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 序章では、著者のイギリス滞在経験から相対的に日本を照らし出しているけれど、これが結構興味深い。

 

 

【 「自我を生む都市空間」 と 「魔女の森」 】
 「西欧の都市には、精神性においても、権力性においても、経済性においても、社会性においても中心になるものがある。教会であり、宮殿であり、銀行であり、広場である。ところが東京の中心には、これらのものはない。ただ、そこにあるのは宮城だけである。
・・・中略・・・。
 「壁も地平線もないこの国へくると、自我というものが萎えてしまう」(『表徴の帝国』) (p.9)
 フランスの哲学者ロラン・バルトの言である。
 アルプス地域を除く西欧は、氷河期の影響で高い山は削られているから、あってもなだらかな丘陵で、大抵は平地である。故に教会の尖塔が都市の目印となり、ありあらゆる情報の拠点となっていた。侵略者を拒みようもない地平線に囲まれた平坦な土地に都市を作らざるを得なかったから、目印としての教会と防御としての城壁はペアである。だからこそ西欧は “宗教と戦争“ という概念に付随して自我が形成されてきた。
   《参照》   『魂よ、目覚めよ』 門脇佳吉 岩波書店
             【国家・宗教・戦争】
 このような都市空間に住まう西欧諸国の人々が、統一性のない建物や電線・電柱の交錯する乱雑な日本の都市風景を見ると、さながら “魔女の森“ のように思うのだという。魔女という言葉の背後には、自我を脅かすという意味もあるのだろう。

 

 

【イギリス料理】
 エリザベス1世の時代、シェークスピアの時代は、料理は、フランスよりもおいしかったそうである。ところがそれから以降。ピューリタンの時代になって、だんだん悪くなってきた。料理に限らず、音楽や芝居なども盛んだったが、すべて駄目になった、という。生真面目な信仰のせいだろう。(p.62)
 清貧を宗とするピューリタン信仰というのは、江戸時代の贅沢をいましめる政治改革とは違って、より根底的な呪縛に近いものだから、なかなか元には戻らない。
 イギリス人が減って海外からの移民が多く住むようになったロンドンでは、料理の味がよくなっていると書かれているけれど、本当だろうか。私には、「他国の民族料理が増えただけだろう」 としか思えないけれど・・・。

 

 

【 「活物在魂」 と 「模倣呪術」 】
 「活物在魂」 とは、「活き活きしているものには魂がある」 という日本人の考え方。
 「模倣呪術」 とは、「活物の生命力を模倣し自身に取り込む」 という日本人の考え方。(p.80)
 「活物在魂」 の思想は、さらに大きく進歩した。
 たとえば、江戸初期の儒学者の伊藤仁斎(1627~1705)は、
 聖人は天地をもって活物となし、異端は天地をもって死物とする。 (『童子問』)
といっている。・・・中略・・・。孔子の教えというよりは、日本人の古来の観念を仁斎が思想化したものといえる。(p.201)
 日本人の古来の観念で読むと、聖人とは、「師」 とか 「匠」 と呼ばれる職人がこれに該当する。
 天地をもって活物となすとは 「素材のあるがままを活かす」 とか、仏師が、「仏を彫る」 ではなく 「そこにいる仏を彫り出す」 という場合であろう。

 

 

【米とアマテラス】
 『古事記』 では、アマテラスは、
 豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、わが子の知らす国ぞ。
 と、コメの国・日本の 「征服宣言」 をしている。水穂は水稲のことである。こうしてイネは五穀の中でも抜きんでた地位を確保するにいたる。(p.82)
 コメは、この国の 「活物在魂」 の観念に合致して、一大発展をとげていったのである。(p.83)
  ”田” も ”米” も漢字に共通する部分は、霊性のエッセンスを意味している。かつての日本人は、気を “氣” と書いていたほどだから、イネに関する 「活物在魂」 は強く意識されていたのだろう。
 アマテラスをギリシャ神話の穀物神・ペルセポネに対比させた著作があったのを思い出した。
   《参照》   『鏡の中のアマテラス』 新井あけ美 (文芸社)
 次は、「米」 からできる 「酒」 である。

 

 

【ハレの場は、呪力を注入する場】
 酒は、古くは巫女が米を噛んで、吐いて、さらに発行させてつくった。その巫女のことを刀自といった。それが杜氏となった。酒造職人を意味した。
 そのことから、酒の分配権は女性のものになった。早い話、酌がそうである。女性の酌によって、男たちは盛り上がった。ハレの場は、男たちに 「呪力を注入する場」 となったのである。(p.91)
 現在は何故か ”女人禁制” の酒蔵が多い。
   《参照》  『柔構造のにっぽん』 樋口清之  朝日出版社
            【刀自(とじ):酒造りの指導者は女性だった】

 

 

【日本料理】
 ハレの日の食事文化の底流には、日本人の 「旬への想い」 が生きている、といっていいだろう。(p.95)
 旬とは、およそ10日。旬のモノを摂るのは、保存技術がなかったからではない。 「活物在魂」 と 「模倣呪術」 の思想を意識していたからである。保存技術が確立している現在でも、日本料理に “おしながき(メニュー)” はない。旬のモノを出すのが純粋な日本料理である。

 

 

【マドコオウフスマ】
 天皇の即位ののちにおこなわれるもっとも重要な儀式である大嘗祭の中心となるものは、先帝から遊離した天皇霊を新帝に付着することである。
 それは、具体的には、新帝がいったん真床追衾(マドコオウフスマ)にくるまって、つぎにそこから抜けでる、という形をとっておこなわれる。
 このマドコオウフスマは 『日本書紀』 によると、天孫、つまりアマテラスの孫であるニニギノミコトが降臨されたとき、身体をつつんでいた寝具とされる。するとマドコオウフスマは、一種の 「呪具」 だ、といえる。(p.108)
 このマドコオウフスマの例を、学術的な用語で言うと、「感染呪術」 に分類される。
 寝具であれ服であれそれらには誰であれ身に付けた人の気がこもるから、これらは普通に 「呪具」 としての活用は可能である。
 単なる古着という認識で、運の悪い人の着衣をもらって着ていると、人生が冴えなくなることもあり得る。

 

 

【十二単】
 直衣や十二単を着て歩く貴公子や女房たちは、さながら動く桜か、梅林である。衣服は、暑さ寒さの防護手段というよりは、大宮人たちの歩く表現芸術といっていいものだ。
 しかも、それは季節の表現である。それぞれの季節のもっとも晴れやかなものを模倣している。模倣することによって、その季節の生命力を身につけようとするのだ。(p.119)
 日本人が季節に合わせたファッションを選ぶのは、「模倣呪術」 を意識しているから、ということになる。

 

 

【言霊が咲き合うカラオケ】
 山上憶良は歌う。

 神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 倭の国は 皇神の 厳しき国
 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言い継がひけり  (『万葉集』)

 ここで 「言霊の幸はふ」 とは 「コトダマが幸運に会う、栄える」 という意味であるが、幸と咲は同根であり、わたしは国学者の大島正健の主張に賛同して 「咲き合う」 と解したい。すると日本は 「コトダマあるいは歌の咲き合う国」 なのである。 (p.242)

 「歌は呪言である」 と、明確にいいきったのは折口信夫である (『国文学の発生』) (p.246)

 世界中どこの国にも歌はあり、多くの人々が歌を愛しているが、そのほとんどは聞き手としてである。日本ほど庶民が好き勝手に歌って楽しんでいる国はない。これも、呪言としての歌の相聞つまり相互発信性の伝統によるものであろう。コトダマが咲き合っているのである。(p.254)
 日本発祥のカラオケは台湾・中国などでも大いに流行っているけれど、彼の国々の歌唱三昧はおそらくお喋り好きな国民性の延長なのである。世界中の人々が集まるような観光地で、大きな声で喋っているのは、まず間違いなく中国人か台湾人なのだから。

 

 

【日本の童謡】
 アメリカでは、童謡は非常に少ないそうだ。ヨーロッパでも、子どもたちの歌は日本のようには多くない。日本は子どもの歌の宝庫である。しかも、その歌の多くが季節の歌なのに改めて感心した。(p.361)
 ということは、日本人の子どもたちは、童謡によって、日本文化を特徴づける 「言霊(呪言)」 兼 「模倣呪術」 の基礎訓練をしているわけだ。童謡をあまり歌わなくなった現在の日本の子どもたちは、おそらく日本を変質させてしまうことだろう。大人たちの責任である。
 
<了>
 

  上田篤・著の読書記録

     『一万年の天皇』

     『神なき国ニッポン』

     『呪術がつくった国日本』