真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(9) | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

文鮮明教祖と韓鶴子夫人が神から始まった近親婚(父娘婚)「近親絶対理想的相対関係」の関係であるかどうかという文教祖の聖書解釈と理論の考察です。

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(8)」の続きです。


■大母様(洪順愛)と関係があった三人の男性について

一人目:「私は三年後にまた帰ってくるから、あなたは三年間、心を変えず待っていなさい」と大母様(洪順愛)に言い残し、大母様が一生、「この人のために心変わりはしない」と決意させた男性
二人目:韓鶴子夫人の父親と言われている韓承運氏
三人目:済州島に一緒に避難してきた夫(韓承運氏ではない)

前回に引き続き、洪順愛大母様の関係のあった一人目の男性について話していきたいと思います。

洪順愛大母様が北で文教祖そっくりの男性との出会いから(本人は夢だと言っていますが)、統一教会に入教するようになったのは1955年12月でした。

しかし、文教祖は入教したての洪順愛大母様を知っているのか、冷たい態度を取るのです。
洪順愛大母様は、証の中でこう述べています。

『そのままソウルに上がってきて、先生にお会いしあいさつをしました。あいさつをささげると、北韓にいるときに二度夢のお告げでお会いした正にそのかただったのです。あまりにもおそれ多い思いがして、身の置きどころがありませんでした。先生は私に「おまえ、おまえ」と言われました。先生は「おまえのような者が何を知っているのか」という具合で、知らないふりをされました。心の中で大きな葛藤が起こりました。北韓で夢のお告げに見たかたであるし、今や死のうと生きようとついていかなければならないかたです。首を切られても侍らなければならないかたなのに、そのように怒っておられるので、どうしたらよいのかと目の前が真っ暗になったのです。申し訳なくて、死んだらいいのか、生き続けるべきかも分からず、どうしようもない気持ちでした。それでもしきりに祈祷しました。「お父様、どうすればいいでしょうか。先生があのように怒っておられるので、どうしたらいいでしょうか。私がどんな罪を申し出なければならないのでしょうか」と幾度も幾度も祈祷しました。しばらく祈祷すると、「どんなことをしてもこの峠を越えなさい。この峠を越えなければ、あなたはイスカリオテのユダになる」と教えられたのです。そのようにしてしばらくを過ごしました。
クリスマスになって、先生はとうもろこしを分けてくださいました。ほかの食口たちには優しく渡してくださるのですが、私の前に来られるとぱっと投げられるのです。ほかの人が統一教会に入ってくれば、一人に対しても夜を徹してみ言を語ってくださり、どれほど喜ばれ、愛してくださるか分からないほどなのに、私にだけはそうされませんでした。

(1989年発行「愛の世界」より 「夢に描いた主にお会いして」洪順愛の証)

『私はソウルに上がり、先生にお会いし挨拶をしました。その方は以北で二度夢の告げで見たその方でした。私はあまりにも恐縮して、身の置き所がありませんでした。
 先生は私に、「お前、お前」と言われ、「いったいお前が何を知っているのか?」という具合で、私のほうを見てもくれませんでした。私はスンヨン氏と二人で行ったのですが、先生はスンヨン氏にお話をされるのに、私には知らないふりをされました。

(1987年10月~12月発行ファミリー「夢に描いた主様にお会いして」洪順愛の証)


文教祖の態度は明らかに、初めて教会に入ってきて面識のない信者に対しての態度とは異なっています。『知らないふりをされました』ここでは、『無視』したと表現したかったのでしょうが、『知らないふり』はあくまで知っている者に対して使う言葉のはずです。知っていることを前提に使う言葉です。単純に『無視』したと書けなかったのは、洪順愛大母様は何か裏に含みを込めて書きたかったのでしょうか?

さらに文教祖の洪順愛大母様への冷遇が続きます。

『だからといって「出て行きなさい」とは言われませんでした。そのとき「出て行きなさい」と言われたら、首をつって死んでしまいそうな心境でした。しかし、「出て行きなさい」とまでは言われなくとも、蔑視冷遇されたのです。それでもすべてを我慢して峠を越えなさいと言われたので、そのまま耐えていました。祈祷をすれば、いろいろと夢を見せてくださいました。そのように夢ではよくしてくださるのですが、実際には怒っておられるので、死にたい気持ちでした。聖主教から腹中教を経て、このかたを探し求めて今ようやくお会いできたのです。北で夢に見たそのかたに間違いないのに、怒っておられるので、心は言うに言えないほど切なかったのです。それでも出て行けと言われず、食口たちがいればまた入っていって、向かい合って座ったりしました。一週間そのように過ごしました。冷遇されてもそのまま耐えていました。そうすると胸は焼け、唇が裂けるかと思うほど心は苦悶するばかりでした。一週間ぶりに先生が聖日に説教をされました。「昔イスラエル民族が真の父として来られたイエス様を迎え入れず、十字架につけた罪は、どれほど大きいことか」と言われながら、イエス様の心情について説教されたのです。とにかく、新イエス教、聖主教、腹中教に通いながら、たくさん泣いてきましたが、そのときほど骨身にしみて泣いたことはありませんでした。泣いても心は晴れませんでした。どれほど意気消沈し、胸痛く、悔しかったか、言うことができないほどです。』
(1989年発行「愛の世界」より 「夢に描いた主にお会いして」洪順愛の証)


洪順愛大母様が北で(夢の中で)出会った文教祖そっくりの男性が言った言葉を覚えていますか?

「私は三年後にまた帰ってくるから、あなたは三年間心を変えず待っていなさい」と言われ、北の方に向かって口笛を吹きながら一人寂しく行かれるのでした。その後ろ姿を眺めながら、私はとめどもなく涙を流しました。お一人で勉強しに行かれるその姿が、これほど寂しく見えたことはありませんでした。また何のとりえもない私を見て「三年間心変わりしないでいなさい」と言われました(私はもちろん心変わりはしませんでしたが)。』
(1989年発行「愛の世界」より 「夢に描いた主にお会いして」洪順愛の証)

「私は三年後にまた帰ってくるから、あなたは三年間心を変えず待っていなさい」と言ったのです。
これは、恋人や夫を待つように「浮気(心変わり)」をせず、三年間は耐えて待ちなさいと言うことです。

ですから、洪順愛大母様は、浮気もせず、出会いからここ(統一教会入教)まで、長い年月をかけて会いに来たのに、「知らないふり」をされたので、耐えられず死にたい気持ちになったのです。

ただ、洪順愛大母様は浮気はしなかったけれど、北で(夢の中で)出会った文教祖そっくりの男性との出会いから今(入教)に至るまでの間に婚約したことが、文教祖に対して申し訳なく感じていました。「夫(婚約者)」とは、ずっと聖別生活(夫婦の性生活を断つこと)をしてきたけれども、「待っていてください」の言葉を待ちきれず、婚約してしまったのですから。(婚約者の夫とは三人目の男性のことです)

しかし、そんな負債のある洪順愛大母様に対して、文教祖はやっと優しい言葉をかけるのです。

先生は説教をされるとき、私だけを見て語られるようでした。しかし心は焦っていました。説教が終わって食口たちがみんな出ていく前に、鄭錫温勧士が先生に私の名前を言わずに「先生、先生が説教され始めてから終わるまで、慟哭していた人がいました」と言いました。すると先生はそのとき、「うん、その名前は何というのか」と聞かれました。こんなことがどこにありましょうか。その言葉を聞いて、今や生き返ったような気持ちになりました。それから部屋に入ってごあいさつすると、「おお、そこに座りなさい」と言われました。その慰めの言葉がどれほど感謝で、おそれ多かったでしょうか。本当に感慨無量でした。
(1989年発行「愛の世界」より 「夢に描いた主にお会いして」洪順愛の証)

文教祖は、洪順愛大母様が婚約していたことに対して、本当に怒っていたのかも知れないと思うのは、私の考えすぎでしょうか?

しかし文教祖の怒りがおさまり、周りの信者の状況も落ち着いてから、部屋に呼び、洪順愛大母様と文教祖は部屋でじっくり、北での出会いを話し合ったことでしょう。

洪順愛大母様が最初に統一教会に行くとき申し訳ないと思ったときの状況をみてみましょう。

『春川に行きました。当時私の弟は春川で補給倉庫長をしていました。私は春川に行っても、商売を始めました。一年くらい過ぎて、お母様が小学校の上級生のころ、鄭長老から手紙が来ました。聖主教のような教会がソウルにあり、先生が今大邱に来られてみ言を語っておられるので、早く来て聞きなさいというのです。そのときは陰暦の十一月でしたが、行くことができず、十二月の末ごろ、すなわちクリスマス直前に大邱に下っていきました。(中略) 大邱に行くと、鄭長老が「今や私たちは主を探し当てました。腹中教で服を準備し、お迎えしようとしていたそのかたを今ようやく探し出しました。そのかたが大邱に来られて、み言を語られたのです。でも、ちょっと遅かったですね。み言を語り終えられて、ソウルに上がっていかれました」と言われるのでした。今、ソウルに行けば、待ち望んだかたにお会いできると思い、うれしくもありましたが、なぜかは分かりませんが、しきりに自分の足りなさを感じました。それまで愚かにも苦労ばかりして回り道をしたことが思い出されました。知恵深く考えたなら、大邱に四年も住んでいたのですから、大邱で統一教会を探すこともできたはずなのに、探すことができなかったからです。済州島に行ってからも、愚かにも生食をしながら苦労ばかりして、探さなければならないかたを探さなかったことが、しきりに後悔されました。そう思うと、どれほど足りなく申し訳なかったかしれませんでした。(中略) そのままソウルに上がってきて、先生にお会いしあいさつをしました。あいさつをささげると、北韓にいるときに二度夢のお告げでお会いした正にそのかただったのです。あまりにもおそれ多い思いがして、身の置きどころがありませんでした。
(1989年発行「愛の世界」より 「夢に描いた主にお会いして」洪順愛の証)

では、文教祖に会いに行くときにいた洪順愛大母様の夫(婚約者)は、鄭錫鎮(錫珍)氏といい、聖主教の教祖、金聖道夫人の息子です。
この人が「三人目」の男性です。

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(10)」へ続く


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