
」。やっぱりクビかな。そうだよね。私が経営者でもクビですこんな奴。だけど、だけど、私たちはやっぱり、社会で受け入れられないのかな、とジワーッと悲しくなります。
絶対、自分は社会の中で生き抜いていけるはずだ、と信じていました。今も信じています。私は法律上は健常者です。障害年金もなく、何の保護も支援もない、成人には生きていくための教育もない、なのに社会に受け入れられないとしたら、どこでどうやって生きていけばいいのでしょう。
私も営業やったことがあり、お客様を怒らせたことがあります。さすがにR氏のような自分語りはせず、ひたすら謝りました。他の人もお客様を怒らせたことあるし、自分が特別悪いと思っていませんでした。お客様は許してくれ、いい条件の契約を結ぶこともできました。
なのに私だけがこんなに責められるのはなぜ? と自分をわかっていませんでした。きっと、R氏のように、反省がない、言い訳ばっかりして、と思われていたのでしょう。
大逆転があることを望みたいけど、多分無理ですね。どこかにR氏の楽園がありますように。
6月23日の記事。かんさつ日記の後日談 で、orz嬢は
「R氏の障碍の可能性」
について触れています。
>本当に自分が人と上手くかかわれない事をまずいと思ったら病院へ行くでしょう。
その理由で病院行くのは無理あります。私だったらその理由では行けません。
また批判受けそうな内容なんですが、
「誰も僕を否定しない、許してくれる世界」
は私も言ったことあるのでとてもわかります。そして、とんでもないことだと思われる気持もわかります。多分、私が受け取っている「否定しない世界」と他の方が受け取っている「否定しない世界」は意味が微妙に違います。
日本語の会話って否定の応酬が基本だから、否定しないと機能不全になりそうです。
「いえそんなことございませんのよ」「まあご冗談ばかり」
「ここは私が払いますわ」「いえ私が」
「ありがとう、これ少ないけど」「とんでもございません、そんなつもりでお手伝いしたのではありません」
こういう言語体系だと知っていないとかなり奇妙。だったら全部逆にして、肯定しあう言語体系だって悪ではないのです。一般的に存在しないだけで。
私も表現力怪しいですが、肯定形の話し方を心がけてあげるとかで解決の余地ないでしょうか。
「よくできているよ、90点」「あとの10点は何ですか」「ここを直せば100点」
とか。
「健常者でも、いつ怒られるかわからない環境では仕事に集中できない」
というコメントがありました。それなら
「絶対に怒らないで欲しい」
というのはそんなにひどい要求ではないような気がするけど、何か違う意味に受け取られているのでしょうか。せめて
「今から怒っていい?」
と聞いてくれれば。
それは説教族をものすごく怒らせたようですが、正直そんなに怒られるとは思いませんでした。
「かんさつ日記」
の記事を合わせて読むとすごいわがままなことなんですね、これ。私は
「自分の言うことを全部否定してくれ」
と言われたら、変わった趣味だなあとは思っても、わがままには感じないけど。私の言葉の使い方が変なのか、言語体系の違いか、
「人の言うことを否定する」
というのは定型発達者の存在の根源に関わることで、絶対に譲れないのか。
多数派は少数派に歩み寄らなくても生きていけるけど、少数派は多数派に歩み寄らないと生きていけません。