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 日本の技術力に関することは、唐津一さんの著作から学ぶことが多かった。古書店でも著者より唐津さんの書籍を目にすることが多い。この本を読んでみると複数の歴史的な人物をたどって記述しているから、学生の一般教養的な感じがする。現在の時流にのみ興味が向かいがちなジネスマンの視点では、唐津さんの方が相応しかったのかもしれない。唐津さんは企業(松下)在籍経験があったはずだけれど、著者は根っからの学者さんである。

 

 

【小細工ハイテクの「光」と「影」】
 日本は戦闘機の改良に取り組んでいたが、プロペラからジェット・エンジンに変えるという大転換には成功できなかった。そのかわり、ゼロ戦の機体の “細工” では、ネジの中にまで穴を掘って軽量化を図ろうと試みた。これは、江戸から受け継がれてきた 「小細工ハイテク」 技術がマイナス方向に傾注されてしまった例である。
 反対に、プラスに作用した例も少なくない。1970年代のオイルショック時の省エネ技術の開発や、80年代のロボット技術の導入に当たっては、伝来の 「職人芸」 が大きな支えとなった。底辺にこの技術蓄積があったからこそ、日本の企業は今日まで生き残ってくることができたのである。 (p.52)
 日本人は、何故、プロペラ・エンジンからジェット・エンジンへ転換できなかったのだろうか。日本人に発想力がなかったからとは思わない。おそらく当時の日本には、より速くより高くという必要性を認識しそれを実現させるための、航空に関するさまざまなデータが蓄積されていなかったか、それを可能にする潤沢なエネルギー源がなかったからなのだろう。
 具体的事実を示すならば、ターボ(エンジンに空気を圧縮して送り込む過給器)は、そもそも、空気の希薄な標高4000メートル以上のロッキー山脈を、普通の自動車では超えられなかったという経験上の必要性から、アメリカにおいて開発されたものと大学の時に学んだことがある。ジェット・エンジンを可能にするターボの発想は、アメリカでは自動車時代に既にあったのである。アメリカ人の方が日本人より飛躍的な発想力に優れているという根拠はない。
 戦闘機に関する、小細工ハイテクの 「影」 の部分を補足すれば、戦時中の日本は、鉄不足もあって木製の戦闘機も試作していたということを、糸川英夫さんが書いていたのを記憶している。
 小細工ハイテクの 「光」 の部分に関しては、素材を変えて現在に表れていると、著者は書いている。

 

 

【素材を変えての飽くなき探究】
 現代では、コンピュータという 「電子からくり」 でつくられたファミコンやゲームボーイなど電子玩具が人々を魅了してやまない。そこには、かつての 「からくり人形」 のように、目に見える糸こそないが、回路図や光ファイバーという電子や光の糸で結ばれた 「からくり」 が生きているのである。
 そうだとすれば、現代の私たちは何代も前の祖先たちと基本的に同じ作業を繰り返しているということになる。ただ、その素材が機と糸であったのが、半導体や新素材に変わっただけなのだ。 (p.60)

 

 

【手塚マンガでハイテクイメージを美食したアトム世代】
 鉄腕アトムの背景部分には、「ヒューン」 「ウィーン」 と軽い金属音を発し、地面からわずかに浮上しながら走行する乗り物が活躍している。・・・中略・・・。「エンジンの音、轟々と・・・」 という軍国少年的機械センスのわれわれ世代が育てたのは新幹線技術だったが、いまは手塚マンガでハイテクイメージを美食したアトム世代が、リニアをはじめとする先端技術を育てているのである。 (p.82)
 著者は、1930年生まれとあるから、現在78歳の大先輩である。この世代の方々が、日本の技術力の進化発展状況を目の当たりに経験してきている方々であり、その点で現代の日本人を大いに鼓舞してくれている。
 しかし、現在の高校生あたりは、円周率を 「3」 と習った世代らしく、加減乗除もまともにできない若者集団に遭遇しているから、私としては近未来の日本の科学技術力の楽観的予測には、正直言って当惑せざるをえない。 それでも、昨年の日本人科学者のノーベル賞受賞者、一挙4名に触発されて、若者達の科学離れは自発的に回避してほしいものである。
   《アトム関連》   『アトム・ジェネレーション』 小池信純 文芸社
              『手塚治虫の大予言』 九頭海龍朗  平凡社
                  【21世紀初頭、富士山が大爆発を起こす!?: 『アトラス』 に予言】
              戦後の、日本から韓国への援助のかずかず
                  【韓国の経済発展を創出した日本】

 

 

【三井財閥の創始者・三井高利】
 高利は 「たかとし」 と読む。 「高利貸し」 という単語に重なってイヤなイメージをもつけれど、そんな話ではない。
 三井高利 (1622-1694) は、18の時、江戸に出るも、間もなく出身地に戻っていた。江戸で本格的に事業を始めたのは24年後の52歳からで、それ以前は伊勢松坂で、質屋・酒・味噌などを商っていた。
 三井高利が再び江戸に出る前、伊勢松坂の24年間を、著者は、「知的資源」 の蓄積期間と書いている。
 私は、この 「知的資源」 の蓄積の上で重要だったのは、伊勢松坂という地の利であったと思う。いまでこそ松坂は一地方都市にすぎないが、江戸時代はそうではなかった。伊勢神宮にも近く、後年、 『古事記』 の研究者・本居宣長(1730-1801)が出たことからもわかるように、松坂は文化的ボルテージの高い場所であった。
 と同時に、実は最新の情報収集が可能な地でもあった。お伊勢参りに全国各地から多くの人々がやってきたし、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」 といわれた海上交通の要衝・津にも近い松坂は、全国レベルの最新情報が集積される土地柄だったのである。高利はいながらにして全国の最先端情報をつねに握っていたといえよう。(p.140)
 その通りであろう。しかし、この記述の中に、伊賀忍者・甲賀忍者という言葉が出てこないのが不思議でしょうがない。当時はまだ、忍者こそが最先端技術の担い手であったはずである。
    《参照》   『隠れたる日本霊性史』  菅田正昭  たちばな出版

 

 

【「いろは丸」 と 「万国公法」】
 「いろは丸」 は、海援隊が伊予大洲藩から借り受けた蒸気船であった。それが、薩摩藩の依頼により新式銃器と弾薬を大阪まで運ぶという処女航海で、紀州藩所属の 「明光丸」 と瀬戸内海で衝突。「明光丸」 は 「いろは丸」 の5倍という巨大な船であったため、「いろは丸」 は積み荷もろとも沈没してしまったのである。
 事故の原因は「いろは丸」 に6分の非があったといわれている。しかし、海難審判のない当時のこと、もちろん詳細はわからない。加えて相手は徳川御三家の紀州藩。喧嘩両成敗で、海援隊の 「いろは丸」 は当てられ損になっても仕方がないところだった。
 それを龍馬は、「万国公法」(国際公法)に照らして、紀州藩に謝罪させ、損害賠償を出させようと談判に臨んだ。最初、談判はことごとく不調に終わったが、龍馬の背後には土佐藩と薩長の2藩がついている。結局、薩摩藩士・五代友厚を仲介として、紀州藩は8万2千両もの賠償金を海援隊に支払うことになった。 (p.191)
 以前、下記リンクに書き出したことが、ここにより詳細に記述されていたから改めて書き出しておいた。
               【海援隊は愚連隊】
 「万国公法」 を持ち出すよう提供したのは、おそらく龍馬の背後にいた外国人勢力であろう。談判が不調に終わって、最終的な仲介役を果たした 「五代友厚」 という人物がより重要なキーパーソンなのではないだろうか。五代友厚もグラバーに会っている。
   《参照》   佐幕人名鑑 : 「五代友厚」 
 
<了>