《前編》 より

 

 

【ドイツ人の誇り】
 私はソ連のボルガの支流カザン地区で2年間の収容所生活を送ったが、日本人俘虜将校は、隣接したドイツ兵の俘虜集団に比して規律のない、内部抗争の激しい集団として、ソ連側から非難された。(p.141)
 ドイツ人たちは、ほとんど同一条件での生活をしているのに、おどろくほど秩序あり整々として、しかも自信に満ちているのであった。食物のうばいあいや、糞尿を所かまわずたれながす不潔さや、みにくい内部密告などは、彼らの中には見出されず、むしろ団結と反抗、脱走などがソ連側の悩みの種だったという。
 帰国まぎわにドイツ人との文化交流の名目で彼らの収容所を訪問することを許されたが、整頓された内部や、限られた材料で造りあげた手造りの大時計やラジオ、美術工芸品などに驚嘆させられたと同時に、「われわれは、世界に冠たる “民族” であり(イーバー・アッレス・イン・デア・ヴェルト)、ロシア人のごときは問題ではない。頭脳的にも知性の上でもわれわれの方が数等すぐれている」 と、胸をはって公言するのに感銘を受けたのである。(p.142)
 瀬島隆三さんのような方の著作を読んで、きっと日本人は俘虜収容所でも毅然と立派に過ごしていたのだろうと、勝手に思い込んでいたから、この記述にびっくりする。
 近代になって幾度も繰り返されてきたヨーロッパ内での戦争の歴史と、重厚長大な哲学と芸術を生み出してきたゲルマン人の誇りが、ドイツ人をここまで薫陶してきたのだろう。
      《参照》  『ドイツ人のまっかなホント』 S・ツァィデニック/B・バーコウ (マクミラン・ランゲージハウス)
                【ドイツ的】

 この時代、日本人は明らかにドイツ人に比べて劣っていたらしい。

 

 

【日本民族は優秀か?】
 このような実体験を経てきた著者は、戦後、日本が経済復興した理由として、「日本民族は優秀だから」 という見解に、躊躇したという。
 外国人の日本人論の中には、この種の褒め言葉が多すぎるのではないかと思う。ちなみに、それを集めて列挙してみるとつぎのようになる。
「勤勉、積極的、規律ある生活態度、正直さ、あたたかい人柄、年長者の意見に敬意を払う、強い連帯感、礼儀正しさ、美しさ、上品さ、親切なもてなし、・・・(以下略)・・・」 (p.165)
 今から34年も前に書かれた著作の中にあった記述なので書き出しておいた。
 しかしながら、これらの褒め言葉は、世界の平均値から見ればやはり日本人に相応しいはずである。その後に著された数多のビジネス書を読んでも、それはハッキリしている。ただし、どの国であれ、国が置かれた状況や経済の盛衰に応じて若干の変動はあるであろう。それでも日本人の平均値は高いはずである。

 

 

【民族のエネルギー】
 純粋な単一民族であれば、年月をふるごとにその民族内の血は、生物学的にみて老化していくしか道はないであろう。しかし、日本のように大陸系、海洋系、アイヌなどの種々雑多な混血であれば、遺伝的要素が複雑に関連しあい、その老化が妨げられるはずである。・・・(中略)・・・。
 その意味で、徳川300年の封建時代は、わが民族にとって一つの危機であったであろう。つまり、地域的な混血も、階級的な混血もゆるさぬ社会制度が存在し、民族間の混血を極端に制限したのであろうから・・・・。
 徳川時代の人骨から見て、身長などもひどく低くなり(平均身長役157センチ)、日本人の体格の弱体化がはっきりうかがわれるのみならず、出生率も人工的におさえられた。(p.155-156)
 通時的歴史的視点で見れば、安定≒停滞≒衰退 であることは、否定しようもない。生物学的なハイブリッド(混血)化は、確かに歴史を生き延びる知恵といえる。
 商社マンとして対人接触、海外経験や、諸外国の民族とのかずかずのふれあいを通じて、まず容易に気づいたことは、わが国の民族を島国にとじこめ、またホモジーニアスな民族として教育したのは、江戸幕府をはじめ、その後の時代を支配してきた政治思想によるものであって、わが民族の本質をひどくおしまげたものであるということである。(p.174-175)

 

 

【タイにおける30数年前の企業進出摩擦】
 タイにおけるわが国の経済進出の挫折は、もちろん、進出企業に働く人びとのマナーの悪さや、言葉の不馴れ、あるいは一部の思い上がった日本的管理方式によるものではあるが、もっと深い原因を探るならば、タイの社会が急激に異国の文明を受け入れる体制であるかどうかのタイミングの判定の問題であった。企業が同じ経済的な行動をとったとしても、もう10年後にそれが行われておれば、あれほどの摩擦を生じなかったにちがいない。(p.207)
 今日では9割方日本車市場となっているタイで、34年前にそんな摩擦が生じていたなんて、ちょっと意外である。当時とすれば、かなり集中的な日本企業の進出だったのだろう。

 

 

【文化理解は国際交渉力の内】
 徐々にではあるが、商社マンのいわゆるコマーシャル・マインドからインダルトリアル・マインドへの転換が、必然的に必要とされてきたのである。また商社自身が、現地資本と結びついて製造合弁工場を経営するということがおこり、「商社のメーカー化」 がすすんでいる。
 私も、合弁事業の工場創業式に列席したことがあるが、・・・(中略)・・・キリスト教諸国では教会の牧師さんが、人々の精神界を支配しているのであって、創業式の祈祷だけではなく、あとあとまでも、工場経営に重要な影響をもつということであった。(p.197)
 従来の、ともすれば 「かねもうけ」 に関係ない仕事は政府の文化担当者や、ジャーナリズム、学者のものであるという考えから脱皮する時代に到来していることを自覚し、そのような体制づくりを急ぐべきであると考える。
 そして、そのような 「文化革命運動」 は、一見、商社の業務内容に矛盾するかのようにみえるが、実は、その国際交渉力をさらに高めるものではないかとおもうのである。(p.201)
 今日では当然過ぎるほど当然な認識だろうけれど、34年前はまだこんな状態だったということ。

 

 

【海外の文化を学ぶならビジネスマンの本から】
 過去において、私どもの多くの先輩たちは世界の各地で身につけた文化文明論を文章にして残さず、以心伝心または口碑によって後輩に伝えてきたといえる。しかし、現実に商社機能のなかに文化文明の要素が根強く介入して、日常の業務にまで入り込んできている以上、進んで資料とし、また書かれた体系で世に残すべきではないか。このような努力の不足そのものが、商社の活動についての理解を困難にしたのではないか。(p.208)
 34年前は、こんな状態だった。
 その後、商社マンの皆さんが書き残してくださっている本は、一般書店でもだいぶ出回るようになっていたから、私などは面白くて学生時代にも何冊か読んでいた。そもそも比較文化関係の書物に関しては、大学の先生の書くものなんて、商社の方のそれに比べたら、内容も書き方もぜんぜん面白くない、という印象を今でも持っている。
 今日では、商社の海外事務所が日本大使館のような役割をしているところが少なくないらしいし、政府要人が海外に行くとき、国によっては、商社員がほとんどのお膳立てをすることになっていることもあるそうである。
      《参照》  『馥郁たる日々』 春咲淳 (日本図書刊行会)
               【観光や食事のおつきあい】

 

 

【海外駐在員のあるべき姿】
 私はよく、「海外駐在員にとってもっともたいせつなことは、駐在国の文化や、そこに住む人々の歴史、風俗習慣を熟知することである」 と強調してきた。・・・(中略)・・・語学の熟達やマナーの勉強も、もちろん大切だが、わが国の文化をしっかり身につけた、よき日本人としてエスタブリッシュされること、そして現地の社会構造の中で寛容の精神を持って、相互にクロスし、協力進歩していくことが、海外駐在員にとって基本的なありように思われるのである。(p.206)
 このようなことは、今日の経営者も同様に語っているけれど、現地に派遣された人々が、すべてこのとおりに行動できているかどうかはかなり疑わしい。
      《参照》  『キヤノン現場主義』 御手洗冨士夫 東洋経済新報社
               【 「国際人」 とは 】
      《参照》  『日本人には言えない中国人の価値観』 李年古 学生社
               【すれ違い】    
           

 

<了>