平均視聴率が、史上最高の19%だそうです。日本人の5人に1人が見た、というよりは1人4時間半は見た、ということですね。私もそれくらいは見ました。
 賛否両論ありますが、これだけ視聴率高いということはみんな好きなんですね。私も毎年楽しみです。改変期の特番の面白くなさに比べれば企画は充実していて、いろいろなことを啓蒙しています。さすがに全部見ようとは思いませんが。

 しかし申し訳ありませんが、目玉の障碍者企画、今年はブログ内での出来事もあって、その部分ではテレビを消してしまいました。「説教したがる人々」の一部が、こういう番組を見て
「これぞ障碍者のあるべき姿だ」
と思っているのかと思ったらぞぞっと来たからです。

 テレビを消して2ちゃんねるを見ると(見るなよ)
「こういうのでたまに精神障碍者を取り上げてくれないだろうか。うつ病から立ち直って社会復帰するまでのドキュメンタリーとかやってくれれば社会の理解も進む」
「絵的に無理。身体障碍者の努力する姿は見ればわかるけど、精神障害者は怠け者っぽく見える」
という書きこみ。(私ではありませんよ)

 テレビだから、絵的にいいものを取り上げるのは仕方ないと思います。後は受け取る側の問題。見てすぐわかる障碍の人が、同情されたり、ちょっとしたことで
「すごいね」
と言われてうんざりし、
「普通の人と同じに扱って欲しい」
と発言するのは至極まっとうなことです。

 見た目でわからない障碍だと、日頃から普通の人と同じにできることが強要されます。こういう障碍を持っていてできない、と説明すると、それを聞いた人は
「普通の人と同じに扱って欲しい」
発言を無意識に思い出し、
「普通の人と同じに扱って欲しいという障碍者が立派で、障碍を言い訳にしてできないことを正当化しようとしている障碍者は怠け者で世間に甘えている」
となる、と妄想してしまいます。全然背景違うのに。

「普通の人と同じに扱って欲しい」
という障碍者の方が健気で絵的にも感動誘いますね。単なる本人の希望だと思うのは、私が性格悪いからです。
 私がトライアスロンしたらほめてもらえるでしょうか。走るの遅いけど、走れない訳ではないから無理でしょう。絵的にだめです。

 

 

 8月29日の記事。新聞の投書にも時々ありますが、身体障碍者でも見た目でわからない人は、知らない人に人前で怒られたり、苦労していらっしゃるようです。診断前から、こういう話を見聞きするたび、

「こういう障碍があると知らないからその人は怒るので、知っていれば問題はない」

とお気楽に考えていました。このブログを開設した時もそうでした。

 しかし事態はそう単純ではありません。何も言わなくても見た目が雄弁に語る障碍と違い、言葉で説明することそれ自体が怒りを買うようです。「沈黙は金」ということわざが生きていた時代の名残でしょうか。

「見た目が真実」「言葉は嘘」

この発想があまりにもぶっとんでいてしばし理解できませんでしたが、ぶっとんでいたのは私だったようです。

 元Yahooブロガー、よーし様の現ブログの記事 があまりにも私の現在の心境を表していたので、こちらもぜひお読み下さい。
  
 リハビリのため毒吐きを少々。他人のブログでとうとうと説教する人たちの心理というのは何なのでしょう。受け入れないと
「そのことに気づかないとあなたはだめな人間になる」
ネットの書きこみに従わなかったらだめ人間になるとはすごい論拠です。ネットの書きこみをいちいち信じて右往左往する人が立派な人間なんですか。そちらの方が危なそうなんですが。人には好かれるのだろうけれど、リフォームいっぱいされそうです。
 
 説教する人たちの、飛躍しすぎているのになぜか逃げ場のない論理に、昔、とある自己啓発プログラムに私を勧誘しようとした友人を思い出しました。言っていることがそっくりです。
「変わりたいと口では言うけれど変わろうという努力を全然していない」
「あなたのことを思ってあえて厳しいことを言う人間の言葉には耳を傾けないと、誰も言ってくれなくなるよ」
「本当の友達なんかいないでしょ」
「あなたが友達だと思っていても向こうは思っていないかも知れないよ」
否定する材料はありません。私でなくてもギクリとするものはあるでしょう。だから気を抜くと相手の営業トークに飲みこまれます。要するにその自己啓発プログラムをやらないとだめな人間になるということなのですが。
 その友人は自己啓発プログラムの会社の社員ではなく、受講生です。知り合いを連れて来ることがプログラムの課題のひとつだったようですが、自分の利益のためでなくあなたのことを本当に思っているから勧めるのだと言い張ります。あなたのためを思ってと主張する人の前でどんな反証ができるのでしょう。全て
「人の気持ちがわからない→だめ人間になる」
と話の流れは決まっています。
 
 もちろん断わりましたが私は何だか不快感を感じ(それは言葉のひとつひとつには逆らえない勢いがあったからです)他の友達に言いまくって
「それおかしい。宗教みたい」
と賛成してもらって安心しました。これで安心するところは、彼らから見ると愚かなのでしょう。
 その友人は他の友人にも全て断わられ、勤め先も辞めて音信不通です。私と違って立派な人間になっていることでしょう。

 

 

 8月21日の記事。復活記念というべきでしょうか。「説教族」という用語もこの辺りから生まれた気がします。

 人に指導する立場、職業の人というのはいます。親、先生、上司、医師、裁判官、警察官などなど。こういう立場での対象者でもないのに、人を捕まえては説教する人というのは、自分を偉いと思っているのでしょうか。

「誰も言ってくれなくなるよ」

という言葉には漠然と不安にさせられるのですが、そういうことは絶対ありません。世の中には人にものを教えてあげたい人が掃いて捨てるほどいます。というかこんなことを言う人にものを教わりたくありません。自分がいかに立派な人間かを自慢したいだけです。

「善意でも、人に説教ばかりしていると誰にも話を聞いてもらえなくなるよ」

と説教してあげましょう。(返り討ちに合いそう)

 帰って参りました。実家近辺にもネットカフェくらいあるだろうと思ったら、マンガ喫茶すらありませんでした。
 1ヶ月前から言っている携帯買い換え。今や骨董品である7年前の携帯は、田舎では建物の中では繋がりません。窓か出入り口近辺なら何とか繋がるのですが、実家でも
「買い換えろ」
の大合唱でした。
 
 しかし携帯の買い替えには、苦手な「店員との複雑な会話」が必要です。なかなか一歩が踏み出せません。「記事書けない病」以来体調万全でないので、近所のド○モショップで済ませたいのですが、大分昔カセットテープ(死語)をその辺の電気屋で買った時、
「量販店で買った方が安いのに」
と言われたことが忘れられず、量販店で売っているものは量販店まで買いに行かないといけないという恐怖にさいなまれます。昔から「否定されると死んじゃう病」です。
 「記事書けない病」解決までは、携帯の買い替えという大事業にたどりつけそうにありません。

 

 

 8月19日の記事。帰省から2日であっさり帰宅。今はFOMAに買い換えたからアメブロなら更新できる(多分)のですが、この頃はメールもできない古い携帯でした。そして携帯を買い換えるというだけのことで悩む悩む。さぞ他の方にはくだらない悩みに見えたでしょう。結局買い換えたのですが。

 今日から夏休みいただきました。5連休。もう何年も実家には行っておりませんが、今回ちょっとだけ(2泊ほど)帰ってみます。ただし、実家には泊まらず近くにホテルを取りました。
 自分の部屋はもうないから、自由に見れるテレビもパソコンも1人になれるスペースもなく、実家と言っても泊まるのは落ち着かないのです。親もつきあい長いから、私が他人のいる空間でゆったりできないことを知っていて、
「ホテルに泊まれば」
と持ちかけてきました。さすがに実家に帰るのにホテルを取るのは抵抗ありましたが、誰も見ている訳でなし。生まれ育った町でのんびりするのもよいものです。
 
 ネット環境が見つかれば向こうで更新します。まあ明後日には帰ってくるのですが。実家にもパソコンありますが、後ろから見られたら大変です。携帯を買い換えれば、アメブロなら更新できるのに。そう言えば、普段Yahooメインでも、帰省するともうひとつの他社ブログだけが更新される人いました。
 

 

 8月17日の記事。ホテル帰省は快適でした。皆様は家族といる時安らぎを感じるのでしょうか。私は家族がいやとかそういうのではないんですが、落ち着かないのです。人がいる空間はリラックスできない、のんびりできないといいますか。

 そういえばもう冬休みも近いですね。帰省どうしましょう。帰省しないとしたら1人でボーっと新年を迎えることでしょう。元旦から1人で更新していたりして。

 過去の記事を写すという作業は自分が想像したよりも恥ずかしく、様々な「現在」(過去ではなく)を引っ張り出します。
 昨日写したの「世間の目 」は、まさに私の現在を映していました。現在の私は、過去の自分がこの先どこへ向かうか知っています。
 
 もうひとつの人格「動作脳ちゃん(名前がかわいくないわ)」の発見、分身とも言うべき「かんさつ日記 」R氏との出会いと別れ、私にも幸せに生きていくことができるのではないかという期待、それを言葉にしたら、ある種類の人には
「怠けたい、努力したくない、他人に迷惑をかけて生きていきたい」
と見えてしまうことに、失語状態になった現在。
 このブログを何回も読み返してくれた人がいます。その人は、私が再び現在にたどりついた時、何を見つけるかもう知っているのでしょうか。
 
 午前3時、トラックバック を下さったちょっちぷんさんは、きっと何度も書き直したのでしょう。私が記事をかけなくなって、私以上に神経を消耗させたのに、私に呼びかける記事をいくつも書いてくれました。
「理解してあげたいのではない、理解したいのだ」
と受け取って、間違いはないでしょうか。あなたの言葉を下手に自分の言葉に変換すると、また違う意味になってしまいそうです。
 
 ブログを始めたのは、少なくとも当初は、誰かに理解して欲しいからというより、私が理解したかったのです。私自身を? アスペルガー症候群を? 外の世界を? 同じ困難を持つ人々を?
 読者には理解しない自由もあります。私は理解するために書いている、そして、理解したいと思って下さる方が読んでいる、それが実現すれば、また、書き始めることができるかも知れません。

  

 

 8月15日の記事。この前後、Yahooはあんこブログ化しております。読者の中に私を攻撃しようとする人がいるという恐怖でいっぱいでした。いつも来て下さる方は好意的であると信じていたのに、何人かは反感を持っていたという事実。

 攻撃が目的なら来ないで欲しいという私になお説教を繰り返す人。

 それを削除しまくる自分。

 そして私が書けずにいることに、私以上に神経をすり減らす人々。

 書こうとしても、「ああ言われるかも」「こう言われるかも」という妄想が先に立って書けませんでした。よく今書いていますね。