《前編》 より

 

 

【大本教】
(出口ナオ・王仁三郎の)二人は、太古に天系神によって封じ込められた地系神を解放するための役割を務めたのであった。それは明治33年に日本海の舞鶴沖にある冠島(おしま)沓島(めしま)を開くことで始まり、大正5年播州の神島を開くことで終結した仕組みであった。 ・・・(中略)・・・ 。
 出口ナオと王仁三郎を中心とした大本教の仕組みは龍神界の仕組みであるが、これが神界の仕組みと受け止められているところに、さまざまな誤解が生じてくる原因がある。(p.124-125)
 大本教は、龍神界における地系神の出口を作ったことになる。
 大本教は、アマテラスの天皇支配体制をくつがえす危険団体と考えられて、大正10年と昭和10年の二度にわたって国家権力による弾圧を受け、神苑を破壊し尽くされた。それはユダヤ人に対するキリスト教の迫害。そしてナチの大弾圧の日本版なのである。(p.126)

 

 

【神仕組みの完成図】
 今回の神界劇は、父神と母神と子神(魔王)の3つどもえのドラマである。母神をはさんで、父神が再臨するか魔王が復活するか、それが問われるドラマである。 ・・・(中略)・・・ 。しかし、このドラマは、決められたシナリオがあってそのとおりに演じられているわけではない。 ・・・(中略)・・・ その完成図は、各宗教がそれぞれに伝えてきた神世界の誕生である。 ・・・(中略)・・・ 。
 天系サイドに立てば、母神の復活とともに再度父神が立つという形が望ましい。だがそのとき、魔王クニトコタチは再び地底に潜らなくてはならない。それがキリスト教の予言したシナリオである。ところが地系サイドに立てば、母神の復活とともにクニトコタチの神界復帰がはかられることが望ましい。大本教が目指した形がこれであったし、ユダヤが待ち望んでいるのもこれである。しかしこの場合、母神がクニトコタチから離れて父神のもとへ帰らないかぎり、父神が今度はつぶれてしまうことになる。キリスト教にしろ大本教にしろ、今回の神の仕組みで完成図がもたらされているかのように予言していた。しかし完成図は、クニトコタチが立ち上がり、そのもとでイザナギとイザナミが和解する形なのである。(p.136-137)

 

 

【日本の守護神】
 太陽神を奉戴する天皇を国家の象徴としているために、日本は「ひのもと」と呼ばれ、国旗に日の丸をもってくるのであるが、日本という国は本来アマテラス大神が守護する国ではない。日本という国は本来母の国である。天皇一族が日本を制圧したことによって、アマテラスは日本国家の守護神とされるようになったが、そのことは必ずしもアマテラスが日本の守護神であるとこを意味しているわけではない。
 日本神話によれば、日本を治めていたオオクニヌシがアマテラスに国譲りをしたことになっているが、それは明らかに強奪であった。(p.246-247)
 太陽そのもののような国旗をもちながら、「日本の本来の守護神は太陽じゃない」と言われて、日本人の多くはどう思うのだろうか? 国旗や国歌「君が代」を定めることになった国内の源は、九州南部に見出すことができるけれど、そこが天孫降臨の地だったからである。
   《参照》   『フォトンベルト 地球第七周期の終わり』 福元ヨリ子 (たま出版) 《後編》
              【島津斉彬】

 

 

【雛型国家・日本】
 2千年前、アマテラスが日本の国を奪い取ったということは、世界の縮図である日本を支配することで、地球の主権を保持し続けるためであった。もちろん当時の日本は辺境の地であって文明の中心地であったわけではない。だが地球世界を大きく変える神の仕組みが、島国日本に隠されていることを知っていたアマテラスは、その仕組みを先取りする形で先手を打っていたわけである。(p.248)
 神道系の人々にとって、「日本は世界の雛型である」ことなど常識だけれど、古代から世界中のシャーマン的資質のある人々はそのことを知っていた。だから日本を支配することの意味は、昔も今も非常に大きいのである。
    《参照》   『ドラゴニアンvsレプティリアン これが《吸血と食人》の超絶生態だ!』 高山長房 《2/5》
              【アメリカの日本永久占領の力の入れよう】

 

 

【アマテラス神界の謎】
 伊勢神宮にいたアマテラス大神が、アマテラス神界の八合目の神であることはすでに言っておいた。・・・(中略)・・・。
 アマテラス神界で言えば、伊勢の神より高千穂の神の方が格が高い。母神日本を崩しオオクニヌシから国を奪ったアマテラスは、頂上神である高千穂の神ではなかった。(p.251-252)
 何で?
 地球の主権を奪うために表面的に動いたのは太陽神であった。だが、その背後には、宇宙レベルの父神の権威と力が働いていたのである。天律違反を犯すことになるため、トップのアマテラスを使うわけにはいかなかった父神は、八合目のアマテラスを使って地球支配を断行した。(p.252)
 「天律違反」とあるけれど、その本質的「天律違反」を隠蔽する過程で、その流れとして生じてきた真実も隠蔽されてきたらしい。

 

 

【「天の安河のうけひ」に隠された真実】
 アマテラスとスサノヲの間には男女の契りがあった。その両者の間に生まれたのが五男三女だったのではあるまいか? そのことを隠すために、剣や玉飾りから子が生まれたなどと表現したのではないかと思われる。そうしなければならないのは、それが明らかになっては天系神に都合が悪いためだったのではあるまいか? それを傍証するものとして、龍神界の消息を語る「由来記」に、アマテラスに対応する山武姫とスサノヲに対応する天照彦が、政権を奪取する目的で夫婦になった経緯が記されている。そこでは金龍姫に思いを寄せていた天照彦に、山武姫は、国常立を追い落として奪った政権をむりやり押しつけて夫婦になっている。それでも天照彦の心が自分に向かないと知ると、山武姫は天照彦を捨て、自ら政権をとって首班の地位に就いてしまったと語られている。
 天照彦を挟んだ山武姫と金龍姫の争いという龍神界のドラマを神話に置き換えると、スサノヲを挟んだアマテラスとキクリヒメの関係になる。(257-258)
 この他にも、スサノヲが機織場に皮をはいだ馬を投げ込み、それに驚いた織女が梭でホトを突いて死んでしまうという話があるけれど、織女が死んだということは、その関係をとがめられて落ちたことを語っているらしい。これもスサノウとキクリヒメの結びつきを暗示していると考えることができる。
 これらは、スサノヲを挟んで、アマテラス(父神の娘)と、キクリヒメ(母神の娘)の三角関係があったことを語っている。この地球レベルの話を宇宙の中心を構成する3つの星に当て嵌めると、
 父神の星の帝王星と、母神の星である白金星、そして子神の星である大王星の三角関係ということになる。(p.259)
 七夕の織姫(織女)と彦星(牽牛)の説話はキクリヒメとスサノヲの話なのである。(p.258)
父神:タカミムスビノカミ    :アマテラス:山武姫
母神:カミムスビノカミ     :キクリヒメ:   :織姫(織女)
子神:ウマシアシカビヒコジノカミ:スサノヲ :天照彦:彦星(牽牛)

 

 

【開かずの星】
 父神母神子神を統合した神格を持つ宇宙の主宰神の星は、じつは帝王星、白金星、大王星、という3つの星の真ん中に燦然と輝いていたのである。にもかかわらず筆者には神々からこの星の存在を知らされたことがなかった。というのもこの星は「開かずの星」と呼ばれて、その動きを停止していたからである。 ・・・(中略)・・・ 。
 この話を聞いたとき、筆者は超古の時代に宇宙神界で起こった出来事の概略を知ることができたのだった。宇宙の中心にある「開かずの星」をアメノミナカヌシに対応させることができさえすれば、すべては整ってくる。父神(帝王星)はタカミムスビノカミであり、母神(白金星)がカミムスビノカミ、そして子神(大王星)はウマシアシカビヒコジノカミということになる。(p.349)
 父神が犯した「天律違反」は、この「開かずの星」に関与している。
 日本神話においてアメノミナカヌシは初発の神である。その神が「開かずの星」となっていたのは、父神が最高神の地位に立って初発の神の役割を奪ってしまったかららしい。これこそが根本的な「天律違反」である。
 三権分立の3つの星は本来対等の地位にあり、アメノミナカヌシがその中央にあってその3つを統括している姿が正常な秩序である。ところが父神がアメノミナカヌシの地位を奪ったとき、母神と子神の地位は転落して地の底まで落ちていく。そして、父神はその両者を淫婦、悪魔として封じ込め、とことん踏みつけ、その再起をはばんできた。その手口は巧妙で悪どく、その絶対的権力は虚飾に満ちたものだった。真に正しいものだったルシファーは、大罪人として落とされ、鎖につながれて悪罵を投げつけられ、名誉回復の機会すら奪われ辛酸をなめつくしてきた。(p.351)
 父神による「天律違反」による行動はこのようなものであったけれど、母神と子神による「天律違反」という問題も残っている。

 

 

【母と子による「天律違反」】
 母と子の関係を近親相姦の不倫ととらえるのは、必ずしも正確な構図ではないことがわかってきた。それがわかってきたのは根元界の門が開いて、その世界の情報を得られるようになってからである。 ・・・(中略)・・・ この根元界における母と子の関係は不倫ではない。不倫ではないが、青年にまで成長している子を溺愛している母親の姿がある。この形が宇宙世界に写されてさまざまに表現変化してゆくと、母と子が結びつくという系統上における乱れが出てきてしまう。(p.353-354)
 大祓詞には「母と子の犯せる罪、子と母の犯せる罪」という表現がでてくるけれど、このことを言っている。
 父と母のいさかいのとばっちりを受けて成長しそこなっている子どもの姿が、根元界に見られる形なのである。今回の仕組みは、未成熟な青年が独立独歩の歩みを開始するためものだったと言えるだろう。(p.354)
 「マザコンごろごろ」という現代の世相を、あまりにも明白に映している。
 子どもは父親との力比べに勝ち抜き、母親の盲愛の網から逃れて、独立独歩の歩みを開始し、やがて母親に代わる配偶者を求めなくてはならない。そのフィアンセが神界で言えばキクリヒメなのである。七夕祭りは、その若者たちの悲願が達成されることを祈るための天の儀式である。(p.354-355)
 神が成熟していないと人間が成熟できないという影響(写し)を受けてしまうけれど、人が成熟しないと神が成熟できないのも確かである。
 人間として肉体を持って生きている間は、神界を立て直すために行動しないことには、生きている意味がない。