《前編》 より

 

 

【 「極める」 ことをよしとする精神】
 平安時代、世界で最も仏典が揃っていたのは、インドでもなく中国でもなく日本だったらしい。だから中国から高僧や留学生が来て、日本で研究していたという。これは1200年も前のことなのだが、どうも日本人にはそういう特性があるらしい。(p.130-131)
 仏典に限らず、極東の島国・日本は、歴史的に世界中の文献を、集め保管してきたのが事実である。盛衰・荒廃の絶えない大陸諸国では、長期間にわたる文化・文献の維持は出来ないことなのである。近い例で言うならば、中国大陸で起こった文化大革命による破壊から文献や美術品を守るために、それらは台湾や日本に移されて守られてきたのである。
 このように、昔も今も日本は、世界の文化・文献を保管する倉庫のような国であり、日本人は、これらを用いて世界的な文物をも取り入れて学び極めることが自ずとできる環境下にあったのである。日本から生じている文化は、いずれもそのような日本という国土に住む日本人の特殊性の中で咀嚼され生み出されている。ポップ・カルチャーとしてのアニメも、勿論その例外ではない。
   《参照》   日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <後編>
 日本発となり世界に伝播する文化は、それらがいかなるものであれ、繊細かつ深遠な文化力をもって世界を徐々に変革するプロローグとなっているのである。
 

 

【脱宗教化する世界】
 宗教的な規範の強いアメリカでも、今の若い人は少しずつ宗教から離れてきている。このこともあって 「クール・ジャパン」 を受け入れやすくなっているのではないかと思う。・・・(中略)・・・ 。
 世界的に見ても、20世紀の後半から21世紀にかけて、三大宗教のうち信者を増やしているのはイスラム教だけだと言われる。 ・・・(中略)・・・ 。
 ともあれ、今までキリスト教的倫理観の強かった欧米を中心に、宗教離れが進んでいるのは事実である。(p.127)
 世界的なインターネットの普及とともに、カルチャーの担い手が、大人から子供へと移行することと、相補的な事象だろう。端的にいえば、宗教文化からポップ・カルチャーへの移行ということである。どう抗おうとも、この流れの変化は確実である。

 

 

【日本アニメがもたらす 「魂の解放」 】
 海外でも子どもたちに人気が高く、親の眉をひそめさせた 『クレヨンしんちゃん』 には、何の宗教的葛藤もない。「しんちゃん」 の価値観を代弁するなら、「こっちのほうが楽しいぞぉ」 「気持ちいいぞぉ」 ということになる。スペインでも大人気だ。
 大風呂敷を広げると、日本のアニメを知ったことで、外国人に何らかの変化が確実に進行しているように思える。 『クレヨンしんちゃん』 は一例だが、日本のアニメに描かれた世界を違和感なく受け入れている子どもが大勢いる。また、異質なことに驚きながらも、拒否したり排斥するのではなく、新しい面白さとして目を見開いている人たちもいる。
 大半の人は、細かくそのような分析をしているわけではない。だが、やはりこれは一種の 「魂の解放」 なのである。(p.152)
 強力な文化伝達媒体であり、異質でありながら排斥されないのは、それが視覚文化のアニメだからであろう。つまり、それを感受する対象年齢が低いということがポイントなのである。活字文化の小説ならば、どうしてもそれを読む対象年齢は高くなる。つまり文化的バイアスやタブーが強固に刷り込まれ染み込んでいる年齢であるが故に、活字文化は排斥されないまでも異質なものとしての位置に留まり易いのである。
 視覚文化のアニメを見る若年で無垢な子供達は素直に感受する。
   《参照》   『数年後に起きていること』 日下公人 (PHP研究所)
           【日本マンガ・リテラシー(読み書き能力)が世界を変える】

 

 

【 「カイゼン」 と 「オタク」 】
 英語にもなった 「カイゼン」 だが、海外で導入しようと思っても、直ちには成果が上がらない。オタク的にこだわるメンタリティがないと、カイゼンすべきポイントが見えないのである。(p.123)
 「カイゼン」 と 「オタク」 をつなげて考えたことはなかったけれど、なるほど、確かに、この様にも言えるだろう。

 

 

【デジタル・クリエイターに必要なもの】
 今後、日本に必要とされるデジタル・クリエイター、とくにプログラマーとして必要な資質は、マンガ家や小説家に必要とされるような種類の才能ではない。絵やデッサンの力が厳しく問われることはなく、ましてや天才が求められるわけではない。
 意外に思われるかもしれないが、必要なのは、理数系の才能である。コアになるのは数学、物理学だ。だから数学や物理が好きな人の進路として、アニメやCGなどのデジタル・クリエイターは非常に有望なのだと言える。(p.202)
 アメリカで作られている 『ファインディング・ニモ』 のようなデジタル・アニメは高度な理数系の技術者集団によって作られている。本物らしく見せるために必要な水中での光の様子などは、物理法則をプログラムする技術なしには出来ないものである。
 実物や実写に近しい出来映えにしようとすれば、理数系の技術が必要になるのは納得できるけれど、それ以外に絵コンテだからこそできる質感の良さが生きる作品だってあることだろう。
 技術的な描写法が確立しデジタル・クリエイト業界に行き渡ってしまえば、結局のところ差別化できるのは絵コンテ由来の部分なのではないだろうか。

 

 

【日本のオリジナリティー】
 ネットワーク環境下で一つになっている世界で、アニメ文化大国日本が何より傾注すべきことは、日本由来のオリジナリティーである。
 例えば、ゲームの 『スーパーマリオ』 のように、まったく無国籍な作品を作っていながら、その制作過程や作品の背後に日本的なるものが秘められているものだけれど、そのような秘められた日本文化とともに、脱宗教文化となっているタブーなき日本アニメが世界に迎えられているごとく、デジタル技術に関与しない部分で日本発のオリジナリティーを保つことが最も大切なことだろう。
   《参照》   『ゲームニクスとは何か』 サイトウ・アキヒロ (幻冬舎)
            【日本のおもてなしの文化】~

 ネット環境に巻き込まれて日本人自身が無国籍化してしまってはいけないのである。
 「日本人こそが ”日本人であるが故の日本力“ を自覚的に行使すべき」 ということだろう。

 

                        <了>