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 ジャーナリストとして1980年代のアメリカに滞在した時の体験記。この「青春ノート」シリーズの著者は女性ばかり。中学校の図書館にありそうな書籍。小中学生の頃は、男子より女子の方が圧倒的に多く本を読んでいることだろうから、このようなシリーズの書籍が、現在、世界中で活躍している“なでしこ”たちの創成に関わっていたのかもしれない。1985年4月初版。

 

 

【自転車町・デービス】
 デービスは、サンフランシスコから内陸へ80マイル入った、人口3万人ほどの小さな大学町ですが、名物が3つあります。
 第1にカリフォルニア大学デービス校、第2に自転車、そして第3が太陽熱エネルギー。大学はよいとして、まず自転車。
 当時、この町には人口を上回るほどの自転車があると言われていました。(p.56)
 車社会アメリカにあって、「自転車町」を宣言しているデービスはかなりユニーク。
 検索してみたら、デービスの人口は現在6万人を超えているらしい。自転車レーンを撮影したYou-tubeの動画もいっぱいある。
 ソーラー発電に関しても、当時はまだ初期段階だったけれど、その後、かなり発展していることだろう。

 

 

【早くから自立】
 アメリカの若い女性たちに共通していえることは、早くから親にたよらず、しっかりと自分で生きている人の多いこと。それがしぜんと、おとなっぽい印象をあたえているのでしょうか。(p.60)
 大学時代のアメリカ人のルームメイトのことがいろいろ書かれている。アメリカ社会は個人の自立が早いけれど、家族がバラバラというわけではない。クリスマスには必ずと言っていいほど全土に散らばっている子どもたちが家に集まる習慣の維持は、日本のお盆やお正月以上かもしれない。

 

 

【トリシア・トヨタ】
 アメリカ西海岸でいちばん大きな都市ロサンゼルス、いまそこでいちばん人気のあるテレビのキャスター、トリシア・トヨタです。
 名前からもおわかりのように日系三世。(p.29)
 そんな彼女のレポートぶりが認められて、ニュース番組のまとめ役であり“顔”ともいえる、アンカーウーマンにアジア系アメリカ人として、最初に選ばれたのは、78年のこと。(p.87)
 西海岸には女性2大キャスターがいた。もう一人は中国系アメリカ人のコニー・チャン。二人ともニューヨークから声が掛ったけれど、トリシアは日系社会の多い西海岸に残り、コニーはニューヨークに行って全国区のニュース・キャスターになったから衛星放送で見て顔を知っている人は多いだろう。

 

 

【マイノリティ採用の契機】
 トリシアは1947年生まれ。その時代に日系人であるトリシアが、圧倒的に白人優位だったテレビ局で働けるようになったのは、
 60年代後半にアメリカで始まった、公民権運動の力が大きいからです。この運動のあと多くのステーション(テレビ局)で、非白人マイノリティを採用するようになったからです。(p.84)
 60年代後半とあるけれど、前半である。
 この頃、人種差別問題で、アメリカは沸騰していた。ケネディ大統領によって初めて、黒人に対する差別撤廃が漸く推進されるようになり、キング牧師を中心とする活動によって黒人にも公民権が与えられるようになったのである。公民権法成立は1964年。
   《参照》   『それでもなお、人を愛しなさい』 ケント・M・キース 早川書房
             【「逆説の10か条」 が書かれた頃のアメリカ】
   《参照》   『ボビー』   アメリカ映画

 

 

【黒人になった二人の作家】
 『私のように黒い夜(原題 BLACK LIKE ME)』を書いた男性作家、ジョン・ハワード・グリフィン。
 『黒い肌は知った(原題 SOUL SISTER)』を書いた女性作家、グレース・ハルセル。
 二人はなぜ、わざわざ薬を飲み、肌を焼いてまで黒人になり、黒人であることを経験したのでしょうか。だれもができそうで、だれもできない。だれもしてこなかった。それをあえて行った二人に私は引かれます。(p.154)

 

 

【 『私のように黒い夜』 & 『黒い肌は知った』 】
 同じ町でも、白人のときに訪れたのと黒人として訪れたときでは、まったくちがった町に思える。学人同士が、投げかけあう暖かいにこやかな笑み。けれどグリフィンが黒人になった瞬間、彼らから浴びせかけられるのは、氷のような冷たい視線、さもなければ無視。
 白人であるときは国人からは、相親へつらいを、そして黒人であるときには、白人からクズ同然のあつかいを受けるのです。(p.158)
 グリフィンの、静かな、けれど熱い憤りが、読む側にヒタヒタと伝わってきます。黒人であることのつらさ、苦しみ、喜び、なげき。人生とは、幸せとは、いきていくこととは・・・。
 そして私が彼、グリフィンを真底、すごい作家だなあと思ったのは。アメリカ社会に人種平等をもとめる公民権運動が盛り上がる以前の、60年代はじめに、このような命の危険さえともなう体験を、たった一人でやってしまったということです。(p.160)
 グリフィンがこの様な体験をして作品を発表したのは1960年。
 ハルセルがグリフィンにすすめられて同様な体験をして作品を発表したのは1969年。
 《・・・黒人女はわたくしであり、わたくしではない。なぜなら、わたくしだから逃げおおせたのである。逆上したかれに抱きすくめられた黒人女が、腹をすかせた子どもの母親であり、彼女の食べ物を持って帰るのを子どもたちが待っているとしたら、どうだろう。彼女にいいよる男をはねつけ、一日の労賃の賃金をフイにして、あの家から逃げ出すことができたがろうか。・・・いまでは、わたしはハーレムのスラム街をふるえる心で行ったことを反省する》(p.169)
 映画なら、『マンダレイ』という三部作がある。その中に、人種差別される黒人側の意外な深層心理を描いた良作がある。

 

 

【悲運のなでしこ】
 江戸幕府が倒れてまだ間もない1869年、おけいは他の40人からなる男性にまじって、東北・会津若松からオランダの商人に率いられ、新天地を求めてはるばるアメリカへわたりました。(p.108)
 行ったのはゴールドラッシュの終わったコロマという所。しかし、
 後に「若松コロニー」として知られることになるこのグループは、移住に失敗、みんな散り散りになってしまいました。
 おけいはアメリカ人の家庭に雇われましたが、そこの生活もなじめなかったのかもしれません。わずか19歳の若さで病死し、ゴールド・ヒルに葬られたのです。(p.109)
 日本人として最初にアメリカに移住した女性は、おけいさんだけではなかった。
 1870年のアメリカ国勢調査では、当時アメリカにいた日本人は55人、このうち8人が女性ということです。(p.110)
 いまから150年前のおけいさんたちは「悲運のなでしこ」だったかもしれないけれど、21世紀は地球風水である 『ガイアの法則』 によって、「強運のなでしこ」たちが、世界を牽引する時代になっている。