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 日中間のビジネスマンを対象とした企業研修やコンサルタントをしている著者。日本に20年ほど住んでいるそうである。日本人と中国人、その理解の擦れ違い様の具体例が書かれているのが良いところ。
 

【孝行の文化】
 「中国の文化はある意味で “孝行の文化” だ。孝行は、中国文化の中でもっとも高い価値をもつもののひとつであり、中国文化を語る上で、孝行が分からなければ、中国文化の真髄がわからないだろう」(謝幼偉)と述べている。 (p.19)
 血縁集団を視点として中国文化を見た場合は、孝行の文化であろう。しかし、文化を見定める視点は血縁集団だけではない。

 

 

【中国人の二面性を産み出した儒教道徳の絶対化】
 道徳的な人間であることが最も強く求められた価値観に支配された社会で、多くの中国人は、完璧な道徳家を演じざるを得なかったものの、一方では、人としての欲望も捨て切れず、やがて二面性を求めるようになっていった。つまり、生活のあらゆる場面において道徳に染められつつも、一方で欲望に従うような二重人格を中国人が身につけたのは、儒教の二者択一の強要に大きな原因があったといってもよいだろう。 (p.23)
 ここでいう二者択一とは、「道徳に即して天国へ行くか、欲望に従って地獄に落ちるか」という選択である。
 大陸に住む民族は異民族の侵入に晒される。最終的に家族の血縁関係しか信頼するものがない。故に儒教道徳が浸透しやすいのは、「血縁集団(家族)」 という単位までであろう。もっと広範な 「社会」 という単位で見るならば、災民文化を基底として考えざるを得ない。だから中国人は、物的生存基盤を確保するために、一端血縁集団の外に出れば、道徳とは相反する行動を容易にとるのである。

   《参照》  『「反日」に狂う中国 「友好」とおもねる日本』 金文学 祥伝社 《後編》

             【災民文化】

 

 

【量で計る「ケチ」】
 たとえば上海人が友人を招待する場合は、ほかの中国人と違って、食べられる量しか出さない習慣があるから、「ケチ」 という印象を与えてしまい、中国のどこに行ってもあまり歓迎されない。・・・(中略)・・・。
 飲食費のほかに、冠婚葬祭費用も日本人の想像以上だろう。人脈重視、人情深い中国の風土ゆえ、中国人は冠婚葬祭での費用を惜しまない。しかも、中国人がお土産を送る場合は、「ほんの気持ち」 という感覚では通用しない。気持ちを表したければ、その気持ちの重みに見合ったお金をかけたお土産を送るのが常識だ。  (p.40)
 上海人を日本人に置き換えても同じなのは言うまでもない。
 上海は中国の中では最も先に開発が進んでいた地域である。どのような民族であれ、豊かで安定した社会環境がある程度継続的に維持されれば、 “量の文化” から “質の文化” へと漸次変遷するものである。
 気持ちを量(金額)で表すというのは、人情深い風土というよりは、生存や貧への怖れが根本的背景にあるからこそ、過剰な贈与ないし蕩尽となって現れるのであろうし、さらに積極的な欲望が上乗せされるからこそ、人脈重視に量的肥大が伴うのである。
 中国人の常識というのは、かように人類の進化レベルからすると、甚だしく “低い” というのが実態である。

 

 

【賭博社会】
 私は世界の大都市の賭博所を回ってきたが、そこで一番金持ちに 「見える」 のは中国人たちだった。中国に戻ると、さらに失業した友人に何人か会っても、彼らの苦情が、解雇された会社に対する不満よりも株の暴落への怒りであることにびっくりした。中国では、貧乏であればあるほど、一夜の儲けで金持ちになることを夢みているようだ。
 悲しいかな、人生そのものを賭博としてすべての金銭を賭ける、これが中国人の金銭観の一端といえよう。(p.44)
 マカオや海南島のカジノを見て、中国が豊かになったと思うのは明白な誤り。賭博社会・中国は、災民文化を基底とする中国文化の象徴的な顕われである。

 

 

【 「商人」 = 「奸商」 という社会的イメージ 】
 テレビ局の記者だった著者の友人は、水道水を沸かして瓶に入れたものを天然水として販売した。コマーシャルを流すと爆発的に売れた。
 友人たちは、「君は全中国人を敵に回すつもりなのか」 と彼に忠告した。それに対する彼の回答は、なんと 「大丈夫さ。たとえ6億人を敵に回したとしても、まだ6億人のお客がいるさ」 だった。(p.53)
 このような厚顔無恥な 「奸商」 を蔓延らせるのは、仏教的な 「因果応報」 の思想がないからなのだろう。近代的な法治国家の概念も、儒教的な “孝行” を尊ぶ血縁集団(家族)を中心核として社会に蔓延る人脈主導の人治国家では、殆ど活きてこない。

   《参照》   『驕れる中国 悪夢の履歴書』 黄文雄 (福昌堂) 《中編》
             【中国人の文化的DNA:騙しの文化】 

             【 『厚黒学』 】

 

 

【人脈を 「経営」 する経営の哲学】
 中国社会が 「コネの社会」 といわれていることは周知の事実だ。商人にとっても、中国で金持ちになりたければ、まず 「人間持ち」 にならなければならないといわれる。人脈に投資することこそ儲けの近道だと、多くの商人が経営の哲学として信じている。(p.65)
 経営哲学の中に、信用とか信頼とか品格とか品質という単語など、一つとして出てこないところが中国の中国たる所以である。これゆえに、中国社会は決して日本のような高品質社会には至れない。

 

 

【中国人のサービス】
 外国人は 「なぜサービス担当者はあんなに傲慢で無愛想なのか」 と理解に苦しむだろうが、中国人であれば彼らの気持ちがよく分かる。
 じつは、彼らの社会的な地位が他の業界より低いという、社会的な風土を彼ら自身もよく分かっているために、軽蔑されることを恐れて、自己防衛ともいえる過剰反応を示しているにすぎないのである。 (p.86)
 背後の肩口からナプキンが投げ込まれて、英国のサッチー首相を激怒させたという話が伝わっている。中国で全く同じ体験をしている日本人もテンコモリいるはずである。チャンちゃんも上海で体験した。
 中国的な格差社会・階級社会が維持される限りにおいて、中国人による自発的なサービスの向上は望めないのである。しかし、これはなにも中国に限ったことではない。
 とはいえ、広州~深圳間の電車内販売でお弁当を買った時、売り子の少女は側面に常備されていた厚い雑誌を私の膝に置いてから、その上にお弁当を出してくれたので大層ビックリしたことがある。はたして長期的にそのサービス行為が継続され、その精神が中国に根付くかどうか・・・・。

 

 

【木子実と扶蓉姐姐】
 彼女(木子実)の日記(ブログ)は最初、罵声を浴びせられた。マスコミは彼女を 「頭で書くのではなく、身体を使って執筆する」 と切り捨てた。だが、いつのまにか、中国の伝統的文化にたいするその大胆な挑戦が若者に強烈なインパクトを与え、一躍名声をあげた。 (p.118)
 (扶蓉姐姐が)木子実と似ているのは、彼女は周りの罵声をまったく意に介していない点だ。控えめや恥ずかしさ、メンツなどなどの伝統的な女性のあるべき姿を完全に無視し、ひたすら自己陶酔の世界に身を沈めている。(p.121)
 二人ともスターのような美女ではない。だからこそ中国の若者たちの等身大の心にマッチして、中国文化や性道徳意識の堰を切らせ、社会規範を急速に変容させるのに一役買っているらしい。

 

 

【日系企業の人材確保】
 日本企業はもっともっと女性を採用すべきだといつも進言している。実力を備えた女性が多いばかりではなく、女性は能力が高い割に、安定志向が男性より強いからだ。男性的なチャレンジ精神を好まない日系企業は、ある意味で中国の女性に向いているのかもしれない。(p.167)
 これは良く分かる。諸外国と較べれば、日本社会はそもそもからして女性的な社会なのであるから。
 中国IBMは女性管理職者5割を目標にしているという。

 

 

【冷静さをもてない状況】
 中国人向けの研修を行なうとき、いつも、研修を最後までできるかどうかという緊張感を覚える。日本人について語るとき、中国人の参加者の間に日本人に対する感情的な反発があると、普通の日本人を理解するのに必要な冷静さが失われてしまうのである。 (p.186)
 東京大学教授という肩書きを持っている姜尚中さんという在日韓国人の学者さんを良くテレビで見かける。低い声で冷静な冴えた分析を語るので視聴者はすっかり聞き入ってしまう。しかし、もう2・3年ほど前だったように記憶しているけれど、この姜教授が、日本の朝鮮統治時代に関わる討論に参加していた時は、全くの別人だった。それはあたかも “何ものかに憑依されたシャーマン状態” と表現する以外にないような異様な有様だったので強く印象に残っている。
 個人的な民族精神の基盤がどこにあってもいいけれど、あれで客観性を旨とする学者として資質に欠陥ありと教授会から指弾されなかったとしたら、教授会の方が資質を問われるべきだろう。
 かように幼少期から政府主導の反日プロパガンダの洗脳に晒されてきた若者は、大人になってからも冷静さを失ったまま、日本人の欠点を針小棒大に捉える趨勢をもってしまう。中国人のみならず、今日の韓国人の若者の中にもこういった人々が実に多い。

 

 

【すれ違い】
 半導体装置の会社の指導員である渡部さんが、中国人女性に対して現場指導していた。実際の取り付け作業で、中国人女性はなかなかできない。現場を軽視してはいけないことを 「気づいてほしい」 渡部さんは、待った。完成したのは翌朝5時。完成した瞬間、彼女の涙を見た渡部さんは、感動を覚え、親近感さえ感じたという。

 著者は、中国人の日本人に対するイメージからすると、この話は信じがたく、中国人女性に直接会って、その心中を確かめたのだという。
「渡部さんの日ごろの指導というのは、いつも “お前らに教えてやる” というような傲慢で相手のプライドを傷つけることばかりです。あの日は仕上げた瞬間、どうしても涙を抑えることができませんでした。わたしは、自分の力で、ついに、いじめようとばかりする指導員に勝ったのですから・・・」  (p.189)
 これは、決してレアケースではないという。

 

 

【日系企業に雇われたホワイトカラーとブルーカラー】
 なぜホワイトカラーとブルーカラーの間で同じ日系企業の評価に天と地ほどの差あるのだろうか。それは、日系企業がホワイトカラーとブルーカラーに、ほぼ同様の福利厚生を与え、給料もたいした差がない賃金システムを採用しているからだろう。階級差社会の中で働いている中国人のブルーカラーにとっては、居心地の良い職場であることは間違いない。 (p.201)
 都市と農村の間に 「戸籍」 という厳然たる差別制度が存在している中国社会には、それ以外にも実に複雑怪奇な階級が存在しているのである。このような国内差別が常態化している中国社会に於ける儒教道徳とは、あくまでも血縁ないし擬似血縁内に限って “親孝行” という徳目において機能しているだけであって、社会的には “幼長の序” などの徳目を階級差別支配の正当化に用いているに過ぎないことを、再度あらためて理解しておく必要がある。
 また、日本は世界の中では、「類稀なる平等社会」 を実現している世界で唯一の国家であることを自覚しておくことも、比較文化として理解しておくべき重要なポイントである。グローバリズムに同調し格差社会を志向する輩は、たとえ日本人であっても、“無教養な” ないし “悪質な” エセ日本人である。
 
 
<了>