過去の記事を写すという作業は自分が想像したよりも恥ずかしく、様々な「現在」(過去ではなく)を引っ張り出します。
昨日写したの「世間の目
」は、まさに私の現在を映していました。現在の私は、過去の自分がこの先どこへ向かうか知っています。
もうひとつの人格「動作脳ちゃん(名前がかわいくないわ)」の発見、分身とも言うべき「かんさつ日記
」R氏との出会いと別れ、私にも幸せに生きていくことができるのではないかという期待、それを言葉にしたら、ある種類の人には
「怠けたい、努力したくない、他人に迷惑をかけて生きていきたい」
と見えてしまうことに、失語状態になった現在。
このブログを何回も読み返してくれた人がいます。その人は、私が再び現在にたどりついた時、何を見つけるかもう知っているのでしょうか。
午前3時、トラックバック
を下さったちょっちぷんさんは、きっと何度も書き直したのでしょう。私が記事をかけなくなって、私以上に神経を消耗させたのに、私に呼びかける記事をいくつも書いてくれました。
「理解してあげたいのではない、理解したいのだ」
と受け取って、間違いはないでしょうか。あなたの言葉を下手に自分の言葉に変換すると、また違う意味になってしまいそうです。
ブログを始めたのは、少なくとも当初は、誰かに理解して欲しいからというより、私が理解したかったのです。私自身を? アスペルガー症候群を? 外の世界を? 同じ困難を持つ人々を?
読者には理解しない自由もあります。私は理解するために書いている、そして、理解したいと思って下さる方が読んでいる、それが実現すれば、また、書き始めることができるかも知れません。
8月15日の記事。この前後、Yahooはあんこブログ化しております。読者の中に私を攻撃しようとする人がいるという恐怖でいっぱいでした。いつも来て下さる方は好意的であると信じていたのに、何人かは反感を持っていたという事実。
攻撃が目的なら来ないで欲しいという私になお説教を繰り返す人。
それを削除しまくる自分。
そして私が書けずにいることに、私以上に神経をすり減らす人々。
書こうとしても、「ああ言われるかも」「こう言われるかも」という妄想が先に立って書けませんでした。よく今書いていますね。