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 諺を題材にして、一般人の考え方を掲載した後に、著者がコメントを付すという構成で、着眼を変えたり、拡張したり、ひっくり返したりして応用力を高めるためのいろんな考え方が示されている。99年12月初版。

 

 

【お客の目線で考える】
 まえがきに書かれている、応用力の一例。
 “お婆さん達の原宿”といわれる巣鴨のトゲ抜き地蔵商店街へ行くと、昔のことだが地面に、
「あんみつ三百五十円」
 と書いてあった。
 高齢の女性客がそれを見て、道から吸い込まれるように甘味喫茶へ入って行く光景に驚嘆したことがあるが、これぞ正に客の目線に合わせた“広告”である。
 広告とは高いところに掲げるものとは限っていない。
 どうです。応用力の極意がわかっていただけたでしょうか。(p.3)
 このトゲ抜き地蔵通り商店街は、ほぼすべてのお店のシャッターに東海道五十三次のような絵が描かれているのだけれど、たまたま何かの都合で閉店しているお店がないと、このガレージの絵は見られない。まだお客のいない開店前の時間帯なら見ものなのだけれど、これって誰の目線で考えられているのだろうか。

 

 

【日本の政治が汚くなった根本の原因は・・・】
 アメリカでは、いわゆる名誉職の人が多い。組織側が謝礼や給料を出しますといっても、「要らない」といい、それが繰り返されるうちに「名誉職」ということになった。
 かつて田中角栄は、「日本の政治が汚くなった根本の原因は、村議会議員や市議会議員全員に高い給料を払ったからだ」と喝破した。(p.34)
 まったく。
 大した仕事をしているのでもない市長や議員が、住民から集めた税金から毎月100万近い給料をとっているということに腐敗の根本があるのである。日本だってわずか50年ほど前までは、町長や助役は手弁当の名誉職だったのである。
 そもそも市民から面会の要請を受けたら、市長たるもの市民の都合をうかがって面会時間をセットすべきだろうに、市民から給料をもらっている市長の方が偉いと思っているのだろう。自惚れるにもほどがある。
 また市の行政の一部として市民から会費を集めて運営しているボランティア組織でありながら、「会費の使い道に関して、一般に明示する必要はない」というぶっ飛んだ意見を聞かされたことがある。組織のトップに居座っている連中が余った会費を山分けしているから、このようなことをシャアシャアと言うのである。行政を利用しているオヤジどものモラルはとことん狂っているし腐っているけれど、その自覚が全然ない。

 

 

【予算と知恵の関係】
 予算が少ないときに知恵が生まれて成功した例は、世の中に多いし、私の場合も山ほど経験がある。と同時に、予算が豊富につくと、自分自身が知恵をしぼらないようになって駄作が生まれやすくなる傾向がある。
 国家予算でも、予算が多くつくようになると無駄遣いが多くなり、従って無駄な建物が増える。また、予算が豊富につくと、あらゆる方面からあらゆる人が集まってきて、あらゆる意見を出すからまとまりがつかなくなる。結局、そのいずれもが納得できるような妥協案になるので、何も新しいものが生まれないということになる。(p.112)
 予算が豊富にあるどころか、多額の財政赤字を抱えているのに、何の知恵も絞らず無駄な出費をし続けている痴呆自治体が殆どだろう。そのものズバリである地元行政の愚鈍さの実例ならわざわざ探さなくたって露骨に見えてくるのである。
 チャンちゃんの地元の山梨県甲斐市は、このご時世にテニスコート場(!)を作って先頃竣工したばかりである。馬鹿馬鹿し過ぎて絶句してしまった。現在の経済状況が、高度成長期と同じだとでも思っているのか? 誰が使うんだ! 380億の財政赤字を抱えながら誰がこんな事業を提案したのか。その馬鹿さ加減というよりデタラメさ加減はもうもう・・・言葉もない。利権業者にカネを流すことが政治の目的だと思っているんだろう。財政モラルも知力もない老害政治はもうたくさんである。
 さらに大規模なマヌケ行政の実例がある。山梨県議会は、リニア記念館を作るために47億円の支出を決議した(!)とか。既に中国で走っていて何等特殊技術でもないリニアに関する役にも立たない箱物を、47億円もかけて造ると言うのである。そしてそこに何ら働きもしない公務員の椅子をテンコモリ並べて無駄な人件費を永遠に垂れ流し続けるのである。ここまでくれば、もうもうその馬鹿さ加減に等級など付けようがない。
 痴呆行政からは、いかなる知恵も生じない。予算を無駄にして将来を圧迫するだけである。こんな無能な痴呆行政ならないほうが遥かにマシである。

 

 

【公務員、危うきに近寄らず】
 「君子危うきに近寄らず」は、もともと『論語』の教えである。ここでいう君子とは役人のことだから、つまるところ、この教えは官僚主義であり、リスクと同時に責任を避ける態度を指す。
 よく、稟議書のハンコをいちばん最後に押したがる上司がいる。これは皆が賛成かどうかを確かめてからでないと自分の判断ができない臆病さがなせるわざである。上役がなにか指示をしてくれるのを待つ「指示待ち族」も同類で、そうしていれば危うきに近寄らないで済むと考えている責任最小主義者といえる。(p.218)
 中国人である孔子さんの『論語』で言う処の「君子」に関して、確認したい方は下記2つのリンクを。
   《参照》   『「逆」読書法』 日下公人 HIRAKU
              【孔子の教訓に感じた素朴な 「なぜ」 の結末】
   《参照》   『驕れる中国 悪夢の履歴書』 黄文雄 (福昌堂) 《後編》
              【君子と小人】

 平均的な日本人と多くの公務員は、ここに書かれているとおり、リスクを避けて群れ集うメダカのような人々である。
 何か噂を耳にすれば、自ら直接本人に確認することもなく平気で噂に同調するだけである。主体的な行動ができない、確認できない、決定できない、独立自尊の精神など殆どない。できるのは公務員世界の不文律ともいうべき“事勿れ主義的付和雷同”のみである。

 

 

【出過ぎた杭にも拾う神あり】
 暴走族のお兄ちゃん達をバイトに使っている宅配ピザの社長さんがいた。
 その社長は「わが社のおかげで暴走族も幸せです。お客さんも幸せです」というので、「でも扱いが面倒なんでしょう」と聞いてみた。するとやはり、金曜、土曜の晩はいなくなる者がいるし、翌日には警察に貰い下げに行かなければならないらしい。それについては、「これが面倒だと思う人はこの事業をやってはいけない。自分は慣れていますから喜んで行きますよ。親も貰い下げに行かないところを私が行くので、次の日からいうことをよく聞いてよく働いてくれます」とのこと。「出過ぎた杭にも拾う神あり」といえるだろう。この社長の応用力は5段か6段に相当する。(p.56)
 使われていないモノやヒトを活用しようとすれば、通常以上の知恵や工夫や労力が必要なのは当たり前である。これを厭うなら、何も新しいものなど生じない。

 

 

【テレビ局と番組制作会社の間】
 テレビ局は、郵政省を接待漬けにして特権を握っているだけで、下請けが作ったものを買い取って放送しているにすぎないとも言われる。放送してみて、視聴率がよかったら続ける、悪かったら止める。それしかしていないから、人の心もわからないし、人間論も芸術もエンターテイメントもわからない。お客の心は製作会社のほうが掴んでいるという時代になった。(p.66)
 最近、文化・芸術といった人文系番組でなかなか素晴らしいのをいくつか見るようになった。質の高い製作会社もあることが分かって喜ばしい。
 この記述を読むまで、製作会社名などあまり意識していなかったけれど、著者名で本を買うのと同じでように、製作会社名で見る番組を決めるという方法もアリだろう。
 ところで、電波の周波数帯域を掴んでいるだけのテレビ局と、お客の心を掴んでいる製作会社の間には、実際のところ電通のようなメディアの支配者が存在している。カネの力で情報を操作するのはここである。どんなに核心を突いた秀でた番組であろうと、広告費を払っているスポンサーにとって不都合なことと、テレビ局および電通の経営を支配している「闇の支配者」にとって不都合な番組は、めったに放送されないのである。
   《参照》   『正義という名の洗脳』 苫米地英人 (大和書房) 《前編》
             【民主主義下での立法は、正しく機能するか?】
   《参照》   『ステルス・ウォー』 ベンジャミン・フルフォード (講談社) 《中編》
             【見えない報道統制の系譜】

 

 

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