あれですね、常々思うのは、性格が悪い人に性格が悪いと言うのは差別ではないけれど、頭の悪い人に頭が悪いと言うのは差別なんですね。
 性格は本人の努力で直せるけど、頭が悪いのは簡単に直らないという解釈なんですね。「努力」がここでもキーワードですね。差別と努力は一見無関係に見えて、とっても深い関係ですね。
 
 学習したり経験を積んだりした結果頭がよくなるということは、子供はもちろん大人にだってあり得ることなんですね。性格の改善なんかより簡単そうに見える訳なんですね、私なんかには。なのになぜ、頭の悪い人に頭が悪いと言うのがタブーになっているかというと、知的障害者の存在、というのが大きいんではないかと思えますね。
 知的障害者差別はいけない → 知的能力によって差別してはいけない
みたいなね。実際的には社会での位置が決まるのって知的能力によることが多いと思うんだけど、そんなこと絶対ないことになってませんかね、言葉の上では。
 
 知的障害者に
「努力が足りない」「知的障害者だからとそれに甘んじてしまえば成長は止まってしまう」
とか言う人いるんですかね。専門家は知りませんが素人は言いませんよね。どうなんでしょうね、知的障害は
「知的な方面で努力できない障害」
と認識されているのか、それとも
「努力しても知的には伸びない障害」
と認識されているのか、どっちなんでしょうね。
「努力が足りない」
って伝家の宝刀ですね、便利な言葉ですね。
 
 私のような発達障害者は知的に問題がなくて単に性格が悪いように見えますけど、本当は知的に問題あるんですね、自分で言うと怒られちゃいますけど。アウトプットに比べるとインプットに問題あって、情報に混乱しやすいんですね、整理しながら脳内に入れていかないとショートしちゃいますね。
 私は自分なりのやり方を持っているんですけど、外界では怒り狂われてしまうんですね、こうすればできるんですけど、なんて言うと
「口答えした」
と大騒ぎされますね、びっくりしますね、はい。
 
 能力の問題ではない、やる気がないからだ、とよく言われましたね。きっと、能力の問題だと思ってもそう言ったらいけないんでしょうね、差別ですからね。能力差別を性格差別に転化するのはいい方法ですね。
 おっと失礼、性格が悪いのは差別ではありませんね、努力が足りないのも差別ではないのですものね、そうすると私なんか差別されたことの全くない幸せ者ですね。
 そろそろ文体にボロが出そうなので、これにて失礼します、サイナラ、サイナラ。
 
 
 4月10日の記事。ブログ初期、説教ばかりされていた頃、私は
「就労できていない成人発達障害者」
が自分が想像しているよりたくさんいると知りませんでした。
「就労している」
が出発点である場合と
「就労していない」
が出発点である場合は全然本人の心がけの在り方も周りの接し方も違うでしょう。
 何で働いていない人に説教されないといけないのさ(くどいようですが働いていないから悪いと言っているのではありません)と不満だったのですが、働いていないのを
「発達障害があるから仕方ない」
と思ってしまったらそれはまずいでしょう。様々な事情が重なってそうなることはあると理解はしているつもりですが。それにしても、説教する前によく読めということです。