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 海外で頑張っている13人の女性を取材した新聞記事がまとめられている。新聞の記事だから一人ひとりの記事があらすじ+アルファ程度の簡略さであまり心に響いてこない。一番最後にアメリカで頑張っていた当時の澤穂希選手の記事があった。2002年9月初版。
 この本は、言うまでもなく女性の生き方に関する著作なんだけれど、ほとんど文化比較みたいな読書記録になってしまった。

 

 

【オランダの古都ライデン】
 古都ライデンは、江戸時代、オランダ商館の医師として長崎で出島にやって来たシーボルトが没した家や、シーボルトが日本から持ち帰ったアジサイ、カラタチ、ケヤキなどの植わる植物園のある、日本と関係の深い土地だ。(p.61)
 オランダ人と結婚してオランダに帰化したモーレンカンプ富田ふゆこさんは、ライデンから30分ほどの小都市ヘームステーデに住んでいるという。

 

 

【アイデンティティーの危機】
 日本国籍を33歳で離脱、オランダ人になり切ろうとしたものの、オランダ語は難しく、つたない言葉しかしゃべれない。周りから軽んじられているようで、ひとり焦り、アイデンティティー喪失の危機に直面した。「髪を振り乱して、幽霊のようになっていました」 (p.62-63)
 言葉という文化の壁は、誰にとっても最初に突き当たる第一の壁なんだろうけど、国連職員として働いていた富田さんであっても、やっぱりオランダ語は高い壁だったらしい。下記のリンク本には、ヨーロッパ人にとってもオランダ語は相当難解な言語であると書かれている。
   《参照》   『オランダ人のまっかなホント』 ロドニー・ボルト (マクミラン・ランゲージハウス)
             【オランダは活字大国:文学】
             【ダブル・ダッチ】
 この危機を乗り越えるきっかけになったのは、短歌だった。朝日新聞に投稿したら入選してはずみがついたとか。周辺のオランダ人にこのことを誇っても、 オランダ人たちの多くは、プラグマティック(実用主義的)で詩を重んじないのです。 (p.64)
 最初は入選を祝ってくれた家族たちともうまくいかなくなってしまったという。そして離婚。でも、息子は母親の国を長期間旅してまわり、かつて母親が働いていた学校で教えてもいるという。

 

 

【ニュージーランドの自然】
 ペンギンンに興味を持ってニュージーランドで研究生活を送っている沼田美穂子さんの記事から。
 もともとは森林が国土の大半を占めていた国が、入植者たちに手の届く限りという勢いで開墾され、見渡す限り青々とした牧草地という現在の風景になったのです。 ・・・(中略)・・・ 多くの野生動物たちがすみかを奪われ、森の中に巣をかまえる種類のペンギンなども数が激減してしまいました。(p.72)
 ニュージーランドって、手つかずの自然がそのまんま残っている国だとばかり思っていたから、この記述を読んで「あらまあ」である。
 ウサギ、イタチ、ポッサム、野生化した猫・・・。本来ニュージーランドにいなかった草食、肉食哺乳類がヨーロッパから入り、もとからいた動物や植物の存在を脅かすようになった。
 飛べない鳥カカポ、カタヘ、ペンギンを襲い、家畜の伝染病を媒介する。葉を食べつくされ一部の地域で絶滅した木もある。野生生物管理学は、これら「ペスト」と呼ばれる有害動物を殺すことまでも含んでいる。ニュージーランドの自然は、こうした厳しい管理のもとで守られていた。(p.79)
 下記の本には、こんな事実は何一つ書かれていなかった。あかんやないけ。
   《参照》   『ニュージーランド人のまっかなホント』 クリスティーン・C・キャトリー

 

 

【1968年、パリの5月革命】
 パリで服飾雑誌の記事を書いてきた草分け的存在である藤井郁子さんの記事から。
 騒動が収まるや、人々はそろってバカンスへ。空っぽになったパリでは「大事なバカンスシーズンが始まったから騒動が終わった」という説まで流れた。この時、実感したのは、パリで見るショーで夜の服やリゾートウエアが多いのは、長いバカンスを楽しむためということだった。
 「それまでのフランスは万事が大人社会でした。でも革命後、若者の異議申し立てが通る時代が来ました。同じことがパリのモード界でも起きたんですね」 (p.105)
 革命よりバカンス優先というフランス人気質は、かなりイケテル。
 そして、フランスにおいて大人社会の慣例が崩れたということは重要である。これによってフランスにおける日本文化受容の底辺年齢が下がり、日本化の基本路線が確定したともいえるからである。
   《参照》   『「知」のネットワーク』 大前研一 (イースト・プレス)
               【文化の担い手が変った。大人文化から子供文化へ】

 

 

【日 ⇒ 仏 ⇒ 日】
 もともとアール・ヌーボーという新しい芸術運動は、日本の浮世絵の大胆な表現に刺激を受けてパリで生まれて広まった。それが日本ではキモノの図柄に取り入れられた。「パリの人たちが見たら、きっとびっくりして喜びます」。長い間、さまざまな様式の美しいデザインを見てきた藤井さんが惚れ込んだキモノの図録。私の目にも、アール・ヌーボー風の花鳥文様の大胆な曲線は勢いがあると思われた。(p.109)
 日本人女性がキモノを着て海外へ出ると、圧倒的に注目を集めるものであるけれど、互いに相手の文化・伝統・芸術を認めあう日仏間で、相互に影響しあっている図柄であると認知できるものならば、両国民共に讃え合えて好ましいものになるのだろう。
 ところで、ファッション業界の日本人デザイナーは、妙な折衷仕様のデザインではなく、もっとストレートに日本文化の形に回帰してもいい時期なんじゃないだろうか、と思っているのだけれど・・・。
   《参照》   『ちぐはぐな身体』 鷲田清一 (筑摩書房)
              【和服は?】