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 昨年12月、『一月物語』 を読んでこの作者のことを初めて知り、この作品を読んでみた。『日蝕』 は、1998年の芥川賞受賞作だという。(なにせ、私は社会人になってから、このブログを書き始めた昨年後半まで、殆ど小説を読んでいなかった)
 なるほど、この二つの作品は似ているところがある。『一月物語』 は、幽界を背景に意識を溶け込ます着想であり、 『日蝕』 は、錬金術的世界観(両性具有)を背景に意識を溶け込ます着想である。

 

 

【アンドロギュノスの磔刑:そこに邂逅する意識】
 私は見ながらにして見られ、・・(中略)・・。その苦痛に喘ぎ、快感に酔っていた。私は僧であり、猶且異端者であった。男であり、女であった。・・(中略)・・。世界が失われて私が有り、私が失われて世界があり、両つながらに失われ、両つながらに存在した。唯一つ存在した!・・・そして、私は将に到かむとしていた。・・・何に?・・・光に・・・・(後略)・・・  (p.168-169)
 錬金術の時代を背景に、当時語られていたアンドロギュノス(両性具有)が磔刑に処せられる場面で、僧侶である主人公の意識が、アンドロギュノスの意識の中に同化してゆく。この着想に感心してしまった。
 学生の頃、私も霊学的な側面から、ヨーロッパ中世の錬金術に興味を持っていたのであるけれど、当時の私は、アンドロギュノスの含意を、この小説が示しているように明確に意識していなかった。それは多分、例えばタロットカードが示す個々の象意の意義を、当時は重く理解していなかったからだったように思う。
 著者の着想が、文献から得られたものなのか、作家的な才能によって得られたものなのか、あるいは禅(瞑想)的な内観過程を聞き及んだことによってなのか、あるいは禅を自身で実践して得られた体験によるものなのかは分からない。いずれにせよ、この着想を文学的に表縁するならば、この小説のようになるのだろうと思う。
 あらゆる二項対立を止揚してゆくには、詩的な表現で飛躍させるか、この作品の様に表現するしかないのであろう。この世界(究極の意識の世界)は、論理的に追跡しても辿りえない世界なのだ。さながら、量子力学の世界で、クウォンタム・ジャンプ(量子飛躍)という不連続が確認されているように。

 

 

【文学は若い時が・・・】
 この小説のピークの部分(上記の箇所)を読んでいた時、私の体にさんざめくような波動が走った。文学小説を読むことの多かった大学生時代への懐古が湧き起こっていたが故の体感だったように思う。
 読書傾向がバラバラの現在の私では、この小説から感受できる世界はやや希薄である。なおかつ、人体は生理的に経年変化してしまうので、どうしたって “文学は若い時でなければ・・・” と思ってしまう。そうではあるけれど、心理的にドップリと文学的な世界に浸っていられる状態の時に、再度この小説を読み返してみたいと思ってしまう。

 

 

【意識の文学】
 結局、私の欲している文学は、意識をどう表現するかの文学であったようだ。心理ではない。意識である。
 筒井康隆さんの短編小説に、陸と海の意識が互いに出会うという小説があった。タイトルは忘れてしまったけれど、このブログを書きながら、その短編小説を読んだ時の印象を思い出したのだ。
 意識、それ自体に魅了されると、幻惑、あるいは迷妄、はたまた錯乱に至るやもしれず、方向違いの隘路に仕向けられてしまうこともあるように思う。現に私の大学時代は、知のオデッセイに光を感じながらも、意識は闇雲に溺惑することを欲していたように思う。知は直截に光を希求し、意識は陥没する闇の果てに光芒を見いだしたがっていたのだ。
 たとえそれが成算なきものであったとしても、政治だの経済だの文化だののこの世的世界の文物に視点を移し変えてしまうよりは、その世界に溺れていたかったと思っている今の私は、一体何者なのだろうか・・・・・。

 

 

 読み終わって書いてないブログいまだ3冊。余りにも一貫した傾向のない読書に、自ら苛立っていたりする・・・。
 
<了>
 

  平野啓一郎・著の読書記録

     『一月物語』

     『日蝕』

     『平野啓一郎 新世紀文学の旗手』

     『文明の憂鬱』

     『ウェブ人間論』