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 いかにも吉本興業元社長の著作という感じ。この本を読んで元気がでるのは運気上昇中の人だろうか。1996年12月初版。

 

 

【勉強をおこたってはならない】
 常に勉強している上司は、非常に論理的に物事が判断でき、部下に対して説得できる力を持っている。自信があるからこそ成せる業なのであろう。「俺の若い頃は」を連発する上司は、結局自分に自信がもてないのだ。ボトム・アップの時代では上司と部下は対等である。ただし経験は上司の方があることは認めておかなければならない。それを踏まえた上で、はっきりと自己主張をすればいい。そしで主張するためには、やはり勉強をおこたってはならない。上司と部下の双方が競って勉強をする時代なのである。(p.28-29)
 健全な企業ならこのような社風もあるだろうけれど、地方の公的機関なんて、人事権の威力だけですべてが決まってしまい勉強なんてまったく無意味らしい。市井の人々と役所の話をしていると、聞いてもいないのに、「市役所に入るのに200万かかった」「300万かかった」とかいう話を近年になって3回も聞かされたことがある。また、自分の意に沿わない人間を排除するために、または自分の縁故者を入れるために、中間の職員には退職促進のために陰湿な嫌がらせすら行われているという。こういう職場なら確かに誰だって勉強などするわけはない。必要もない。意味もない。地方が永遠に栄えないのは、こういう邪悪な慣習に染まりきっているからだろう。

 

 

【ネアカ・ネクラを性格のせいにしない】
 ネアカというものは、決して生まれつきのものではないと私は思っている。性格が明るいとか暗いとか言われるが、決して性格の問題ではない。明るい、暗いは、あくまでもコミュニケーションにおける表現手段の問題なのである。これは意識して過ごせば、必ず身につくものだ。性格や遺伝のせいにする者は、単に自己弁護をしているに過ぎない。(p.42)
 この記述が正しいかどうかよりも、この記述に沿って生きようとすれば、明るい側に変われる可能性があることが重要だろう。
 決して暗くはないのに、コミュニケーション下手だから実力を発揮できていないという人はいっぱいいる。ビジネスの場で生きている人たちは、必要に迫られて学ばねばならないことがあるけれど、人々が集う場に出る機会がある人は、率先して実践し試し向上の機会とすることができる。
    《参照》   『考える技術』 大前研一 講談社 <前編>
              【私も人前でしゃべるのが苦手だった】

 

 

【日本人は世界のために会話術向上を】
 口がうまいというのは、これまではあまり良い意味では使われなかったが、これからのビジネス・シーンでは欠かせない要素なのである。
 昔は仕事の範囲が狭かった。一つの村の中、あるいは町の中で商売が成り立っていた。いわば親戚の中で暮らしているようなものだから、口が重くてもやっていけたのである。その範囲が広がり、習慣も考え方も違う人の中で仕事をするようになれば、口数が少なくては理解してもらえないのである。会話術は決して生まれつきのものや性格によるものではない。あくまでも訓練で身につけるものなのだ。(p.173)
 時代背景を理由に説明してもらえると説得力がある。
 関西地域は、昔から外国人が多く流入する所だったから、吉本興業のようなコミュニケーション芸人を生む基盤があったわけである。吉本興業は関東人のコミュニケーション能力を高めるためにため、わざわざ日本の首都・東京に進出してきたと肯定的にとらえることはできるだろう。
 遠からず、日本は世界の中心に立つようになるのだから、日本人全体が関西人のような明るいコミュニケーション能力を高めた方がいいかもしれない。

 

 

【明るさと清潔感】
 無精髭を生やして、俺はこれでいいんだと言う人間がいるが、それなら皆の前に顔を見せないでくれと言いたい。それは個性でも何でもなく、ただの迷惑だ。個性は相手に認められて初めて輝くものなのである。
 明るさと清潔感、この2つは他人を常に意識し、自分を見つめるところから生まれてくるものだ。(p.43)
 無精髭という単語で、M1、第10代グランプリを獲得した「笑い飯」のお兄ちゃんを思い出してしまった。長髪で無精髭は、若い子に受けない典型的な外見のように思う。ネタ以前の問題であり、ヴィジュアルを考慮しないのは致命的である。

 

 

【イタリアの犯罪抑止法】
 イタリアのフィレンツェに行った時、タクシーに乗っていると何だか町が騒々しい。・・・中略・・・「サッカーの怨念の試合がある」と言う。・・・中略・・・ホームチーム側とビジター側の間に、私たちのような中立の観客席がある。その間は高さ3メートルほどのプラスチックの板で仕切られ、行き来ができないようにしてある。乱闘にでもなれば死人さえ出るからだ。
 そのフェンスがあるにもかかわらず、空きビンを投げ合ったりしている。これはもう戦争と同じだと思った。恐ろしいほどのエネルギーである。しかし街の人に聞いてみると、「若い連中がエネルギーを発散できる、こういう場があるからいいんだ。もしサッカーがなければ、イタリアはもっと犯罪が増えるだろう」と言っていた。(p.77-78)
 イタリアはほんの150年ほど前に、都市国家が集まってできた国だから、サポーターにとっては国家間の威信をかけた戦いと同じようなものなんだろう。
     《参照》   『イタリアーニ』 小林元 日経BP社
                  【カンパリニスモ】

 日本の場合、伝統的にエネルギー発散の場は「お祭り」だった。だから国内戦争は起きなかったのだし、スポーツの国際試合においても、日本人は国家間の代替戦争なんていう意識は持っていない。
     《参照》   『上品で美しい国家』 日下公人・伊藤洋一 (ビジネス社)
                  【「お祭り国家」 日本が世界をリードする】

 

 

【分岐点】
 タレントの大きなターニングポイントが一つある。それは年収が1000万円を超えた頃だ。・・・中略・・・。
 今までは地下鉄に乗っていたのが、「顔が刺す(人が見る)からタクシーにしてくれ」だとか「身体がキツいからグリーンに乗せてくれ」などと言い始める。この時期に絶対甘やかしてはいけないと、私は口をすっぱくして社員に言っている。ここで彼らの要求を受け入れると、絶対に大物にはなれない。なぜなら、周りに気を遣うことを忘れてしまうからである。大物になればなるほど、他人への気遣いがこまやかなものになるのだ。それを早く気づかせてやらなければならない。(p.157)
 地方行政で用いられている公用車をみれば、民を気遣う心根のあるトップかどうかは明白だろう。財政赤字がどれほどあろうと、恣に行政資金を使い込み、まずは自分が富み羽振り良く振る舞うことから始めるのである。日本中このようなのが殆どだろう。

 

 

【書店めぐり】
 私は暇があれば書店に足を運ぶ。時には何件もハシゴする。書店はまさに情報の宝庫と言えよう。新刊書のコーナーを見れば流行が見えてくる。雑誌のコーナーを見れば季節を感じ取ることができる。どんな人がどんな本を買うのかを観察しているだけでも、ニーズが見えてくることがある。そして、偶然にもすばらしい本に出逢えた時の感激は、その日をいい一日にしてくれたりもする。(p.188)
 “偶然にもすばらしい本に出逢えた時”とあるけれど、すばらしい本に出逢えることは本当に稀だろう。
 素晴らしいと感じられる本って、もちろん人それぞれだけど、感度をさげてしまう読み手側の特定分野に関する“狎れ”は怖いから、それを抑止するためにいろんな分野の本を読むという手はある。つまり異分野めぐり。
 ビジネスでは異業種交流が盛んだから、ビジネスマンの知的範囲は否が応でも広がっている。死んだ魚みたいにつまらない権威的な本を生涯ありがたがって読んでいるのは、公務員くらいなもんだろう。変化を厭う人間たちは権威が大好きである。
    《参照》   『勉強について、私たちの考え方と方法』 小山政彦・羽生善治 (PHP研究所)
                【ビジネスマンが読む本】
    《参照》   『風の谷のあの人と結婚する方法』 須藤元気 (ベースボール・マガジン社)
                【異分野の書物を読むこと】
 

 

<了>