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 この小説が映画化された当時、職場の何人かが 「小説の方が怖い」 と言っていた。今でも映画は見たことがないけれど、この小説、それほど怖いとは思わない。貞子のような怪異に近い因縁話は、子供の頃からいくつか聞いたことがあったからなのだろう。面白い読み物である。

 

 

【大地への精射】
 見てしまったら余命1週間というビデオテープを見てしまった二人、浅川と竜司。竜司の頼もしい精神力と知力がこの物語を牽引して行くのだけれど、その人物を特徴づけるのに、このような描写をしている。
 取材の中で浅川はこんな質問を出した。
 ・・・・・将来の夢を聞かせてくれよ。
 竜司は平然と答えた。
 ・・・・・丘の上から人類の滅亡する光景を見物しながら大地に穴を掘り、その穴の中に何度も何度も精射すること。 (p.101-102)
 貞子の “念動画“ を起点とし、心理的なパンデミック(感染爆発)を引き起こす可能性のあるストーリーは、壊滅的な人類滅亡の可能性を秘めたものであるから、人類滅亡と大地への精射は、根源的・神話的な象徴をもってするイメージのリンクなのだけれど、このイメージを内発的に共有できる人々は、男性であってもそう多くはないのではないだろうか。
 この大地への精射というイメージ描写、大江健三郎の作品の中にもあったことを記憶している。しかし、この神話的意味合を頭では理解できても、体感発想の根源が、私にはまったく・全然・皆目・てんで、分からない。まあ、でもそんなことは、ホラー小説のジャンルに入るこの作品においては、付加的な文学性に繋留する部分なのだから、どうでもいいといえばどうでもいい。

 

 

【念動画】
 ポイントは全て、一瞬ビデオを覆う黒い幕が “まばたき” であることに気付くか気付かないかにかかっていたのである。映画を記録したのがビデオカメラではなく人間の感覚器官であり、しかも、その人間がビラ・ログキャビンB-4号棟の録画状態になったままのビデオデッキに向けて強い “念写” を行ったとすれば、確かにその人物の持つ超能力は計り知れないことになる。(p.184)
 これは、このストーリーのポイントとなる部分。ネタバラシに近いけれど、もう、ピークを過ぎた作品なので、書き出したからと言って誰もブーブー言いはしないだろう。
 しかし、この部分は第1段階で、本質的なホラー性(というより文学性に近い)は、山村貞子がアンドロギュノス的身体性をもった美少女ないし美少年であったことにあるのだろう。そうでなければ、ビデオの中で老婆が語っていた方言による 「うぬはだーせんよごらをあげる」 が成立しないのである。

 

 

【 福田和也・著 『作家の値打ち』 より 】
 文芸批評家の福田さんによる、鈴木光司の批評。
 幸運児である。その幸運の長からんことを祈らずにはいられないほどの。
 彼の人気こそがミステリーであり、 「ホラー」 でもあると云うべきか。
 テレビドラマのノベライゼーションのような文体、紋切型に満ちたレトリック。目新しくはあるのだろうが、それがどうしたと突っ込みたくなるような種明かし。無内容な人生観をめぐる長広舌。 「呪い」 と 「ビデオ」 という組み合わせが新奇ではあるにしても、それが何ほどかの感興を呼ぶのだろうか。教えてもらいたいほどだ。(p.70)
 福田さんという作家さんから見れば、 “無内容な人生観をめぐる長広舌” とされてしまうのであろうけれど、 “こんなん書いちゃったら取りつく島もないじゃん“ と思ってしまう。どこまでも福田さんの視点である。私はそこまで思わない。
 そもそも、2行目を読んだ時点で爆笑してしまったのであるけれど、大衆は、福田さんのような思索家の華麗な筆致に魅せられるような読解力をもってはいない。 “無内容な人生観をめぐる長広舌” こそが大衆の水準なのであるから、そのことに留意する意志のなさそうな福田さんの存在こそ 「ホラー」 である。
 100人の作家さんを独自に作品ごとに評価しているけれど、福田さんによる鈴木光司という作家の作品の平均点は28点程度である。おそらく掲載されている作家たちの中では、最低点かもしくはブービーなのであろう。
 ブックガイドというものは、先んじて利用するものではないと考えている。要らぬ先入観を持ってしまうからである。読後に、自他の視点の違いを確認するものとしてならば、少しは有効である。
 
 
続編の 『らせん』 へ
 
<了>