この議論の中で生じた宗教シリーズは、宗教学的にも日本における偏見の構図を考える上でも非常に価値あるものですね。
 どんな分野においても常にマジョリティの立場にある人というのは少ないと思うのです。ほとんどの人はマジョリティであると共にマイノリティ要素を抱えている、なのになぜ、自分がマジョリティの立場である時にマイノリティに偏見を示してしまう(これは私自身のことでもあります)のか、ここで一言で言い表せないものがあります。これから、議論の中で明らかになっていくでしょう。
 過去の中間報告はこちら
 
 
2007/4/8 差別したい ~エピローグって間違えたプロローグ~   ちょっちぷんさん
     <memo> 差別する心と向き合う
     <key word> 特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること、群衆行動、暗示、感染
     <tag> 差別
 
       差別したい ~1・事件~   ちょっちぷんさん
     <memo> 身近に有害である可能性を持つ存在があった時、偏見から自由でいられない
     <key word> 犯人、知り合い、動揺、嫌悪感、幼い娘、警告、精神構造
     <tag> 差別
 
       差別したい ~2・事件から内部探求へ~   ちょっちぷんさん
     <memo> 人は、全てのものに理解を示すことができるほど、人生に恵まれていない
     <key word> 価値体系、強制的、フィルタ、判定合戦、デリカシー、正当性、内部探求
     <tag> 差別
 
       差別したい ~3・光を当てて探る~   ちょっちぷんさん
     <memo> 「個」への好意と、その人が帰属する「集」への警戒は矛盾なく存在する
     <key word> 警戒、帰属意識、無理解、精神構造、平等、優越性、修正、誠実
     <tag> 差別
 
       差別したい ~4・くぼみから引きずり出したもの~   ちょっちぷんさん
     <memo> マイナス感覚を元に個を評価する時、それがどれだけ本質的なものかは問う必要がある
     <key word> 恐怖感、色眼鏡、バイアス、オリジナルの特性、マイナス要因、本質的
     <tag> 差別
 
       差別したい ~5・さらに暗い部分へ~   ちょっちぷんさん
     <memo> 外面的なものに対する差別は止められても内面的なものに対する恐怖感は排除できない
     <key word> 選民思想、善意啓蒙、価値観の押しつけ、恐怖、理性、支配以外を望む
     <tag> 差別
 
       黙っている方が楽   chargeup
     <memo> 認知の世界が違うことを認識していない人に、自分の世界を説明するのは難しい
     <key word> 理解を求める、甘え、説明責任、認知、言語的理解、非難、混乱、我慢
 
       日本の宗教について(メモ)   海風さん
     <memo> 宗教は、社会の形態に似ている
     <key word> 脱社会、ムラ社会、企業活動、モラルの喪失メカニズム、施政者に都合よく利用された
     <tag> 宗教
 
2007/4/9 Home away Home #7   わたりとりさん
     <memo> こころを表す形は人それぞれだと、当たり前に理解される社会になっていくかも知れない
     <key word> 村、文化、統治、共同体、儀式、精神、信仰、信教、冠婚葬祭、折り合い、予感
     <tag> 宗教
 
2007/4/13 ▼「ネガティブな他者認識」これまでのまとめ~高橋和巳「差別について」補論(3)   ナイジェルさん
    <memo> ネガティブな他者認識形成の過程と高橋和巳の論考からキーとなる箇所引用
    <key word> ヘイトスピーチ、ストーリー、固定観念、装われた客観性、コンプレックス
 
       ▼「ネガティブな他者認識」と「差別」の構造~高橋和巳「差別について」補論(4)   ナイジェルさん
    <memo> 差別の形成過程と正しさの検証
    <key word> ステップ、防衛機制、修正不可能のイメージ、アウト、セーフ、寛容の強制
 
       Home away Home #8   わたりとりさん
    <memo> 善は世の現実を知らないのではなく、知った上で、なお善であり続ける
    <key word> 嘘くさい、愛、平和、正の価値、負のイメージ、教養、懐疑、無限ループ、いつか
    <tag> 宗教
 
 10に続く
 
 
 4月15日の記事。とうとう過去の中間報告リンクが別記事になりました。抜本的に整理の仕方を変えないといけない時期が来たようです。
 マイコは退院し、会社に復帰した。ハヤミはいなかった。元々派遣社員だったから、今回自分から契約更新を断ったと聞かされた。久しぶりに自分の社内ブログを開くと、激励のコメントがたくさん入っていた。ハヤミからも残っていた。マイコはまとめレスを兼ねて記事を書き始めた。
 病院内の爆発事件は報道されなかった。しかしそのことを書いたブログ記事は見た。どんなに報道を規制しても、個人というメディアを規制することはできない。真実はゴミの山に埋もれても、浮かび上がってくる。必ず。
 
 あの日、突然頭上から、プロペラ音も高らかに、ヘリコプターが降りてきた。着陸しないまま縄ばしごが投げられ、黒マントにシルクハットの男が地上に降りてきた。ノボルだった。
「ヤマザキさん、悪いけど警視総監指令だそうだ。イガラシイズミはこちらであずかる」
ノボルは警視総監印の入った文書を広げた。
「ちょっと、あんた何、そのそれらしいかっこうは」
マイコはどうでもいいことを突っこんだ。
「いやあ、それらしくていいでしょ」
シルクハットが風で飛ばないように、あごひもがついているのが情けなかった。
「カメイの命令か。警視総監にまで手が回っていたとはな」
ヤマザキはノボルをにらんだ。
「こっちも仕事だ。悪く思わないで欲しい」
ノボルはイズミを先に縄ばしごに昇らせ、自分も続いた。
 
 ヘリコプターは再び、プロペラ音も高らかに去って行った。
「いいの、放っておいて」
「よくはないがさっき携帯にも電話があった。イガラシイズミ逮捕は見送るようにと」
ヤマザキは地面を蹴った。
「マイちゃん、トオルはうれしいんだろうさ。カメイがヨウコちゃんを利用したあげく見捨てなかったことが」
ハヤミはヤマザキの姿を隠すように、マイコとの間に立った。
「カメイって誰」
どこかで聞いた気がする。
「君の大学の学部長だ」
「あ、あの黒ブチ眼鏡のエロい」
ヤマザキの携帯が鳴った。
「ええ、わかっていますよ、大丈夫です、すぐ戻ります、はい」
携帯に答えながらヤマザキはその場を離れていった。
「ヤマザキさんも普通のサラリーマンなんだ」
マイコは少しがっかりした。権力に追従しない立ち回りを期待したのに。
「大人なんだよ、あいつは。僕と違ってね」
ハヤミの方が大人っぽいように、マイコには映る。そういえばこの2人やっぱり知り合いではないか、と思ったが、聞けなかった。さっき、2人が手をつないでいるのを見てしまったから。
 
 記事を書いていると、課長がにこにこしながら近づいてきた。マイコは
「続きはまた後で書きます」
と書いて、公開ボタンを押した。
「もう身体の具合はいいの」
「はい、全く問題ありません」
課長が「からだ」と言うだけでエロさ爆発だ。
「試用期間も終わるし、あるプロジェクトを担当してもらおうと思うのだけれど」
「プロジェクトですか」
何か重そうだ。
「メイド喫茶を越える、メイドPCショップの開店だ。店員の制服はメイドさん、オタクがターゲット、いいアイデアだろう」
そうかなあと思いながらも、メイドのかっこうは1度してみたかったのだ。
「このプロジェクトのために派遣社員を1人採用したから」
まさかハヤミが戻ってきたのだろうか。別フロアに用意されたプロジェクトルームに案内されると、そこには1人の女性が、支給されたばかりのパソコンをセットしていた。
(イズミ)
マイコは言葉を失った。
 
 
 続きがありそうに見えますが、最終回です。ご愛読ありがとうございました。友情出演して下さった皆様ごめんなさい。ホストクラブと全然関係なくなってしまいました。
 
 
 4月14日の記事。ごく一部の妄想ファンの皆様ありがとうございました。異文化交流議論が落ち着いたら(永遠に落ち着かない)また書いてみたいです。
 道徳が「徳育」という名称で教科になるという話題(アメーバニュース )。今まで教科でなかったとは知りませんでしたが、教科になると成績評価を伴う点に、拒否反応多いです。
 評価、大いに結構ではありませんか。
「道徳に正解はない」
そんなことありません。複数かも知れませんが正解は確実にあります。評価があるなら、ぼやかさずに正解を示して欲しいものです。
 
 こういうことを直接教えず雰囲気で学ばせようとするからいかんのです。モラルやマナーは国が違えば通用しないところを見ると、人間が生まれながらに持っているものではありません。学ぶものです。
「あなたがしてもらいたいと思うことを相手にもしてあげましょう」
「して欲しくないことを他の人にしないようにしましょう」
これは自分の考えでいいように見えますが、実は期待されている正解があって、正解通りにしないと怒られるだけでなく人格を否定されて混乱の元です。それだったら最初から
「こうしてね」「こうしないでね」
と正解を教えてくれれば問題ありません。
 個性が損なわれるということもありません。マナーやモラルは個性ではありません。犯罪者を個性的とは言わないでしょう。正解をうやむやにしておいて、身についていない人間を非常識と攻撃するよりは、正解を教育するべきです。そんなことで個性はなくなりません。
 
 問題は、大人の道徳と子供の道徳は必ずしも一致しないことです。子供のうちは
「人の嫌がることをしないようにしましょう」
がモラルですが、大人になると人の嫌がることをいっぱいしないといけません。未払い金の督促電話をかけるとか、ポイントカードを無理やり作らせるとか。
 その場合、どっちを教えればよいかというと、子供のモラルを正解とした上で、
「大人には大人の事情がある、正義のヒーローも好きで悪と戦っている訳ではない。だから君たちは悪と戦ってはいけない、しかし大人になって、自分よりもずっとずっと大切な人ができて、どうしてもその人を守らなければならないことになったら、自分と引き換えにする覚悟で戦いなさい」
と締めておけばよいでしょう。(駄目?)
 
 最初から大人の道徳(変な意味ではない)を教えておければいいのですが、大人と子供の道徳が違うということは、きっと発達段階に応じた道徳というものがあるのでしょう。
 小学生の私が親に、答えるのに困る質問(どんな?)をしたら
「それはお前が大人になったら自然にわかる」
と言われたので、大人になってもわからなかったらもう1回聞こうとずっと覚えていました。自然にではありませんが、わかりました。
 
 
 4月12日の記事。道徳でははっきり答を教えてはいけないことになっているそうですが、はっきり正解を教えてそれが大人になると使えないことに気づかれると責任問題に発展するからに違いありません。
 あれですね、常々思うのは、性格が悪い人に性格が悪いと言うのは差別ではないけれど、頭の悪い人に頭が悪いと言うのは差別なんですね。
 性格は本人の努力で直せるけど、頭が悪いのは簡単に直らないという解釈なんですね。「努力」がここでもキーワードですね。差別と努力は一見無関係に見えて、とっても深い関係ですね。
 
 学習したり経験を積んだりした結果頭がよくなるということは、子供はもちろん大人にだってあり得ることなんですね。性格の改善なんかより簡単そうに見える訳なんですね、私なんかには。なのになぜ、頭の悪い人に頭が悪いと言うのがタブーになっているかというと、知的障害者の存在、というのが大きいんではないかと思えますね。
 知的障害者差別はいけない → 知的能力によって差別してはいけない
みたいなね。実際的には社会での位置が決まるのって知的能力によることが多いと思うんだけど、そんなこと絶対ないことになってませんかね、言葉の上では。
 
 知的障害者に
「努力が足りない」「知的障害者だからとそれに甘んじてしまえば成長は止まってしまう」
とか言う人いるんですかね。専門家は知りませんが素人は言いませんよね。どうなんでしょうね、知的障害は
「知的な方面で努力できない障害」
と認識されているのか、それとも
「努力しても知的には伸びない障害」
と認識されているのか、どっちなんでしょうね。
「努力が足りない」
って伝家の宝刀ですね、便利な言葉ですね。
 
 私のような発達障害者は知的に問題がなくて単に性格が悪いように見えますけど、本当は知的に問題あるんですね、自分で言うと怒られちゃいますけど。アウトプットに比べるとインプットに問題あって、情報に混乱しやすいんですね、整理しながら脳内に入れていかないとショートしちゃいますね。
 私は自分なりのやり方を持っているんですけど、外界では怒り狂われてしまうんですね、こうすればできるんですけど、なんて言うと
「口答えした」
と大騒ぎされますね、びっくりしますね、はい。
 
 能力の問題ではない、やる気がないからだ、とよく言われましたね。きっと、能力の問題だと思ってもそう言ったらいけないんでしょうね、差別ですからね。能力差別を性格差別に転化するのはいい方法ですね。
 おっと失礼、性格が悪いのは差別ではありませんね、努力が足りないのも差別ではないのですものね、そうすると私なんか差別されたことの全くない幸せ者ですね。
 そろそろ文体にボロが出そうなので、これにて失礼します、サイナラ、サイナラ。
 
 
 4月10日の記事。ブログ初期、説教ばかりされていた頃、私は
「就労できていない成人発達障害者」
が自分が想像しているよりたくさんいると知りませんでした。
「就労している」
が出発点である場合と
「就労していない」
が出発点である場合は全然本人の心がけの在り方も周りの接し方も違うでしょう。
 何で働いていない人に説教されないといけないのさ(くどいようですが働いていないから悪いと言っているのではありません)と不満だったのですが、働いていないのを
「発達障害があるから仕方ない」
と思ってしまったらそれはまずいでしょう。様々な事情が重なってそうなることはあると理解はしているつもりですが。それにしても、説教する前によく読めということです。
 この前聴覚障害者の話 を書いたけど、私と違って聴覚障害は周りの人に伝えておかないと文字通り話にならないから、常に理解を求めていなければならず大変そうです。世の中には理解を求めるだけでも甘えだと説教を始める人もいますから。
 
 自分から
「この点はできないのでご了承下さい」
と言うのは甘えだと受け取られるのに、説明責任はマイノリティ側にあるんですね。マジョリティ側にしてみれば
「ハンディがあるにもかかわらず仲間に入れてあげるんだからあなたが努力しないといけないのは当然でしょ」
なんですけど。
 
 聞こえる文化の人が世界をどう認識しているか、その中で聞こえない文化はどう捉えられているかしっかり理解した上で、相手の世界の認知に合わせて説明しないと通じません。
 私にも覚えがありますが、自分の認知の中にない世界を見ている人に自分の世界を説明するのは、私自身が普通の人の認知する世界を想像できていないと難しいです。
 聞こえないというだけでコミュニケーションにはハンディがあるのに、その上で高度な伝達技術を求められるのはつらいでしょう。
 生まれつきの聴覚障害者は自然に言葉を覚えられないから、1個1個教えてもらって身につけてきた、だから一見口頭での会話や文章に不自由なさそうに見えても、自分にはない認知の世界を言語的に理解し、言語的に伝えるのは大変そうです。
 
 説教族は説明すると
「甘えだ」
と怒るし説明しないと
「言ってくれないとわからない」
と怒るからな。
「できない」
と言うと
「やってみないとわからないでしょう」(何回もやったんだよ)
と怒るしやってみてできないとやっぱり怒る、と書くと
「何もしていないうちに決めつけるな」
と怒られそうです。
 全部同一人物とは限りませんが、何をしても誰かに非難されるうち何が正しいのかわからなくなって混乱するという状況は変わらない訳で、何をしても怒るんだったら何をしても怒らなくても一緒だと思うんですけど。
 
 とはいえ、現実はそういう人たちがいる世界で生き抜かなければなりません(やだなあ)。私は周りの人にASとは言っていませんが、もし言ったとしても変にびびられるか、
「誰にでもそういうところはある。みんな大変なんだ」
とかまされるかどちらかでしょう。
「誰にでもそういうところはある」
けれど、認知の仕方が違うことを知っていてもらえるとありがたい、というのが伝わるとよいのですが、聴覚障害者にすら
「健聴者だって我慢しているのです」
と言う人がいるところを見ると全然駄目ですね。
 
 自分のブログの記事を、コメント欄含めて全部読めと言うのも今となっては大変です。そういう訳で、説明するよりは
「かなり変わった人」「今まで甘やかされてきたんだろうね」
と言われている方が楽だな、と思った次第です。これも、私が就労できているがゆえの傲慢なのですが。
 
 
 4月8日の記事。説教族は人に注意する時
「こんなことに気づいたのは私だけだ」
と思っているみたいだけど、あなたに言われる前に100回くらい別な人に言われていますので心配しないで下さい。