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 あんまりパッとしない対談内容である。書き出したい個所が殆どない。2003年5月初版。
 

【ナショナリズムと民主主義は対】
福田 : ナショナリズムは基本的に民主主義と対になっている、と僕は思っているんです。ナショナリズムのない民主主義はあり得ないから。フランス革命でいう 「リベルテ(自由)、エガリテ(平等)、フラタニテ(博愛)」 のフラタニテですね。普通 「博愛」 と訳しているけれど、あれは良くない訳で、本当は 「同胞愛」 です。だから同胞として愛するという意味がある。(p.93)
 なるほど、同胞を拡張して国家に置き換えればフラタニテはナショナリズムになってしまう。
 アメリカの大学にある 「学生クラブ」 は 「フラタニティ」 と呼ばれているらしいけれど、おそらくフランス語のそれが語源なのだろう。「博愛」 より 「同胞愛」 の方が意味的に明らかに相応しい。
   《参照》   『ジャパン・ハンドラーズ』 中田安彦・副島隆彦監修 (日本文芸社)

                【アメリカはコネ社会】

 

 

【アメリカの支配力】
福田 : 僕は今の状況を考える時に、軸にしている論文が二つあるんです。ひとつはPNAC(アメリカ新世紀プロジェクト。ブッシュ政権の世界戦略のブレーン集団) の設立者、代表的論客であるロバート・ケーガンが出した、 『弱さと強さ(Power and Weakness)』 という論文です。ケーガンはブッシュ政権の論理的支柱と言われている。去年秋の論文なんですけどショッキングです。(p.110)
 この記述に続いて、『ネオコンの論理』 ロバート・ケーガン (光文社) に書き出した内容と同じポイントを語っている。
 ただし、この対談本は2003年時点のものだから、二人とも、ネオコンの論理で世界は進んでゆくのだろう、という思いで語りあっている。下記の香山さんの意見もそうである。
香山 : 最近フランクルの 『夜と霧』 の翻訳を読み返していたら、アメリカ以外の国の人たちが、収容所に入れられて、自分たちの決定権を奪われてしまって、次に何が起きるのか待っていることしかできない人たちに重なって見えてしまったんです。決定権とか未来への期待が自分から離れてしまうと、人間は急激に無力化してしまって、抗議する気持ちもなくなって、淡々と収容所の中の生活を受け入れるようになる。強制労働とか、ガス室に送られたりとか。理不尽なことが起きても誰もそれに対して騒がないんです。世界は今、それにすごく近いような気がしてしまったんです。(p.150)
 2010年現在の世界は、ネオコンの論理(計画)通りに進んでいるわけではない。しかし、現在の日本は、政治も経済もマスコミも恣に牛耳られており、依然として強力にアメリカの支配力が及んでいることに変わりはない。つまり、アメリカという怪物が、今だ日本に覆いかぶさっているのである。
 ところが、そのことを知っている人々も、政治に無関心で何も知らない人々も、等しく、香山さんの言う “無力化” 状態にあるように思える。まさに先が見えない感じである。閉塞感に満ちている。
 この対談にも、閉塞感を打破る記述はない。

 

 

【無益な対談】
 この対談を読んでいても、そんな閉塞感を打ち破る知的な回路ないし突破口が全然見えてこない。フリーターや引きこもり達のことに言及していても、彼らが行動する可能性の背景を具体的に語りえていない。ならば、何のためにこのような対談がなされたのか。タイトルの 「愛国」 にまつわる興味深い記述があったとも思えない。どんなにIQが高くても、対談者お二人の “知のフィールド” では、突破口を語り得ないのである。
 つまり、この本は、 “知のお遊び” みたいな内容なのである。時代状況をダシにして、広範な知を披歴しているだけの評論家さんのお遊びみたいなものである。

 

 

【エセ科学?】
福田 : ああいうエセ科学的な話って、百年来ずっとあったんじゃないですか。日本人は右脳だ、左脳だとか。けっこう偉い東大の先生なんかが、日本人以外には虫の鳴き声はわからないとか。「先生、ワーズワースの詩にありますよ」 とかツッコミを入れれば、一言でひっくり返ってしまうのに、その程度の理屈に一生を賭けちゃいけませんよ、というようなね。(p.96)
 福田さんの話の元は、 『右脳と左脳』 角田忠信・著 (上掲写真) のはずだけれど、この本の中には実験結果のデータが記載されていて、全ての欧米人が虫の鳴き声を判別できなかったというデータにはなっていない。
 当たり前のことだけれど、統計的に有意と判断しうる実験結果が得られたからこの本が著されたわけで、日本人の脳の特異性を語ったこの著作の有意性がひっくりかえることはない。虫の声を表現した西洋人の詩があるからと言って、 「エセ科学的な話」 と論断するのは強烈に杜撰である。
 決して 「エセ科学的な話」 などではないから、私はこの著作をもとに下記の文化論を書いた。
   《参照》   日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <前編>

             ■ 日本語と日本人の脳の特異性 ■

 

 

【福田さんの “知のフィールド” 】
 福田さんは 『声に出して読みたい日本語』 の著者(齋藤孝)の実践に関しても言及しているけれど、その効果をきちんと理解していない。
   《参照》   『身体感覚を取り戻す』  齋藤孝  日本放送出版協会

            【身体知の巨人】~【「生の美学」】

 福田さんの “知のフィールド” は、あくまでも従来の人文系学問の分野に留まるものであって、それは言うならば 「頭脳知」 というべきもので扱う分野である。齋藤孝さんが目指している 「身体知」 というフィールドは、そもそも 「頭脳知」 では扱えないのである。
 

【フィールド違い】
 福田さんは、御自身の “知のフィールド(頭脳知)” で扱えない領域を、意識的にか無意識的にか避けているのだろう。日本人の脳の特性や、身体知といったものは、人間の神秘的な領域に根を置くものである。つまり霊学に連なってゆく領域である。
 日本人の脳の特性を否定したり、身体知を評価できなかったり、オカルト系のホラー小説作家である鈴木光司さんの作風を酷評していたりすることの、福田さんの心理の根っ子は同じなのだろう。
   《参照》   『リング』  鈴木光司  角川書店

             【 福田和也・著 『作家の値打ち』 より 】

 福田さんが理解を避け言及せずにいる分野をこそ、時代は必要としているのである。その分野を語らねば、人類は本当に行き詰まってしまうのである。
 香山さんも精神科医と言う職業柄、霊学的なことの言及は御法度なのだろうから、せいぜい上っ面の社会学的見解を述べるに留まるのである。コメンテーターとして時々テレビで見るけれど、メガネだけが印象的で、コメントが印象に残ったことは一度もない。
 
 
<了>