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 著者が物理学者で伯家神道の祝之神事を授かった方であることは、以前、桑原さんという科学者さんから聞いて知っていたけれど、著作を読むのは今回が初めて。興味深い内容が記述されている。とっても重要な著作である。2013年9月初版。

 

【過渡期という別世界の併存期間】
 今というこの時はちょうど前の世界から新しい世界に移る過渡期に当たる。(p.8)
 前の世界から新しい世界に移ったのは、マヤ暦の終了と言われていた2012年12月22日。
 といっても具体的な状況は何も変わっていない。・・・中略・・・。
 しかし僕の目には変わった。
 世界が変わった!
 僕の目からいえば、そのまま変わらなかったら前の世界は消えてしまう。変わらなかったものは新しい世界からは見えなくなる。こっちから見れば、古い世界にいるあなたは死んだといえるし、そっちの世界から見れば僕は死んだと見える。でもどちらも死んではいない。なぜなら、過渡期という今は両方の世界が並行的に共存していて、ぼくの世界にまだあなたもいれば、あなたの世界に僕もまだいる。
 過渡期は数年続くようだから、その間に、どちらの世界を選ぶか、それぞれが自分で選択しなければならない。(p.9)
 過渡期は2015年までらしい。
 2016年からは完全に水瓶座に入るから。
    《参照》   『続2012年 地球人類進化論』 白峰 (明窓出版) 《後編》

              【2012年以降の世界】 【2016年、水瓶座への突入】

 ならば、完了前の過渡期の間に少しでも多くの仲間たちが新しい次元世界に残ってくれるようにするのが急務。・・・中略・・・。そのために僕ができることといえば、2012年12月22日から半年の間にいったいどんなことが僕自身に周囲に起き、その結果どのようなことに気付いていったのかをありのまま包み隠さずにお伝えすることしかない。・・・中略・・・。
 この本を世に問う理由は、まさにそこにあるーー。 (p.22)
 これが、本書の長~~い“まえがき”の最後。
 ということで、半年間のことが体験記のように口語で記述されているから、読んでいて楽しいし、アセンション関連の著作としては、時宜を得た重要な著作であることがよく分かる。

 

 

【愛することは、イコール・・・】
 そこで、わかった。2月の終わりころ、やっと気づいた。
 愛することは、イコール踊ることなのだーーということに!
 しかも愛魂は、対象となる愛する相手数人だけにしか効果はなく、愛していない人には効果も及ばない。でも踊れば、その場にいる全員を愛することになる。そのほうがより根源的だし、広がりも大きい。踊りは誰でもできるから、こっちのほうが真理に近いはず。
 僕にしかできない技なら、大声を張り上げて自分の主張を繰り返しても、あまり意味がない。誰でも踊ればそうなるんだよとみんなに伝えていけば、みんなの周囲の場がどんどんよくなる。これは、とてつもなく意味深いことではないだろうか?
 2012年12月22日から変貌しつつあるこの新しい次元世界では、それ以前の世界で僕だけが相手を愛することでできていた愛魂という活人術技法と同じことが、誰もが単に踊ることで実現されてしまう。ついに、そんなすばらしい事実にめぐりあうことができた。(p.65-66)

 「愛とは、踊ることでいいんだ」
 「次元転換なんかは捨て去ってしまえばよいのだ」 (p.73)
 「そんな安直なことでいいの!?」と思ってしまうかもしれない。
 でも、これは決して安直な思い付きなどではなく、本質に叶っているのである。
 踊りというのは、「回転運動(スピン)」や「輪」に関係している。一人で踊るときには「旋回運動」は必ずあるものだし、盆踊りは、人々が「輪」になって踊るという形式になっている。これらの動きの中には、狂おしいほどの「愛」が潜んでいるのである。
 これについては、下記リンクに紐付くリンクを末端(シュタイナーの著作)まで辿れば分かるようになっています。
    《参照》   『宇宙原理ホツマ』 鳥居礼 (たま出版) 《前編》

              【宇宙の根本原理を見立てた3要素】

 ニジンスキーが、舞踏によって「神の存在を感じた」と言っていたこと、そして舞踏を通じて「愛を表現したいのだ」と言っていたことを思い出す。
    《参照》   『ピーター・パンはセックス・シンボルだった』 松田義幸 (クレスト) 《後編》

              【「牧神の午後」】

 

 

【ダンサーとは喧嘩するな】
 武道家の間では昔から「ダンサーとは喧嘩するな」という言い伝えがある。ぼくもその話は耳にしていたが、・・・中略・・・、空手だろうが柔道だろうがどんな武道でも、相手がダンサーだったらかなわない。だからどの流派にも、絶対にダンサーとは喧嘩するなという言い伝えが残っている。(p.165)
 我々素人は、「まさか」と思うけれど、ダンサーが踊る円環運動は宇宙のエーテル体の流れになっているらしい。武闘家が用いる「気」と、舞踏家が溶融する「エーテル体」の流れの差は、予想以上に大きいのだろう。
 踊ると言うことは、踊り手の精神状態が、踊る相手や聴衆の魂レベルで感ずるような高みに自ら昇華していくことだ。没我であり無我であり恍惚であり、たぶんそこは愛に満ちた場に変じているはず。この精神状態に没入することは、僕が受けついだキリスト由来の活人術における「愛魂」の技法と変わりはない。踊る相手も、さらにはそれを見ている聴衆も、踊り手は自分の魂で包み込み、己の魂を彼らの魂に重ねていく。それはつまり「愛している」ということだ。
 このときもし相手を倒すような動きをとれば、相手はいとも簡単に倒れる。踊りは、つまり愛魂だ。だからダンサーはその気になれば、その場にいる人を誰でもコテンと倒せるに違いない。それがわかったとき、僕は「ダンサーと戦ってはいけない」という本当の意味にやっと気がついた。(p.166)
 武道とか武術とか聞くと、戦うことをイメージしやすいけれど、本来の武道や武術は、ダンスと同様に平和のためにこそあるものである。
    《参照》   『誰も知らない開運絶対法則』 白峰・有野真麻 (明窓出版) 《前編》

              【武道とは】

 日本人の意識を一挙に上昇させようとするなら、日本武道館のような広い会場で、著者のようなシャーマンさんたちが中心となって、愛の魂で聴衆全体を包み込みつつ、会場全体で踊るようにすればいい。エネルギーが相乗的にスパークして物凄いダンスコンサートになるだろう。

 

 

【『マリアによる福音書』にあるハトホルの秘儀】
 エジプト旅行でギザの大ピラミッドの中の王の間に入るとわかったとき、僕はずっと以前、禁書扱いになっているという『マリアによる福音書』に解説されていたハトホルの秘儀のことを思い出した。その福音書の「解説」には、30代の青年イエスがマグダラのマリアと一緒にギザの大ピラミッドの王の間で互いの解放した魂を重ねることで「覚醒した」と伝えることが、その福音書の趣旨だったとあった。自分の身体から魂を解放して、相手の魂と重ねる。その行為の結果、覚醒したイエスが、後に奇跡と呼ばれる行いを人々に与えることで救世主キリストとなった。(p.190)
 著者は、ハトホルの秘儀を、ピラミッドの王の間で行ったのだという。

   《参照》  “マグダラのマリア”に関する引用一覧

 

 

【花崗岩でできた王の間】
 この鉱山会社の方が勢いづいて花崗岩について面白い話を始めた。
 兵庫県の御影というところで取れた花崗岩は、いわゆる御影石と呼ばれる石材のもととなったことで有名だが、古来、御影とは神霊のことで花崗岩と呼ばれるようになったのは偶然ではないような気がするとこの人は言う。経験的にいうと、花崗岩というのはとにかく水を良く含んでいる。花崗岩に含まれた水は我々の生命を維持するのに必要な水なんだと彼は言う。花崗岩というのは非常に特殊な性質をもっていて、花崗岩に接すると水が変わる、とにかく水を良くしてくれる力があると力説する。(p.188-189)
 花崗岩は火成岩であり、花崗岩は水を含む性質がある。
 この二つから、花崗岩は、火と水、即ちカミを宿す御影石とも呼ばれるという理由は分かりやすい。
 だからピラミッドにも使われていた。
 ピラミッド全体を形成するのは花崗岩ではない。ところが王の間だけは、床はもちろん、東西南北の壁もそれぞれ一枚の大きな花崗岩で作られている。(p.189)
 著者が、ピラミッドの王の間で、気付いたこと。
 思い返すと、王の間はただやたら湿気が多く、壁に自分の額を密着させると、その湿気で額にぐっしょりと汗をかいた。・・・中略・・・。赤色花崗岩で作られた王の間で僕がハトホルの秘儀をやったということは、じつは大変な意味を持っていたのだと気がついたのだ。(p.190)
 王の間を形作っているこの花崗岩も、エジプト産ではないだろう。
 兵庫県産かな? これも八ヶ岳産かも。
    《参照》   『宇宙神霊記』 美内すずえ (学研) 《前編》

              【聖域:八ヶ岳】

 

 

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