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 直観力というタイトルが相応しい内容の書籍には思えなかったけれど、あれこれと書かれている。

 

 

【佐川幸義先生】
 本書の副題であるカリスマについて。
 植芝さんの術について言及されている本は、何度も読んでいるけれども、大東流合気柔術の佐川幸義先生について書かれている記述はこれが始めて。著者が出会った当時、佐川幸義先生は85歳で、筋骨隆々の武道家たちを宙に舞わせていたのだという。
 先生ご自身は、17歳のときに、そのコツをつかんだということです、多くの武道家が到達できないことを、十代で体得する。これは、生まれつき、先生が非凡な資質を持っていたことを意味します。しかし、私が本当に凄みを感じたのは、先生の次の言葉でした。
「人間の体力は鍛え方しだいで、70歳まではどんどん向上していく。筋肉もつく。70歳を過ぎると、それを稽古で維持しなければならない」
 生まれつきの才能が人並みすぐれていたけれども、それに満足することはない。老境に達しても、日々、さらなる高みを目指して、鍛錬を続けていく。そのことが、先生をカリスマたらしめているのです。
 人はカリスマとして生まれるのではなく、自らを律し、鍛え続けていくことで、カリスマになれる。佐川先生に接して、そのように思うようになりました。
 また先生はよく、「生きている限り、工夫を怠るな」 「工夫を重ねれば、何か答えが出てくる」 「ここでお終いと思うな」 とも、おっしゃっていました。何歳になっても、前へ進もうという気力を失ってはならないという教えです。 (p.158)
 “生まれつきの才能が人並みすぐれていた” と書かれているけれど、 “生まれつきの才能が人並み以上にすぐれていた” のではないだろうか。前世の蓄えがあったからこそ、齢17にしてコツをつかみ、かつその後も、“努力し続ける” という才能が前世から継承され続けていたのではないだろうか。
 カリスマの絶対条件は、前世からの積み重ねの総和が、あるレベルに達している場合に、何らかの特異な才能として人々によって認知されるものだと思っている。
 ポヨヨ~~ンと生きているだけなら、何十回生まれ変わろうと、永遠に凡人である。

 

 

【松下幸之助の交渉力】
 松下電器は、昭和20(1945)年の敗戦と同時に米軍GHQから財閥指定を受け、・・・(中略)・・・、54回。粘り強い交渉が実り、1949年になって、漸く指定が解除されます。
 54回の撤回交渉。普通の人なら最初から、あるいはせいぜい10回以下で容易にあきらめてしまうだろう。
 その3年後、幸之助はさらに困難な交渉を始め、成功を納めます。・・・(中略)・・・。オランダのフィリップス社との技術提携交渉でした。
 実は敗戦のとき、日本にとって一番激しい処遇を迫った国は、オランダでした。非常に強気なお国柄なのです。・・・(中略)・・・。交渉は当初から難航しました。フィリップスはロイヤリティー(技術指導料)として、売り上げの7%を要求してきたのです。この額はあまりにも高すぎるものでした。アメリカの企業ですら、通常、ロイヤリティーは3%。・・・(中略)・・・。
 そこで、幸之助が提案したのは、驚くような言葉でした。「あなたがたが技術を教えてくれるなら、わが社は 『経営』 というものを教えてあげよう。・・・(中略)・・・。そして、大胆にも、逆に指導料を要求したのです。
 これには、先方の経営陣も驚愕しました。・・・(中略)・・・。最終的に、フィリップス社に技術指導料4.5%を払い代わりに、経営指導料3%を支払わせるという条件で契約は成立したのです。この比率は、昭和42(1967)年になると、互いの指導料が2.5%ずつという、対等の関係に改められました。  (p.177)
 その後の松下が、フィリップスの技術指導を必要としたかどうかは想像に難くない。幸之助さんは単にタフ・ネゴーシエイターだったというだけではない。当初、まがうことなき貪欲・強欲であったフィリップスに対してですら、実力が逆転した後も、義で報い続けていたに違いないのである。
   《参照》  『50代からの選択』 大前研一 (集英社)
            【松下とフィリップス】 

 

 

【海援隊は愚連隊】
 坂本龍馬の海援隊が操る蒸気船 「いろは丸」 が、紀州藩がイギリスから買い入れた 「明光丸」 に衝突し、「いろは丸」 は沈没してしまったのだという。事実は 「いろは丸」 の過失であったのにも係らず、このときの龍馬は、交渉というよりは脅迫といえるほど強引なものだったという。なにせ、
 海援隊は、もともと土佐藩の単なる外郭団体にすぎず、経済的にも政治的にもたいした基盤は持っていません。(p.179)
 ゆえに、海援隊にとっては死活問題だった。航海日誌を改竄して、恫喝的な対応で逆に賠償金をせしめたのだという。
 当時、海援隊は 「亀山の白袴」 と呼ばれていたそうです。これは、長崎郊外の亀山に拠点を置くならず者集団という意味でした。ある意味、愚連隊とでもいうべき存在として、海援隊は恐れられていたのです。 (p.179-180)
    《参照》   『失われたフリーメーソン「釈迦」の謎』 飛鳥昭雄・三神たける (学研) 《後編》
              【フリーメーソンのポーズをしていた坂本龍馬】

 龍馬を現代人にあて嵌めれば、
 龍馬という人は、今の世の中でいったら、ライブドアの堀江貴文社長のような人なのかもしれません。(p.128)
 なるほど、外資がバックに付いていた処などまでソックリである。

 

 

【土佐出身のもう一人】
 ただ龍馬の場合、何もかもが商売ずく、というわけではありませんでした。やはり、よりよい世の中を作っていこうという思いは強かった。これが龍馬と同じく土佐出身で、三菱財閥の創始者となった岩崎弥太郎となると、やはり商売気のほうが先に立っています。岩崎の場合、知らぬ間に新政府の軍需輸送を独占して巨利を得たりと、お金儲けには抜群に目端が利くところがありますからね。
 ただ、岩崎にしても今の商売人とは根本的にスケールが違う。一銭のお金もないところから、あそこまで財を築き上げていくわけですから。上海航路を次々に押さえていったときには、アメリカの会社と一騎打ちをしています。それに打ち勝って幅広い利権をものにしたのです。こういう博打打的なところは、あの時代の政商と呼ばれた人たち、さらには龍馬にも通じるところがあります。 (p.128-129)
 岩崎が手に入れた幅広い利権の具体例が書かれていないので、ムラムラしてしまう。アメリカの誰と、あるいはどの会社とその利権を争ったのだろう。
 日本であろうとなかろうと、近代化に邁進してゆく国家創業の頃には、白であれ黒であれ灰色であれ、スケールの大きな人材が輩出しているものである。
 敗戦国の首相とはいえ、戦後アメリカに対し一方的に屈することのなかった吉田茂も土佐の出身だった。

<了>