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 まえがきに、「本書誕生のきっかけは、NHK教育テレビ 『未来潮流・哲学者門脇佳吉の魂をめぐる対話』 でした。」と書かれてる。
  第一部 魂とは、霊の息吹とはなにか-「死と再生のドラマ」
  第二部 魂の息吹をめぐる対話-宗教と芸術
  第三部 魂の息吹によって開かれる 「場」-西洋と東洋を越えた地点
 これらの目次をみると、私にとっては、激しく興味が持てそうな内容である。


【これらのテーマを語るのに、哲学者は相応しいか?】
 しかしながら、読み通して何故かしっくりとこなかった。
 私の偏見であろうか、「息吹」 に関して、東洋の禅の呼吸法が随所に援用されていながらも、シックリこないのは、著者の知性のベースが聖書に置かれているからのように思えてならなかった。東洋の呼吸法の要点を、ダイレクトに東洋の智恵のままに語るだけで、その裾野は遥かに広範な領域を含むであろうに・・・・。
 しかも、アニマ、アニムスなどの原意である 「息吹」 という重要な単語を出発点にしながら、ライアル・ワトソンの 『生命潮流』 の内容のように、地球と宇宙に直結した論考になっていないように感じる。おそらく 「息吹」 は生命には直結しても、芸術には直結させたからといって、それだけで主要なポイントを押さえたことにはならないからのように思える。そもそもからして、哲学者がこれらのテーマを扱うのは、おそらく相応しくないように思う。
 自分の知的思考力の弱さを堂々と棚に上げて書くならば、大学生の頃読んだ、哲学者の書く芸術論は、実に分かりづらかったのだし、霊学的視点で記述された芸術論は、論理的であろうとなかろうと私には全体的に理解しやすかったのであり、ニジンスキーなどの芸術家が苦悩し続けた過程を綴った手記を読んで、ようやく芸術家が表現したがっているものが分かったのである。
 芸術家が目指すものを、芸術の本質を、哲学者に思索してもらうと分かりずらいだけである。


【大江健三郎の作品について】
 私が大江さんの作品を読んだのは、十数年まえの大学生時代までである。なので、ノーベル賞の対象となったらしい作品群の多くは読んでいない。
 第一部で、「死と再生のドラマ」 としてノーベル賞の対象作品が挙げられているのであるが、評論集である 『ヒロシマ・ノート』 までが、この範疇で言及されていて、いささか驚いた。余りにも昔に読んだ本なので、不確かな記憶ではあるが、大江さんの作品は、ユマニズムをベースに宇宙樹やトリックスターなどの神話的な表象を用いて書かれていたのは覚えている。しかし、評論である 『ヒロシマ・ノート』 が、それらに、ましてや 「死と再生のドラマ」 に絡んでいたという印象は、私には全くない。
 著者の買いかぶりなのか? それとも、岩波書店=権威主義同盟軍なのか? 私は岩波書店に対して、大学生の頃から、かなり偏見を持っている。 


【国家・宗教・戦争】
 第二部には、著者と演出家・蜷川さんの対話がある。その中で、蜷川さんが、

「西欧で仕事をしていますと、いつでも国家とか宗教とか戦争とかを実感するのです。ところが日本にいるとそういうことが遠くに消え去っていて、もっともっと目の前に違うものが現れてきます」 (p.124) 

と語っている。
 このような土壌の違いがあるからこそ、西欧に哲学的思考が生み出されてきたのではないか。
 国家や宗教や戦争というもことどもに直面するからこそ、これらが思索の起点になったのだし、必然的に、ニヒリズムやシュール・レアリズムの極端に振れたり、ウォトゲンシュタインのような氷の思索に逢着したのである。西欧以外の場では、ましてや日本という固有の文化の場では、哲学的思索など起こりえなかったのだ。
 哲学的に論考しようがしまいが、魂に感じられるものとして、昔から、現在も、未来永劫に渡って、「芸術」 は地上に存在している。

 

<了>