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 『日蝕』 や 『一月物語』 の作者。 『日蝕』が秀でていすぎた分、エッセイは正直なところあまり芳しくないように思えてしまう。
 

【憂鬱を引き継ぐ人間の創造】
 タイトルを定めたらしい本文は、この箇所であろうか。
 アニメやPCゲームのできばえに関して、「なのに」 と 「だから」 という表現が良く機能している状況を書き連ねた後、このように記述している。
 パスカルは 「本物は平凡で、誰も褒めやしないが、その本物を、いかにも本物らしく描くと褒められる、画家とは何と空しいつまらぬ職業だろう」 と言っている。これは、アリストテレスの 「人間は再現(模倣)されたものを喜ぶ」 という言葉の末流として聴くことが出来るかもしれない。問題は、何故そうなのかということである。私はそこに、結局のところ神という存在を前にした人間の卑小さへの意識があるように思う。神の創造の完璧さは自明のことである。人間は、その偉大な創造のうちの最も平凡なものを真似て見せるだけで、賞賛を受けることが出来る。人間なのに、神の御業をこれほどそっくりに描きえたというわけである。なるほど、空しい。  (p.37-38)
 しかし、これを 「空しい」 と感じてしまうと、人間に立つ瀬はないだろう。

 

 

【携帯電話の恋愛学】
 ロミオとジュリエットですら、携帯電話さえあれば、わざわざバルコニーの上と下とで人目を忍んで哀切な言葉を語り合う必要もなかった筈である。最後にしても、携帯電話でぬかりなく計画を練っておけばあんな悲劇を迎えることはなかったのではあるまいか。試みに古典的傑作と呼ばれる恋愛小説の中に携帯電話を一つ投げ込んでみると良い。その殆どは壊滅してしまうのではあるまいか? これは現代の恋愛小説の困難と深く関係する問題である。  (p.179)
   《参照》  『若者のリアル』 波頭亮  日本実業出版社
            【「カレシにしたい職業ランキング」】

に書いたことを思い出してしまった。相手の “今” を占有するために携帯電話は必須のアイテムであり、相手の職業は時間が自由なフリーターであらねばならない。
 どおりで、時空に跨る精神の営為である 「恋愛小説」 よりは、“今” の瞬間芸である 「お笑い」 が流行るわけである。
 
 
<了>
 
 

  平野啓一郎・著の読書記録

     『一月物語』

     『日蝕』

     『平野啓一郎 新世紀文学の旗手』

     『文明の憂鬱』

     『ウェブ人間論』