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 書かれているのは、タイトルに関することというよりも、日米の教育に関する違いや、日本の教育に関する国際化のこと。この本を読んだ理由は、薄っぺらですぐ読めるから。それだけ。1993年8月初版。

 

 

【教育差を生むクラスの規模】
 アメリカの教育はあくまでも個人に即したものであって、日本の教育にみられるように、全員が一斉に同じことをやるというものとは対照的であった。・・・中略・・・。大体どのクラスも20人以下(最高で23人、それ以上になると2クラスに分かれる)であった。このことは後で述べるが、おそらく決定的に重要なことであって、ある意味では日米の教育差のほとんど全てはこのクラスの規模に起因すると言っても良い程ではないかと思われる。(p.23)
 20人以下なら個性重視も可能。40人ともなると個性を無視した管理教育になってしまう。
 自由と個性は馴染みやすく、画一化と管理もまた馴染みやすい。

 

 

【日米の教育差:全寮制と通学制】
 大学のキャンパスが生活の場になっているのであるが、その結果、通勤や通学に費やされる時間やエネルギーの損失はないと言える。四年間(教師の場合何十年も)にわたるこの差は計り知れない。(p.53)
 欧米のキャンパスは広大な敷地をもち、その中で全ての生活が営めるようになっているから、勉学に十分な時間を取ることができる。また、通勤や通学時に一般社会と接することも少ないので、学生らしい質素な平服で日々を過ごすことができる。ファッションがどうのこうのとか、あそこの店が美味しいとか、学業と本来無関係なことに気を取られたり金銭を費やすこともない。
 欧米のキャンパスには、学びのプロフェッショナル(学生)として相応しい場が提供されている。

 

 

【学費と奨学金】
 日本の文化系大学の年間学費は、60~70万円であるのに対し、アメリカでは200万円程度だという。
 しかし、アメリカでは奨学金制度が充実している。日本で奨学金を得ている学生は5%程度だという。
 アイビーリーグ校の中で奨学金を出している割合がいちばん低いブラウン大学でさえ33%、・・・中略・・・イェール大学で38%、コロンビア大学ではなんと48%となっている。(p.67)
 日米の大学運営(学費や奨学金)の違いに関する原因は、「寄付金に対する課税・非課税」などの違いに行き着くことは分かりきっている。欧米の学長は、大学の財政を維持するために、寄付金集めにその多くの時間を費やしている。
   《参照》   『ボストンで暮らして』 久野揚子 大和書房
             【ボストンには所得税がない】
 たとえば、ブラウン大学は約三年間で4億5000万ドル(600億円)の寄付金集めのキャンペーンをやっているが、・・・中略・・・。奨学金の基金に対するものが大きな比重を占めているのは皆一様である。前にも述べたように、need blind(入学者に対して、必要ならば援助する)という方針をとっているからである。(p.85)

 

 

【バイリンガル教育】
 このようにバイリンガル教育を受け(させ)ていると聞くと、多くの人たちが、結局両方の言語とも不十分なままに終わってしまうのではないかという危惧の念を抱くらしい。実際そういう質問をたびたびされたのである。
 ここまで三人の子どもたちの現状について述べてきたのは、そのような問いに関する答えのつもりでもあったのである。一言でいうと、「そのようなことはない」というのが答えである。(p.112-113)
 こう書かれているけれど、著者の場合は、そもそもご自身がアメリカで教育を受けた経験がある人なのだから、その子どもたちはバイリンガル教育を受ける家庭環境として、かなり恵まれた特殊例なのではないかと思われる。
 「日本語で培った国語力が前提としてなければ、英語力が身につくはずなどない」という見解の正当性は、誰でも理解できるはずだけれど、著者の子どもたちの場合は、家庭環境、知的好奇心、向学心などをすべて満たしていたのだろう。両親がさしたる知的好奇心も無いような普通の日本人で、しかも日本以外で生活したこともなく、そのような平凡な家庭環境にある子どもで、読書に親しむ傾向すらないのなら、バイリンガル教育を受けたところで、日本語・英語共に平均以下にしかならないだろう。
    《参照》   『勉学術』 白取春彦 (Discover) 《後編》
              【日本語ができなくては外国語も無理】

 脳科学的なバイリンガル脳のメリットなら下記。
    《参照》   『脳を鍛える読書のしかた』 茂木健一郎 (マガジンハウス)
              【バイリンガル脳のメリット】

 バイリンガルを目指さなくても、言葉=文化なのだから、バイカルチュラルの視点で異文化に興味を持ち続けることでも、バイリンガル脳のメリットはそこそこ生ずるはずである。
 その点で言うなら、近年、外国生活をしている日本人や、海外から日本にやってくる外国人をリポートしているテレビ番組が、高い視聴率を上げているらしいけれど、日本人の意識を変革する上でも非常にいいことだろう。

 

 

【バイリンガル同士のチャンポン会話は連帯感の証】
 彼らが英語と日本語をチャンポンにした話し方をするのは、相手が両方の言語を知っている場合に限られるのである。だからこそ、インターナショナル・スクールに通う子供たちどうしの会話に、右のような例が見られるのであって、それは前にも述べたように一種の連帯感の表明なのである。(p.118)
 チャンポン会話を耳にした大人たちは、それではバイリンガル教育も意味はないと思ってしまいやすいけれど、それは、方言と標準語を使いこなせる地方出身者が、両方をチャンポンで話すのに変わりないと、著者は述べている。

 

 

【義務教育】
 著者が3人のお子さんをインターナショナル・スクールに通わせていると、世田谷区の教育委員会は、電話で、子供を日本の学校にやらないのは就学義務違反だと言ってきた。
 「義務教育」の「義務」は国が国民に対して負うている義務であって、国民が国に対して負うているのではないと思っている。言い換えれば、その「義務」は国民が持っている権利に対する国の義務だと思っているので、・・・中略・・・、子どもたちをよりよい教育をしてくれると思われる場所へやっていただけである。
 この教育委員会からの電話はその後も続き、「このままだと罰せられますよ」と脅かしてきた。それに対しては、「どうぞお好きなように」と言うしかなかったが、一度もそのような動きはなかった。(p.42-43)
 著者の見解は全く正論だと思う。
 ところがところが、憲法は、「すべての国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」という表現になっている。つまり、「国民は、教育を受ける権利がある」のではなく、「国民は、教育を受ける義務がある」となっている。言い換えるなら「国民は、国家教育によって洗脳される義務がある」ということである。「んな、馬鹿な!」と思うかもしれないけれど、憲法にはそう記述されている。
    《参照》   『なぜ、脳は神を創ったのか?』 苫米地英人 (フォレスト出版) 《後編》
              【憲法の作為】

 

 

【日本のインターナショナル・スクールの制度上の問題点】
 何故これらの学校を、日本の学校教育法に基づく正規の学校として文部省が認めないのかは文部省に問い合わせても、なかなかはっきりした返事はもらえない。(p.131)
 日本国内にありながら、アメリカからは正規の学校として認められているのに、日本では正規と認められていないのだという。だから、ここから日本の大学へ進学するには、別途、大検を受けなければならない。
 日本のインターナショナル・スクールは、各種学校という扱いなのだという。
 日本政府の許認可行政(何と一万以上の許認可数があるという)の中で、文部省だけが例外であることは望み得べくもないが、文部省自体が望んでいる大学の国際化を自らが阻んでいる典型的な例ではないだろうか。これらの「各種学校」の卒業生で、日本の事を学ぶために日本の大学に進学したいと思っている優秀な学生が数多くいるのにである。(p.132)
 学問は芸術と同様、その本質において国境を持たないということがまるで分かっていない考え方である。(p.134-135)
 まったく。
 これぞ、ドン引き行政の実例だろう。

 

 

【「安全」と「自由」】
 「安全」と「自由」が共存できるのがもちろん理想ではあるが、現実は「安全」であろうとすれば「管理」が顔を出し、「自由」であろうとすれば、「危険」がついてまわるのだ。
 「安全」であるけれども「管理」された社会の方が良いのか、「自由」だけれども「危険」な社会の方が良いのかは分からない。その人その人の好みの問題だからだ。「好み」というのが言い過ぎなら「人生観」とか「生き方」とか「ライフ・スタイル」と言い換えても良い。
 しかし、私は、少なくとも若者には、多少危険ではあっても「自由」の方を選んでほしい気持ちが強い。少なくともそのどちらを選ぶかという「自由」は持ってもらいたい気がする。(p.152-153)
 スリやカッパライが横行する諸外国の事情を聞いただけで、「危険だから・・・」と全てそこで思考停止してしまったり、「行くにしてもパックツアーで・・」という人は、「生きてきた過程で、自由の範囲が非常に狭い人生を生きるように、洗脳されてしまったのかもしれない」と思ってみるくらいのことはあってもいいだろうと思う。
 「自由」を選択できないのは、本当の「愛」を選択できないのと同じことで、「安全」を選択することは、「依存」を選択することにしかならない。そんな人生を生きるために生まれてきたのか? 「安全の轍」に嵌りきっているという自覚がないのなら、生きていても仕方がない。それでは“魂は渇いたまま”である。
    《参照》   『NO LIMIT ノーリミット』 栗城史多 (サンクチュアリ出版)
              【生きる楽しみを奪っているかもしれないもの】

 

 

<了>