真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(6) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(5)」の続きです。

文鮮明教祖と韓鶴子夫人が神から始まった近親婚(父娘婚)「近親絶対理想的相対関係」の関係であるかどうかの考察です。(あくまで文教祖の聖書解釈であり理論ですが・・・)


■文鮮明夫妻の血液型

統一信者の皆さんは、「お父様とお母様の血液型は同じB型」だと講義等で聞いた方は多いしょう。

私はアダムも、イエスもB型だったので、お父様(文鮮明教祖)もB型であると、教会で聞きました。

さて、文鮮明夫妻のB型で同じ血液型であるというみ言葉がありました。

『任命すれば、文鮮明と何の関係がありますか? 真の父母の息子、娘として、血統が変わりました。先生の血液型が何型か、知っていますか? お母様は何型ですか?
(真のお母様「(真のお父様と)同じです。」)
お母様は何型ですか? (真のお母様「同じですよ。」)ああ、ですから、「何型なのか?」と聞いているのです。同じ型ですか?
と聞いているのです。同じ型ですか?(笑い)(真のお母様「B型です。」)B型です。それを皆、知らなければなりません。』

(「第四次イスラエル国出発宣布式」の御言2003年8月20日 韓国・漢南国際研修院)


文教祖と韓鶴子夫人は教会で講義どおり同じ「B型」のようです。  

文教祖のみ言葉でイエスの妻の血統について語った内容があります。

『イエスはアダムの代わりですね。アダムにかたどって創造したのがエバであるので、イエスにかたどったエバを創造しなければなりません。イエスが生まれたならば、エバも創造原理通りに復帰し、再創造しなければなりません。(中略)それ故、洗礼ヨハネの妹や親戚関係の八親等内に娘がいたならば、洗礼ヨハネの母とマリア、そして姉がいたならば、その姉と三人が一つとなって、イエスより年が若いその親戚の娘と因縁を結ばなければなりませんでした。イエスと共に一人の女性を再創造しなければならなかったのです。(中略)イエスの相対は他のところから取ることができません。自分の直系の従兄弟の妹、従兄弟の姉妹からしかありません。血統が異なっていてはいけないのです。このように従姉妹を通して事が良く運んでいたならば、どのようになっていたでしょうか。(中略)もっと詳細に話をしてあげたいのですが、時間がありません。「原理」にはそういう内容がないですね。「原理」はイエス様まで説明しているために、イエス以後、先生に関することを皆さんは知りません。それ故に、皆さんはこれから本当の勉強が残っているのです。まだ私が教えてあげていないのです。』
(根本復帰 1971年1月10日韓国・江陵教会(聖日礼拝))

上記のみ言葉のように、イエスの相対(妻)は、イエスの父親(ここではザカリア)の血を受け継ぐ女性でなければならないと言っています。
(み言葉の詳細はこちらを参照)

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(3)」等でも説明して来ましたが、文教祖はみ言葉の中に「近親絶対理想的相対関係」「夫婦を兼ねた子女」「父女協助(または父娘協助)」という言葉が登場します。

イエスの妻の例をみても、文教祖が自分自身が再臨主(イエスの再臨)だと考えているとすれば、文教祖の父方の血統を受け継がなければ、相対(妻)にできないはずなのです。

文教祖いわく、アダムとエバも同じ父から生まれた兄妹でしたし、イエスの妻も同じ父から生まれた女性でなければならないと言っているということは、自然に文教祖の妻となる女性も同じ父から生まれなければ文教祖のみ言葉と辻褄があいません。み言葉が真理だとするならば、原理原則に則った方法を文教祖もとろうとするはずです。

しかしながら韓国では同じ父方同士の男女は絶対に結婚することができません。特に、文教祖が聖婚した1960年は父方の先祖の出身地(本貫)まで遡り、結婚を法律で禁止していました。つまり、文教祖と韓鶴子夫人が同じ父方の血統でなければ、文教祖の結婚は必然的に文教祖が言う「神側の法則(復帰原理)」と合致せず、文教祖夫妻は人類の「真の父母」ではなくなってしまいます。

777クラスの幹部が「2ちゃんねる」という掲示板で2002年に「お母様(韓鶴子夫人)は文教祖の娘である」という暴露発言の裏づけを取るために、み言葉等を調べてきましたが、文教祖のみ言葉にも「イエスと妻となる女性は血統が異なってはいけない(同じ父の血統)」あるように、やはり文教祖と韓夫人は親子であり夫婦である可能性はかなり高そうです。
(詳しくは「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(3)」を読んでください)


文教祖は「罪の遺伝」について、このように語っています。

『では、どのように罪が遺伝するのかというのです。その論理的根拠は、どこから解明されうるのかということです。血筋しかありません。父子関係は必ず似るものなのです。分かりますか?』
(秋夕節の御言2008年9月14日韓国・坡州元殿)

ここで言うところの血筋は遺伝子、肉の体の血統のことです。逆に罪が遺伝されないのは「罪のない人」の血を受けた子供は罪が遺伝しないということです。

簡単に言ってしまえば、イエスの時代であれば、イエスの実の子供に当たりますし、現在であれば文教祖の実の子供は罪が遺伝していないというようになります。それ以外は罪が遺伝した状態です。

この話は長くなりそうなので、後ほどまたすることにして、話を元に戻します。



■大母様(洪順愛)と関係があった三人の男性について

一人目:「私は三年後にまた帰ってくるから、あなたは三年間、心を変えず待っていなさい」と大母様(洪順愛)に言い残し、大母様が一生、「この人のために心変わりはしない」と決意させた男性。
二人目:韓鶴子夫人の父親と言われている韓承運氏
三人目:済州島に一緒に避難してきた夫(韓承運氏ではない)

この三人のうち誰が、韓鶴子夫人の父親でしょうか?
はじめに説明した内容を踏まえて考えると、文鮮明夫妻は同じ父または、同じ父方の血筋でなければならないので、二人目の韓承運氏は本当は血統的にみると「脱落」するはずなのですが、父と娘の結婚ということをしたら、韓国ではもちろん、日本でも受け入れるものはいなくなるので、そうだとしても信者には徹底的に隠すでしょう。

しかし、み言葉が真理でなく嘘であれば、何でもありなんでしょうが・・・。


まず、二人目の韓承運氏と、大母様(洪順愛)との接点を年表から見てみます。

<韓承雲氏の経歴 資料:著書「実録・洪順愛大母様の生涯と信仰」>
1909年(陰暦1.20) 韓承雲の誕生(清州韓氏、父:韓炳健 母:崔基炳、五人兄弟の長男、曽祖父は韓相五氏、祖父は韓正順氏、父・韓炳健氏は書堂(漢文などを教えた私塾)の先生)
1919年    平安南道の萬城公立普通学校に入学(数え11歳)
1922年    萬城公立普通学校四年生の時中退
1922年    私立育英学校入学
1925年    私立育英学校卒業(数え17歳)
1925年~30年頃 普通学校の教員検定試験合格
1930年8月5日 私立育英学校教師初就職(満21歳)
★1933年   19歳の洪順愛と結婚
★1934年3月5日20歳の洪順愛と結婚(満25歳「新イエス教会」に通っている時期?)
1939年6月30日 私立育英学校退職(満30歳)
1941年8月24日 黄海道延白郡濯〓糸嬰公立普通学校で教職生活(洪順愛の家からかなりの距離で行き来は無理)
★1943年   韓鶴子誕生(陰43.1.6)平安南道安州郡安州邑信義里26番地
1945年10月13日黄海道延白郡濯〓糸嬰公立普通学校退職
1945年11月1日 萬城公立普通学校転勤(教頭として在職)
★1945年8月15日以降  解放後すぐに南下して、ソウルにある橋洞小学校と孝悌小学校で教頭として教鞭
1946年3月31日 萬城公立普通学校退職(教頭として在職)
★1946年4、5月頃 共産党当局の脅威を避け、やむを得ず三十八度線を越えて南下
1947年6月1日 昆池岩初等学校(京畿道廣州市實村邑昆池岩里)転勤発令(校長として在職、昆池岩里一五〇番地で生活)
1947年    同じ学校で教職についていた池姫善女史と婚姻
1948年3月1日 長男・韓偉一誕生
1951年2月20日 次男・韓偉勇誕生
1954年3月1日 京畿道華城郡(現・龍仁郡)・南四初等学校在職時(京畿道知事から表彰)
1957年2月9日 京畿道加平郡雪岳面・美原初等学校(京畿道加平郡雪岳面新川里、天宙清平修錬苑から直線距離で三キロ)転勤(校長として在職)
1958年3月31日 本籍を移動(原籍:平安南道安州郡大尼面龍興里九九番地)
1960年1月1日 京畿道加平郡雪岳面・美原初等学校在職時(緑條勤政勲章(第三一四四号)受勲)
1962年5月31日 京畿道甕津郡・ポルム初等学校(現在の仁川市江華郡西島面ポルム島)に転勤(校長として在職)
1973年11月  富平・北初等学校在職時(大統領功労バッジを受賞)
1974年1月28日 富平・北初等学校在職時(大韓教育連合会長功労表彰状受賞)
1974年2月28日 富平・北初等学校定年退任時(国民勲章冬柏章(第七七五号)受勲) 
1974年    定年退任後、京畿道城南市盆唐区板橋洞二七六番地に移住(趣味:自宅で読書・農場造り)
1977年    肝硬変で仁川基督病院に入院
1977年    病状悪化のため板橋洞の自宅に戻る
1978年3月18日 肝硬変で他界(城南市盆唐区の南ソウル公園墓地埋葬)
-------(韓承雲氏死後)---------
1995年8月23日 韓承雲・洪順愛が霊界祝福(ソウル漢南国際研修院)
1995年8月23日 金孝南訓母様の家庭の長男・金賢辰氏(一九七七~)が、韓承運先生-洪順愛大母様のご家庭の養子として入籍
1996年12月  長男の韓偉一・鄭英仙夫妻が黄善祚協会長を通して修練会に参加
1997年3月   長男の韓偉一・鄭英仙夫妻が黄善祚協会長を通して修練会に参加
1997年    長男の韓偉一氏統一教会に入信
1999年2月7日 韓偉一氏の生母の池姫善・性徹が霊界家庭祝福(三億六千万組の祝福式時 ※「性徹」大僧侶韓国仏教界の巨星(1912生~1993没))


ざっと見てもよく分からないと思いますが、★印のところに注目してください。

★1933年    19歳の洪順愛と結婚
★1934年3月5日 20歳の洪順愛と結婚(満25歳「新イエス教会」に通っている時期?)


洪順愛さん(大母様)が結婚したのは、教会の発行の書物で上記の2つの内容が出てきます。現在は「1934年3月5日」に情報が統一されているようですが、初期の洪順愛さんの証を見ると、結婚したとは一言も言っていません。

お母様(韓鶴子)を身ごもったときの状況をこのように洪順愛さんは語っています。
※この部分の証しは多数のパターンが存在しています。

1977年出版「信仰と生活 第四集」
『お母様は私が三十歳の時、一月六日午前四時半、安州の信里という村で生まれました。
 お母様の父は李龍道牧師の弟子で啓示を受け「洪唯一という人の娘を嫁にもらえ。その子供が男なら天宙の王になる。女の子なら天宙の女王になる」というのです。そして私と二月の終わりに出会って三月の終わりにお母様をはらんだのです。
 私の家系は七代が善の功労を積んできて、この三代は娘一人の家系であります。
 私には弟がいて、日本に留学していたので、私の親は婿養子としてお母様の父韓氏を迎えようとしてました。ところが主体性の強い彼は、それは出来ないと出ていってしまいました。お母様がお腹にいる七ヶ月目のことでした。お母様が生まれてからも、私の親がお母様を離さなかったので、私はそのまま別れてしまったというわけなのです。』

(洪順愛大母様の証1973年12月21日 東京教会)

1989年出版「愛の世界・韓鶴子女史御言選集」
『洪ハルモニの先祖は、七代にわたって善の功績をたくさん築き上げた家系を持っておられます。そして二、三代は男性が多かったのですが、女性たちは少なく、一人娘として三代まで続いてきたといいます。洪ハルモニの弟さんが日本に勉強するために出発すると、洪ハルモニのお父さんは洪ハルモニのご主人を婿養子にしたい気持ちから、「家に来て息子のように暮らしなさい」と頼みました。しかし、主体性の強い韓さんは、「それはできない」と言って、お母様がおなかに宿って七か月のとき、洪ハルモニと別れることになったそうです。』
(統一家の誇りであるお母様 姜賢実の証)

1997年出版「続・清平特別修錬会の手引き」
『私の家系は七代が善の功労を積み、ここ三代は、娘は一人だけの家系です。私には弟がいたのですが、日本に留学していたため、私の親は真のお母様の父・韓承雲氏を婿養子として迎えようとしました。ところが主体性の強い彼は「それはできない」と、出ていってしまいました。真のお母様がおなかにいる七か月目のことでした。生まれてからも、私の親が真のお母様を離さなかったので、私とはそのまま別れてしまったというわけなのです。』

2008年出版「実録・洪順愛大母様の生涯と信仰」
『当時、大母様の弟・洪順貞氏は、平壌師範学校を卒業したのち、一九四〇年ごろから、日本の京都にある同志社大学付属中学校を経て、大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)に留学中であった。そのころ、大母様の両親は、韓承運先生を婿養子にしたいという意志をもっていたが、韓承運先生はこれを断られた。韓氏家門の長男であり、特に当時は遠く離れた黄海道の建白(延白)で教職生活をしていたこともあって、妻の家にとどまれない状態であった。』


2008年に出版された「「実録洪順愛大母様の生涯と信仰・忠心奉天の道」の内容と1941年8月24日の年表に注目してください。

1941年8月24日 黄海道延白郡濯〓糸嬰公立普通学校で教職生活(洪順愛の家からかなりの距離で行き来は無理)
★1943年   韓鶴子誕生(陰43.1.6)平安南道安州郡安州邑信義里26番地
1945年10月13日黄海道延白郡濯〓糸嬰公立普通学校退職
1945年11月1日 萬城公立普通学校転勤(教頭として在職 このとき平安北道に戻ってきている)


真のお母様(韓鶴子)を身ごもったときは、父といわれる韓承運氏は単身赴任で黄海道の延白の小学校に行っています。単身赴任は、終戦後の1945年10月13日迄続きます。ちょうど妊娠・出産のときは近くで勤務していないのです。

そして、文教祖が本格的に神霊集団(聖主教、腹中教等)を本格的に巡回しだしたのは1942年(満22歳)からで、韓承運氏の単身赴任の時期と重なるのです。

洪順愛大母様のいた平安北道安州と黄海道延白郡は週末夫婦をできるような距離ではありません。まして、1942年当時、電車もなく汽車の時代です。行き来は容易ではないのです。

私が言いたいのは、韓承運氏と洪順愛さんが容易に夫婦関係を持つ時間があったかと言うことです。一緒に暮らしていないのです。妻ならば赴任地について行って一緒に暮らすのではないでしょうか?
その頃は、洪順愛さんは聖主教、腹中教の進行に狂信的に没頭していたときです。そして、1933年ごろ、洪順愛さんが結婚したとされる時期は李龍道氏の神霊集団(新イエス教)に傾倒するのと重なります。その間10年間子供がいませんでしたし、聖主教とは、夫婦間の性生活を断つ「聖別期間」をする団体でした。そういう中で妊娠したとすれば、本当に娘の韓鶴子夫人の父は韓承運氏だったかという疑問が残るのです。

もし韓承運氏が洪順愛さんの夫ならば、別れたくなる気持ちも分かるような気がします。

韓承運氏が久しぶりに単身赴任の休みのときに帰ってきたら、随分長い間、性関係を持っていないのに妻はお腹が大きく身重(7ヶ月)」になっているのですから、驚くでしょう。一般的に考えて、自分の初めての子が、妊娠したのにたやすく離婚しないと考えるとこちらの推測が自然かと。これはあくまでも推測ですが。

しかし、本当に籍を入れて結婚していたかどうかも微妙です。戸籍は朝鮮戦争の後に、新たに作ったでしょうから。

その証拠に、韓承運氏の息子を幹部(教会系の会社社長)に取り立ててますし、どうも工作が見え隠れするのです。

本当に真のお母様(韓鶴子)の出生の秘密を書くときりがありません。まだまだ続きます。

「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(7)」に続く

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